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親の権利3 manolo 2014-04-12 17:33:06 manolo
犯罪論16 manolo 2014-02-26 22:38:28 manolo
正義論22 manolo 2014-02-10 21:37:14 manolo
主権3 manolo 2014-02-07 23:25:25 manolo
大きな政府 vs 小さな政府18 manolo 2014-02-03 09:06:24 manolo
表現の自由9 manolo 2014-01-27 06:31:33 manolo
教育9 manolo 2014-01-26 11:32:42 manolo
道徳と法3 manolo 2014-01-23 02:39:58 manolo
パターナリズム6 manolo 2014-01-23 02:17:27 manolo
刑法と刑罰15 manolo 2014-01-22 15:23:10 manolo
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1 manolo 2014-04-12 16:44:33 [PC]


279 x 159
出典:『よくわかる子ども家庭福祉(第5版)』、山縣文治編、2/20/2007、ミネルヴァ書房、(III-6.「親権と子ども」、桜井智恵子)pp.48-49

1-1. 【1. 親権】
 未成年の子どもを保護するために親に認められた法律上の地位を親権といいます。父母の婚姻中は父母が共同して親権を行い、その一方が親権を行えない時は、他の一方が、養子の場合は養親が行います。具体的には、「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」と書かれている監護教育権(民法第820条)があります。そのほかに、居所指定権(民法第821条)、懲戒権(民法822条)、職業許可権(民法第823条第1項)、財産管理権(民法第824条)などが認められています。(p.48)

2 manolo 2014-04-12 17:17:31 [PC]

1-2.
 今までの親権の考え方は、子どもを支配する要素を持ち続けているといわれています。そのため、児童虐待ケースのような場合、子どもの権利と親権が衝突することがあります。しかし、これからは子どもの権利を擁護するという視点から、全面的に見直されるべきだと考えられるようになってきました。そこでは、親の権利が何のために親に付与されているかについて問い直す必要が出てきます。親権者により子どもの虐待がなされた場合は、親権の濫用に当たります。そのような場合には、親権の制限を考慮する必要があります。親権の制限には、民法による親権の喪失宣告、児童福祉法によるさまざまな親権の制限があります。(p.48)

1-3. 【2. 親権の制限】
 親権の制度は未成年者の保護・育成という社会目的をもち、その利益・福祉のためにありますから、親権の適切な行使をなしえない親からは、その意思に関わらず親権を剥奪すべきという趣旨に立っています。ですから、親権者の行為が喪失原因に当たるかどうかの判断については、子どもの利益に反するかどうかを基準とします。また、親権者を排したとき、他の保護者によって現状以上の福祉・利益を子どもにもたらすことができるように考慮される必要があります。(p.48)

1-4.
 児童福祉の理念は子どもの最善の利益の実現にあります。親が子どもの利益を害するときには、親としての責任を果たしているとはいえないと考えられています。このような場合には、国は、子どもの権利を守る責任を果たさなければなりません。児童福祉法は、親権者の虐待などがあったとき、家庭裁判所の承認を得れば、都道府県が子どもを福祉施設に入所させる措置をとることができるとしてます(児童福祉法28条)。しかしながら、家庭裁判所による親権喪失宣告も、公的機関によるそれらの権限の行使もきわめて慎重であり、いまだ親権を侵すべきでないとの意識が強く、最近の児童虐待への関心が高まるにしたがって、これらの制度のあり方が問われています。(pp.48-49)

3 manolo 2014-04-12 17:33:06 [PC]

1-5. 【3. 親子の絆】
 親の親権を喪失させた後、子どもの面倒を誰がみるかという問題があります。日本の伝統的な家族観・親子間のもとでは、養子制度、里親制度がなかなか発展しにくいのです。子どもにとって親というのは、かけがえのない存在です。その親との関係を断絶するということは、子どもの人生に大きな影響を与えるでしょう。親と引き離され児童養護施設で生活している子どもたちは、親への捨て去りがたい思いを抱えて成長しています。子どもたちは、そのような親への思いの整理に多くのエネルギーを費やすことになります。(p.49)

1-6.
 親権の喪失宣言は、法律上の親の資格剥奪に過ぎず、決して親子関係の断絶ではありません。親子分離がなされた後の児童養護施設を含む代替擁的養育システムの中では、親子の絆をつなぎとめることが課題になるでしょう。また、親子関係を修復できない子どもには、子ども自身がそれを受け止め、乗り越え、自立していく力をつけるように支える必要があります。(p.49)

1-7.
 現行制度の背景には、親が子どもの最適な養育者であり、親が全面的に子どもの養育を委ねることが子どもの福祉に合致するとの理念がある。この考え方は、子どもの権利条約にも見られるように、普遍的真理であり、親子の養育をめぐる権利を保障しようとすれば、国家による私的養育への干渉には慎重でなければならない。しかし、共働き夫婦や離婚の増加、少子化による親の期待大、育児に対する社会的支援の絶対的不足等、子どもの養育をめぐる状況は大きく変わってきている。私的養育への全面的依存は、現代では親に過大な養育負担を強いる結果となり、その矛盾が児童虐待となって子どもに向けられることになる。(p.49)

1-8.
 戦後、子育ては私的な親子の絆にのみ委ねられ、地域や社会は子育てから撤退してきました。その結果、近年、児童虐待が増加していると注目され、それに対して虐待家族に対する批判や親子分離が問題とされます。しかし、そういった指摘や対処だけに留まらず、なぜ親は可愛い子どもを虐げることになってしまうのかという、親を取り巻く状況や文化的背景をも含めて分析し、社会的子育ての仕組みの創造や社会状況の変容を目指すという課題も私たちに与えられているのです。(p.49)
 
1 manolo 2013-10-16 16:28:53 [PC]


259 x 194
出典:『よくわかる刑法』、井田良、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(序-5.「犯罪論の体系」、飯島暢)pp.10-11

1-1. 1. 犯罪論体系の意義
 犯罪行為の一般的な成立要件を検討するのが犯罪論である。刑法の条文をみれば明らかなように、例えば199条なら殺人罪に固有の犯罪の成立要件が問題となる。しかし、そうした個々の犯罪類系の成立要件から抽象化して取り出してきた、いわばすべての犯罪に妥当する一般的な成立要件を犯罪論は取り扱う。犯罪成立の一般的用件はいくつかあるが、それらを明確な概念として構成し、一定の観点の下で相互に関連づけながら、論理的な首尾一貫性によってまとめ上げて配列したのが犯罪論の体系である。そして、通説的見解によれば、犯罪とは「構成要件に該当する違法で有責な行為」であると定義されている。それ故、犯罪が成立するための基礎となる行為はさておき、犯罪の一般的な成立要件とは、①構成要件該当性、②違法性、③有責性(責任)であり、この順番にそって、分析的・段階的に犯罪の成立を判断する思考の枠組みこそが犯罪論の体系といえる。では、何故このような犯罪論の体系が必要なのであろうか。刑罰という厳しい制裁を予定する刑法は、感情に流されることなく、適正に適用されなければならない。そして、そのためには犯罪の成立を判断する際に、刑法の基本原則にのっとった明確で統一的な指針が刑事司法の運用者(特に裁判官)にとって不可欠となる。つまり、この指針を提供するのが、分析的・論理的な判断を可能とする犯罪論の体系なのである。(p.10)

7 manolo 2014-02-03 23:41:48 [PC]

3-2. 【2. 行為無価値論と結果無価値論】
 違法性の実質をめぐっては、根本的な見解の対立がみられる。一つの考え方は、行為が外部的に実害を生じさせたこと、すなわち、法益を侵害した(または危険にさらした)という結果発生の側面を重視する。実害を生じさせたがゆえに否定的な評価を受けるという意味で結果無価値が認められることが本質的であるとする。このような見解を結果無価値論という。これに対し、もう一つの考え方は、結果の側面を無視するものではないが、行為無価値、すなわち行為そのものの法違反性・反規範性を重視する。この立場を行為無価値性論と呼ぶ。結果無価値論か、それとも行為無価値論かという対立は、犯罪の本質をめぐる根本的な見解の対立である。(p.12)

3-3.
 結果無価値論は、次のことをその論拠としてあげる。刑法は道徳や倫理を強制するために存在するのではなく、法益の保護のために存在する。従って、不適切な行為が行われたとしても(すなわち、行為無価値が認められたとしても)、ただちに違法とすることはできず、現に法益が侵害されるか危険にさらされなければ、違法性を肯定することはできないという。また、法益への侵害・危険が生じたことの判断は明確であるが、行為無価値の評価は不明確であって、そのようなものを重視すれば、責任判断との区別も曖昧なものとなってしまう。これに対し、行為無価値論は、違法判断の内容は結果無価値の評価に尽きるものではないとして反対する。法益侵害結果が発生しさえすれば違法だというのであれば、雷が落ちて建物が壊れても「違法」だということになってしまい、違法評価が加えられる範囲が無限大に拡大されてしまうとする。行為無価値論の主張者の中には、道徳・倫理的評価を刑法的評価から排除できないことを根拠するものもあるが、刑法と道徳・倫理を分離する立場に基づき、*規範論を根拠として。行為無価値論を支持するものもある。(pp.12-13)

*規範論
刑法は、法益保護のために、行動を規制する規範(例えば、「人を殺してはならない」)を国民に向けているのであり、規範の効力を維持することを通じて法益を保護している。規範に反する行為があれば(すなわち行為無価値論が認められれば)法益保護のための規範の効力を維持するために違法性を肯定しなければならない。このような考え方に基づいて行為無価値論が主張される。(p.13)

8 manolo 2014-02-03 23:42:45 [PC]

3-4. 【3. 結果が分かれるポイント】
 結果無価値論によると、違法性判断は実害が生じたかどうかの判断であるから、行為者の目的や意思とは独立に客観的に行われることとなり、違法判断は行為の客観面の判断ということになる(これに対し、責任は行為の主観面を対象とする判断である)。従って、故意の殺人罪(199条)と過失致死罪(210条、211条)とでは、結果そのものは同一である以上、違法性の程度はまったく同じで、責任の重さが異なるに過ぎないということになる。故意と過失は主観的要素だということになる。(p.13)

3-5.
 また、どちらの見解を採るかにより、未遂犯の諸問題との関係でも、異なった結論が導かれる。例えば、結果無価値論によれば、行為そのものはルール違反の行為であっても、法益の侵害もその現実的危険もまったく生じなかったという場合には違法ではない。例えば、犯人が、ベッドで寝ているAを殺そうとして、ふとんの上から思い切りナイフで刺したところ、偶然Aはトイレに行っていてベッドにおらず無事であったという事例を考えてみよう、結果無価値論によれば、客観的にみて法益侵害の差し迫った危険は発生していないことから、不能犯として殺人未遂罪にはならず、せいぜい殺人予備罪(201条)が成立する。これに対し、行為無価値論によれば、「人を殺すな」という規範に違反する行為そのものは行われている以上、殺人未遂罪が成立する。(p.13)

9 manolo 2014-02-26 22:08:48 [PC]

出典:『よくわかる刑法』、井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(「第1部 I-7 故意概念」)、照沼亮介、pp.34-35

4-1. 【1. 故意とは何か】
 38条1項には、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」と規定されている。この条文は、犯罪の成立には、故意が必要であるということを規定したものである。ここから、故意犯罪の原則が導かれ、過失犯処罰が例外となる。また、法定刑も故意犯と過失犯では大きな開きがある。故意犯が重く処罰される理由は、故意犯は、刑法が保護している法益を意識的に侵害・危殆化している点で、過失犯よりも重い評価が与えられるところにある。つまり、行為者は、まさにその法益侵害結果を実現しようとしていたのであり、行為者の違法評価が重くなるからである(ただし、*故意の体系的地位に注意)。(p.34)

*故意の体系的地位
故意が体系上どこに位置するのかが問題となっており、通説は、違法(及び責任)にあるとしている(行為無価値論)。本文の説明は、故意を違法要素と解した場合である。それに対し、有力な見解は、故意は違法にはなく、もっぱら責任要素と解している(結果無価値論)。(p.34)

4-2. 【2. 認識の対象】
 犯罪の成立には故意が必要であるならば、その故意の内容(行為者の認識内容)が問題となる。故意犯とは、刑法で禁止(命令)された行為を意識的に行うことであり、そうすると故意犯における行為者の認識の対象は、刑法で禁止されているということ、つまり*客観的に構成要件に該当する事実ということになる。(p.34)

*客観的に構成要件に該当する事実
主観的構成要件要素が故意の対象にならないという点は問題がないだろう。つまり、(主観的構成要件要素である)故意を認識することは不要だからである。(p.34)

10 manolo 2014-02-26 22:13:02 [PC]

4-3.
 しかし、故意とは構成要件該当事実の認識である、としたとしても認識すべき内容が明らかになったとは言えない。確かに殺人罪(199条)のような構成要件では、人の「死」の概念は明確であるから、故意の内容も明確となるが、わいせつ概念のような、いわゆる規範的構成要件要素においては、故意の内容は不明確なままである。わいせつ物領布等罪(175条)を例に挙げると、行為者に故意が認められるには、その物が「わいせつ」であるという意味を認識していることが必要であり、記載されている内容を知らなければ故意を認めることができない。「いやらしい物である」という認識が必要であろう。その一方で、構成要件そのままの認識の必要はない。例えば、文書概念や薬物の正式名称(覚せい剤取締法では覚せい剤を「フェニルアミノプロパン」と規定)のように、法律用語や専門用語で表された構成要件概念を、素人である一般国民が知るということは困難であり、それを完全にあてはめて認識していなければ故意が成立しないとするならば、専門家以外故意犯は不成立ということになってしまい不当である。(p.34)

4-4.
 それ故、条文上の概念を日常的概念へと翻訳する必要が出てくる。この翻訳されたものこそが刑法で禁止している内容(行為規範)なのであり、故意犯に必要な認識の対象となる(「*素人仲間の平行評価」)。この認識を、特に**意味の認識と呼び、これが故意にとって決定的に重要だということになる。(pp.34-35)

*素人仲間の平行評価
ドイツの刑法学者メツガーの言葉であり、故意の成立には専門家の判断と平行した素人的な認識があれば足りるとするものである。(p.35)

**意味の認識
故意の成立には、刑法が禁止しようとしている行為の意味を認識していなければならない。覚せい剤取締法に規定されている「フェニルアミノプロパン」という認識は当然、故意には不要であり、「覚せい剤」や「シャブ」という認識があれば意味の認識が認められ、故意犯成立となる反面、「フェニルアミノプロパン」という認識があっても、その物質が覚せい剤であるという認識がなければ、その物質の意味することに関し認識が欠けるため、故意犯は不成立となる。(p.35)

11 manolo 2014-02-26 22:17:47 [PC]

4-5. 【3. 故意と過失の限界】
 故意犯の成立に関し、認識すべき対象の他に、行為者がどのように犯罪事実の実現を認識していたかが問題にとなる。つまり、故意犯と過失犯の境はどこにあるのか、ということである。(p.35)

4-6.
 故意を三つに分けることができる。まず一つめが意図であり、これは構成要件の実現を目的として実行する場合である(例えば、人を殺すことを目的にピストルの引き金を引くこと)。次が、*確定的故意であり、構成要件の実現が目的ではないが、その事実の発生が確定的であることを認識して実行する場合である(例えば、保険金を目当てに住居に火を放つ際、中に住む老人が焼死することを確実と認識して放火すること)。最後が、未必の故意であり、結果の発生を意図することもなく、また確定的であると認識してもいない場合(例えば、人の頭上にりんごを置き、少し離れたところからそれを矢で射るのだが、人に当たることを意図していない場合)である。未必の故意を明らかにすることによって、**認識ある過失との限界が明らかになる。(p.35)

*確定的故意
意図を含めて、確定的故意という場合もある。(p.35)

**認識ある過失(p.35)
犯罪事実を認識・予見したが、最終的には犯罪事実を否定した場合。(p.35)

意図  (犯罪実現の意思 大 ⇔ 小)   未必の 認識ある 認識なき
確定的意図(確実性の認識 大 ⇔ 小) 故意  過失     過失
(p.35)

