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1 manolo 2017-03-12 21:34:36 [PC]


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1. 出典:『よくわかる刑法[第2版]』、井田良他著、ミネルヴァ出版、「II-3. 急迫性、防衛の意志」、pp.52-53、2013/9/30、飯島暢

1-1. 【1. 正当防衛の根拠】
 36条1項は違法性阻却事由として正当防衛を規定している。例えば、暴漢に切りかかられたので、とっさに反撃して相手を殺したとしても、その行為は殺人罪の構成要件には該当するかもしれないが、場合によっては正当防衛として違法性が阻却される。確かに、近代国家においては、いくら権利の保護・実現のためであっても、私人による実力行使は原則として禁止され、権利の保護を貫徹する役割はあくまで国家機関が専属的に果たすことになっている。さもないと社会秩序が混乱してしまうからである。しかし、緊急の事態であって、国家機関が権利保護を図る余裕がない場合には、例外的に私人の実力行使による権利保護が認められなければならない。刑法は、例外的に私人に許容される緊急行為として、正当防衛(36条1項)と緊急避難(37条1項)を規定している。(p.52)

2 manolo 2017-03-12 21:39:50 [PC]

1-2.
 正当防衛が違法性を阻却する根拠として、学説の多くは、防衛者側個人の自己保全の利益を強調したり、攻撃者側の法益の要保護性が欠如する点を挙げている。また、不正な攻撃に対する反撃を認めることで、正当な権利の不可侵性を公に示し、それによって法秩序を安定させる利益(法確証の利益)が考慮されたりもする。重要なことは、正当防衛は「不正な侵害」に対する正当な行為として、「正対不正」の関係において正当化されるのであって、緊急避難が「正対正」の関係に立つのと根本的に異なっている点である。(p.52)

1-3. 【2. 急迫不正の侵害】
 正当防衛は「急迫不正の侵害」に対してなされる。急迫性とは、侵害が現に存在するか、目前に差し迫っていることをいう。従って、すでに終了した過去の侵害や将来の侵害は、急迫なものとはいえず、それに対して正当防衛を行うことはできない。問題となるのは、予め侵害が予期されていた場合でも「急迫」な侵害といえるかである。仮に侵害が予期される場合には、もはや急迫性はなく、正当防衛は認められないとなると、例えば、痴漢を警戒して撃退スプレーを持って夜道を歩く女性に正当防衛の途は閉ざされてしまう。正当防衛を認めないということは夜道を出歩くなというに等しく、これでは行動の自由が不当に制限されることになってしまう。そこで学説は、急迫性は客観的な要件として、防衛者の主観面から切り離して判断すべきであり、防衛者が予期していた侵害であっても急迫性が欠けることはないとする。もっとも、最高裁は、確実に侵害が予期されていたとしても、そのことからただちに侵害の急迫性が失われるわけではないが、その機会を利用して「積極的加害意思」でもって反撃に及んだ場合は、侵害の急迫性は認められないとしている(最決昭和52年7月21日刑集31巻4号747頁)。(pp.52-53)

3 manolo 2017-03-12 21:42:27 [PC]

1-4.
 正当防衛となるためには、反撃の対象である侵害が「不正」なものでなければならない。ここでいう不正とは違法と同じ意味であり、責任能力者の行為でも違法である限り、正当防衛の対象となる。問題となるのが、物や動物から法益侵害の危険が生じた場合に、これらの物や動物に対して正当防衛(対物防衛)をすることが出来るか否かである。例えば、隣人の飼い犬に襲われた人は、この犬に対して正当防衛を行うことはできるのだろうか?一般的に、違法の本質を法益侵害または危険に求める結果無価値論はここで対物防衛を肯定するが、違法の本質を行為の規範違反性に見出す行為無価値論は、違法評価は人の行為を前提にすると考えて、対物防衛を否定する(ただし、緊急避難による違法性阻却の余地を認める)。ただし、行為無価値論の立場からも、犬の攻撃が飼い主の故意・過失行為(管理を怠った場合等)に起因している場合には、正当防衛を認めることができる。また、近時では、対物防衛を否定しながら、民法720条2項を根拠に*防衛(防御)的緊急避難としての違法性の阻却を認める見解もある。(p.53)

*防衛(防御)的緊急避難
危難を引き起こした危険源そのものに対する反撃行為を防衛(防御)的緊急避難という。これに対して、危険源とは別の第三者へ危難を転嫁する類型は攻撃的緊急避難と呼ばれる。37条1項は両方の緊急避難の類型をカバーするが、民法720条2項では、物が危険源となって危難が引き起こされる(まさに対物防衛の場合である)特殊な防衛的緊急避難が問題となる。(p.53)

1-5. 【3. 防衛の意思】
 通説・判例は正当防衛の主観的要件として防衛行為者に防衛の意思があることを要求している。ただし、防衛の意思といっても積極的な防衛の動機・意図である必要はなく、あくまで防衛状況を認識しながら、それに対応する心理状態で足りるとされている。つまり、自衛本能に基づいてほぼ無意識的・反射的になされた反撃行為についても防衛の意思は認められる。また、憤激・逆上して反撃した場合や侵害者に対する攻撃意思が併存している場合でもかまわない。これに対して、相手方の侵害行為に対する反撃の機会を利用して、もっぱら攻撃の意図・動機しかない場合には、防衛の意思が欠けることになる。(p.53)

4 manolo 2017-03-12 21:44:25 [PC]

1-6.
 学説においては、そもそも防衛の意思は正当防衛の要件として不要であるとする見解も有力である。これは、主観的要素を違法性判断の対象に含めるべきではないとする結果価値論の立場からの主張であるが、必要説と不要説の対立は、特に*偶然防衛の処理において最も顕著に現われてくる。(p.53)

*偶然防衛
AがBを射殺したところ、偶然にもBもAに対して発砲しようとしていたため、客観的に正当防衛状況が存在していた場合をいう。ここでAの行為が正当防衛となるかが問題となる。学説上、必要説からは、防衛の意思を欠く以上、正当防衛にはならず、違法性も阻却されないとする既遂説や客観的に結果無価値が欠けるとして未遂犯の成立を認める未遂説が唱えられている。不要説からは、客観的要件さえ満たされていれば違法性は阻却されるとする無罪説、違法な結果が生じた可能性があるとして未遂犯の成立を認める未遂説がそれぞれ唱えられている。(p.53)

5 manolo 2017-03-12 21:48:32 [PC]

2. 出典『よくわかる刑法』、井田良他編、ミネルヴァ出版、「II-4. 防衛行為の相当性、過剰防衛」、pp.54-55、2013/9/30、飯島暢

2-1. 【1. 権利の防衛】
 急迫不正の侵害に対する正当防衛は、自己または他人の権利を防衛するために行われなければならない。ここでいう権利とは法益のことであり、生命、身体、自由といった個人的法益が中心となる。また、自分以外の他人の法益を防衛する場合も正当防衛となり、特に緊急救助と呼ばれる。社会的法益や国家的法益を守るための私人による正当防衛は、理論上可能であるが、例外的なものでしかない。(p.54)

2-2. 【2. 「やむを得ずにした行為」の意義】
 正当防衛は、権利を防衛するために「やむを得ずにした行為」でなければならない。緊急避難の「やむを得ずにした行為」では、他には手段がなかったことが要求される(補充性の原則)。しかし、正当防衛では、逃げて攻撃を免れることができた(つまり、他に手段があった)場合でも逃げる義務はなく、防衛のために必要かつ相当な行為であれば立ち向かってもかまわないことになり、このような場合でも「やむを得ずにした行為」となる。正当防衛の方がより緩い形で認められる理由は、緊急避難のように正対正の関係ではなく、正対不正の関係を前提にした正当化が問題となるからである。(p.54)

2-3.
 防衛のために必要かつ相当な行為といえるためには、侵害を排除するために必要な反撃行為の中で最も侵害性の小さいものを選択することが要求される。つまり、防衛の役に立つ行為が「必要な」防衛行為であり、さらにその中で侵害性が最小限のものが「相当な」防衛行為となる。(p.54)

2-4.
 また、正当防衛を規定する36条1項には、緊急避難の規定である37条1項のように害の均衡の要件(*法益均衡の原則)は存在しないので、正当防衛は保全される法益と侵害される法益が釣り合う必要はなく、反撃行為から生じた結果が侵害されようとした法益よりも大であっても、相当性が否定されることない(ママ)。しかし、1個のリンゴというわずかの財産的利益を守るために、それを盗もうとした犯人を射殺するような保全法益と侵害法益が著しく不均衡な場合には、相当性の要件が欠けるとして、過剰防衛であるとする見解が学説上は有力である。(p.54)

6 manolo 2017-03-12 21:54:11 [PC]

