岩倉市の「自治基本条例」を廃止せよ!!
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反日こそ悪 2013年03月19日 このブログでは、支那朝鮮の過去の非道のことを、よく記事にさせていただいています。ただ、私は甘いとお叱りを受けるかもしれませんが、そういう民族としての問題と、個人としての人格は切り離して考えています。たとえば、南京市があります。 昨今、日本軍が南京で30万人の市民を大虐殺したなどと宣伝されていますが、これはみなさまご存知の通り、そもそも当時の南京の人口は20万しかいませんでした。ですから30万人虐殺など、そもそも数の上からも起きようがないわけです。 この南京城攻防戦が起きたのが昭和12年ですが、それからまる8年、つまり日本が終戦を迎えて南京市を去るまで、実は南京の治安は、とてもよかったのです。当時の記録を見ますと、日本が関与していた8年間、南京市の犯罪発生率は、日本の世田谷区よりもはるかに発生率が少なかったのです。支那共産党や国民党のスパイなどが暗躍していながら、それでも日本よりも犯罪の発生率が少なく、凶悪な事件や発砲騒ぎ、市中での喧嘩騒動や窃盗、強盗さえも、ほとんどなかった。なぜ世田谷区と比較かといえば、南京城というのは、だいたい東京の世田谷区くらいの広さの城塞だから、比較にちょうど良かったからです。 この8年間というのは、南京市には、汪兆銘(おうちょうめい)政権がありました。当時の大東亜圏で公認され、日本陸軍が補佐する南京国民政府がありました。そして当時の南京市は、日本人の若い女性がひとりで市場に買い物にでかけてもまったく平気だったし、夜道を若い女性が独り歩きしても、襲われる心配や不安さえもありませんでした。さらに戦時中の日本は「ほしがりません、勝つまでは」の標語に代表されるように、食もままならない貧しい状態になっていましたが、南京は平和と安定の中で、食べ物も豊富で安く、内地の人々が飢えて困っているという状況にありながら、南京ではまさに平和と飽食ができる安定した日々があったのです。 終戦後、南京にいた日本人は、それから昭和22年まで、まる2年かけて日本に復員しました。これも北京にいた北支軍の根本中将と支那国民党の蒋介石との対談によって、治安が完璧に確保されたため、女性が襲われたり、あるいは盗賊に襲撃されたりするような心配もなく、極めて平穏無事に内地への帰還を実現しています。もちろん、南京からの復員ですから、それなりのご苦労はありました。けれど当時を体験した方のお話を聞くと、なにより辛かったのは、「復員船の中での船酔いだった」そうです。他の地域、たとえば通化市などでは、ソ連兵やら支那共産党兵などに、日本人があらゆる乱暴狼藉を受け続けた様子と比べたら、それこそ天と地ほどの開きがあります。
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