12 manolo 2014-02-26 22:19:39 [PC]

4-7.
 故意と過失を区別するにあたり、大まかに三つの見解が存在する。構成要件実現(結果発生)の蓋然性を認識していた場合には故意が認められるとする蓋然性説(認識説)、構成要件の実現を認容する必要があるという*認容説、構成要件を認識したが、それを、行為を思いとどまる動機とせず実現した場合に故意ありとする**動機説(実現意思説)がある。蓋然性説の難点は、蓋然性が不明確である点や、行為者に意図が存在したが結果発生の確率が非常に低い場合に故意を認めることが困難となる点にある。通説とされ、判例も支持しているとされる認容説に関しては、認容という心理状態は、法益侵害結果に対する「悪い心情」を問題にするものであり心情刑法であって、妥当ではないといった批判や、認容にも幅があり、「かまわない」というような積極的認容から「意に介さない」「無関心」といった消極的認容まで存在し曖昧である、という批判がなされている。有力説である動機説は、統一的に故意を理解することが可能となる点で、つまり、未必の故意論のみならず、意図、確定的故意の場合においても説明可能ある点で優れている。(p.35)

*認容
うけいれるということ。(p.35)

**動機説
ここでいう動機とは「恨み」や「保険金目的」といったいわゆる動機とは異なる。(p.35)

13 manolo 2014-02-26 22:33:43 [PC]

出典:『よくわかる刑法』、井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(「第1部 I-10 過失犯論」)、南由介、pp.40-41

5-1. 【1. 過失犯】
 31条の1項のただし書きは「法律に特別の規定がある場合は、この限りではない」と規定している。この「特別の規定」とは過失犯のことであり、法律上、「過失により」あるいは「注意を怠り」といった文言で規定されている。実際上、罪を犯す意思がなかったとしても、不注意により、見過ごすことのできない重大な結果を発生させたという場合(例えば、過って人を死なせた場合や失火など)は決して少なくない。過失犯とは、このような場合に例外的に処罰しようとするものである(ただし、今日では過失処罰規定は少なくない)。なお、38条1項を素直に読むと、「特別の規定」があれば過失のない行為でも処罰することができるかにみえるが、過失すらない行為に対して非難することは不可能であり、それは責任主義に反することにある(ただし、結果的加重犯)。(p.40)

5-2.
 過失犯の問題は、過失犯にあたる構成要件行為が明文で規定されておらず(不注意とされるような行為は世の中に限りなく存在する)、不明確である点にある。それ故、どのような場合に刑法上の不注意が認められるかが重要となる。(p.40)

5-3.
【2. 注意義務】
 過失犯が成立するためには、注意義務違反(不注意)がなければならない。その不注意義務の内容について、伝統的な考え方によれば、結果予見義務とされてきた。例えば、よそ見をしながら自動車を運転する際、よそ見をすれば人を死傷させるかもしれない、という人の死傷結果を予見する義務が課され、この予見に基づき結果回避のための行動をとらねばならない、ということになる。この注意義務の中心を結果予見義務に求め、予見可能性があれば過失犯が成立するという考え方を、旧過失論*(伝統的過失論)と呼ぶ。なお、この見解における結果の予見可能性については、法益侵害結果(結果無価値)の予見が処罰を基礎づけることから、結果回避へと動機づけるのに十分な、ある程度高度な予見可能性、すなわち、「具体的予見可能性」が要求されることになる。(p.40)

14 manolo 2014-02-26 22:35:21 [PC]

5-4.
 これに対し、わが国では戦後、ドイツの学説の影響を受け、予見可能性という程度の概念では幅が広く不明確であり、予見可能性が認められるならばただちに処罰されることになってしまうのではないか(つまり予見可能性のみでの判断は、可能であっても不可能であったともいえ、限定にならないのではという疑問)、という批判から、注意義務の中心を結果回避義務とする*新過失論が有力に主張されるに至った。この見解によれば、結果の予見可能性あったとしてもただちに過失犯が肯定されるのではなく、一般に要求される行動基準を逸脱した場合に、結果を回避すべき義務に違反したことになり、過失犯の成立が認められる。先の例でいえば、人の死傷の予見のみでは注意義務として足らず、よそ見をして運転するというような行動基準の逸脱があってはじめて、注意義務違反が肯定されるのである。ただし、新過失論は、当初、旧過失論の処罰範囲を限定するものであったが、行動基準の内容の不明確さにより、今では処罰拡大へと動いているという批判がなされている。(pp.40-41)

*新過失論
行動基準(基準行為)から逸脱した行為があれば結果回避義務違反が肯定されるという、「行為」を問題にする見解であることから、新過失論は、行為を違法要素とする行為無価値論に親和的な見解ということができる。それ故、過失は違法要素となり、結果予見義務、結果回避義務は客観的注意義務となる。(p.41)

5-5.
 また、高度経済成長期に、未知の分野における公害や薬害が問題になったという時代背景から、「何か起こるかもしれない」という漠然とした程度の危惧感(予見可能性)があれば足り、この危惧感を払しょくするため何らかの措置がとられなければ結果回避義務違反が肯定されるとする*危惧感説が主張されるに至ったが、処罰範囲が極めて拡大されることから、少数説にとどまっている。(p.41)

*危惧感説
不安感説、新新過失論とも呼ばれる。新過失論と同様に、結果回避義務を注意義務の中心におく見解であるが、新過失論が旧過失論を処罰の限定へと導くものであるのに対し、危惧感説は、抽象的予見可能性があれば結果回避義務を認めることから、処罰を拡大する方向へ導くことになる。(p.41)

15 manolo 2014-02-26 22:37:11 [PC]

5-6.
 なお、いずれの見解からも、結果予見義務、結果回避義務の前提として、結果の予見可能性、結果回避可能性が必要であることはいうまでもない。(p.41)

注意義務をめぐる各学説の相違点

旧過失論……結果予見義務中心 具体的予見可能性 結果無価値論(責任要素)
新過失論……結果回避義務中心 具体的予見可能性 行為無価値論(違法要素)
危惧感説……結果回避義務中心 危惧感(抽象的予見可能性)行為無価値論(違法要素)
(p.41)

5-7.
【3. 信頼の原則】
 自己に落ち度があったが、相手側(被害者)にも不適切な行動があったという場合、行為者にはいかなる評価が下されるべきであろうか。刑法においては*過失相殺という考え方は認められないので、このような場合であっても、行為者の落ち度が刑法上の過失に該当するか否か判断されなければならない。(p.41)

*過失相殺
民法上の概念であり、被害者側にも過失があった場合には、賠償額から被害者側の過失分を減らすことが認められているが(民法418条、722条2項)、刑法上は認められない。(p.41)

16 manolo 2014-02-26 22:38:28 [PC]

5-8.
 そこで考え出された概念が、*「信頼の原則」である。これは、相手側に不適切な行為があった場合に、相手がそのような行為に出てくることを予測し、それにより結果を回避しなければならないとすれば、行為者に対する過大な要求であるから、相手側が適切な行動に出てくることを信頼できるならば、仮に信頼が裏切られたとしても過失責任は負わないとする考え方である。例えば、原付自転車がセンターラインの若干左側で後方の安全確認を十分にせず右折しようとした際、後方から高速度でセンターラインの右側にはみ出して追い越してきたオートバイと接触し、相手側を死亡させた場合(最判昭和42年10月13日刑集21巻8号1097頁)では、行為者には、交通法規に違反して追い越してくる車両を予見し、結果を回避する義務はない、ということになる。(p.41)

*信頼の原則
ただし、この原則は、相手側が老人や幼児であったり、自己の過ちが重大である場合には、もはや相手を信頼できないため、適用されない。また、この原則が適用された場合には、結果予見義務あるいは結果回避義務が否定される。(p.41)
 
1 manolo 2014-01-13 23:18:32 [PC]


208 x 212
『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、(「第1部 I-2 正義論の体系化:アリストテレス」)、戒能通弘、pp.6-7

1-1. 【1. アリストテレスの法思想】
 アリストテレスの法思想を理解するには、彼の人間本性論の理解が必要である。よく知られているように、アリストテレスは、「人間は本性的にポリス的動物(ゾーオン・ポリティコン)である」と述べているが、それは、共同生活そしてポリス(都市国家)で生きることは、人間の本性に基づくという認識による。それ故、アリストテレスの法思想では、ソクラテス・プラトンと同様に、*ノモス(ポリス的法秩序)とピュシス(人間の自然)をソフィストのように対立的の捉え、後者によって、前者を批判、あるいは全否定するのではなく、その統一的な理解が展開されている。(p.6)

*ノモス(ポリス的法秩序)とピュシス(人間の自然)
ノモスは、現代の実定法的法秩序よりは、幅広いものとして捉えられるべきである。それは、ポリスにおいて伝統的に継承されてきたルールであり、現代における実定法のみでなく、道徳、あるいは、習俗をも含み、ポリス構成員の生活全般を規律するものであった。一方、ピュシスとは、人間の自然、本性的なものである。前項目で扱ったソフィストは、ノモスを恣意的なもので、ピュシスに反すると論じていたが、アリストテレスはこれに反論したのであった。(p.6)

13 manolo 2014-02-09 20:09:54 [PC]

(Column)「胎児の利益」
 シンガーの立場の独自性は、彼の人工中絶に関する議論において、最も明白に現われている。

 「今や我々の胎児がどのような存在であるか――胎児が現実にどのような特性をもっているか――を明らかにすることができるとともに、胎児の生命と、我々の種の成員ではないが胎児と同じ特性を持っている存在の生命とを同じ尺度で評価することができる。『生命擁護』運動とか『生きる権利[生命への権利]』運動という名称がまちがって与えられた名称であることは今や明らかである。中絶には抗議はするものの、習慣的に鶏や豚や仔牛を食べている人たちは、すべての生命に対して配慮を払っているとはほど遠く、また、当の生命の性質だけに基づいた公平な配慮の尺度を持っているわけでもない。彼らはただ我々自身の種の成員の生命に偏った配慮を示しているにすぎない。理性、自己意識、感知、自律性、快苦など、道徳的に意味のある特性の公平に比較検討してみれば、仔牛や豚やそれらにははるかに劣るとされる鶏が、どの妊娠時期にある胎児よりも進んでいることが分かるだろう。また、妊娠三ヶ月未満の胎児と比較検討してみれば、魚の方が意識の兆候を多く示すだろう。

 (中略)感覚能力が存在するようになるまでは、中絶は内在的価値[手段的価値に対するそれ自体としての価値]をまったく持たない生存を終わらせることで。」ある(シンガー『実践の倫理[新版]』昭和堂、182-183頁)

 シンガーによれば、胎児が自己意識を有するまでは、中絶は可能である。それまでは功利計算における胎児の利益は非常に小さいものなのであった。(p.107)

14 manolo 2014-02-09 20:13:34 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、5/20/2007(「第2部 III-8 「平等主義的リベラリズム:ロールズの正義論」)、濱真一郎、pp.108-109

5-1. 【1. 「公正としての正義」論と正義原理の正当化】
 実質的正義をめぐる規範的議論は、20世紀に入って以降の価値相対主義的禁欲や*イデオロギー批判によって、沈黙を強いられていた。さらに、英米の規範的倫理学においては、功利主義が支配的地位を占めていた。そうした中、J. ロールズが1971年に著した『正義論』は、規範的議論への関心を再燃させると同時に、功利主義にとって代わる実質的正義の可能性を提示した。彼の正義論は、J.=J. ルソー、J. ロック、I. カントらの社会契約説を現代に再構成した内容を持つ。それは自由かつ平等な契約当事者たちが、社会協働するための公正な基盤を確立するために、公正な手続き条件のもとで正義原理を導出、正当化しようと試みる意味で、**「公正としての正義」論として特徴づけられる。(p.108)

*イデオロギー批判
マルクス主義は、正義の観念を、現代の資本主義的経済関係、階級的支配体制の合理化イデオロギーに過ぎないとみる。(p.108)

**彼が提示する正義原則が規制するのは、「社会の基本構造」に、つまり基本的な政治構造や重要な経済的社会制度に限定される。なお正(=正義)と善とが区別され、前者は社会の基本構造に、後者は個人の生き方に対応する。(p.108)

5-2. 
 ロールズは、正義原理を導出・正当化するために、仮説的な原初状態を想定する。この原初状態は、無知のヴェールという目隠しに覆われており、人々は自分の年齢、性、地位、財産、能力などを知らされていないため、自分の地位だけに有利な合意を求めない。または、人々は妬みなどにとらわれず、自己の状況の合理的な改善だけを合理的に求めるように設定されている。そうした状況下で、最も賢明なのは、自分が最も不利な層の人間である場合を想定し、そういった層に救いの手がさしのべられる正義原理に合意することである。すなわち、人々は最悪の場合を回避しようとする合理的な保守的戦略であるマキシンミン・ルールに従って、正義原理を選択することになる。(p.108)

15 manolo 2014-02-09 20:15:21 [PC]

5-3.
 なお、原初状態において合意が得られた正義原理と、人々の直感的な道徳批判との間には、不一致が存在するであろう。この場合、試行錯誤的な自己反省によって、正義原理と道徳判断との相互調整を繰り返しながら、両者が一致する反省的平衡状態が探求されることになる。

*ロールズは後に、「カント的構成主義」を擁護する頃から、カント的な「自由平等な道徳的人格」概念を前提として、原初状態や反省的平衡状態といった観念を用いてなされる正義論の正当化手続きに、修正を加えることになる。(p.108)

5-4.  【2. 正義の二原理】
 ロールズは、以上の正義原理の正当化を手続を経て、正義の二原理を提示する。第一原理:各人は、他の人々の自由と両立する範囲の、できるだけ広範な基本的自由を平等に持つべきである(平等な自由原理)。第二原理:社会的・経済的不平等が認められるのは、次の条件を満たす場合に限られる。①その不平等が、最も不利な状況にある人々の利益の最大化になること(格差原理)。②その不平等が、公正な機会均等という条件のもとで、全員に開かれた地位や職務と結びついたものであること(機会均等原理)。正義の二原理においては、第一原理が第二原理に優先する。さらに、基本的諸事由が、社会・経済的利益の増進のために犠牲にされてはならない(自由の優先ルール)。平等な自由原理(第一原理)は、自由の優先原理を伴って、社会的・経済的利益の増大のために、良心・思想の自由、人身の自由、参政権などの基本的諸な価値や自由を犠牲にする可能性を秘めた*功利主義の欠点が、克服されることになる。(p.109)

*以上のロールズの反功利主義的な立場は、権利基底的(right-based)正義論が台頭するきっかけを作った。この立場は、権利を「政治的切札」とみなすR. ドゥオーキンと、権利を「横からの制約」とみなすR. ノージックに引き継がれる。しかし基本的権利の具体的な内容については、ドゥオーキンはロールズ以上平等主義的な方向に、ノージックはリバタリアニズム的方向に向かう。(p.109)

16 manolo 2014-02-09 20:18:04 [PC]

5-5.
 ロールズの提唱した正義原理のうちで、最も注目を集めたのが格差原理であう。格差原理は、人々の生まれながらの才能は「偶然」の物であるという理由で、個々人の才能などを社会的共同資産と見なす。この理解によって、最も不利な状況にある人々への、国家による基本財の平等な分配に道が開かれる。基本財とは、権利と自由、機会と権力、富や所得、さらに自尊心などである。なお、格差原理は、アメリカで行われた積極的格差是正措置といった、平等主義な社会変革の正当化にも用いることができる。ロールズ自身は、そういった措置について何も語ってない。しかし、かれの格差原理が、彼の正義論以降の平等主義的リベラリズムの先駆をなしたことは間違いない。(p.109)

5-6.
 正義原理の社会的諸制度への適用については、四段階順序の枠組みで説明がなされる。「原初状態」で選択された正義の二原理は、無知のヴェールが少し開かれた「憲法制定会議」において、人々の代表によって、立憲民主制、人権保障制度、法の支配、違憲立法審査制、代表民主主義などの憲法制度へと具体化される(第一原理の適用)。「立法段階」では、機会の公正な均等という条件のもとで、最も不利な立場にいる人々の期待を最大化するための、個別のルールが立法化される(第二原理の適用)。「ルールの適用・遵守段階」では、個別のルールが、裁判官や行政官によって適用され、市民によって遵守される。(p.109)