*法益均衡の原則
緊急避難の規定(37条1項)では、「これによって生じた害が避けようとして害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない」とされている。つまり、害された侵害法益と救われた保全法益との間にバランスがとれていることが、緊急避難の成立のためには必要となる。これを法益均衡の原則という。しかし、正当防衛の規定(36条1項)には、このような要件は書かれていない。(p.54)

2-5.
 防衛行為の必要性と相当性の判断は、事後的・客観的な判断からなされるべきではなく、防衛行為の時点における一般人の視点が基準となる。つまり、事後的に見れば不要な反撃であったとしても、同様の防衛状況に置かれた一般人が必要・相当と判断するものがされていれば、それで十分なのである。しかし、学説上は裁判の時に判明した事情も考慮して事後的・客観的に判断すべきとする見解も有力である。(pp.54-55)

2-6. 【3. 過剰防衛】
 急迫不正の侵害に対する反撃行為が、防衛の程度、つまり、必要性と相当性の範囲を超えたときには過剰防衛となる。違法性は阻却されず、犯罪は成立するが、36条2項は情状により刑を減軽し、または免除することができると規定する。このような刑の減免の根拠については、学説上争いがある。責任減少説は、緊急状態では恐怖、驚愕といった心理的な動揺があるため、防衛の程度を超えた場合でも非難可能性が弱まるとして、これを減免の根拠とする。違法減少説は、不正な攻撃者の法益については要保護性が減少するため、過剰な反撃によって不法な結果が生じたとしても、相対的に違法性も減少する点に着目し、これを刑の減免の根拠とする。また、違法責任減少説は、違法減少と責任減少の両方を考慮する見解である。(p.55)

7 manolo 2017-03-12 21:57:19 [PC]

2-7.
 これらの見解の対立は、刑の減免が認められる範囲に影響する。違法減少説からすると、急迫不正の侵害が客観的に存在することが必要となるので、36条2項による刑の減免は、あくまで質的過剰の場合だけとなる。これに対して責任減少説からすると、質的過剰だけでなく、量的過剰の場合でも、行為者が心理的に動揺している限りは、刑の減免は認められうることになる。また、急迫不正の侵害あると誤信し、かつ誤信した侵害に対して過剰な防衛を行ってしまった誤想過剰防衛についても、行為者は心理的な動揺に基づいて過剰な行為に及んでいるとして、責任減少説は、36条2項の適用(ないしは準用)を肯定する。(p.55)

*質的過剰と量的過剰
質的過剰とは、急迫不正の侵害に対する反撃が、必要性と相当性を超えている場合をいい、量的過剰とは、当初は急迫不正の侵害に対してなされた反撃が、急迫不正の侵害が終了した後も継続して行われる場合をいう。(pp.54-55)

2-8.
 急迫不正の侵害に対して、引き続く形で二つの行為が行われて過剰な結果が惹起された場合には、それらが一つの行為として一体的に評価されれば、全体が一つの過剰防衛行為として認められることになるが、二つの行為として評価されるべきときには、正当防衛の部分と純然たる加害行為の部分として分断されることになる。このような場合について、最高裁は、量的過剰の事案において二つの行為の一体性を否定する判断を下しているが(*最決平成20年6月25日)、これに対して、二つの行為の一体性が肯定された質的過剰の事案もある(**最決平成21年2月24日)。結論が分かれたのは、一体性を判断する際の基準として、最高裁が、攻撃者の側における侵害の継続性及び防衛の意思の一貫性の有無を考慮した結果であると解される。(p.55)

8 manolo 2017-03-12 21:57:56 [PC]

*最決平成20年6月25日
最高裁は、正当防衛にあたる暴行(第1行為)及びこれと時間的・場所的に連続して行われた暴行(第2行為)を分断して評価すべきであり、両暴行を全体的に考察して一つの過剰防衛の成立を認めることはできないとした。その際には、攻撃者による侵害の継続性及び被告人の防衛の意思の有無の点で両暴行が明らかに性質を異にすること、また被告人が抵抗不能の状態に陥った攻撃者に対して相当に激しい第2暴行に及んだことが考慮されている。結論として、正当防衛にあたる第1暴行は罪に問えないが、第2暴行については、正当防衛はもとより過剰防衛を論じる余地もないとされて、第2暴行によって生じた傷害結果につき、傷害罪が成立するとされた(刑集62巻6号1859頁)。(p.55)

**最決平成21年2月24日
最高裁は、単独で評価すれば防衛の手段として相当性が認められる第1暴行のみから障害が生じたとしても、第1暴行と第2暴行とが一連一体のものであり、同一の防衛の意思に基づく一個の行為と認めることができる事実関係の下では、全体的に考慮して一個の過剰防衛として傷害罪の成立を認めるのが相当であり、それ自体として正当防衛にあたる行為から傷害が生じたことは、有利な情状として考慮すれば足りるとした(刑集63巻2号1頁)。(p.55)

9 manolo 2017-03-12 22:03:35 [PC]

3. 出典『よくわかる刑法』、井田良他編、ミネルヴァ出版、「II-6. 緊急避難」、pp.58-59、2013/9/30、飯島暢

3-1. 【1. 正当防衛と緊急避難の違い】
 正当防衛とは不正の侵害に対して正当な利益を防衛する行為である。しかし、常に違法な攻撃者に立ち向かって反撃できるとは限らない。場合によっては、身に降りかかる危機を無関係の第三者に転嫁して初めて、その危難から逃れて正当な利益を守れることもある。例えば、Xに殺されそうになったYが傍らのZを突き飛ばして怪我をさせて逃げた場合や、Zの家に無断で逃げ込んだ場合などが考えられる。このような事態をカバーするのが、37条1項の緊急避難である。正当防衛との違いは、正当防衛が「正対不正の関係」にあるのに対して、緊急避難が「正対正の関係」にあることである。この点から、緊急避難の要件は、正当防衛の場合と比べてより厳格なものが要求されている。(p.58)

3-2. 【2. 緊急避難の法的性質】
 緊急避難の法的性質をどう理解するかについては、学説上争いがある。通説は、条文上「生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合」、つまり行為者によって守られた法益が、その者によって侵害された法益よりも価値が小さくない場合に処罰されないのであるから、緊急避難の本質は優越的利益保護の考えに基づく違法性阻却事由であるとする。また、緊急避難は緊急状態下でなされるので、適法な行為を期待できない点に本質があるとする責任阻却事由説も主張されている。そして、近時有力なのが*二分説である。この見解は、緊急避難を原則的に違法性阻却事由とするが、守られた法益と侵害された法益が同等の場合、または生命対生命のように比較して優劣をつけるのに馴染まない場合には責任が阻却されるに過ぎないと主張する。このような見解の相違は、緊急避難行為に対して正当防衛が可能か否かに関する結論の違いとなって現れてくる。(p.58)

*二分説
二分説には様々なバリエーションがある。本文で紹介した違法性阻却をベースとするもののほかにも、緊急避難の本質を基本的に責任阻却事由としながら、守られた法益が、犠牲になった法益に比べて価値的に著しく優越する場合に違法性の阻却を認める二分説もある。(p.58)

10 manolo 2017-03-12 22:05:27 [PC]

3-3. 【3. 緊急避難の要件】
 緊急避難が成立するためには、まず自己または他人の法益に対する「現在の危難」がなければならない。「現在の危難」とは法益に対する危難が現にあるか、差し迫っていることであり、正当防衛における「急迫性」と同じに考えてよい。正当防衛が「侵害」を対象とするのに対し、緊急避難では「危難」が問題となる。危難とは、法益に対する実害・危険を指し、その原因が何であるかは問われない。つまり、人間の行為が危難を引き起こす場合だけでなく、動物の攻撃、その他自然現象による危難も含まれる。また、「不正の侵害」を対象とする正当防衛とは異なり、危難の原因が適法か違法かという点も問われない。(pp.58-59)

3-4.
 緊急避難となるためには、「危難を避けるため、やむを得ずにした行為」でなければならない。まず、「危難を避けるため」の行為といえるためには、自己または他人の法益を守るのに役立つ行為がなされなければならないが、ここで通説は主観的要件として「避難の意思」が必要であるとする。「やむを得ずにした行為」というのは、正当防衛とは異なり、法益を守るために他にとるべき手段がなく、その避難行為が唯一の方法であることを意味する。これを*補充性の原則という。(p.59)

*補充性の原則
緊急避難は正対正の関係にあるため、法益を守るためにほかの手段がある以上はそれを選ぶべきであり、むやみに危難を転嫁して他者の正当な法益を犠牲にすることは許されない。(p.59)

