岩倉市の「自治基本条例」を廃止せよ!!
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通州事件や、通化事件、あるいは尼港事件などを振り返ってみれば、あの残虐な支那人が、日本の内地以上に良好な治安を保つことができたというのは、実に不思議な気がするかもしれません。けれど、そうした非道が起こるのは、彼の国の政治の歪み、あるいは特定の不良な思想に凝り固まった、あるいは彼の国が捏造した歴史を鵜呑みにした無教養でおかしな連中、あるいはそうした人々を意図的に煽動する馬鹿者がいたからです。そういう馬鹿者が、もともと内在している残虐性に火をつけ、あおり、非道を行わせた結果であるといえようかとも思います。統治がしっかりとすれば、民衆の行動も変わるのです。そのことを、南京市の8年間は証明しているように思います。 日本人でも、とんでもない連中はいます。同様に支那、朝鮮にも、とんでもない連中がいます。昔は、そういう支那人や朝鮮人のことを、不逞支那人、不逞朝鮮人と呼びました。いまでいうなら、反日朝鮮人、反日支那人と言った方がわかりやすいかと思います。日本人の中にも、反日はいます。 では、反日というのは、いったいどういう思考なのでしょうか。多くの民衆は、普通に幸せな家庭や、健康な暮らし、犯罪や暴力におびえる必要のない、安心して暮らせる社会を望んでいます。それは日本人に限らず、支那、朝鮮、さらには世界万民の共通する願いです。 日本は、民こそが国の柱と考えて国つくりを行ってきた国です。日本には万世一系の天皇がおわし、民はその天皇の民と基底されてきました。そして天皇は政治権力を司るのではなく、その政治権力に認証を与えるという存在となっています。つまり政治権力を行使する者にとって、民衆は権力者よりも上位にある天皇の民という、不思議な姿の国となっていたわけです。これは会社にたとえてみれば、実権を持つ社長は会長に雇われた人で、その社長の部下は全員が会長の身内みたいなものです。これが「皇民(公民)」の思想です。もちろん社員と社長の間には身分や権限の違いはあるけれど、人としては対等な関係にあります。そして日本は、こういう国のカタチをつくることによって、世界で唯一(といっていいかと思います)の「奴隷のいない社会」を築いてきたのです。 ところが支那朝鮮、あるいは世界の多くの国々では、皇帝=政治権力者です。そして民衆は、皇帝や王の私有民です。私有民と書けば聞こえはいいですが、実態は「私物」です。人でさえありません。「物」です。人の上に立つ者にとって、下にいる者たちは私物ですから、殺そうが犯そうが収奪しようが、それこそ「自由」です。もっといえば、人の上にたちさえすれば、下の者達に対する生殺与奪の「自由」が与えられる。あたりまえのことですが、こうした社会では、常に民衆に不満が鬱積します。ですからその鬱積した不満が暴発しないうちに、力によってその不満者たちを虐殺する。それが権力維持のための最適手段ともなるわけです。 ただ、そうは言っても、西洋では神のもとの平等思想がありますから、権力者はいたずらに権力を行使することができない。宗教道徳によって権力にバイアスがかかるからです。ところが不幸なことに、支那朝鮮には神がいません。ですから上に立つ者が、下の者にとっての神となる。神ですから、人を殺しても罪にならない。そういう社会体制が、すくなくとも2千年以上にわたって続いてきた。それが、支那朝鮮族であったということです。 おもしろいことに、私達日本人と、彼らの国における自由は、意味が違います。日本人にとっての自由は、何ものにも束縛されない自由を意味しますが、支那朝鮮での自由は、支配する側にとっての自由であって、民衆には自由はありません。そしてこのことは、日本における反日左翼思想の根本でもあります。
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