5-7. 【3. 政治的リベラリズム】
 1980年代以降のロールズは、正義原理を哲学的に基礎づけるのではなく、正義原理を政治的なコンセンサスによって表面的に支えるという、政治リベラリズムの構想を前面に打ち出している。立憲民主主義な政治文化には、互いに対立する宗教的・哲学的・道徳的な包括的諸説が、多元的に存在する。この多元性の事実を重く受け取るならば、正義原理を、特定の包括的教説によって哲学的に基礎づけることはできない。そこで、ロールズは正義原理を、対立する包括的諸教説を擁護する人々の間の、部分的に重なり合うコンセンサスによって支えられる、政治的構想(これは包括的教説と区別される)として教示するのである。(p.109)

17 manolo 2014-02-10 20:49:27 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、4-ミネルヴァ書房、5/20/2007(「第2部 III-7 「功利主義の現代的形態(2):シンガー」)、戒能通弘、pp.104-105(修正版)

4-1. 【1. シンガーの功利主義】
 本項目では、現在最も精力的に活躍している功利主義者、*P. シンガーの功利主義を検討する。シンガーは、彼独特の功利主義の立場から、本書第3部で扱うような現代の諸問題について積極的に発言している。シンガーは、前項目で検討した、直観的レベルと批判的レベルからなるR. ヘアの二層理論を自らの功利主義の基礎理論としている。日常生活では、直観的な規則に従って行為すべきであるが、それらの間に対立が生じた時は、関係する当事者の選好の充足を最大にするものを選択すべしという戦略である。(p.106)

*P. シンガー(Peter Singer, 1946-)
オーストラリア出身の哲学者。オックスフォード大学を卒業後、モナッシュ大学教授を経て、現在は、プリンストン大学教授。シンガーは、オックスフォード大学でヘアに師事したのであるが、理論肌のヘアとは違う実践性に、彼の理論の特徴がある。主著は『実践の倫理[第2版]』(1993年)。

4-2.
 シンガーの特徴は、前項目でも触れたが、功利計算の対象を非常に幅広く設定している点にある。シンガーは、自らの功利主義を「利益の平等主義」と規定し、功利計算においては、利益を有する当事者すべてに配慮せねばならず、より大きな利益にはより大きな配慮が必要であると論じており、国境の壁も取り除かれている。また、利益を有するか否かの基準は、快楽・苦痛を感じる能力(感覚能力)に求められているため、人間のみではなく、動物の利益も考慮されることになる。以下においては、人工妊娠中絶、環境問題、南北問題についてのシンガーの見解を見ることで、現代的諸問題に対する功利主義からの独特のアプローチを検討したい。(p.106)

4-3. 【2. 人工妊娠中絶】
 人工妊娠中絶における主要な争点は、女性の権利と胎児の権利をどのように調停するかという点にある。シンガーの功利主義においても、胎児の利益と妊娠中絶を試みる女性の利益とが、批判的レベルにおいて比較されることになる。その際、*快楽、苦痛といった感覚能力を持つ以前の胎児は、配慮されるべき利益を有していないとされ、妊娠中絶を望む女性の利益が、胎児の未発達な利益にまさるとされている。(p.106)

18 manolo 2014-02-10 20:52:47 [PC]

*シンガーは、重度の障害を持つ新生児の積極的安楽死を肯定していたため、ドイツなどにおいては、激しく非難され、『実践の倫理』をテキストにした講義が中止に追い込まれたこともあった。(p.106)

4-4. 【3. 環境問題】
 シンガーにおいて、環境問題は、動物の権利の観点から論じられている。既述の通り、シンガーは、感覚能力をもつ存在の利益も配慮しなくてはならないと論じていた。それ故、動物を殺すことは、人間を殺すことと同じだけ不正なこととなり、さらに、環境を破壊することは、感覚能力を持つ存在である動物の利益を尊重していない行為であるため、不正な行為となる。先進国の人々が無意味に贅沢な生活を送ることによる利益と、それによって自らが生息する自然を破壊されてしまう動物の利益が天秤にかけられ、後者を尊重すべきであると論じられているのである。(pp.106-107)

4-5. 【4. 南北問題】
 シンガーの功利計算においては、国境を越えた貧しい人々の利益も考慮される。一般的には、海外援助は、慈善、チャリティーの問題として捉えられているが、シンガーの功利主義においては、それは道徳的義務とされている。発展途上国の人々が、死につながるような絶対的な貧困から逃れることから生じる利益と、先進国の人々の贅沢な暮らしから得る利益が比較され、前者を優先すべきだとシンガーは論じているのである。(p.107)

4-6. 【5. 包括的功利主義】
 前項目で述べたように、功利主義には、様々な形態のものが存在するが、シンガーの功利主義の特徴として、それが対象とする範囲の広さと同様、包括的功利主義の立場に立っていることが挙げられる。すななち、J. ベンサムなどとは違い、諸個人の道徳原理の役割もシンガーの功利の原理は果たしているのである。贅沢な生活を捨て、貧困国を援助するなど、自己の利益を捨てることが要求されるが、利益の普遍化は、シンガーによれば、倫理の最小限の要求なのであった。(p.107)

19 manolo 2014-02-10 20:56:18 [PC]

(Column)「胎児の利益」
 シンガーの立場の独自性は、彼の人工中絶に関する議論において、最も明白にあらわれている。

 「今や我々の胎児がどのような存在であるか――胎児が現実にどのような特性を持っているか――を明らかにすることができるとともに、胎児の生命と、我々の種の成員ではないが胎児と同じ特性を持っている存在の生命とを同じ尺度で評価することができる。『生命擁護』運動とか『生きる権利[生命への権利]』運動という名称がまちがって与えられた名称であることは今や明らかである。中絶には抗議はするものの、習慣的に鶏や豚や仔牛を食べている人たちは、すべての生命に対して配慮を払っていると言うにはほど遠く、また、当の生命の性質だけに基づいた公平な配慮の尺度を持っているわけでもない。彼らはただ我々自身の種の成員の生命に偏った配慮を示しているにすぎない。理性、自己意識、感知、自律性、快苦など、道徳的に意味のある特性の公平に比較検討してみれば、仔牛や豚やそれらにははるかに劣るとされる鶏が、どの妊娠時期にある胎児よりも進んでいることが分かるだろう。また、妊娠三ヶ月未満の胎児と比較検討してみれば、魚の方が意識の兆候を多く示すだろう。

 (中略)感覚能力が存在するようになるまでは、中絶は内在的価値[手段的価値に対するそれ自体としての価値]をまったく持たない生存を終わらせることである。」(シンガー『実践の倫理[新版]』昭和堂、182-183頁)

 シンガーによれば、胎児が自己意識を有するまでは、中絶は可能である。それまでは功利計算における胎児の利益は非常に小さいものなのであった。(p.107)

20 manolo 2014-02-10 21:10:50 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、5/20/2007(「第2部 III-8 平等主義的リベラリズム:ロールズの正義論」)、濱真一郎、pp.108-109(修正版)

5-1. 【1. 「公正としての正義」論と正義原理の正当化】
 実質的正義をめぐる規範的議論は、20世紀に入って以降の価値相対主義的禁欲や*イデオロギー批判によって、沈黙を強いられていた。さらに、英米の規範的倫理学においては、功利主義が支配的地位を占めていた。そうした中、J. ロールズが1971年に著した『正義論』は、規範的議論への関心を再燃させると同時に、功利主義にとって代わる実質的正義の可能性を提示した。彼の正義論は、J.=J. ルソー、J. ロック、I. カントらの社会契約説を現代的に再構成した内容を持つ。それは、自由かつ平等な契約当事者たちが社会協働するための公正な基盤を確立するために、公正な手続き条件のもとで正義原理を導出・正当化しようと試みる意味で、**「公正としての正義」論として特徴づけられる。(p.108)

*イデオロギー批判
マルクス主義は、正義の観念を、現存の資本主義的経済関係・階級的支配体制の合理化イデオロギーに過ぎないとみる。(p.108)

**彼が提示する正義原則が規制するのは、「社会の基本構造」に、つまり基本的な政治構造や重要な経済的社会制度に限定される。なお、正(=正義)と善とが区別され、前者は社会の基本構造に、後者は個人の生き方に対応する。(p.108)

5-2. 
 ロールズは、正義原理を導出・正当化するために、仮説的な原初状態を想定する。この原初状態は、無知のヴェールという目隠しに覆われており、人々は自分の年齢、性、地位、財産、能力などを知らされていないため、自分の地位だけに有利な合意を求めない。または、人々は妬みなどにとらわれず、自己の状況の合理的な改善だけを合理的に求めるように設定されている。そうした状況下で、最も賢明なのは、自分が最も不利な層の人間である場合を想定し、そういった層に救いの手がさしのべられる正義原理に合意することである。すなわち、人々は最悪の場合を回避しようとする合理的な保守的戦略であるマキシミン・ルールに従って、正義原理を選択することになる。(p.108)

21 manolo 2014-02-10 21:25:23 [PC]

5-3.
 なお、原初状態において合意が得られた正義原理と、人々の直感的な道徳判断との間には、不一致が存在するであろう。この場合、試行錯誤的な自己反省によって、正義原理と道徳判断との相互調整を繰り返しながら、両者が一致する反省的平衡状態が探求されることになる。(p.108)

*ロールズは後に、「カント的構成主義」を擁護する頃から、カント的な「自由平等な道徳的人格」概念を前提として、原初状態や反省的平衡状態といった観念を用いてなされる正義論の正当化手続きに、修正を加えることになる。(p.108)

5-4.  【2. 正義の二原理】
 ロールズは、以上の正義原理の正当化手続を経て、正義の二原理を提示する。第一原理:各人は、他の人々の自由と両立する範囲の、できるだけ広範な基本的自由を平等にもつべきである(平等な自由原理)。第二原理:社会的・経済的不平等が認められるのは、次の条件を満たす場合に限られる。①その不平等が、最も不利な状況にある人々の利益の最大化になること(格差原理)。②その不平等が、公正な機会均等という条件のもとで、全員に開かれた地位や職務と結びついたものであること(機会均等原理)。正義の二原理においては、第一原理が第二原理に優先する。さらに、基本的諸事由が、社会・経済的利益の増進のために犠牲にされてはならない(自由の優先ルール)。平等な自由原理(第一原理)は、自由の優先原理を伴って、社会的・経済的利益の増大のために、良心・思想の自由、人身の自由、参政権などの基本的な価値や自由を犠牲にする可能性を秘めた*功利主義の欠点が、克服されることになる。(p.109)

*以上のロールズの反功利主義的な立場は、権利基底的(right-based)正義論が台頭するきっかけを作った。この立場は、権利を「政治的切札」とみなす R. ドゥオーキンと、権利を「横からの制約」とみなす R. ノージックに引き継がれる。しかし基本的権利の具体的内容については、ドゥオーキンはロールズ以上平等主義的な方向に、ノージックはリバタリアニズム的方向に向かう。(p.109)

22 manolo 2014-02-10 21:37:14 [PC]

5-5.
 ロールズの提唱した正義原理のうちで、最も注目を集めたのが格差原理である。格差原理は、人々の生まれながらの才能は「偶然」のものであるという理由で、個々人の才能などを社会的共同資産と見なす。この理解によって、最も不利な状況にある人々への、国家による基本財の平等な分配に道が開かれる。基本財とは、権利と自由、機会と権力、富や所得、さらに自尊心などである。なお、格差原理は、アメリカで行われた積極的格差是正措置といった、平等主義な社会変革の正当化にも用いることができる。ロールズ自身は、そういった措置について何も語ってない。しかし、彼の格差原理が、彼の正義論以降の平等主義的リベラリズムの先駆をなしたことは間違いない。(p.109)

5-6.
 正義原理の社会的諸制度への適用については、四段階順序の枠組みで説明がなされる。「原初状態」で選択された正義の二原理は、無知のヴェールが少し開かれた「憲法制定会議」において、人々の代表によって、立憲民主制、人権保障制度、法の支配、違憲立法審査制、代表民主制などの憲法制度へと具体化される(第一原理の適用)。「立法段階」では、機会の公正な均等という条件のもとで、最も不利な立場にいる人々の期待を最大化するための、個別のルールが立法化される(第二原理の適用)。「ルールの適用・遵守段階」では、個別のルールが、裁判官や行政官によって適用され、市民によって遵守される。(p.109)

5-7. 【3. 政治的リベラリズム】
 1980年代以降のロールズは、正義原理を哲学的に基礎づけるのではなく、正義原理を政治的なコンセンサスによって表面的に支えるという、政治リベラリズムの構想を前面に打ち出している。立憲民主主義な政治文化には、互いに対立する宗教的・哲学的・道徳的な包括的諸説が、多元的に存在する。この多元性の事実を重く受け取るならば、正義原理を、特定の包括的教説によって哲学的に基礎づけることはできない。そこで、ロールズは正義原理を、対立する包括的諸教説を擁護する人々の間の、部分的に重なり合うコンセンサスによって支えられる、政治的構想(これは包括的教説と区別される)として提示するのである。(p.109)
 
1 manolo 2014-02-07 23:17:30 [PC]


253 x 199
出典:『よくわかる憲法(第2版)』、工藤達朗編、5/25/2013、ミネルヴァ書房(「第1部 III-2 国民主権」)、奥山亜喜子、pp.18-19

1-1. 【1. 主権の意味】
 日本国憲法は、前文第一段で、「主権が国民に存することを宣言」し、1条で天皇の地位が「主権の存する国民」の総意に基づくと規定している。この「主権」と言う語は、歴史的に形成されてきた概念であり、三つの意味で用いられている。(p.18)

1-2.
 一つは、「国家権力の最高・独立性」という意味である。主権論は、もともとは絶対王政を正当化するための論理であり、君主の権力が国内において他の諸権力、すなわち封建領主に対して優位であること(対内的最高)、そして、ローマ法王、神聖ローマ帝国の対外的権力から独立した権力であること(対外的独立)を説明する概念であった。第二に、立法、司法、行政などを統合する「国家の統治権それ自体」を主権と言う場合がある。絶対王政下においては、「君主」=「国家」と考えられていたため、君主のもつ具体的権力は国家権力そのものであった。第三に、国の政治のあり方を最終的に決定する力であり権威だったのである。(p.18)

2 manolo 2014-02-07 23:21:18 [PC]

1-3.
 このような絶対王政を正当化するための「主権」という言葉は、次第に頭角を現してきた市民たちが君主に対抗し、自分たちの権利を正当化する上で用いられるようになった。特に*第三の意味での主権が、最高独立という性質をもつ最終的な決定権力を国民が持ち、それを正当化する根拠であるという意味の「国家主権」として結実したのである・この「主権」こそ、日本国憲法の前文の1段、1条に現われているものである。(p.18)

*第三の意味での主権
現在では第一の意味の主権は、「国家の主権」を説明する場合に限られ、例えば日本国憲法前文第3段の「自国の主権を維持し」という場合の「主権」はその用例である。また第二の国家権力そのもの、という意味の主権の用例としては、ポツダム宣言8項「日本国憲法ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル小島ニ局限セラレルヘシ」という場合がある。(p.18)

1-4. 【2. 正当性の根拠か、権力的契機か?:「国民」との範囲との関係】
 「国民主権」の権力としての側面に比重をおくのか、それとも正当化根拠としての側面を重視するかで「国民主権」という原理をどのように理解するかについても、見解が分かれる。(p.18)