3-5.
 さらに、緊急避難は、避難行為から「生じた害を避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り」認められる。これを法益均衡の原則という。つまり、37条1項によれば、価値のより高い法益を救うために価値の低い法益を犠牲にしたり、同価値同士の法益一方を救うために他方を犠牲にすることだけが緊急避難として許されるのである。また、学説には、緊急避難を認めることが適切でない場合を除外するために、緊急避難が成立するための条件として「*避難行為の相当性」を挙げる見解もある。(p.59)

11 manolo 2017-03-12 22:07:29 [PC]

*避難行為の相当性
補充性と法益均衡の要件が満たされるだけで緊急避難を肯定してよいとなると不合理な場合がでてくる。例えば、すぐにでも腎臓を移植しないと生命の危険がある患者を救うため、他人から強制的に腎臓を摘出するしかほかにもう手段が残されていない場合(補充性・法益均衡の要件は満たされる)には、強制的な腎臓の摘出が許されることになってしまう。そこで、学説の一部は避難行為の相当性を要求し、そのような場合は相当ではないとして、緊急避難の成立を否定する。また、人格の自律性の概念を合わせ考慮することによって問題を解決しようとする見解もある。(p.59)

3-6. 【4. 過剰避難】
 避難行為が補充性の原則に反した場合、あるいは法益均衡の原則に反した場合には過剰避難となる。37条1項ただし書きは、過剰避難について刑を軽減または免除できる旨を規定している。その根拠については、責任減少説と違法責任減少説が対立している。(p.59)
 
1 manolo 2013-01-19 00:18:30 [PC]

出典:「よくわかる国際社会学」(2009)、樽本英樹、ミネルヴァ書房

1-1. 【難民(refugees)の定義】
人種、宗教、国籍もしくは特定の社会集団の構成員でることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいるものであって、その国籍国の保護を受けることができない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者(UNHR)。(p.42)

1-2.
この定義は4つの条件からない。すなわち
・迫害を受けるという十分に理由のある恐怖を持つこと(迫害の恐怖の有無)
・その理由が人権、宗教、国籍、特定の社会集団への所属、政治的意見の5つのうちいずれかであること(迫害の理由)
・国籍国の外にいること
・国籍国の保護を受けることができないか、または受けることを望まない者(国籍国の保護の喪失)

以上の4つの条件を満たしているものが難民と定義されたのである。(p.42)

1-3. 【難民条約と国民難民高等弁務官事務所】
難民条約〔「難民条約(1951年)と「難民の地位に関する議定書(1967年)」〕は、単に国家間の取り決めだけであるだけでなく、国連難民高等弁務官事務所(the United Nations High Commissioner for Refugees, UNHCR)という世界中の難民問題を担当する機関で扱いを執行されることになっている。UNHCRは難民を保護するという極めて限定的な目的しか持たず、執行力も弱い機関であるけれども、国家間協調を確実なものとし国家的な庇護システムを創り上げるためには、その設置は望ましい一歩であると考えられた。(p.43)

2 manolo 2013-01-19 06:34:57 [PC]

1-4. 【国家と主権とノン・ルフールマン原則】
国家は、難民の在留期間、就労許可、拘留の厳格さ、領土内で分散させるか集中させるか、さらには滞在費を現金支給にするかそれとも政府発行の券(バウチャー)で支給するかといった幅広い問題を扱わなければならず、その決定権限を持っている。しかし難民条約は、国際的な執行機関を持っているという点で国家主権の原則に抵触する。さらに大きな問題はノン・ルフールマン原則を採用したことである。ノン・フルールマン原則(the principle of non-refoulement)とは、出身国において難民らが拷問や死に至る危険性がある場合には、受入国が難民を出身国へ送り返すことを禁ずる原則である。難民に受入国への入国の権利があるとまで言っていないものの、ある状況において国家はその意思にかかわらず、難民の入国を許可する義務を負うと定めているのである。その結果、国家主権の中核、すなわち国家が外国人の出入国の是非を決める権限を持つという点に鋭く対立する結果となった。(p.43)

1-5.
ところが1980年代末以前は、ノン・ルフールマン原則と国家主権の間の矛盾は、それほどはっきりしていなかった。例えばアメリカ合衆国の難民の定義は明確で、共産主義国や共産主義が支配的な地域、また中東から逃れてきた人々であった。実際戦後1980年代半ばまでにアメリカ合衆国にへ難民にとして入国した永住移民200万人のうち、最も多かった2つの集団はキューバとベトナムからの難民だった。また、ヨーロッパ諸国は東ヨーロッパ諸国からの難民申請をほとんど受理していた。(中略)このように国家主権と対立しうるにもかかわらず国家が難民を円滑に受け入れたのは、戦後復興のための労働力不足という事情はあったものの、主には共産主義社会に対する自由主義社会の優位を宣伝するためであった。戦後の冷戦下で、自由主義陣営と社会主義陣営の間の和解しがたいイデオロギー的対立が国家が難民を受け入れる際の矛盾を見えにくくしていたのである(p.43)

3 manolo 2013-01-19 06:52:45 [PC]

1-6.
ところが、1989年のベルリン壁の崩壊後、難民をめぐる状況は一変した。東側陣営からの難民は「本物」であり、西側陣営は受け入れなければならない、またはその逆であったというイデオロギー的な 基準は消滅した。各国は共産主義に対抗する必要はなくなり、他方では国内の失業率も高いことが多く、難民を受け入れても国際的、国内的な政治的名声を得ることができなくなった。難民認定は、ほとんどの先進諸国において、移民が合法的に入国するための唯一の道となったのである。経済的動機や犯罪目的でやってくる偽装難民や「庇護あさり」の問題はますます広がり、さらにコソボ、旧ユーゴスラビア、アフリカ諸国における内戦や地域紛争が広まったため、難民の種類と流れは多様化した。「ジェット機時代の庇護希望(jet-age asylum seeking)と呼ばれるようになり難民の多様化と増加の中、国家は、非自発的で「本物」の難民申請者と自発的な経済移民や非合法移民を識別しなければならないという重荷を背負った。(p.44)

*庇護あさり(asylum shopping):複数の国で難民申請するなどして、庇護を乱用すること。

4 manolo 2016-02-25 22:11:58 [PC]

2. 出典:『よくわかる国際法(第2版)』、大森正仁編著、ミネルヴァ出版、「VIII- 5. 難民」、pp.136-137、尹仁河

2-1. 【1. 難民(Refugees)とは】
 国連難民高等弁務官事務所の発表(2013年6月)によると、2012年時点で世界では4520万以上が移動を強いられ、760万人の新たな難民や国内避難民が発生した。一日あたり平均2万3000人が行内外で避難を余儀なくされているという。難民条約は、1951年1月1日以前の主にヨーロッパにおける難民を対象とするものであったが、議定書ではこの地理的・時間的制約を取り除いた。2013年現在、計145か国が条約の、計146か国が議定書の条約国である。(p.136)

2-2.
 難民を保護するための国際法としては、1951年難民の地位に関する条約(難民条約)及び1967年難民の地位に関する議定書がある。難民条約は難民を「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために国籍国の外にいるもの」(1条)と定義し、締約国の義務として「難民を…生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は生還してはならない」(33条)と規定している。こうした追放・送還の禁止はノン・ルフールマンの原則と呼ばれ、国際慣習法化したとされている。(p.136)

2-3. 【2. 国内避難民(IDPs)】
 国内避難民とは、紛争などによって常居所を追われたものの国内にとどまって避難生活を送る人々を指し、その数は近年増加している。UNHCRは、難民と同様に援助を必要とする国内難民に対する支援も行っている。UNHCRの支援対象者の総計は、庇護希望者及び帰還民を加えて、3580万人(2012年末)にのぼり、統計上過去2番目に多い数である。

世界の難民及び国内避難民の数
地域 難民 国内難民
アフリカ 3,016,248 7,043,910
アジア 4,789,492 6,351,679
ヨーロッパ 1,524,005 331,270
ラテンアメリカ・カリブ諸国 89,693 3,943,509
北アメリカ 425,786  ―
オセアニア   36,414   -
計 9,881,538 17,670,368

出所:UNHCR 『Global Trends 2012』p.41をもとに著者作成。
http://www.unhcr.org/51bac0f9.html).)(p.136)

5 manolo 2016-02-25 22:18:45 [PC]

2-4. 【3. *日本における難民認定手続】
 難民条約は、難民認定手続について各締約国の立法裁量に委ねている。日本は1981年に難民条約に加盟するにあたり、従来の出入国管理法令を改正し、新たに難民認定制度を導入して、「出入国管理及び難民認定法」と改称した。難民の認定は法務省入国管理局が所管しており、難民申請者が難民該当性の立証責任(**「迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖」の高度の蓋然性の証明)を負う。かつては、申請期限(入国後60日ルール)があった上に、難民認定手続きと退去手続が並行して進められたため、申請者の地位が不安定であった。2005年施行の改正法では、申請期限が廃止され、難民申請者には仮滞在許可制度を設け、仮滞在許可を受けた申請者については退去強制手段を停止して難民認定手続きを行うこととした。2012年には2545人の真性があり、18人が認定された(内13人は難民不認定とされた者の中から異議申し立ての結果認定されている。)難民不認定とされた者の内、人道的配慮から在留を認められた者の内では8割以上がミャンマー8(ビルマ)人である。(p.137)

*日本では1975年からのインドシナ難民の大量流出を契機に、難民問題に関する議論が急速に高まった。同年5月にベトナムからボートピープルが初めて到着し、以来インドシナ難民の受け入れを及び定住受け入れを特別に認めてきた(2005年末までのインドシナ難民定住受け入れ数は1万1319人)。(p.137)

**『UNHCR 難民ハンドブック』は、申請者の説明が信憑性を有すると思われるときは、反対の十分な理由がない限り、申請者に利益が与えられるべきであるとするが、日本ではこれを採用していない。(p.137)

6 manolo 2016-02-25 22:19:43 [PC]

2-5.
 難民申請の増大に伴い、難民不認定・退去強制処分の取り消しを求める訴訟も増加している。こうした訴訟では、拷問が行われるおそれのある国への送還禁止を定める拷問禁止条約3条が援用されることがある。*また、児童がかかわる場合には、児童の「最善の利益」の考慮を定めた児童の権利に関する条約3条が援用されることがある。(p.137)

*裁判では、退去強制の結果として児童が父母から分離されても、児童の権利第3条に反しないと判断されている。これは日本が同条約9条1項(父母からの分離を禁止する規定)に「出入国管理法に基づく退去強制の結果として父母から分離される場合に適用されるものではない」との解釈宣言を付していることに関係する。(p.137)

2-6.
 2008年12月の閣議了解において第三国定住による難民の受け入れを実施することが決定され、2010年度より5年間年30人の予定でタイの難民キャンプに滞在するミャンマー難民を受け入れている。(p.137)

7 manolo 2016-02-25 22:24:31 [PC]

3. 出典:『ニューズウィ-ク日本版』「「難民」か「移民」か その違いはどこに?」、9/15/2015、p.27

メディア
定義も線引きも曖昧な部分が多いが
正確に伝えるための努力は必要だ

3-1.
 いま世界各地にあふれるおびただしい数の避難民について、メディアはよく「移民」と「難民」という呼称を区別せず使っている。だが両者の間には、政治的・法的に違いがある。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、難民は「自国での紛争または迫害を逃れ、安全を求め他国に移る人々だ。一方、移民は「迫害や死といった直接の脅威でなく、主により良い生活や仕事、教育を求めて、あるいは家族との再会、その他の理由によって移住を選択」する人々を指す。移民と違って難民は、1951年に採択された難民条約の下で一定の法的保護を受ける権利が認められている。

3-2.
 カタールの衛星テレビ局アルジャジーラは最近、地中海を渡ってヨーロッパを目指す人々を今後「移民」とは呼ばないという編集方針を発表した。その理由について、「移民という言葉の意味が本来の定義から変化して、対象となる人から人間性を奪い距離を置く、軽蔑的な意味合いを持つようになった」からだとしている。だがそうは考えていない向きもある。米ニューヨーク・タイムズ紙もCNNも「移民」という言葉を使っているが、そこに深い意味はない。一般的に使われる「移民」という言葉は、単により包括的な呼称にすぎない。

3-3.
 それに対し、「難民」という言葉には政治的な力がある。ヨーロッパで移民規制を訴える人々が「難民認定希望者(まだ認定されていない状態)」という言葉を好んで使う一つの理由は、それが彼らの移住動機に疑問の余地を残す呼称だからだ。「難民」が中傷と受け止められる場合もある。ハリケーン・カトリーナの襲来で被災し、05年8月にニュー・オーリンズから別の地域に移った人びと(主に黒人)に対して頻繁に使われた「難民」という呼称は、人種差別だとの声が上がった。

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-投稿者により削除-
 
1 manolo 2016-12-21 23:15:11 [PC]


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出典: 『よくわかる都市社会学』、中筋直哉、五十嵐泰正編著、ミネルヴァ出版、「V-9. 観光における文化の商品化」、pp.68-69、2013/4/30、橋本和也

1-1. 【1.文化の商品化】
 文化観光においては、生活の中に埋め込まれている文化が、特別なものとして徴づけられ、注目され、外部に提示するために切り取られ、それが観光の場に提示される。年代を経たものはその年代ゆえに、特別な由来のあるものはそのものがたりゆえに注目される。自然景観でも人間の視点に珍しいと映る光景が注目され、切り取られる。そのように考えると、観光対象となるものはすべて「商品化」されていることになる。「ホスト・アンド・ゲスト」で、編集者のV.スミスが分類した民族観光、文化観光、歴史観光、環境観光、リクレーション観光の5つのタイプは、観光のまなざしによって本来の文脈から切り取られ、商品化される対象であることを示している。(p.68)

2 manolo 2016-12-21 23:18:04 [PC]

1-2.
 「文化の商品化」とは、地域の人々のための文化的製品の意味を損なうだけでなく、観光者にとっても意味も損なうという問題を引き起こす。まがいもののアトラクションを真正なものと信じ、偽りの観光経験が作り上げられることになる。このような文化の商品化に関する議論が観光研究の領域で取り沙汰されるようになったのは、マス・ツーリズムが本格化した1960年代後半からで、ブーアスティンの「疑似イベント」やマキャーネルの「演出された真正性」など「文化の真正性」に関する議論が活発になった。それは日常的な文化現象が、観光の場に引き出されたとき違和感をもって受け取られたことを示している。問題になったのは、地元住民に有償でパフォーマンスを提供する大衆文化の領域ではなく、日常生活や儀礼などの領域におよぼす観光の影響であった。文化の商品化には、近代産業社会、消費社会の特徴が顕著に現れている。(p.68)

1-3. 【2. 本来の文脈から切り離される問題】
 日本において太田好信が「文化の客体化」の問題へ先鞭を付けた。ある社会に埋め込まれていた文化的要素が、特別なまなざしを受け別の文脈に置き換えられたとき、すなわちそれまでの文脈から切り離され客体化されたときに、かつてとは異なる評価と新たな意味を持つことになる。これは日常的文脈から取り出した事物に特別な意味を付与する博物館提示が抱える問題でもある。観光においては、地元に埋もれている事物が特別なまなざしを受け、発掘され、本来の文脈から切り離されて観光の「売りもの」に仕立て上げられる。地元民が違和感をもつ売られ方であっても、観光の定番になっている例は多い。(pp.68-69)

3 manolo 2016-12-21 23:19:32 [PC]

1-4. 【3.売る権利はだれにあるか。】
 日本における観光人類学の初期の本である『観光人類学』に、サンタクロースの村における文化の著作権を問題として取り上げた葛野論文がある。従来トナカイの牧畜を生活の糧としてきたラップ人の領域を、フィンランドの多数派民族フィン人がサンタクロースの服装でみやげもので販売することで文化的に侵略している現状を紹介する。道義的には違反だが、民族の著作権が認められない限り法的解決はない。観光者に偽物性を訴える運動を展開したところで、観光客はまがいものでも「よく知られたもの」であればまなざしを向ける。南太平洋のヴァヌアツでも、バンジージャンプの祖先といわれるヤゴル儀礼を、本来の在処である地域を離れて観光客のアクセスがよい他の土地で執行しようと試みた例がある。そのたびに企画から外れる他の村から反対の声が上がり断念するという事態が繰り返された事情を、白川千尋が「儀礼の保有者、儀礼の在処」で報告している。同一集団・民族内での楽しみのための上演であれば借用・流用は問題にならず喜ばれるが、不特定多数の観光者を相手にした商品として売られるとなると、商業的道義に照らして正当かどうかが問題になる。(p.69)

1-5. 【4.地域文化資源の商品化:みやげもの】
 地域の文化資源を観光のまなざしで切り取り、売り物にしたのが現代の「みやげもの」である。従来は寺社参詣の際のお礼や境内図、厄払いの品物などがみやげものであったが、1920年代の民芸運動の流れの中で地域の特産品が注目されるようになった。1970年代の大衆観光時代以降、みやげもののための商品開発が盛んになると、「商品化」された地域文化が地域を正しく表象するかどうかが検証されることなく売買され、いまでは「京都へ旅行してきました。ほんの気持ちです」と箱に書かれたカスタードクリーム入りの菓子が出回るようになった。同じように、もはや「京都」などの地名以外には地域とは関係を持たない単なるロゴ入りTシャツや、地域の特徴をステレオタイプ化したコスチュームを着ているだけの全国的キャラクター(ハローキティ、キューピー、ドラえもんなど)のご当地版が売られている。それらがみやげものとして、それなりに人気を博す現実がある。(p.69)