1-5.
「国民主権」を国家意思の決定権が国民にあるという点を重視する立場(権力的契機説)では、実際の国の政治の最終的な決定を下す「力」が問題となる。この権力を生まれたばかりの子どもも含むすべての人間が行使することは現実的には不可能である。従って、この立場は、「国民」=現実に権力を行使することのできる有権者ととられる見解(有権者主体説)と結びつきやすい。しかしながら、この見解に対しては、全国民を主権を有する国民と有しない国民とに分けられることは民主主義の核心部分に反する、と批判される。また、日本国憲法44条に基づき有権者の資格を法律で定める国会が、主権を有する国民の範囲を決定することになるのは、論理的矛盾であるという批判も妥当する。(pp.18-19)

3 manolo 2014-02-07 23:25:25 [PC]

1-6.
 国民主権を正当性の原理、すなわち権力を正当化する権威が国民にあるという理念とらえる立場(正統性説)は、「権力が国民から発するべきだ」という建前を表しているにすぎず、実際に権力が国民から発しているか否かは問題としない。従って、そこにいう「国民」は現実的に国家機関として活動する必要がないから、「国民」を抽象的な自然人である国民の総体である「全国民」としてとらえる見解(全国民主体説)と結びつきやすい。この見解に対しては、「国民自ら行使することができないことになる、憲法制定権や改正権との関係が説明できない、という批判がある。(p.19)

1-7. 【3. 国民主権と日本国憲法】
 有権者主体説をとりつつ権力的契機説をとると、直接民主制が必然的に要求されrことになるが、いかなる場合にも直接国民が政治にかかわるということは現実的ではない。そこで直接民主制の代替として間接民主制(代表民主制)がとられることになる。その際、代表と国民の間に命令委任関係が要求されることになる。逆に全国民主体説をとりつつ正当説をとると、実際に国民の意思が政治に反映される必要ないため、直接民主制は否定され、代表民主制が導かれるが、その際に制限選挙も許されることになる。これらの考えに対し、国民主権原理には正当性の根拠と権力的契機の側面において主権者は有権者であるととらえる折衷的立場がある。この立場は代表民主主義制度とも直接民主主義とも整合性を保つことができる。日本国憲法が前文第1段で「正当に選挙された代表者を通じて行動し」と代表民主制を前提としていること、そして96条の憲法改正の手続きにおいて、国民投票を要求していることとも相応するので、この説が通説とされている。しかしながら、正統性の側面の「国民(全国民)」と権力契機の側の「国民(有権者)」では同一性が欠けているため、いかにして同一性を擬制するか、という問題が生じる。少なくとも有権者の範囲を拡大し、「国民」を全国民に近づける制度が必要であろう。(p.19)
 
1 manolo 2014-01-29 10:08:56 [PC]


210 x 240
出典:『よくわかる行政学』、村上弘&佐藤満編著、ミネルヴァ書房、(第1部 I-3 「自由主義と小さな政府」)、pp.6-7

1-1. 【1. 近代市民革命】
 近代市民革命とは、17~18世紀にヨーロッパで絶対王政を倒した革命で、その革命の主体となったのは、市民つまり商工業者(資本家、ブルジョア)だった。イギリスのピューリタン(清教徒)革命(1642~49年)、名誉革命(1688年)、そしてフランス革命(1789年)が典型である。また、*アメリカの独立(1776年)も、イギリスによる植民地支配に抵抗した一種の市民革命という側面を持つ。(イギリスから言語や文化を強制されたわけではないが、)経済的な統制や課税と政治的な発言権の欠如への不満が大きかった。(p.6)

*アメリカ側がイギリスとの戦争に勝った一因はフランスの支援だが、支援の経費でフランスの財政危機は深まり、革命の一因になった。(p.6)

9 manolo 2014-01-31 01:01:00 [PC]

出典:『よくわかる行政学』、村上弘&佐藤満編著、ミネルヴァ書房、(第1部 I-6 「福祉国家と行政国家」)、pp.12-13

3-1. 【1. 福祉国家と大きな政府】
 社会への関与と機能そして規模を拡大した20世紀の国家は、「積極国家」、「大きな国家」と呼ばれる。19世紀に見られた、「消極国家」、「小さな政府」の反対概念である。また、多くの場合、国民への社会福祉や教育等のサービス機能が拡大したので、「福祉国家(*welfare state)と呼ばれる。これは、必要最小限の活動でよいとされた19世紀の「夜警国家」からの転換である。(p.12)

*service state(「職能国家」と訳される)はほぼ同じ意味だが、今では英米でもあまり使われない。

3-2.
 福祉国家の構想として有名なのは、イギリスで第二次大戦の最中の1942年に出されたベバリッジ報告(Beveridge Report)である。これは、社会保険を基本とした包括的な福祉制度をつくり、人々に最低限の生活水準を保障することをめざしたもので、その包括性を示す「ゆりかごから墓場まで(from cradle to grave)という標語は、戦後の日本でも有名になった。報告書は世論の支持も高く、1945年に誕生した労働党政権のもとで、具体化されていった。(p.12)

3-3.
 それに先立ち、第一次大戦の敗北後、帝政から議会制に移行したドイツでは、ワイマール憲法(1919年)が、151条で社会的な理念を掲げた。

「経済活動の秩序は、すべての人に人間らしい生存を保障するための公正の原理に対応しなければならない。この限度内で、個人の経済的自由が保障される。(以下略)」

3-4.
 同憲法はさらに社会保険や失業対策を国の責務と定め、実際にも失業保険や公共住宅が整備されたが、世界恐慌とナチスの政権奪取によってワイマール共和国は終焉した。第二次世界大戦後のドイツの憲法(基本法)は、福祉国家とほぼ同じ理念を、社会国家(Sozialstaat[独語])という表現で掲げている(20条、28条)。(p.12)

10 manolo 2014-01-31 01:03:39 [PC]

3-5.
 *日本では第二次世界大戦の後、日本国憲法25条が「生存権」(社会権)を掲げ、次のように定める。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」(p.12)

3-6.
 以上のような流れは、基本的に人権の拡張として説明される。近代市民革命で登場した基本的人権は、個人の思想、言論、学問、信仰、職業選択、所有権などについて国家から侵害されないという「自由権」が中心だった。また同時に「参政権」も掲げられたが、選挙権が実際に多くの市民に拡大されていったのは19世紀後半以降である。そして、20世紀になると、すべての人々が一定の福祉や教育等を国家から保障されるという「社会権」が、メニューに付け加えられるようになったのだ。(pp.12-13)

*ワイマール憲法の社会権に関する規定は日本でも注目されており、戦後の新憲法の検討作業において学者、憲法研究会や社会党から社会権の追加が主張されたとされる。(p.12)


3-7.
 自由権の理念は一般に権力の抑制、つまり小さな政府につながるが、社会権の理念は政府の関与やサービスを要請する。このことは、前節で述べた各種の経済的、社会的な必要性とともに、積極国家や大きな政府を発展させていった。さらに、経済学からの支持もあり、ケインズが、政府は財政支出によって有効需要を創出し、景気循環をコントロールするべきであると説いた。財政学や公共経済学は、政府による「非市場的な資源配分」に注目する学問として発展した。(p.13)

3-8. 【2. 行政国家】
 さて、20世紀の国家は、「行政国家」(administrative state)であるともいわれる。この行政国家という概念は、上の積極的国家や大きな政府とどのような関係になるのだろうか。両者はしばしば重ね合わせて用いられるが、論理的には区別して考えられる。つまり、積極国家や大きな政府は、政府の機能や規模に注目した概念である。これに対して、行政国家は、政府内部での権力の所在を示す概念で、19世紀の「立法国家」とは反対に、行政やその官僚制が立法府に優越するような政治体制をさす。(p.13)

11 manolo 2014-01-31 01:09:45 [PC]

3-9.
 たしかに積極国家は、政治活動で複雑な大規模なものにするから、行政の規模や専門性、規制制限、裁量権が発生し、行政国家につながりやすい。しかし、これは必然ではなく、議会、社会集団、市民、マスコミ等の側も十分な権限と専門能力を持ては、行政の優位を抑えることができるだろう。したがって、行政国家論は、それが現実かどうかは実証的に研究する必要がある。ただし、警告としては有意義だろう。例えば、国や自治体の議員数を減らせば「改革」だという安易な提言は、それによって行政官僚の優位を強めてしまわないか(および多様な民意の反映機能を弱めないか)を、検討してみなければならない。(p.13)

12 manolo 2014-02-03 08:54:18 [PC]

出典:『よくわかる行政学』、村上弘&佐藤満編著、ミネルヴァ書房、(第1部 I-7 「新自由主義と小さな政府論」)pp.14-17

4-1. 【1. 経済的自由主義の復活―政府の失敗】
 大きな政府は、資本主義の社会と経済を改善し安定させたが、1980年代になると弊害も目立つようになる。その背景には、政府活動の膨張への批判や経済停滞、財政赤字などの新たな状況があった。イギリスでは、固有企業や手厚い福祉国家が労働意欲の低下や経済停滞(「英国病」)をもたらしているとして、保守党のサッチャー首相が、小さな政府を目指す民営化、福祉サービスの抑制、労働組合の抑制に取り組んだ。アメリカのレーガン大統領(共和党)も、政府歳出の削減と減税によって経済活性化をはかった。日本でも、経済の低成長で政府財政が悪化した80年代、自民党政権が「行革(行政改革)をスローガンに、政府歳出の抑制、*赤字の国有鉄道等の民営化、政府規制の緩和などを進め、その後も各種の行政改革が継続されている。(p.14)

*1987年、国鉄の民営化により複数のJR株式会社が誕生した。JRは、経営努力とサービス改善の面で成果をあげたが、他方で、赤字ローカル線を切り離して地元の運営に委ねた。また、乗客106人の死者を出した尼崎の脱線事故(2005年)の背景には、職員への厳しい教育と処分、競争による余裕のない列車ダイヤの設定、過度の効率化があった(JR西日本ウェブサイト「福知山線列車事故の反省と今後の取り組みについて」)と言われる。(p.14)

4-2.
 こうした政治方針を、「新自由主義(neo-liberalism)と呼ぶことがある。19世紀の*経済的な自由主義を、一定、復権させようとするためである(批判的な立場からは、この動きは「福祉国家の危機」とも呼ばれる)。新自由主義の根拠づけは、「政府の失敗(government failure)の理論である。政府活動が「市場の失敗」とは別の種類の失敗や欠点を伴う。欠点とは、①財源が保障され市場の競争を欠くことから生じる非効率や、②「レントシーキング」(rent seeking)つまり政治的圧力による資源配分の歪み(例:必要が薄れた政策の継続、政策の過剰供給)などだ。こうした視点からは、政府規模の縮小や市場原理の重視が提唱される。つまり、財政支出で需要増をはかるケインズ主義を批判し、むしろ規制緩和や減税によって企業等の供給側を活性化させ、結果として雇用・税収増につなげるような政策が説かれるのである。(p.14)

13 manolo 2014-02-03 08:56:22 [PC]

*これに対して、今日の「リベラリズム」(liberalism)は、人間の自由や成長を重視する立場で、多様な思想や文化への寛容、すべての人に成長の可能性(=自由)を保障するための平等な福祉・教育等を提唱する。リベラリズムへの批判としては、寛容による社会の混乱、政府支出の膨張などが指摘される。(p.14)

4-3.【2. 大きな政府か小さな政府か】
 前の2節とこの説で述べた「大きな政府」論と「小さな政府」論について、まとめてみよう。おもな論点は、政府と企業の活動はどちらが公平、正確、積極的、あるいは*効率的か、また市民にとって政治的な統制と消費者としての選択のどちらが利用しやすいかという比較、および政府の大小が経済や人々の生活にどう影響するかという検討などである。簡単な議論ではないが、両者の主張の説得力を考えてみてほしい。これは、今日の先進国政治において、中道左派(社会民主主義・リベラル)政党と中道右派(保守)政党との間の重要な争点軸である。(pp.14-15)

*政府よりも民間企業が効率的とされるが、これはムダを省いている面と、人員削減や非正規雇用などで人件費を抑えている面がある。また、政策の質について比べると、例えば、民間の出版が傑作から有害無益なものまで幅広いのに対して、政府出版物には両極端が少ないように思える。(p.15)

4-4.
 注意すべき点をあげると、第1に、経済的な強者と弱者では利害が異なる。自由競争システムは「弱肉強食」を放置し、政府による再配分を縮小するので、強者は利益を増やすが弱者は厳しい状況に追い込まれる。したがって、小さな政府は、特に企業や富裕層から好まれる。企業経営者は、小さな政府が減税や競争を通じて経済活力を高め社会全体を豊かにすると主張するが、同時にそれから得られる自らの利益にも関心があるのではないか。(p.15)

14 manolo 2014-02-03 08:58:59 [PC]

4-5.
 第2に、「極小の政府」や「極大の政府」(ファシズムや社会主義はその典型)は弊害が多いだろう。二者択一でなく中間的な選択肢――適正規模の政府、政府と市場のバランス――がありうる。もちろん、経費を押さえつつ公共サービス等を維持改善できる工夫が見つかれば、それに越したことはないが、「貧すれば鈍する」で限界があるだろう。現代政治では、収斂現象が見られる。自民党(保守)は、資本主義原理に立ちつつも福祉、農業保護、公共事業などの政策を拡大し、幅広い国民の支持を得ようとしてきた。ただし、自民党は近年、小さな政府への傾斜を強め2005年の衆院選郵政民営化の公約に掲げて大勝したが、2007年の参院選は逆に、小さな伊政府による経済的な「格差」拡大を批判した民主党が勝った。世論は振り子のように揺れる。イギリスでは、保守党のサッチャー政権下で当初失業者が上がったが、その後、経済が再生した。1997年に政権に就いた労働党は、医師や教育に対する予算を拡大しつつ、党の伝統的な国有化路線を捨て市場原理をも重視する*「第三の道」に移行してきた。(p.15)

*ただし、軽減税率が設けられることが多い。例えば、イギリスの付加価値税(VAT)は17.5%だが、5%という軽減税率があり、さらに食料品などの生活必需品は非課税である(2008)年現在、ジェトロのウェブサイト等を参照)。(p.15)

4-6.
 第3に、日本の特別な事情、つまり、西欧やカナダとの比較における政府支出の小ささと、税収入の低さをどう考えるか。消費税20%近い西欧諸国では、国民に対して小さな政府を目指すとは言いにくい面があろう。逆に日本では小さな政府(質素な政府サービス)を掲げる以上、消費税引き上げへの抵抗感は消えない。(p.15)

15 manolo 2014-02-03 09:02:19 [PC]

4-7.
 日本が上の条件のもとで取りうる財政の選択肢は、4種類くらいある。

①政府サービスを拡大して西ヨーロッパに近づけ、それを根拠に増税をする。どの政策のために支出を増やすか、税金のムダ使いにならないか、どの税目で増税すべきかが議論になるだろう。
②小さな政府規模を維持し、一定の増税によって、国際発行を減らす。しかし、国民へのサービス改善なしに増税することが、財政赤字の深刻さをアピールするだけで可能だろうか。(ただし、経済成長と一定のインフレを継続させ、税の自然増収を図る方法はありうる。)
③小さな政府の規模を維持し、増税もせず、国債発行または税の自然増収でまかなう。従来の路線で政治的抵抗も少ないが、政府債務の膨張による弊害が懸念される。
④政府規模をさらに縮減し、増税なしに国債発行を減らす、公共サービスはおそらく低下し、国民の不満や社会問題を引き起こすおおそれがある。(pp.15-16)

4-8.【政府の活動と企業の活動の比較】 〔政治的・法的コントロール〕
[政府]
・行政組織内の統制、各種の法律による統制が整備され、正確で公平な活動を図っている。
・長、議会、市民による政治的統制ができる。情報公開請求もできる。
・ただし、違法、不適切な活動の規制が中心で、積極性を促すとは限らない。
・選挙・請願等の政治的コントロールは、迅速・有効に働かないことがある。
[民間企業]
・法律や政府の規制を受ける。
・しかし、企業内部には介入しにくいこともあり、数多くの企業を相手に監督の限界があるので、違法・不適切な活動も起こりうる。(p.16)

16 manolo 2014-02-03 09:03:32 [PC]