4 manolo 2016-12-21 23:20:00 [PC]

1-6.
 もはや観光地の「換喩」にもならない商品が、みやげものとして売られ、購入されている。それらは地域性をどのように表象して商品に仕上げられるかという文化的な工夫をもはや放棄したみやげものである。しかしそのような現実に対抗して観光まちづくりの活動を地域で実践している人々は、地域で自らが育て上げた文化資源を、地域を代表する、地域の「売りもの」として誇りをもって提示しようとしている。「文化の商品化」は、ここにこそ注目するべきである。(p.69)
 
1 manolo 2016-03-14 00:24:33 [PC]


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出典:『現代政治理論』、川崎修・杉田敦[編]、「第6章 デモクラシー 歴史と現実」、杉田敦、有斐閣アルマ、pp.137~165

1-1. 【1. デモクラシー論の展開 ―古代から現代へ―】
〈デモクラシーとは何か〉
 デモクラシー(democracy:民主政治)は、政治について論じる際に多く用いられる概念の一つであり、現代社会ではおおむね肯定的にとらえられている。しかし、実際には、政治思想史上、デモクラシーほど警戒されたものも少ない。警戒する人々と、それを渇望する人々との間で、デモクラシーは常に論争の的であり続けたのである。そしてデモクラシーをめぐる今日のさまざまな論争・対立は、そうした従来の議論とつながっている。そこで、古代ギリシャにおける発祥以来、20世紀半ばに至るまで、デモクラシーについての人々の考え方、とらえ方がどう変化してきたかを振り返りながら、まずはデモクラシー概念の複雑さを明らかにしたい。(p.138)

16 manolo 2016-03-14 00:56:12 [PC]

1-33.
 そこでダールが示したのは、直接制と同質性よりも多元性こそを、デモクラシーにとって重要な要素と考えるという方向性であった。結局のところそれは、デモクラシーよりもリベラリズム(自由主義)に比重をおきながら両者を統合する、ある種のリベラル・デモクラシーの構想であった。ダールによれば、普通選挙によって複数政党の中から政権党を選ぶという基本的な代表制デモクラシーの制度を備え、しかも選挙と選挙の間の時期(つまり平常時に)、諸々の利益集団や自発的結社が影響の大きさをめぐって不断に競争を繰り広げるような社会であれば、リベラル・デモクラシーとしての条件を満たしうるのである。こうしてダールは、シュンペーターが選挙時に限った競争を、日常まで拡張したが、それでも、デモクラシーを競争原理と、すなわち市場的な原理と結びつけるという点ではシュンペーターを継承したということもできよう。ダール自身はこうした自らの立場についてその後一定の留保を示すに至ったが、彼の定式化した「利益集団リベラリズム」は、20世紀後半のデモクラシー論において、主流を形成したのである。(p.153)

1-34. 〈ヨーロッパ型デモクラシー論〉
 ダールをはじめとする英語圏の政治学者たちは、デモクラシーにとって最も重要なのは競争であるとし、イギリスやアメリカなどで二大政党の頻繁な政権交代や利益集団間の激しい競争がみられることを、デモクラシーが健全である証とみなした。これに対し、ヨーロッパを研究対象とする学者たちが異を唱える。オランダやスカンジナビア諸国などの北ヨーロッパでは、政権交代は必ずしも多くなく、ある政党による長期政権が続いたり、いくつかの政党による連合政権が続いたりしていた。また、特定集団の利益を代表する団体が政府と密接な関係を持ち、政府と協力して政策決定に関わるようなことも広くみられた。こうした状態は、英語圏の常識からすれば、政治的な停滞と談合であり、デモクラシーの機能不全であるとみなされかねない。にもかかわらず、北ヨーロッパの政治がきわめて安定しており、しかも民意を体現したものであることは明らかであるように思われた。ここから、もう一つのデモクラシー像がありうるのではないか、という考え方が出てくる。(pp.153-154)

17 manolo 2016-03-14 00:59:25 [PC]

1-35.
 オランダやベルギーなどでは、カトリックとプロテスタントの間の宗教対立や、言語を異にするエスニック・グループの対立などが顕在化するのを避けるために、さまざまな集団の代表者たちが集まって、互いに利害を調整し合うというやり方が発達した。オランダ出身のA. レイプハルトは、こうした調整の政治を、多極共存型(consociational democracy)と名づけた。(p.154)

1-36.
 一方、P. シュミッタ―やG. レーンブルフは、ネオ・コーポラティズムというモデルを提示した。もともとコーポラティズムとは、ファシズム期のイタリアなどで、労働組合などの諸団体を政府が抱え込んだ状態をさした。そのため、20世紀後半の世界では、警戒をもって見られがちの言葉であったが、シュミッターらは、そうした悪しきコーポラティズムと区別される、良い意味のコーポラティズムが、オーストリアなどで成り立っているのである。すなわち、労働組合・経営者・政府の代表が協議の場を持ち、三者がそれぞれの利害について述べた上で、相互に調整し合うことによって、経済政策などにいて、より現実的な政策を決めることが可能になっているとした。(p.154)

1-37.
 こうした問題提起は、競争よりも話し合いと調整を重視するという、デモクラシーの新たな可能性に目を開かせるものとなった。もっとも、その後、ヨーロッパ連合への統合が進み、各国が独自に政策を決める余地が小さくなるにつれて、ヨーロッパ型のモデルは現実政治においては影をひそめつつある、ともいわれている。一方、皮肉なことに、最近では英語圏を中心として、討議こそがデモクラシーにとって本質的であるという議論が新たに台頭しつつある。(p.155)

18 manolo 2016-03-14 01:00:48 [PC]

1-38. 〈デモクラシーと政治参加〉
 19世紀から20世紀前半にかけて、デモクラシーの破壊力を憂慮したエリート主義的な知識人たちは、一般の人々が政治参加への過剰な動機づけをもっているということを前提としていた。一般の人々は、いくら抑えようとしても抑えきれないほど、政治に参加したがっているものと考えられていた。だからこそ、それをどうにかコントロールするための算段を考えたのである。(p.155)

1-39.
 欧米や日本のような発達した産業社会では、1960年代から70年代あたりにかけて、街頭でのデモや直接行動を含む「政治の季節」が到来した。しかし、それが一段落したのを境目に、人は急速に政治に背を向け始め、投票率は大きく低下した。とりわけ日本などでは、政党への帰属意識がなくなり、どの政党も支持したくない「支持なし層」が有権者のかなりの部分を占めるまでに至った。こうした状況に、代表制を重視し、人々の直接参加に懐疑的な論者でさえも、憂慮を隠さないことになる。なぜなら、リベラル・デモクラシーとは、デモクラシーの水圧が高すぎるほど高いことを前提にした上で、それをリベラリズムという制御弁によって制御することで、安定的な水流を確保しようとする思想だからである。水圧がなくなってしまえば、水流の制御どころではない。(pp.155-156)

1-40.
 しかし、人が政治に興味を失ったのは、そもそも、代表を選ぶという間接的な役割だけを割り振られたからではないのか。そんなつまらない役割に飽き飽きした結果が、投票率の低下であり、より直接的なデモクラシーなら人々は意欲をもつに違いない。こうした立場からシュンペーター主義に対抗したのが、参加民主主義論の理論家たちであった。すでにC. ペイトマンらは、まさにレヴェラーズたちが主張したように、デモクラシーの根幹は民衆が自分たちで自分たちに関わる事柄を決めるという自己決定にあるとした。代表制デモクラシーは、あくまで便宜的に採用されているにすぎないものであって、それはデモクラシーとして本来的なものではない。人々は、単に選挙のときだけでなく、日常の中で、できるだけ政治に関心を持ち、さまざまな経路で声を上げるべきである。一般の人々は政治参加の能力をもっているばかりでなく、そのための動機も十分にある。なぜなら、政治参加はそれ自体楽しいことだからである。(p.156)

19 manolo 2016-03-14 01:02:04 [PC]

1-41.
 こうした参加民主主義者たちの主張には、ある程度の根拠がある。すなわち、実際に、余暇の時間を割いて地域の活動に参加したり、さまざまな団体をつくって自分たちの主張をしたりするといったことが広く見られるからである。また、地域の重要な争点について、住民投票等のかたちで直接に意見を表明したいという世論は、日本では1990年代から高まりをみせている。しかし、同時に、政党政治と議会を軸とする代表民主制の方は、ますますやせ細りつつある。(p.156)