4-9.〔市場によるコントロール〕
[政府]
・一般の行政は市場原理や競争から遮断され、費用対効果を軽視し、非効率になりやすい。
・ただし、公企業、独立行政法人等は一定のコントロールを受ける。
[民間企業]
・日常的にコントロールを受け、市場での競争、評価、売り上げ、収益、株価などが指標となる。それは効率と改善、積極性に向けての努力を促す。
・ただし、一部には悪質企業も利益をあげて存立しうる。
・全体としては計画的調整はなされず。過剰な生産・投資や投機が起こりうる。(p.16)

4-10.〔資源の投入〕
[政府]
・政治的判断で公共性の高い分野に税収等の資源を投入でき、サービスを安価、公平に提供できる。
・他方、政治的に注目されなければ需要が増えても政策は伸びない。
・政治的圧力による資源配分の歪みが起こることがある。
・累進課税等で所得再配分ができる。
[民間企業]
・売上が伸びれば資源を投入するので、需要増に対応しやすい。逆に支払い能力のない人へのサービスは軽視される。
・価格は競争により下がるが、利潤確保のために限界もある。ただし、政府の補助を受ければ価格をより下げられる。(p.16)

4-11.〔手続き〕
[政府]
・官僚制と法規・規則による手続きで非効率となりがちである。
・ただし、地方分権により、また公企業、独立行政法人などでは改善しうる。
・市民は権利としてサービスを受け、サービス提供者を一定選択できる。
・しかし、すべての市民向けのサービスなので、多様性には限りがある。
[民間企業]
・企業ごとに意思決定するので、手続きはかなり効率的になる。
・市民は企業(サービス供給者)を自由に選択できる。受益と負担の関係も明確。しかし、支払い能力がなければサービスを受けられない。(p.16)

17 manolo 2014-02-03 09:05:20 [PC]

4-12. 【大きな政府か小さな政府か】 〔理念・スローガン〕
[大きな政府]
・福祉国家
・格差是正、セーフティーネット
・国や自治の公共サービス
・中道左派、社会民主主義
[小さな政府(スリムな政府)]
・市場(競争)原理、「官から民へ」
・活力ある社会、自助、自立
・官僚制の縮小、公務員の削減
・新自由主義(p.17)

4-13. 〔論拠(社会状況)〕
[大きな政府]
・価格是正、所得再配分が必要(格差は競争原理から必ず生ずるので、公平を回復し弱者の人権を守ることは政府の責任である)
・福祉は人権を保障し、社会を安定させる。教育は機会の平等を保障する。
・経済的な格差が拡大し、新旧の社会問題も数多く存在する。
・日本は企業優位の社会になっている。
[小さな政府(スリムな政府)]
・一定の格差は当然かつ公正(格差は個人の努力と怠慢の結果なので、それを認めることこそ公正)。
・能力に応じた教育をすべきだ。
・経験的な豊かさが達成され、以前より政府に頼る必要は薄れている。
・企業こそが日本の活力を作る。
(p.17)

4-14. 〔経済〕
[大きな政府]
・公共事業や必要な雇用(教育、介護サービスなど)などへの政府支出によって需要を創出できる。
・減税は政府財政を悪化させ、また、貯蓄や投機に回るかもしれない。
・政府の規制によって安全性や公正を確保し、また場合によっては新製品やサービスへの需要を創出できる(景観、環境規制など)。
・教育は経済の人的基盤を作る。
[小さな政府(スリムな政府)]
・規制緩和による競争で、商品開発と価格低下が生じ、需要を創出できる。
・減税は、人々の消費や企業の投資につながる。
・民間企業にとって事業を拡大でき、ビジネスチャンスを生む。
・過度の福祉は自立心や勤勉への動機づけになり経済活力を生む
・一定の格差は勤労への動機づけになり経済活力を生む。(p.17)

18 manolo 2014-02-03 09:06:24 [PC]

4-15.〔財政〕
[大きな政府]
・必要な財源は、不要な経費の削減や累進課税等でまかなうべきだ。消費税引き上げもありうる。
・日本の公務員は国際的にみて少ない。議員減は民主主義にとってマイナス。
・日本はすでに歳出において小さな政府だ。
[小さな政府(スリムな政府)]
・累進課税や企業課税は、経済を衰退させる。現状でも国籍を減らすため消費税引き上げが課題になっている。
・公務員や議員が多すぎ、税金のムダ使いがみられる。
・巨大な政府債務を減らすため、さらに小さな政府を目指すべきだ。(p.17)

4-16.〔政府と企業〕
[大きな政府]
・政府と政治システムを一定信頼し、「市場の失敗」を問題にする。
[小さな政府(スリムな政府)]
・企業と市場原理を一定信頼し、「政府の失敗」を問題にする。(p.17)
 
1 manolo 2013-01-17 19:30:19 [PC]

出典『よくわかる憲法』(2006)工藤達郎編、ミネルヴァ書房

1-1. 憲法21条1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定する。表現の自由は19条で保障された思想や信仰などの内心における精神活動を外部に表明させることを可能にするため、とりわけ重要な権利と解されている。(p.62)

1-2. 表現の自由の保障は、思想や信条の表明に限られず、およそすべての表現行為に及び、伝達手段のいかんを問わない。従って、演説・出版の他、音楽・彫刻・写真・演劇・映画や、テレビ・ラジオ・インターネットなどにも保障が及ぶ。また国旗を燃やす行為などのいわゆる「*象徴的表現」も、一種の思想表明行為として保障される。(p.62)

1-3. *表象的表現(symbolic speech)
一定の行動を通じて思想・信条ないし意見・主張を外部に表現する行為。例えば戦争反対の意を主張するための徴兵カードの焼却行為など。(p.62)

1-4. (トマス・エマソンによれば)表現の自由には、四つの価値があるとされる。①自己実現の価値(表現の自由は個人の自己実現〔self-fulfillment〕にとって不可欠)、②真実発見の価値(真実発見のためのプロセス)、③意思形成への参加の価値(社会の構成員が政策形成に参加するために不可欠)、④安定と変化都の均衡への価値(社会の変化に順応し安定した社会を維持するための「安全弁」)。これらの価値は、互いに補完しあい表現の自由を支えているとされる。(p.63)

1-5. しかし、これらの価値のうち、②の価値と④の価値は、①・③の価値に集約される。そのため、表現の自由は、自己実現の価値を基本に置いた自己統治の価値によって支えられている、と理解されている。(p.63)

1-6. なお、①の価値は、表現の自由の個人的価値とされ、③の価値は、「自己統治の価値(self-gvernment)」と呼ばれ、表現の自由の社会的価値とされている。この二つの価値は、表現の自由の「優越的地位」の根拠となる。(p.63)

1-7. なお、②真実発見の価値は、「思想の自由市場」と呼ばれることがある。これは、各人が自己の意見を自由に表明し、競争することによって、真理に到達することができるというものである。アメリカ合衆国最高裁判所のホームズ裁判官の「真理の最良の判定基準は、市場における競争の中で、自らを容認させる思想の力である」という言葉に代表される。(p.63)

2 manolo 2013-01-17 19:42:29 [PC]

1-8.(「思想の自由市場」に対して)真理は究極において勝利する保障はあるかといった原理的疑念とともに、そもそも自由市場というものは事実上存在しているか、むしろマス・メディアの少数者への集中が一層強まり、論説や報道の画一化傾向が強まっているのが術条ではないかという現実的機能面についての疑念がつきまとっていると批判されている。しかし、自由市場の存在なくして、過誤の修正ないし社会的合意の形成の機会や意見の多様性を確保することは不可能であり、自己実現も自己統治も思想の自由市場を前提条件としていることを看過してはならない。(p.63)

3 manolo 2013-01-17 20:00:28 [PC]

【表現の自由と知る自由、知る権利】
1-9. このように表現の自由は、思想・情報等の発表の自由、すなわち発話者の自由として構成されてきたが、表現は、それを受け止める側があって初めて意味をなす。20世紀には、情報技術が急速に発達し、テレビなどの新たな伝達手段の登場により、大量の情報が多くの人に対して発することが可能になったが、いつどのような内容を流すかについては送り手(マス・メディア)により一方的に決定され、マス・メディアにアクセスできない一般市民は、もっぱら情報の「受けて」としての地位が与えられることになった。そこで、表現の自由を実質化するため、情報の受け手側から再構成する必要が生じた。こうした事情の下、表現の自由は、表現の送り手の自由だけではなく、受け手の自由も含むものとして、「知る自由」に加えて「知る権利」が論じられることになった。このうち、「知る権利」は、政府に対し情報の公開を求める権利(表現の自由の社会権的側面)を意味するが、この権利に裁判規範性を持たせるためには、具体的立法が必要であり、21条は抽象的権利を保障するにとどまると解されている。(p.62)

1-10. 知る自由、知る権利
知る自由とは、自由に様々な意見・知識・情報に接し、これを習得する自由を意味する。他方、知る権利は、自由権的な性格にとどまらず、国家に対し情報の公開を求めるという社会権的な性格も有する。そうすることによって、政治的な意思を形成し、民主的な政治過程への参加を確保するという参政権的な特徴も持つところに特徴がある。知る権利は、国家機能の増大により情報が国家に集中する傾向が顕著になったのに対し、受け手の側から再構成した権利であるが、この知る権利の一内容として、アクセス権がある。これは、情報独占傾向にあるマス・メディアに向けられたものであり、「自己の意見の発表の場を提供することを要求する権利(意見広告や反論記事の掲載、紙面・番組への参加」を意味する。(pp.62-63)

4 manolo 2013-01-19 22:17:02 [PC]

1-11 【営利的表現(営利広告)】
営利的表現(営利広告)とは、利益目的または事業目的で製品またはサービスを広告する表現を指す。この種の表現は、はたして憲法21条の表現の自由による保障を受けるのか、それとも、経済活動の自由として22条や29条による保障を受けるのか。最高裁は、営利広告の禁止の合憲性が問題になったあん摩師等法違反事件において、この問題に正面から触れることなく、公共の福祉により憲法21条に違反しないとした(最大判昭和36年2月15日刑集15巻2号347頁)(p.74)

1-12. *あん摩師等法違反事件
あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法7条は、あんま師等がそのまま業務または施術に関して行う広告のまたは施術に関して行う広告の範囲を、同条1号に定める事項(施術者の氏名・住所・業務の種類など)に限定し、施術者の技能・施術方法または経歴に関する事項にわたる広告を禁止する。きゅうの適応症として、神経痛、リューマチ等の病名を記載した広告ビラを配布した行為が同法違反に問われた事件。(p.74)

1-13. (学説)③説は、営利的表現を同様に表現の自由に含めた上で、政治的表現と同様の保障を与える。これに拠れば、営業広告も表現の自由に含まれる以上、その制約に対しては、一般の言論と同じ厳格審査が必要とされる。(p.74)

1-14. *厳格な基準
自由を制限する法律の立法目的が、極めて重大な(已〔や〕むに已まれぬ)利益をもち、かつ規制手段がその目的達成のために必要不可欠である場合に限って、当該法律を合憲とする判断基準。(p.130)

1-15. ③を採る論者であっても、営利的表現が国民の日常生活や生命・健康・財産に直接影響を与えること、広告内容の真実性を客観的に判断しうること、虚偽広告による国民の権利への侵害を容易に認定しうることなどを理由に、虚偽・誇大広告の制限を許容する。この点、非営利的表現について虚偽・誇大広告を理由とした制限が許されないことに鑑みれば、この限りにおいてこの説も、営業的言論と非営業的言論との間の保障の程度差を認めるものと見る見解がある。(p.75)

5 manolo 2013-01-19 22:41:22 [PC]

1-16. 営利広告規制が合憲か否かにつき、前述のあん摩師等違反事件最高裁判決では、患者を吸引しようとするあまり虚偽誇大に流れ一般大衆を惑わす虞〔おそれ〕や、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来する虞を防止するため「国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するためにやむを得ない措置として」合憲だとした。これに対しておくな半官反対意見は、「単に広告が虚偽誇大に流れる恐れがあるからと言って、真実、正当な広告までも一切禁止することは行き過ぎであ」り、「取締り当局の安易な措置によって、正当な表現の自由を制限するものである」とする。つまり、商業活動の生活を有する広告も表現の自由の保障を受けるのであるから、虚偽・誇大広告ばかりでなく、真実・正当な広告まで禁止することは許されず、当該規定は違憲無効だと説く。また、斎藤裁判官反対意見は、広告禁止の趣旨が「一般大衆を惑わす虞」の防止にあるとしても、「広告したというだけれは足りず、さらに、現実に前記のごとき結果を招来する虞のある程度の虚偽・誇大であることを要する」と指摘する。

1-17. ここでの問題点は、広告規制によって、虚偽・誇大な広告だけではなく、正当な広告までもが規制されてもよいかどうかにある。広告規制が、虚偽・誇大広告を超えて、正当な広告も禁止するものであれば、当該規制に合理的根拠を見出すことは困難である。この点、学説では、広告規制が当該業種への参入規制として機能する虞があることから、薬事法距離制限と同様、厳格な合理性の基準を用いるべきだとする見解がある。この見解によれば、虚偽や誇大広告のみを規制するだけでは目的を達し得ないのかどうかが問われることになろう。(p.75)

1-18. *合理性の基準
法律の立法目的が正当であり、規制手段が当該目的と合理的関連性を有するならば、法律を合憲とする判断基準。(p.131)

6 manolo 2014-01-26 11:21:48 [PC]

出典:『よくわかるメディア法』、鈴木秀美&山田健太編著、ミネルヴァ書房、11/30/2012(「II-1 表現の自由の内容」)、毛利透、pp.8-9

2-1. 【1. 憲法21条の条文構造】
 憲法21条は、「①集会、結社及び原論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と定める。本節では、この3つの文の内容について簡単に検討した上で、表現の自由の射程についても触れることにする。(p.8)

2-2.
 まず、第1文において「集会、結社」の自由は表現の自由の一内容として規定されているのかどうかが問題となる。これは、文面上は*「及び」という語の解釈問題であるが、実質的にはむろん、集会・結社の自由を表現の一環として理解すべきかどうかという人権体系論上の問題である。比較憲法論的には集会の自由や結社の自由は表現の自由とは別のカテゴリーとして規定する方が通常であり、また表現は古典的類型としては個人が行うことが規定されるのに対し、集会や結社は多数人の行為であるという点で、かなり異なる現象形態であるともいえる。これらのことを重視すると、「集会、結社」の自由は、当然表現の自由と関連するから21条に規定されたのだとはいえ、一応これとは別の行為類型に対する保障だと考えることになる。(p.8)

*「及び」が「集会、結社」と「言論、出版その他一切の表現の自由」とを結んでいるのだとすると、「集会、結社」の自由は表現の自由とは独立に保障されていることになる。「及び」が「集会、結社」と「言論、出版」を結んでおり、「その他一切」とはそれら双方以外という意味だとすると、「集会、結社」の自由は表現の自由の一環として保障されていることになる。(p.8)

**ドイツ基本法、イタリア憲法、スペイン憲法など。アメリカ合衆国は修正1条で言論・出版の自由を並べて平穏に集会する権利を保障している。フランスで現行憲法の一部とみなされている1789年人権宣言には集会・結社の自由規定がないが、これは旧秩序の諸団体に対する敵視によるものであった。ただし同国でも、1971年の憲法院判決によって、結社の自由が憲法上保障されるとの解釈が定着している。(p.8)

7 manolo 2014-01-26 11:23:28 [PC]

2-3.
 これに対し、集会や結社と表現活動との共通性を重視するなら、「集会、結社」の自由も表現の自由の一環として保障されているという理解も可能である。集会や結社においては多数人の間での表現活動が不可欠であり、また多くの集会や結社は表現活動をより効率的かつ大規模に行うために組織される。逆に、個人の行う表現活動も、他者への精神的働きかけを内容としており、それにより他者とのつながりを得ようとする行為であるといえる、実際にも、ある内容の表現活動に説得力を見出す人々が集えば、それは集会や結社となる。だとすると、それらは人々の連帯を求め発現する行為としてひとくくりにすることが、でき、憲法はまさにこの点に着目してそれらの活動を広義の「表現」と性格づけたのではないかと考えることができる。(p.8)

2-4.
 この条文解釈の相違は、通常の株式会社などの表現活動を目的としない結社を21条の保障の範囲に含めるべきかどうかといった問題において異なる帰結を導きうる。ただし、仮に結社一般が保障されるとしても、本条が与える保障の程度は、表現活動目的の結社とそうでない結社で大きく変わってくると考えるべきであろう。(p.8)

2-5.
 第2文は検閲の禁止を定める。第3文は通信の秘密を保障する。表現はある事柄を公に表明する行為であるから、その保障と通信が公にされないことの保障とがどのような関係にあるのか、が問題となる。通信の秘密はむしろ一種のプライバシー保障であると理解する立場もあるところである。しかし、表現の自由は何を人々の前で公表し、何を公表しないかについての決定権も含むものだと解すべきであろう。公表されないかたちで特定人とコミュニケーションをとることの保障は、個々の人の人格形成にとって非常に重要である。公表を望まないならば沈黙せよと要求することは、個人に対して過度な負担を課すことになる。したがって、公表されないコミュニケーション形態を保障することは、表現しない自由の保障とそれを通じた表現の自由の実質的確保のために不可欠といえる。(p.9)

8 manolo 2014-01-26 11:24:46 [PC]

2-6. 【2. 表現の自由の射程】
 表現とは、事実認識や意見を外部に表明する活動である。典型的にはこの伝達は言語をもって行われるが、それだけでなく絵画や写真、映像、音楽など様々な手段が使用され、それらも保障の対象となる。表現といえるかどうか問題となる限界事例として、これらの媒介手段を用いない行為によって何らかのメッセージを伝えようとする。象徴的言論といわれるものがある。アメリカで問題となった有名な事例では、*徴兵カードや国旗を公衆の面前で焼却する行為が表現の自由によって保護されるかが争われた。表現の媒介手段を限定すべきではないから、この場合も、行為者が何らかの主張を伝えるためにその行為を行っており、周囲の多くの人々にそのことが伝わっている限り、表現の自由で保護される行為の範疇に入ると考えるべきであろう。(p.9)

*アメリカ連邦最高裁は、ベトナム反戦運動の一環としての徴兵カード焼却を表現行為と認めたが、徴兵制度のための付随的制約は許されるとし、行為者の処罰を認めた(U.S. v O’Brien, 391 U.S. 367, 1968)。他方、政権批判の一環として行われた国旗焼却への有罪判決は、それが伝えようとするメッセージをまさに抑圧する内容規制だとされ、違憲と判断された(Texas v. Johnson, 491 U.S. 397、1989)。

2-7.
 表現は行為としては情報のアウトプットであるが、それは当然インプットする受け手の存在を前提にしている。情報が公開されていれば、通常特にそれを受領するための自由を主張する必要はない。しかし、刑事施設に収容されている人のように情報へのアクセスが、国家権力によって限定されている場合には、情報摂取の自由を独立に主張する必要が生ずる。最高裁は、よど号ハイジャック記事抹消事件において、21条などから、情報摂取の自由の一環としての「新聞紙、図書等の閲読の自由」への憲法上の保障を導いている。(p.9)

9 manolo 2014-01-27 06:31:33 [PC]

2-8.
 また、情報をアウトプットするためには、アウトプットされるべき情報を収集することが必要になる。特に民主政治にとっての表現の自由の必要性から考えると、国家権力などにとって一方的に発表される情報だけが情報源となるのでは、その機能を果たせない。そこで、取材の自由を表現の一環として保障すべきだとの考えが強くなっている。こうして、今日では憲法21条は情報収集→伝達→受領という情報流通のすべての段階での自由を保障するものだという理解が広まっている。(p.9)
 
1 manolo 2013-02-23 00:21:14 [PC]


220 x 314
出典: 「よくわかる教育原理」汐見稔幸他編著、ミネルヴァ書房、4/30/2011

1-1. 本書でこれから説明されていく「教育」を簡略に定義すると「先に生まれた世代が後に続く世代に対して、その社会で生きていくのに必要な能力や態度、価値規範などを持続的に形成していく営み」となるでしょう。こうした意味での教育を子供たちが受けることは誰にもいわば自明でしょうし、その必要性を疑う人はあまりいません。ノーマルな学校ではなくフリースクールのようなオルタナティブな学校(*1)に通っていたとしても、教育そのものが不要だという人は少ないと思います。(p.2)

*1 フリースクールやホームスクールなど

1-2. 人間は教育をなぜ必要とするか。マクロな視点で考えると、他の哺乳類や動物と比べて、人間ははるかに複雑な社会をつくり、そのなかで文化・文明を発展させてきたので、後行世代は、必要な規範や文化能力(たとえば言葉を聞き話すようになる、世間のしきたりを理解して担えるようになる、複雑な経済活動を担えるようになる等々)を一通り身につけるのに、かなりの時間と労力がかかるということが最大の理由になるでしょう。そしてそうした力はたいてい自分一人だけでは十全に身につけられず、人の手を借りなければなりません。それが、人が教育を必要とする最も基本的な理由になります。(p.2)

1-3. 実際にはこの教育は、長い間子どもを産んだ親とその周辺の人間によって行われてきました。特に狩りの仕方、家事の手法、農業の技術、祭祀の手順などはていねいに教えられました。しかし、社会が近代化されて、産業も発展すると、教えるべき内容がどんどん高度化、多様化、複雑化し、家庭とその周辺だけではその役は十全には担えなくなります。そこで専門的機関をつくり、教師という教えの専門職を雇って、次世代に、その社会に必要な規範や文化(学問、芸術、技術)を教え獲得させるということがあちこちで始まります。(p.2)

1-4. こうして近代の教育は制度化された学校で行われるようになります。こうした制度化された学校での教育は、無償制で親の教育費負担が軽減されることが多い反面、子どもの意志よりも制度を運用する側の意思を優先させる傾向が強くなることがあって、そのことに由来する問題がしばしば発生します。これが義務教育と言われるものの実態です。(pp.2-3)

2 manolo 2013-02-23 00:36:15 [PC]

1-5. 他方で教育というと、たとえばソクラテスとプラトンのように師弟関係の中で行われる直接的な教え――学びの関係が私たちの頭に浮かびます。道元が弟子にどう教えていたかを描いた弧雲懐奘(こうんえじょう)の『正法眼蔵髄聞記』にも、教え方に悩む道元の姿が読み取れますし、キリスト教の『新約聖書』も、読み方によってはイエスによる弟子の教育の様を再現したものといえるでしょう。ここにも教育の実際の、ある意味純粋な姿があることは疑えません。(p.3)

1-6. つまり、教育には、2つの原理やモデルがあるということです。ひとつは今みた師弟モデルといってよいものです。これは、教えを乞いたい人が師と仰ぐ人にお願いし、許可をもらい弟子になって、師の技術や思想を伝授してもらうというものといってよいでしょう。この場合、被教育者の側に弟子になりたいという意志があること、そして弟子を師が選ぶことが要件になります。教育し、される側の相互の積極的意志が教育成立の前提になっています。(p.3)

1-7. それに対して、先の義務教育がそうであるように、社会や国家が、その社会、国家に必要な人材を養成する必要があると考えて、ある意味強制的に教育を受けさせるという類型があります。そうしないとその社会、国家の担い手が育たないと考えるからです。義務教育(compulsory education)は、明治の初め頃は「強制教育」と訳していました。こちらの方が原意に忠実な訳です。これは教育の社会モデルといってもよいもので、こともの意志よりも、社会、国家の意志の方が重要な契機になります。明治期に強制教育(義務教育)が始まったとき、村人は自分の子どもをなかなか学校にやらなかったので(授業料もとられた)、役人が苦労して生徒集めをしていたという記録がたくさん残っています。(p.3)

3 manolo 2013-02-23 00:46:50 [PC]

1-8. 師弟モデルには、原理に無理があまりありませんが、実際にどう教え育てるべきかということは重要な問題となります。世阿弥の『風姿花伝』は父・観阿弥の教えをまとめた一種の教育論ですが、7歳から稽古を始めよということから始まってスランプの抜け方等までていねいに論じられています。(p.3)

1-9. それに比し社会モデルは、教育を受ける側の意志や同意を前提としていませんので、しばしば困難を抱えます。そのため、戦後教育改革では「義務」を親と社会の義務とし、子供には権利があるという義務教育観念の転換が試みられましたが、制度化された学校の根本矛盾は解消されていません。細かな論点を省くと、この社会モデルに師弟モデルをどう介入させ、社会モデルの質を変容させるかということが、歴史的な課題だといえるかもしれません。学社融合などの新しい学校づくりの試みをそうした視点でみると、意義が鮮明になる可能性があります。(p.3)

4 manolo 2014-01-23 02:05:27 [PC]

出典:『よくわかる教育学原論』、安彦忠彦他編著、ミネルヴァ書房、4/20/2012(「I-1 教育と文化」)、長尾彰夫、pp.6-7

2-1. 【1. 教育と文化の基本的関係】
 教育と文化は深く結びついた関係にあるといえます。というのは、教育という仕事(使命、役割)の中心は、文化を次の若い世代に(*子ども達)に伝えていくことであり、そのことによって人間の社会を維持し、発達させていくことだからです。こうした教育と文化の関係は、常識的にはよく理解されることとなっていますが、少し立ち止まって考えてみると、そこには教育はどうあるべきか、文化とは何かといった大きな問題があるのです。(p.6)

*教育学では「子供」とせずに「子ども」とすることが多い。「供」が「つき従う者」の意があるためである。「子ども」は何歳から何歳までと明確に言えるものではないが、小学生は児童、中学生以上を生徒といっている。(p.6)

2-2. ○生活様式としての文化
 教育の仕事は文化の伝達にあるといった場合、ではその伝達されるべき文化(culture)とはどのようなものなのでしょうか。その問いかけに対する答えの1つは、文化とは生活の仕方(way of life)だということです。人間(人類)は、それぞれの人種や民族、あるいは国家といった固有の集団によって、それぞれ独自の生活の仕方や様式、そして行動パターンや価値観などを歴史的にも、また現在も有しています。そうした固有で独自の生活の仕方、様式を身につけることによって子ども達は、その共同体の一員として行きていくことができます。こうしたことは*社会化ともいわれるのもですが、それもまた広い意味では教育(education)ということができます。(p.6)

*社会化(socialization)
固有の文化をもった特定の共同体社会の一員となっていくことを文化人類学などでは社会化(socialization)あるいは文化化(enculturation)として注目しているが、そこは固有の文化そのものの研究に力点がおかれることになっている。(p.6)

2-3.
 しかしこの社会化としての教育は、親子関係や子ども達がその集団の中に参加していく過程で、非計画的で無意図的な、つまり非定型的な教育としてなされています。しかし現在、私達が教育ということでイメージするのは、学校教育といった、むしろ定型的で制度的な教育の方が多いといえます。(p.6)

5 manolo 2014-01-23 02:08:30 [PC]

2-4. ○蓄積されてきた文化
 文化といった場合、私達はたとえば文化的生活といったように、これまで人間がつくり出してきた科学、技術、学問、芸術などの蓄積されてきた人間的英知に関係するものといったイメージがあります。文化的生活というのは、そうした人間が作り出してきた、英知に支えられ、それを活かした生活ということなのです。人間がその長い歴史の中でつくりだしてきた、科学、技術、学問、芸術などは、まさしく人間が人間として生きていくために、今や欠かすことができない文化となっています。そしてこうして蓄積されてきた文化をしっかりと次の世代を担う子ども達に伝えていくことは、教育が果たすべき重要な社会的機能の1つとなってきているのです。(pp.6-7)

2-5. 【2. 文化の体系と制度的教育】
 科学、技術、学問、芸術などの蓄積されてきた文化は、実は大きな特徴をもっています。それは蓄積されてきた文化は、非常に体系的で系統的なまとまりをもったものとしてあるということなのです。それはたとえば科学といったことを考えればすぐにもわかることでしょう。科学はその発生から発展の過程を通して、1つの体系として積み重ねられてきています。では、そうした科学を子ども達に伝え、理解してもらうためにはどのような教育が必要となるのでしょうか?(p.7)

2-6.
 人間がつくり出してきた科学、技術、学問、芸術といった蓄積された文化は、それらが精緻な体系をもったものとして成立し、発展してきました。だからそうした蓄積された文化を子ども達の中にしっかりと伝えていくためには、意図的に計画された制度的な教育が何よりも必要となってきたのです。(p.7)

2-7. 【3. 文化の伝達と社会の創造】
 教育の中心的な仕事は文化の伝達ということになります。それは文化というものをどう捉えるかにかかわらず、教育と文化の基本的な関係としてあります。しかしその文化の伝達の意味(意義)をされにどう捉えるかについて、教育学の中ではいくつかの考え方が示されてきました。(p.7)

6 manolo 2014-01-23 02:09:51 [PC]

2-8. ○文化教育学(*kulturpadagogik)
 文化の伝達は教育の大切な仕事なのですが、そこでは文化の伝達がなされなければ人間社会が維持され、存続することができないということだけでなく、文化伝達の教育的意味が検討されてきています。その1つである文化教育学では、文化が伝達され学ばれていくことによって、人間の精神がより豊かになり、自分を高め自己形成に役立つと考えられてきました。ドイツを中心としたこうした考えはいささか観念的で抽象的であるとはいえ、教育と文化の関係を人格形成という視点から捉え直そうとするものとなっていました。(p.7)

*シュプランガ-(Spranger, E. :1882-1963)は、文化と教育の関係(文化教育学)に関する哲学的な考察を行い、教育学の基礎を築いた学者としてその名をよく知られている。(p.7)

2-9. ○本質主義(essentialism)と*進歩主義(progressivism)
 教育と文化の伝達の関係について、アメリカでは対立する2つの考え方が見られてきました。その1つである本質主義の考えでは、本質的な価値を有する文化的遺産の伝達こそが学校教育の中心となるべきであり、読み・書き・算といった基礎的な知識の教育が重視されなければならないとしました。他方、進歩主義の考えでは、教育は単なる知識の伝達に止まるべきではない、むしろ教育は子ども達の生活的な経験を中心とすべきであり、そのことによって教育は社会の進歩と創造に役立つべきだとしたのです。(p.7)

*本質主義と進歩主義の2つは、文化内容をどのような教育内容(カリキュラム)として具体化していくかの立場(視点)の違いとなってきたが、デューイ(Dewey, J. :1859-1952)は進歩主義に立つ教育の提唱者としてとくに有名である。(p.7)

7 manolo 2014-01-26 11:28:54 [PC]

出典:『よくわかる教育学原論』、安彦忠彦他編著、ミネルヴァ書房、4/20/2012(「I-2 教育と子供観」)、深谷昌志、pp.8-9

3-1 【1. 教育観の相克】
 日本の場合、教育課程の基準を国が測定するので、教育課程論争が大きく展開されることがあまりありません。しかし、欧米では教育は地方自治に属する事項なので、自治体により教育の姿が異なります。それだけに、教育理念や教育過程をめぐる議論が交わされる状況にあります。(p.8)

3-2.
 アメリカの教育界では、*「本質主義」と「進歩主義」との対立が1世紀以上も続いています。「本質主義者」は教育という営みの本質は基本的な事項をきちんと子供に伝達することだと主張します。それに対し、「進歩主義者」は、本質主義の教育は知識の注入であって、真の教育は子どもの主体的な学習経験を尊重することだと説きます。そうした意味では、両者の対立の根底に子ども観が横たわっています。図式的に説明するなら、進歩主義は子どもの可能性を信頼する性善説を取ります。それに対し、本質主義は幼いうちにきちんと教育することが重要と子ども性悪説的な視点を踏まえているといえなくもありません。(p.8)

*「本質主義」(essentialism)と「進歩主義」(progressivism)
両者の相違は、「基本的な教材の系統的な伝達を目指す教育」と「子どもの経験を重視して子どもの主体的な学習を尊重する教育」との違いといえよう。(p.8)