1-42.
 このような変化、すなわち、間接デモクラシーが回避される一方で、直接デモクラシー論からすれば、政治が衆愚政治(ポピュリズム)に陥ったことを意味するであろう。そして、その先に待っているのは、専制であるということになろう。

1-43.
 しかしながら、それとは別の考え方もできる。そもそも、人々はなぜ代表制に距離をとるようになったのか。それは、代表制が人々の意見を代表できなくなったらではないか。政党政治が高度に発達した18世紀から20世紀前半までの時代は、産業化の時代と重なっている。産業課を推し進める際には、それを真っ先に受益する階層と、なかなか受益できない階層ととの間に不均衡が生じ、「階級闘争」的な対立軸が生まれやすかったといえよう、また、それまでの農村人口が、労働者として都市に集中する結果、住宅問題、交通問題、貧困問題、環境問題等の都市問題が、激化することは避けられなかった。こうした中では、それぞれの階層ないし階級の利益というものが、比較的わかりやすいかたちで分節化できるので、各階層・階級を代表する政党が発達した。経済政策や福祉政策をめぐって、政策の対立軸が大まかに整理されるので、政党や政治家も自分たちが何を代表するのかを意識できるし、人々も、政党や政治家によって十分に代表されうるという感覚をもったのである。(p.157)

20 manolo 2016-03-14 01:03:56 [PC]

1-44.
 しかし、産業化が一段落すると、対立軸はそこまで単純なものではなくなる。例えば、環境問題をめぐる対立軸は、必ずしも経済問題をめぐる対立軸とは一致しない。近所のごみ焼却施設からの大気汚染や水質汚染によって被害を受けるリスクの程度という点では、金持ちと貧乏人の間には、必ずしも差別はない。その場合には、むしろ汚染源から遠い人々と近い人々の間に利害対立が生じる可能性がある。また民族やエスニシティ、ジェンダーなどをめぐる対立軸も、経済的な対立軸と必ずしも一致しない。(p.157)

1-45.
 かつては、さまざまな争点があるようにみえても、その多くは経済関係をめぐる対立軸によって整理できると考えられており、政党政治はそうした構造の上に乗ってきた。多元主義と言っても、それは利害関係がいろいろあるということにすぎず、対立軸そのものはきわめて一元的であったのである。ところが、今では、対立軸そのものが多元化している。さまざまな対立軸は収斂(しゅうれん)せず、相互に交差する。ある対立軸では、一致する人々が、別の対立軸では対立するのである。政党政治がこうした事態に対応することは難しい。これまでの政党のあり方を維持しようとすれば、新しい争点を拾い上げることはできない。逆に、新しい争点を積極的に取り入れようとすれば、政党は分裂し、断片化することになる。従来型の代表制を重視するリベラル・デモクラシーは重大な岐路を迎えつつあるのである。(pp.157-158)

1-46. 【4. 新しいデモクラシー論へ】
〈異議申立てとデモクラシー〉
 従来デモクラシーは、集合的な意思決定であることが強調されてきた。いろいろな少数意見があっても、最後は多数決によって決める。だからこそ、「多数者の専制」が危惧されてもきたのである。(p.158)

1-47.
 もっとも、そこで主として問題とされたのは、エリートの意見(より「理性的」な意見とされたもの)が、民衆の熱狂によって押し流されることであった。これに対し、近年問題にされるようになったのは、さまざまな点で差別され軽視されてきた少数派(いわゆるマイノリティ)の意見が、リベラル・デモクラシーのもとで封殺されているという点である。(pp.158-159)

21 manolo 2016-03-14 01:14:33 [PC]

1-48.
 このような、エリート主義とは対極の側からのリベラル・デモクラシー批判が登場した背景には、近代批判(ポスト・モダニズムとよばれることもある)の政治思想があるといえよう。19世紀末のドイツの哲学者ニーチェ以来、啓蒙主義に対する批判は連綿として続いてきた。そこでは、古代ギリシャ以来の西洋思想の主流派が、理性や真理といった観念を捏造し、それに当てはまらないものを排除してきたとされる。20世紀後半には、まずはT. アドルノやM. ホルクハイマーといったフランクフルト学派の哲学者たちが、啓蒙主義の暴力性を問題にした。彼らによれば、近代の思想は理性的な主体としての人間というものを強調することによって、人間による自然からの収奪を正当化したばかりでなく、他の人間をも単なる手段として利用するようなやり方を広めた。その最悪の帰結が、人間を手段としてしかみなさないようなナチス体制であるが、アメリカを筆頭とする資本主義体制もそれと無縁ではなく、同じように人間を動員し続けている、としたのである。(p.159)

1-49.
 20世紀末にこうした近代批判をリードした一人がフランスのM. フーコーであった。すでに第4章でみたように、フーコーは、人間は生まれながらに主体であるわけではなく、一種の権力作用によって主体にされているのだ、という考え方を示した。つまり、人間は、それぞれの立場に応じて適切とされるふるまいをするように「規律化」され、常に「理性的」な主体となるように強制されているのである。(p.159)

1-50.
 こうした近代批判の観点からみると、リベラル・デモクラシーもまた、胡散臭い側面をもっている。そこでは、結局のところ、多数派の意志が優先されてしまう。それは、多数の意志を「理性」とみなすことによって、それとは異なる少数意見を「非理性」として排除することではないのか。また、自分自身の利益を追求する、経済主義的な主体が前提とされているが、それは実際には特定の人間類型の押しつけではないのか。とりわけ、リベラル・デモクラシーを生んだ西洋社会と異なる文化的背景をもっていたり、従来政治の主体の典型とされてきた男性とは異なるジェンダーであったりする人々にとっては、リベラル・デモクラシーが要求する「理性」は、外在的なものである可能性がある。(pp.159-160)

22 manolo 2016-03-14 01:15:56 [PC]

1-51.
 このような考え方のもとに、アメリカの政治学者のW. コノリーは、デモクラシーを「アゴーンのデモクラシー」として再定義しようとした。すなわち、デモクラシーとは集合的な意思決定の場というよりも、むしろ、様々な異なる考え方に出会う場とみなされるべきである。人々は、自分の利害関係を通すためにデモクラシーに参加するのでない。むしろ、自分とは異なる立場の人々や、異なる考えを持つ人びと(他者)と接することで、自分の考えを相対化し、自分の考えを変えることこそが、目的である、というのである。(p.160)

1-52.
 デモクラシーにおける一元性の側面、すなわち集合的決定を重視する論者にとっては、これはデモクラシー概念の誤用に近いものとして映るであろう。彼らからすれば、コノリーがいっていることは、ゴネ得の奨励、決定の先延ばしにすぎない。シュミット主義者にとっても、アゴーンのデモクラシーとは、デモクラシーを、議会主義の堕落形態としての「永遠の対話」に近づけるものであって、論外ということになろう。(p.160)

1-53.
 しかしながら、デモクラシーがデモクラシーであるために必須の条件とは何であろうか。集合的な決定をすることであろうか。それなら、他の決定法であってもかまわないはずである。むしろ、(まさにシュミットが強調したように)独裁のほうがはるかに効率的なやり方であろう。デモクラシーにとって最も重要なのは、一人ひとりの意見を聞くことであると考えることもできる。しかも、これは文字どおりの意味で解されるべきである。わざわざ意見を聞かなくてもわかっているとか、一部の人間にだけ尋ねれば、それ以上は必要ないといった考え方は、私たちをデモクラシーとは無縁なところに連れていくであろう。いろいろな意見に接すること、とりわけ思いもよらない意見に対して好奇心をもつことを大切にするというアゴーンのデモクラシー論は、その意味で、思いのほかデモクラシーの基本を押さえたものなのである。以上のように、アゴーンのデモクラシー論に至って、多元性の志向が代表制批判と結びついたことは注目に値する。(pp.160-161)

23 manolo 2016-03-14 01:20:00 [PC]

1-54.〈ネーションとモデクラシー〉
 デモクラシーの単位は、元来は古代ギリシャのポリス(都市国家)であり、その規模は数万人程度であった。その後の長い空白を経て、デモクラシーが復活したときには政治の基本単位はネーション(民族)になっており、その規模は少なくとも数百万人となった。(p.161)

1-55.
 同質的なネーションという集団だけが実効性のある政治機構(ステート)をもちうるというネーション・ステート(国民国家)の観念には、第7章でもふれるが、ネーションを単位とするナショナル・デモクラシーは、近代のデモクラシー論において、常に前提とされてきた。すなわち、デモクラシーを論じた理論家のほとんどは、彼らがネーションという単位の政治について論じていることを、何ら疑わなかったのである。(p.161)