3-3. 【2. コペルニクス的な転換】
 アメリカの教育が学者のデューイは「学校と社会」(岩波書店、1957年)の中で「これまでの教育の中心は教師で、子どもは教師の周りを取り巻く存在だった。しかし、これからの学校では子どもが中心に位置し、その周りを教師たちが取り巻き、子どもの学習を支える形が望ましい。したがって、教師中心から子ども中心へ教育観のコペルニクス的な転換を図るべきだ」と説きました。こうしたデューイの指摘はシカゴ大学での3年間に及ぶ実験学校での実践を踏まえたものなので、具体的な説得力があり、アメリカの教育に大きな影響を与えました。(p.8)

8 manolo 2014-01-26 11:31:17 [PC]

3-4.
 デューイに象徴される進歩主義の教育では知識の注入を避け、子どもの景観を重視します。子ども自身が経験することを通して学習が成立します。それだけに、子どもにどういう経験を積ませるかというカリキュラム作りが重要になります。といっても、必要とされる経験は地域の状況や子どもの属性などにより異なるので、教育委員会は学習のガイドラインを示すに留めるのです。そして、具体的な学習の展開は学校や教師の学習課程づくりに委ねられることになります。(pp.8-10)

3-5.
 進歩主義の経験に基づいた実践に対し経験を重んじる教育は場当たり的な学習になりやすく、基礎的な学力が身につかないと批判します。そして、学力は系統的な教材の伝達を通して定着すると説きます。(p.9)

3-6. 【3. 大正自由教育】
 日本の教育史の中で、子どもの自主性を尊重する教育実践が見られます。その典型が*大正自由教育でしょう。これまでの学校では子どもの興味や関心と無関係に知識を注入する教育が行われていました。それだけに、子どもの意欲を大事に自由で伸び伸びとした学習を心掛けたいという実践です。(p.9)

*大正自由教育
知識を注入する旧教育に対し、児童中心主義をスローガンに掲げる新教育運動で、一般に時代的な背景を視野に入れて「大正自由教育」と呼ばれる。なお、運動は学校教育の範囲を超えて、鈴木三重吉の「赤い鳥」運動や山本鼎の「自由画教育」などの多方面に及んだ。(p.9)

2-7.
 1920年代は世界的に自由教育の運動が盛んでした。現在の日本の教育に影響を与えてる*モンテッソーリ教育やシュタイナー学校もこの時代にルーツを持ちます。そして、日本では奈良女子高等師範学校や千葉師範学校などの附属小学校のほかに、成城学園や玉川学園などの私立小学校でも子どもの自主性を尊重する運動が展開されました。黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』(講談社、1981年)は大正自由教育の末期、1937(昭和12)年に創設されたトモエ学園に「徹子」が学んだ記録です。同書は、個性的で公立高校になじめない「徹子」が小林宗作校長の温かいまなざしに安堵して学校に適応していく実話です。(p.9)

9 manolo 2014-01-26 11:32:42 [PC]

*モンテッソーリ教育とシュタイナー教育
モンテッソーリはイタリア生まれの医師だが、「教具」と呼ばれる木製玩具を通して子どもの感性を育てる教育を提唱した。モンテッソーリ教育は、日本では幼児教育の指導法と評価されがちだが、「子どもの家」は障害児や貧困層の教育の中から発展してきた教育実践である。また、シュタイナー学校はシュタイナー(Steiner, R.; 1861-1925)の提唱した学校で、オイリュトミーやフォルメンなど、子ども感受性を尊重する実践で知られる。なお、シュタイナー学校は「自由ヴァルドルフ学校連盟」として全国に展開されている教育運動である。(p.9)

3-8. 【4. 「ゆとり教育」と「学力保障」】
 ここ20年来、日本でも「ゆとりの時間」や「総合的学習の時間」などが提唱され、実践に移されてきました。これらの政策の底流に子どもの主体性を尊重したいという思想が感じられます。それに対し、学校の授業には時間的な制約があるのに、「ゆとり教育」に多くの時間を割くと、国語や算数などの基礎的な学力低下を招くとの指摘がなされています。そして、国際的な比較で、日本の学力が相対的に低下したとの資料が提出されたことも手伝って、学力保障の重要性が説かれるようになりました。(p.9)

3-9.
 「子どもの主体性を踏まえた教育」は理念的に望ましいものです。しかし、経験主義の教育を展開するには教育集団の卓越した指導力や豊かな教育環境が求められます。そうした条件を欠くと、這いまわる経験主義といわれる劣悪な教育に陥りやすいのです。それに対し、系統的な学習は整然としてはいますが、子どもの心情と遊離しがちになります。それだけに、「知識や技能の伝達」と「子どもの主体性」をいかに成立させるかは教育の永年の課題となるでしょう。(p.9)
 
1 manolo 2014-01-23 02:36:15 [PC]


144 x 213
『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、5/20/2007、(「第2部 II-4 不道徳な行為は罰せられるべきか」)、菅富美枝、pp.88-89

1-1. 【1. 道徳と刑法】
 これまで、法の多様性、道徳の多様性についてみてきた。法と道徳の関係について考えるにあたっては、どの意味における「法」と、どの意味における「道徳」について問われているのかが注目されなければならない。多様な道徳の中で、法に取り入れられることの多いものは「社会道徳」であるが、すべてではない。道徳が法に取り入れられる場合があるとして、特に注目されるのは刑法における場合である。刑法は背後に強制権力を控えており、そこに取り入られることにより、「道徳」は「遵守しよう」ではなく、「遵守せよ」さもなくば処罰だ」と強制の根拠となる。個人の自由の重要性に目を向けるならば、こうした強制力に担保された「道徳」はできるだけ少ない方がよいということになりそうである。(p.88)

2 manolo 2014-01-23 02:38:40 [PC]

1-2. 【2. 法は不道徳な行為を処罰すべきか:法による道徳の強制の是非】
 社会には、法に規定されているといないにかかわらず、人々が道徳的に問題があると考えたり感じたりする行為がある。中でも、殺人、窃盗、放火など被害者を生み出すような行為については、およそどの社会においても「悪徳、不道徳」であると受けとめられている。そして、これらの行為については、人々のそうした道徳観を後押しするかのように、刑法によって構成要件該当行為(犯罪行為)と規定され、処罰の対象とされている。他方、時代や文化の違いによって、人々の感じ方、・受け止め方が異なる行為もある。例えば、売春や同性愛などの性道徳に関する行為があげられる。売春や同性愛行為は、特にヨーロッパを中心に、長く犯罪行為と扱われてきた。だが、19世紀から20世紀にかけて、社会の変化に伴い、人々の性風俗に関する感覚にも変化が見えはじめる。(p.88)

1-3. ○ウォルフェンドン報告
 厳格な道徳観が雪どけをむかえる中、1957年、英国において、売春や同性愛行為を刑法で規制すべきか否かという問題について、ウォルフェンドン氏を中心とする委員会は、調査に基づいて意見書(ウォルフェンドン報告)を議会に提出した。その基本的立場とは、刑法の目的は「私的でない」道徳の規制であり、「私的な」道徳については処罰の対象とすべきではないというものであった。(p.88)

1-4. ○ハート対デヴリン論争
 ウォルフェンドン報告に対して、厳しい非難を行ったのが、当時の裁判官P.デヴリン卿(1905-92)であった。デヴリン卿は、共通の道徳(公共道徳)こそが社会における絆であり、悪徳、不道徳とみられるものを放っておいては社会が崩壊するとして、それを未然に防ぐべく、法による規制を唱えた。だが、道徳の法的強制を説くデヴリン卿の見解に対して、そのような規制を正当化する理由は不十分であるとして批判を加えたのが、H.L.ハートである。ハートは、「私的な」不道徳の存在を認め、これをもって性急に法の処罰の対象とすることは、道徳問題において多数者専制を甘受しかねず望ましくない、と主張した。ウォルフェンドン報告やハートに見られるような、法の射程範囲を制限しようとする見解は、19世紀における自由主義的伝統を受け継いでいる。こうした彼らの思想的背景にあるのが「危害原則」と呼ばれる考え方である。(p.89)

3 manolo 2014-01-23 02:39:58 [PC]

1-5. 【3. J.S.ミルの危害(防止)原理】
○ミルの「危害原理」
 ミルは、*「文明社会の成員に対し、彼の意思に反して権力を行使し得る場合とは、他人に対する加害の防止を目的とするときのみである」と述べた。これは、一般に「危害原理」と呼ばれ、自由主義の基本的見解を示すものと考えられている。ここでは、「自分自身にのみ関連する生活部分」と「他人に関連する部分」とが区別され、前者については、行為者に自由があり、なにものも干渉すべきでないと考えられている。他方、後者については、**他人に危害を与えそうな場合には苦痛を与えて思いとどまらせることも許され、法の強制になじみやすい部分だと考えられている。(p.89)

*J.S.ミル「自由論」関嘉彦編『ベンサム J.S.ミル(世界の名著49)[第6版]』(早坂忠訳)中央公論社、1995年、224頁参照。

**しかしながら、こうした「私事」「私的な事柄」と「他人に害を及ぼしうる事柄」との線引きは見かけほど容易ではない。

1-6.
○リベラリズムとリーガル・モラリズムとの対立
 リベラリズムにおいて、「害」とは、他人に対する直接的な危害を指し、単に、社会の調和を乱すといった、抽象的で漠然としたものとは区別される。これに対して、先のデヴリン卿にみられたような、不道徳を社会を崩壊させる「害悪」と考え、法による積極的な規制を唱える見解を、リーガル・モラリズムと呼ぶ。両者の違いが最も顕著になるのは、誰かに危害を与えるわけではないが、社会の風紀に大きく抵触すると考えられるような行為が問題となる場合である。先にみた売春、同性愛などの「道徳犯罪」のほか、いわゆる*「*被害者なき犯罪」がこの場合にあたる。これらを処罰する理由として、社会的風土・モラルの維持といった社会的観点から説くのがリーガル・モラリズムであるが、あくまで個人的観点に立って、規制の必要性を説く見解もある。(法的パターナリズム)(p.89)

*被害者なき犯罪
賭博罪について、殺害行為や窃盗行為とは異なり、直接的な被害者は想定しにくい。いわば「勝っても負けても」本人の同意の上だからである。この点について、刑法学において、賭博罪の保護の対象は、「個人的法益」ではなく「社会的法益」であると説明され、その具体的内容については、国民の健全な勤労意欲に対する影響などがあげられる。(p.89)
 
1 manolo 2013-01-18 18:55:52 [PC]

出典:『現代社会とパターナリズム』沢登俊雄編著(1997)、ゆみる出版

1-1.【干渉の理由】
① 他人に危害を及ぼす行為を防ぐためという理由。
危害というのは、人々の生活における実害のことである。刑法でいう、個人的法益(人の生命・身体・財産・名誉)、社会的法益、国家的法益に対する侵害である。社会的法益も国家的法益も、人々の生活上の利益に由来する、あるいは還元できるものだと考えられている。この侵害を防ぐために他者に干渉するという理由は「侵害原理」と呼ばれている。(p.13)

②人々に著しく不快感を与える行為を防ぐためという理由。
侵害原理は、人々の感情を害するという理由によって他者の行為に対する干渉を認めるものではない。しかし他人を侵害する(実害がある)とは言えないにしても、人々に著しい不快感を与えるような行為に対しては、それを防ぐための干渉は許されると考えられる。この理由を「不快原理」と呼んでおこう。不快原理は侵害原理と似ているけれども、人々の感情を害する行為に対するものである点で侵害原理と違っている。侵害原理が実害という基準を設けるのに対して、感情を害するということが基準となっている。(p.14)

③公共の道徳を保持するために干渉するという理由。
社会生活を送る上で互いに公共の道徳を守らなければ生活はできない。だから反道徳的な行いに対しては、いろいろ干渉して、規制する必要があると考えられる。この理由は「モラリズム」と呼ばれている。(p.14)

④公益のためという理由。または、集団的利益のためという理由。(p.14)

⑤干渉される人のために干渉するという理由。
他人を侵害するのではないし、他人に著しい不快を与えるのでもない。公益にも関わらない。不道徳という理由でもない。干渉されるその人のためという理由で干渉する。これはパターナリズムと呼ばれている。(p.14)

2 manolo 2013-01-18 19:26:47 [PC]

1-2. 干渉するのは個人に限られるものではない。国などの公的機関も干渉する。公的機関以外にも私的、社会的組織による干渉もある。また干渉されるのも個人に限られるものではない。家族、地域住民、国民国境を越えた難民、外国の政府も干渉されるものになりえる。また、ここでは「干渉」ということにするが、法令による規制から学校の規則、隣の親切なおばさんのお節介まで、内容・程度はさまざまである。ここでの議論の焦点は「理由」にある。およそ他人に干渉するものと干渉される者がいて、何らかの干渉があるとして、その干渉の「理由」としてパターナリズムが語られるのである。(p.15)

1-3. 干渉の理由について、右にみたように、いろいろと言われているというのは、それが私たちの自由と密接にかかわるからである。自由が不当に侵害されないために干渉の理由は、慎重に検討されなければならない。(p.15)

1-4. 【G. ドゥオーキンによる説明】
ドゥオーキンによれば、パターナリズムとは「もっぱら強制される人の福祉・幸福・必要・利益または価値と関係する理由によって正当化されるような、ある人の行動の自由への干渉」であるとされる。この定義では、干渉は「強制」と捉えられている。干渉の根拠は、その干渉のされる人の「福祉・幸福・必要・利益・価値と関係する理由」と網羅される。干渉される対象は「行動の自由」である。そしてパターナリズムは「正当化される」干渉に限られ、正当化されない干渉はパターナリズムではないとされる。(p.27)

3 manolo 2013-01-18 23:19:32 [PC]

1-5. 【行政によってなされる干渉の例① 座席ベルト】
道路交通法は、自動車運転手に座席ベルトの装着を義務づけている(道路交通法71条の3)。また、自動二輪車の運転手にヘルメットをかぶることを義務付けている(71条の4)。さらに、初心運転者に初心運転者標識の表示を義務づけている(71条の5)。いずれの義務付けも、主に義務づけられている、その人のための規制であるとされている。交通事故に対する人々の関心は高い。道路交通法の規定は、利害関係者も多い。公益といった観点からも論じられることもある。(pp.20-21)

1-6.【その他の例】
法令上、パターナリズムの例と考えられるものをいくつか列挙しておこう。もちろんパターナリズムは、これらに限られるものではない。
・博打を禁じること。
・決闘を禁じること。
・少年指導委員による少年の補導
・年少者について就くことのできる職業や労働時間を規制すること。
・女性について職業や労働時間などについて規制すること。
・妊産婦の就労を制限すること。
・収入の一定割合を退職年金のために強制的に支払わせること。
・金銭貸借の利率の上限を規制すること。
・奴隷契約を無効とすること。
・商品に有害性表示や注意表示を義務付けること。
・販売者に購入者に対して一定の説明を義務付けること。
・事象のおそれのある精神病者の強制入院措置。
(pp.22-23)

4 manolo 2014-01-23 02:15:07 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、5/20/2007、ミネルヴァ書房(「第2部 II-5 法的パターナリズム」)、菅富美枝、pp.90-91

2-1. 【1. 「本人の利益」を知っているのは誰か】
 前項目において、自由主義の基本的見解を示すものとして、J.S. ミルの危害原理に着目した。「その人自身にのみ関連する部分」については干渉すべきでないとする立場は、「何が自己の利益になるか」については自分自身がよくわかっているということを前提としている。しかし、この点に疑問が生じるとき、危害原理は一定の修正を必要とされうる。例えば、賭博の禁止において、社会全体の健全な勤労意欲の喪失に対する危惧感をみることができる。さらに、他の捉え方として、自制心の弱い者が賭け事の深みに落ちるのを未然に救おうとする「親心」をみることができる。国民の生命や健康を守るため、常習性のある麻薬の所持や服用を禁止する規定についても、同様に考えることができよう。ここには、国民を自律能力のない子どもとしても扱う思想が潜んでいる。このような思想を、*パターナリズム(父親的温情主義)と呼ぶ。(p.90)