1-56.
 そこで大きな役割を果たしたのが、いうまでもなく主権という観念である。主権とは、最高の権力という意味であり、物事を決定する最終的な点の所在をさす。主権は対内的にも、対外的にも絶対のものとされる。ナショナル・デモクラシーを前提とする議論では、最終的な決定権力はネーションを構成する人々全体にある(人民主権論)。これは、国王に主権があるという君主主権論からの大きな飛躍によってもたらされたが、同時に、そこでは、主権論自体は継承されていることに注意しなければならない。すなわち、デモクラシーを論じる時にも、ネーション以外のさまざまな単位は、あまり重視されることがない。そうした単位のデモクラシーも理論上不可能ではないが、いずれにしても、ナショナル・デモクラシーにおける決定に従属するものとされるからである。(pp.161-162)

1-57.
 こうしてネーションより小さな単位である自治体などのデモクラシーは、ナショナル・デモクラシーによる決定の範囲内で存在を許されるものとされた。ネーションより大きなデモクラシーの単位、すなわち複数の国を含む地域的(リージョナル)な単位は、長く疑いをもってみられることになった。まして、企業やさまざまな集団内のデモクラシーなどは、本来的に不可能であるか、仮に可能であっても非本質的なものとされた。(p.162)

24 manolo 2016-03-14 01:21:49 [PC]

1-58.
 しかし、この20年ほどの間に、事態は大きく変わることになる。ネーションが同質性を有するという考え方は、単なる擬制であることが明るみに出された。より正確に言えば、それが擬制であることは以前から明らかなのであるが、それでもかつては、そうした擬制をあえて選択することに解放的な意義が見出されていたのである。ところが、ネーション内の平準化が進む中で、そうした同質性の前提が、むしろ抑圧的な作用をもつことが強く意識される。つまり、実際にはどんなネーションの中にも差異を見出すことができるし、そうした差異を尊重していくことが、とりわけ少数派集団(マイノリティ)にとって重要であると考えられるようになったのである。(pp.162~164)

1-59.
 さらに、ネーションをより大きな単位のデモクラシーも、現実にヨーロッパ連合などで実現されつつある。この延長上に、世界大のデモクラシーの可能性を考えることも、まったくの絵空事といえなくなってきた。(p.164)

1-60.
 それに加えて、例えば1980年代以降のダールが述べたように企業や利益集団の中でも一定の民主化を進めることが、グローバル化した経済の中で多国籍企業が暴走しないようにするために必要であるという考え方でもある。(p.164)

1-61.
 こうして、今ではデモクラシーは重層的なものとなりつつある。さまざまな単位のデモクラシーがあり、誰もが複数のデモクラシーの構成員であるということが珍しくなくなってきた。このような事態は、現代的な問題を解決する上で、一つの可能性を開くものである。なぜなら、例えば環境汚染のような問題は、一国の国境線の内部にとどまるものではないので、地域的な話し合いによって解決するほうがよいからである。(p.161)

25 manolo 2016-03-14 01:22:51 [PC]

1-62.
 そこで問題になるのは、さまざまなデモクラシーの間で、意見の対立が生じた場合に、どのように調整するかである。この問題については、「補完性」(サブシディアリティ)という考え方がある。すなわち、ある単位がまずは責任を持ち、その単位がどうしても不可能な事柄についてだけ、他の単位が行うというものである。しかし、それでは第一義的に責任を有するのはネーションなのか、それとも他の単位なのか、という肝心の点で、補完性論者の意見も大きく分かれているというのが実情である。(p.164)

1-63.
 ナショナル・デモクラシーの呪縛から自由になって、いろいろかデモクラシーの可能性について考えるようになってみると、あらためて次の事実を意識せざるをえない。それは、デモクラシーの単位が常に恣意的であるということである。デモクラシーが全員による決定を意味するとしても、その全員とはどの範囲のことか、デモクラシーのもとでは、誰も排除さえないというのが建前であるが、それではなぜ、ある範囲内の人々からは意見を聞くが、その外部の人々から聞かないのか。これは答えようがない問題である。どんなデモクラシーであっても、その単位そのものをデモクラシーによって決めるということは不可能である。なぜなら、誰と誰が市民権を持つかが明らかでないかぎりデモクラシーを始めることはできないので、市民権をデモクラシーによって決定することはできない。結局のところ、デモクラシーの単位は、単に事実上決まるのである。(pp.164-165)

1-64.
 このことを踏まえると、重層的なデモクラシー間の関係が、一義的に決定できないことは驚くにあたらないだろう。それは、理論的というよりは実践的に処理されるほかない側面を持つのである。(p.165)
 
1 manolo 2015-01-24 11:47:06 [PC]


199 x 254
『よくわかる刑事訴訟法』椎橋隆幸編著、ミネルヴァ書房、4/20/2009、「V-7. 起訴状一本主義:予断排除の原則」、関正晴、pp.136-137

1-1. 【1. 起訴状一本主義とは】
 刑訴法256条6項は、起訴状一本主義を採用し、起訴状に、裁判官に予断を生ぜしめるおそれのある書類等の添付とその内容を引用することを禁じている。これは裁判官が、公訴提起時に提出された捜査書類等を精査した上で公判に臨み、捜査機関の形成した嫌疑を承継する旧刑法上の運用を制度的に改めるものである。起訴状一本主義の目的は、裁判官が公判開始前に捜査機関の一方的な説得を受け偏った先入観を形成することを防止し予断を形成することを防止することにある(予断排除の原則)。この制度の採用によって、裁判官が第一回公判期日前に事件の実情を知り得ないため、立証活動等の訴訟における積極的役割を当事者が担うことになり当事者主義訴訟構造の採用が決定づけられる。また、この制度は、捜査機関作成の調書等の証拠能力を原則として否定する伝聞法則(320条1項)とともに、公判廷における当事者の主張・立証を基礎に証人尋問を中心に心証形成することを裁判官に要請する*公判中心主義を基礎づけている。ただ、この制度は、刑訴法の規定の不備とも関連して、検察側証拠の閲覧の機会を著しく制約するという負の側面をもち、証拠開示の問題を生じさせている。この制度の目的とする予断排除の理念は、第一回公判期日前日の勾留処分の制限(280条・刑事訴訟規則187条)等刑訴法の随所に盛り込まれている。(p.136)

*公判中心主義
犯罪事実の認定は公判における当事者の主張・立証を基礎に行われるべきとする原則をいう。(p.136)

2 manolo 2015-01-24 11:49:28 [PC]

1-2. 【2. 具体的内容と問題点】
 刑訴法は、書類その他の物の「添付」及び「内容の引用」を禁止しているが、その趣旨は他の形式による場合にも及び、およそ予断を生ぜしめるおそれのある事項の記載は許されない。他方、256条3項は裁判所の審判対象と被告人の防禦の対象を手続上明らかにするために、「罪となるべき事実」を特定して起訴状に記載する(訴因の特定)ことを要求する。そのため、起訴状に記載された訴因が詳細であればあるほど予断のおそれが相対的に強まることから両者の調整が問題となる場合が生じる。この点、判例は、比較的早い時期から「訴因を明示するため犯罪構成要件にあたる事実若しくは、これと密接不可分な事実を記載することは適法である」として、訴因特定の要請を優先させている。しかし、学説の多くは、裁判官が予断を抱くことなく審理を開始することは手続きの基礎であり、一度抱いた予断は容易に消し難いことを理由として、訴因明示の要請も予談排除の要請に反しない限度に制約されるものとしている。(pp.136-137)

1-3.
 この点が証拠の引用との関係で現実に問題となったものとして、*文書を用いて犯された恐喝罪の犯罪事実の記載について、ほぼそのままの形で脅迫文の原文を引用した事実がある。判例は、原文を要約摘記すべきであるとしながらも「その趣旨が婉曲的暗示的であって、起訴状に脅迫文書の内容を具体的に要約摘示しても相当詳細にわたるのでなければその文書の趣旨が判明し難いような場合には脅迫文書の全文と殆ど同様な記載をしたとしても適法である」としている。さらに、**名誉棄損の原文引用が問題とされた事案について、要約摘示の方法によらないでも原文引用が許されるとした判例もある。いずれも訴因明示の要請を優先させるものである。しかし、学説の多くは、証拠内容を立証対象たる起訴状の記載に持ち込むことが禁止されていることを重視して、訴因の明示に必要な限度を超えて文書の内容を詳細に記載することは許されないとしている。(p.137)

*被告人は、Mらが金員を脅し取ることを企て、M宛に内容証明郵便により脅迫文を送付して閲読畏怖させて、Mらから金員を喝取したとして起訴されたが、その起訴状には、脅迫文がほぼそのままの形で原本の体裁通りに引用されていた事案である(最判昭和33年5月20日刑集12巻7号1398頁)。(p.137)

3 manolo 2015-01-24 11:51:54 [PC]

**被告人は、同僚議員と推知される人物が外国へ公務出張した前後の行状をコミカルに描いた文章を作り雑誌に投稿した。甲の告訴に基づき検察官は、名誉棄損が成立するとして公訴を提起したが、原文が長文にわたって起訴状に引用されていた事案である(最1小決昭和44年10月2日刑集23巻10号1199頁)(p.137)

1-4.
 さらに、*余事記載との関係でも、**前科の記載が問題とされた事案があり、「詐欺の公訴について、詐欺の前科を記載することは、両者の関係からいって、公訴事実につき、裁判官に予断を生ぜしめる事項にあたる」とする判例があるが、前科の記載は一般に被告人の悪経歴・悪性格を示すものであるから妥当である。一方、***被告人の悪経歴等の事実を相手方が知っているのに乗じて恐喝の罪を犯した事案について、「これらの経歴等に関する事実を相手方が知っていたこと恐喝の手段方法を明らかならしめるために必要である」として適法とするものもある。この判断に対して多くの学説も、この事実が構成要件の内容をなす場合、あるいは密接不可分の関係にあることを理由として判例の結論を支持している。(p.137)

*余事記載
起訴状に記載すべき事項以外の事実を記載することをいう。(p.137)

**被告人は詐欺罪で起訴状されたが、その起訴状に「被告人は詐欺罪により既に二回処罰を受けたものである」と記載がなされていた事実である(最判昭和27年3月5日刑集6巻3号351頁)。(p.137)

***被告人は恐喝罪で起訴されたが、その起訴状に、被告人が前科5犯を重ね、私文書偽造行使罪により懲役1年6月に処せられながら病気加療に名を借りて執行を免れており不良の徒輩と交友諸所徘徊し近隣より嫌悪されていた等の前科悪経歴等・素行・性格等が記載されていた事案である(最判昭和26年12月18日刑集5巻13号2527頁)。(p.137)

1-5. 【3. 違反の効果】
 判例は、予断を生ぜしめる事項の記載による違法性は、その性質上もはや治癒することはできず公訴提起の無効をきたすとする(最判昭和27年3月5日)。学説には、この瑕疵に治癒の余地はないとするのはゆきすぎであるとし公訴を必ずしも無効ならしめないとするものもある。しかし、予断を生ぜしめる事項を記載した起訴状の朗読がされた場合に、その裁判官に対する影響を完全払拭することは困難であること等から公訴提起は無効となるとして、起訴状一本主義違反の効果を厳格に解するのが多数説である。(p.137)
 
1 manolo 2015-01-21 08:26:05 [PC]


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出典:『よくわかる文化人類学(第2版)』、綾部恒夫・桑山敬己編、ミネルヴァ書房、2/25/2010「Ⅹ-1. 民族とは何か」、綾部真雄、pp.92-93

1-1. 【1. 古い民族概念の解体】
 文化人類学上もっとも重要な概念のひとつである「民族」には、いまだに誰もが認めるような定義がありません。1940年代ぐらいまでは、「特定の地域に住む固有の言語と文化を持った集団」といった程度の受け止められ方をしていましたが、その後の綿密なフィールドワークによって、簡単に定義できる存在ではないことが分かってきました。その結果、従来の民族観、つまり土地、言語、形質、出自、文化といった要素を完全に共有する固定的な集団が存在するという考えは「幻想」として退けられ、民族を実体的なものとして扱う研究者は次第に批判にさらされていったのです。(p.92)

1-2.
 定義上、先に掲げた諸要素にはそれぞれ弱点があります。人々が極めて高い移動性を持つ今日の世界においては、土地は民族にとっての絶対的な条件とは言いがたいですし、言語についても、異民族によって、学習可能なものである以上、同じことが言えます。文化も、一見自律性と独自性を持ったように見えますが、実は果てしない混合と変容の産物である場合が大半です。形質と出自についてはどうでしょうか。学習不能で不変なように見えても、これらも絶対ではありません。混血者をどのように位置づけるか、主張される系譜の信憑性をどのように評価するかという問題が常に残るからです。(p.92)

2 manolo 2015-01-21 08:26:57 [PC]

1-3. 【2. 新たな補助線へ】
 そこで浮上してくるのが「名」というアイデンティティです。ケニアのマーサイ、アマゾン河流域のナンビクワラ、ヨーロッパのケルトなどを挙げるまでもなく、「名」を持たない民族は事実上存在せず、また、その「名」を自らの存在と強く結びつける意識、すなわち「アイデンティティ」がなければ、民族は成立しないからです。ところが、「名」という“看板”だけでは、人々はそこに強いアイデンティティを感じることができません。餅を売っていない「餅屋」には、誰も足を向けないのと同じです。このとき、人々にとっての公分母(共通基盤)となり、「名」に一定の意味を与えるものとして検討し直したいのが、文化と出自です。まず、ここであらためて取り上げる文化とは、信仰、服飾、食生活といった具体的な要素の集合というよりは、人々によって程度の差こそあれ共有され、その行動と心理を規定する*「プログラム」のようなものです。同じ民族に属する人々でも、そうしたプログラムにどの程度拘束されるかについては個人差がありますし、また、同じプログラムが民族の境界を超えて作用することもあります。さらに、時代が変わればプログラム自体も少しずつ書き換えられます。したがって文化とは、時代を超えて受け継がれながらも、基本的には、同時代的な「横」のつながりの感覚を強く生み出すものです。一方、出自については、祖先と本当に血がつながっていることが絶対条件ではありません。民族によっては、**つながっているという意識や物語そのものが、実際の血縁に取って代わる場合があるからです。その意味で出自は、時代を通じた***「縦」のつながりの感覚を生み出します。(pp.92-93)

*フランスの社会学者ブルデュー(Bourdieu, P.)は、人間の行動(実践)を規定する身体化された構造を「ハビトゥス」と呼んだ。ここでいう「プログラム」は、それより広い範囲の人々に共有された状態と考えてもいい。(p.92)

**たとえば森山工は、マダガスカルのシハナカと呼ばれる人々の間で観察される、外部からの移住者(たとえばメリナ)がシハナカの墓地への被埋葬権を獲得することでシハナカになっていくプロセスを報告している。森山工『墓を生きる人々』東京大学出版会、1996年。(p.93)

3 manolo 2015-01-21 08:35:17 [PC]

***近年の研究は、「縦」のつながりを外して民族を捉える傾向が強い。しかし、実際の血のつながりの有無はともあれ、現在の自分の位置を過去との関係で歴史的に捉える観念はほとんどの民族に見られる。(p.93)

1-4.
 ここまでの議論を整理すれば、民族とは「文化を基礎とした横のつながりの感覚と、出自を基礎とした縦のつながりの感覚を反映した一定の『名』を持ち、その『名』のもとでアイデンティティを共有する人々」と理解できます。ただし、これは定義というよりは、民族という現象を考えるための補助線のひとつとして考えた方がよいかもしれません。(p.93)

1-5. 【3. 中間範疇としての民族】
 近年よく指摘されるのが、民族という概念の中間性です。我々が住む世界には、「村」や「近隣」のように小規模な対面的(顔の見える)共同社会が無数にあり、そのはるか外側に国家が存在します。そして、両者の間には様々な中間範疇があり、民族はそのうちのひとつだということです。(p.93)

1-6.
 たとえば、タイの北部にはコン・ムアンと呼ばれる人々が住んでいます。コンは「人」、ムアンは「町」を指し、字義どおりには「町の人」を意味します。ただし、これはあくまで固有名詞であり、同じく町に住んでいる人々でも、中央や南部のタイ人を指してコン・ムアンを呼ぶことはありません。したがって、コン・ムアンをひとつの民族として考えてもよさそうなものですが、学術書にはコン・ムアンは通称に過ぎず、そう呼ばれている人々は原則としてユアンというタイ系の民族に属すと書かれています。つまり、コン・ユアンは民族名ではないということなのです。ところが、実際にタイ北部に行って調べると、コン・ユアンを自称するひとびとの大半がユアンという自らの民族の名前を知らなかったり、ユアンでない人々がコン・ムアンを自称しています。では、コン・ムアンとはいったいなんなんでしょうか。(p.93)

4 manolo 2015-01-21 13:44:49 [PC]

1-7.
 答えは簡単です。コン・ムアンとは、対面的共同社会と国家の間に位置するローカルは中間範疇です。その意味では民族と同じですが、なにをもって民族とするかについての絶対的な基準がない以上、それが民族であるかどうかを無理に決める必要はありません。一般的な分類になじまない中間範疇は、無数にあってよいのです。このことが分かってさえいれば、民族の“深い森”に迷い込んで途方に暮れることもなくなるでしょう。(p.93)