*パターナリズム(paternalism)
父と子の関係に似た、優者の劣者に対する行動様式をいう。おおむね、優越的立場にある者が自己への服従と引き換えに保護を与える形式を指す。優越的地位にある者が、一人前でない者ために、あれこれ指示、命令をすることを指す意味でも用いられる。もとは社会学の用語。(p.90)

2-2.
 日本社会においては、私的領域における自己決定権の考え方が希薄であるといわれる。個人的な領域においてすら自分で決定することを嫌い、むしろ、日本独特の「お上意識」などから、後見的にアドバイスなり命令を受けることが歓迎されているとさえいわれている。しかしながら、「個人主義」の伝統の強い英米では、自己決定権は人間の自由の根源的なものと考えられており、パターナリズムへの反感は極めて強い。パターナリズムは、「おせっかい」「余計なお世話」「権力的介入」として忌み嫌われているのである。しかし、他方で、「適切な」判断の期待できない状況にある人々のため、例外的に、法が後見的な役割を果たすべきことを主張する見解も有力である。この立場は、一定の範囲・程度におけるパターナリズムの必要性を説く。(p.90)

5 manolo 2014-01-23 02:16:30 [PC]

2-3. 【3. パターナリズムの類型】
 「本人のために」という理由・名目によって、個人の自由に介入・干渉することを正当化するにあたっては、多様な基準が展開されている。被介入者が介入に同意しているか、あるいは「合理的な」状況にあれば承認するはずであることを根拠とする「意思原理」、そして被介入者の、より大きな自由の実現を理由とする「自由最大化」といった基準である。以下、どの範囲・程度におけるパターナリズムであれば、個人の自由を重んじる立場からも正当化されうるのか。パターナリズムを三つの観点から類型化して検討する。(pp.90-91)

2-4. ○「弱い」パターナリズム、「強い」パターナリズム
 本人の意思が自発的に決定されているが、そこから生じる結果が客観的にみて「本人のため」にならないような場合に、本人の意思に介入してその実現を阻むべきだと考えるパターナリズムを「強い」パターナリズムと呼ぶ。これに対して、詐欺や不注意によるなど、本人の意思が任意に決定されたのではない場合に限って介入すべきだと考えるパターナリズムを、「弱い」パターナリズムと呼ぶ。(p.91)

2-5. ○「直接的」パターナリズム、「間接的」パターナリズム
 ヘルメット着用を義務づける法規のように、保護される人と介入を受ける人が同一の場合を「直接的」パターナリズムと呼ぶ。他方、一般に危険だと考えられている特定の薬品を勝手に使用させないために、その薬品の製造や販売自体を規制する場合のように、保護される人(一般国民)と介入を受ける人(薬品の製造者、販売業者)が異なる場合を、「間接的」パターナリズムと呼ぶ。(p.91)

2-6. 「積極的」パターナリズム、「消極的」パターナリズム、
 退職年金の積み立てを義務づけるなど、被介入者の利益を増進させるために介入する場合を、「積極的」パターナリズムと呼ぶ。他方、自殺防止や危険行為(例:冬山登山)の禁止など、本人に対する危害から本人自身を守るために介入する場合を、「消極的」パターナリズムと呼ぶ。(p.91)

6 manolo 2014-01-23 02:17:27 [PC]

2-7. 【3. 現代社会とパターナリズム】
 個人の自由を重んじるならば、個人の「自律」を実現したり補完するために介入の必要が認められる場合であって、かつ、*本人の意思に沿い、本人の自由への制約が最も少ない手段によるパターナリズム的介入のみが、限定的に正当化されると考えるべきであろう。パターナリズムの中には公益的観点による規制と重なり合うものもある(例:喫煙規制について、本人の健康とともに医療費の増大が懸念される場合)。また、現代社会においては、金銭消費貸借契約における利息の制限や、消費者契約法における不当条項規制など、強制以外の方法によって私的自治に干渉する「ソフトな」パターナリズムも注目される。さらに、現代社会において、パターナリズムは、個人と国家の関係みならず、立場に上下関係のある個人と個人(例:医師と患者、介護者と被介護者)や、個人と彼らを取り巻く社会との関係について、改めて問い直す重要なテーマともなっている。(p.91)

*例えば、明治期以来の「禁治産」制度を大きく変更した後、新成年後見制度においては、すでに判断能力を喪失してしまった人々に代わって、誰がどのように意思決定を行うべきかが重要な課題である。本人の意思がもはや不明な段階に達している以上、そこで決定された意思とは、「仮定的同意」とならざるをえない。だが、そのような場合であっても、過干渉や、一般的な見解を押し付ける画一的処理を避けるべく、本人の「真意」を慎重に探ることが求められている。(p.91)
 
1 manolo 2013-10-15 09:55:03 [PC]


222 x 227
出典:『よくわかる刑法』、井田良、4/20/2006、ミネルヴァ書房(2.「刑法の目的と機能」、飯島暢)pp.4-5

1-1. 1. 刑法は何のためにあるのか?:刑法の目的
 刑法の目的は何か? この問いに答える前に、そもそも法の目的を考えてみたい。これは一言でいえば、個々人の行為を法という一定のルールによって規制することによって、社会秩序を維持することに他ならない。そして、法治国家においては、制定法が行為を規制するルールとなり、社会秩序が維持される。刑法も一つの法である限り、やはりその目的は社会秩序の維持である。しかし、民法のような他の法規範と大きく異なり、刑罰という厳しい制裁手段を通じて社会秩序の維持を図るところに刑法の特徴がある。つまり、極めて重大な事態である犯罪に対して、刑罰という厳しい制裁手段で臨み、社会秩序を維持することが刑法に固有の目的なのである。犯罪が発生すると社会は動揺し、人々は安全な社会生活を営めなくなってしまう。刑法は、刑罰を用いて、事前に犯罪を防止し、犯罪が発生してしまった後は、引き起こされた社会的動揺を鎮静化させる役割を果たさなければならない。刑法はこのような社会秩序の維持という目的を達成するために、いくつかの機能を発揮する。(まとめて刑法の社会的機能という)。ここでは、規制的機能、法益保護機能、人権保障機能の三つが刑法の社会的機能として重要である。(p.4)

6 manolo 2013-10-16 12:07:48 [PC]

*特別予防論
特別予防を重視する目的刑論の思想を貫けば、刑罰と保安処分の差異が解消され、一元主義に至ることになる。「保安処分」とは、将来犯罪行為を行う危険性のある者に対して、社会から隔離して保安の目的をはかり、または治療・改善を施すために科される強制措置である。たとえ対象者が責任無能力であっても、その危険性に着目して科し得る点に刑罰との大きな違いがある。(p.7)

2-6. 4. 相対的応報刑論
 刑法の目的とは、法益を保護して社会秩序を維持することである。となると、刑罰の正当化根拠も、応報刑論を主張するように抽象的な正義の要請ではなく、現実の社会における犯罪を防止して、市民の共同生活を守るという法益保護の観点に依拠しなければならない。つまり、目的刑論の立場が合理的であるように思われる。しかし、目的刑論は、犯罪予防効果を重視するあまり、犯罪者に*過度な刑罰を科してしまう危険性を常にはらんでいる。そこで、現在では、刑罰の本質は応報であるが、同時にその目的は犯罪の防止であるとして、応報刑論と目的刑論を組み合わせた**「相対的応報刑論」(統合説)と呼ばれる立場が支配的見解となっている。これによれば、刑罰はあくまで非難可能な犯罪行為とバランスの取れたものでなければならないとして、罪刑均衡性の原則がまず維持され、その範囲内で、一般予防と特別予防の観点が最大限考慮されることになる。(p.7)

*過度な刑罰を科してしまう危険性
たとえば窃盗を繰り返す者に対しては、たった1万円のものを盗んだに過ぎなくても、特別予防の観点を重視して、改善されるまで長期にわたって刑務所に入れておくことが可能となってしまう。また、一般予防の観点を重視すれば、窃盗に対して死刑を科し得ることにすらなってしまうだろう。(p.7)

**相対的応報刑論
相対的応報刑論は、その内部で、「正義としての応報」を基本とする応報刑論と、刑罰はあくまで犯罪予防手段の一つであることに重点をおく抑止型相対的応報刑論の二つに分かれる。応報刑論と目的論のどちらに重点をおいて、両者を結びつけるかの違いである。(p.7)

7 manolo 2014-01-17 12:20:42 [PC]

出典:『よくわかる刑法』、井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(「第1部 序-4 「罪刑法定主義」)、野村和彦、pp.7-8

3-1. 【1. 市民にとっての意義】
 罪刑法定主義とは、犯罪と刑罰は法律によって定めるべきである、という考え方のことをいう(*憲法31条)。刑法は**行為規範(日常生活のルール)であることが、改めて確認されなければならない。刑法は、刑法に違反する行為をしないよう市民に求め、それによって法益の保護を図るのである。そうであるからこそ、刑法によって処罰される範囲と、刑法による規則から自由な範囲とが明確に区別されるよう立法しなければならない。これにとどまらず、刑法の条文を解釈する際にも、行為する時点において、処罰・不処罰の境界が明確になるよう解釈する必要がある。特に、結果論で決めてしまうと、行為時点において処罰不処罰を予測することが不可能になってしまう。(p.8)

*都道府県及び市町村議会も、一定限度で、犯罪と刑罰を条例により定めることができる。地方自治法14条3項参照。(p.8)

**これに対し、刑法に行為規範性を認めることは刑法の倫理化につながるとの見解があり、刑法の裁判規範性のみを認める。学者の間ではこれが主流である。(p.8)

3-2. 【2. 立法機関にとっての意義】
 刑法は、社会の平和を目指し、他方で、国民の行為に対して一定の制約を課す。このため、国民の代表者によって、何を犯罪とし、どの程度の刑罰を科すのかが、合理的に決められる必要がある。それでは、法律という形式で犯罪と刑罰を定めさえすればよいのか。そうではない。(p.8)

8 manolo 2014-01-17 12:23:21 [PC]

3-3.
 第一に、*犯罪と刑罰の内容が、国民にとって明確で、支持しうるものでなければならない。犯罪の中身については、犯罪が、道徳や倫理の強制となっていないかが重要である。確かに犯罪と倫理違反とは重なる部分もあるが、犯罪といえるためには、刑法という強力な手段を行使する必要のある生活利益の侵害がなければならない。刑罰については、①犯罪と刑罰の均衡が取れているか、②**刑罰の種類や程度が明確どうか、に留意しなければならない。この二点をいい加減にすると、刑事司法機関に大幅な裁量を与え、行為者に対して過酷な刑罰を強いることになる。

*明確性の原則、及び刑罰法規適正の原則という。(p.8)

**例えば、ある犯罪について、法定刑を、その上限下限を定めずに、ただ「懲役に処する」としてはならない。絶対的不定期刑は禁止されている。(p.8)

3-4.
 第二に、*過去の事柄を事後の法律により犯罪とし、これに対する刑事責任を追及することは禁止されている(憲法39条前段、刑法6条)。こういう方法を許容すると、国民は不意打ちを食らうことになり、行動の自由が脅かされる。犯罪と刑罰に関する法律は、制定した時点から将来に向けて有効であるとすることにより、犯罪と刑罰が予測でき、行動の自由が保障される。(p.8)

*これを遡及処罰の禁止という。なお、確立した判例が被告人に不利益な方向で変更された場合も問題となる。(p.8)

3-5. 【3. 裁判官にとっての意義】
 裁判官は、刑法に基づいて、刑法を解釈適用して、刑事裁判を行わなければならない。これを刑法の裁判規範性という。わが国の刑法は条文がシンプルなため、結果的に、刑法を解釈する裁量が裁判官に大幅に与えられている。このため、罪刑法定主義の精神から、刑法をどのように解釈するべきかが問題となる。一般に、「*拡張解釈は許され、行為者に不利な**類推解釈は禁ぜられる」という。しかし、実際には様々な問題が生じている。背景には、刑法をかなり柔軟に適用し問題解決を図りたいという思惑があるのかもしれない。しかしそうであっても、裁判官の採った刑法の解釈が、事実上、新しい犯罪を創設するに等しい解釈であるとしたら、もはや司法の役割を越えた解釈というべきであろう。(p.9)

9 manolo 2014-01-17 12:25:05 [PC]

*言葉を、日常使われている意味よりも広げて解釈すること。私たちが理解可能な範囲内においてのみ拡張解釈は許される。このような拡張解釈には枠がある。(p.9)

**ある法規が想定していない事態に対し、「類似性」を根拠に、その法規の準用を許すこと。「類似性」にはあらゆる内容を盛り込むことが可能なため。類推解釈は罪刑法定主義を崩壊させる解釈手法である。(p.9)

3-6. 【4. いわゆる合憲限定解釈の問題】
 合憲限定解釈とは、そのままでは違憲のおそれがある条文の文言を、合憲の範囲まで縮小・限定して解釈することをいう。例えば、*条例で、淫行を禁じ、淫行をした者を罰するとした場合、何が「淫行」なのかは明らかではない。そこで相手を欺いたり、脅したりしてする淫行、相手を自分の性欲の対象としてしかみていないかのような淫行、というように、淫行の概念を限定解釈して、事件に適用することが許されるのかどうかが問題となる。これも、裁判官が、事実上、解釈により新しい犯罪行為を創設したと評価しうる場合は、いかに合憲限定解釈であるとしても、裁判官としての役割を超えた解釈をしたことになろう。(p.9)

*最大判昭和60年10月23日刑集39巻6号413頁。
福岡県青少年保護育成条例10条1項は、「何人も、青少年に対し、淫行またはわいせつの行為をしてはならない」と規定し、違反者に対して、2年以下の罰金を科すとしていた。(p.9)

**(上の)最高裁判決の多数意見によれば、「淫行」とは①青少年を誘惑し、威迫し、欺罔(ぎもう)または困惑させるなどその心身の未成熟に乗じた不当な手段により行う性交または性交類似行為、②青少年を単に自己の性的欲望を満足させるための対象として扱っているとしか認められないような性交または性交類似行為、とした。素人であるわれわれは、「淫行」から①②を果たして読み取ることができるであろうか。(p.9)

10 manolo 2014-01-21 06:49:44 [PC]

(修正)

3-5.

誤:一般に、「*拡張解釈は許され、行為者に不利な**類推解釈は禁ぜられる」という。
正:一般に、「*拡張解釈は許され、行為者に不利な**類推解釈は禁ぜられる」といわれている。


誤:しかし、実際には様々問題が生じている。背景には、刑法をかなり柔軟に適用しし・・・
正:しかし、実際には、様々な問題が生じている。背景には、社会生活の変化によってもたらされた事態に対して、裁判官が、刑法をかなり柔軟に適用し・・・

11 manolo 2014-01-21 06:51:09 [PC]

出典:『よくわかる刑法』、井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(「第1部 VI-2 「軽量理論と刑罰目的」)、照沼亮介、pp.106-107

4-1. 【1. 刑の量定】
 犯罪の成立が認められると、裁判所は被告人に対して法律上認められた範囲において言い渡すべき刑を確定する作業を行う。これを広い意味での刑の量定(量刑)というが、そこではまず、①個々の刑罰法規に定められた一定の範囲を持つ刑(法定刑)について加重・減刑を行って量刑の基礎となる刑(諸断刑)を形成し、次に、②その範囲内で被告人に言い渡す刑(宣告刑)を決定する、という手順が踏まれることになる。①の過程においては、例えば*再犯加重(56条、57条)のような加重事由や、**自首(42条)などの任意減刑自由、心神耗弱(39条2項)などの必要的減軽自由、その他裁判官の裁量に委ねられている***酌量減軽(66条)が考慮され、また、複数の刑罰法規の適用の有無が問題となるような場合には罪数/犯罪競合の判断を行った上で、例えば「半月以上5年以下の懲役のような形で処断刑が形成される。その後、②において、処断刑の範囲内で具体的に被告人に言い渡される刑が決定されることになるが、この②つの過程を狭い意味での「量刑」と称する。②の狭義の量刑判断に際しては、いかなる事実がいかなる観点から考慮されるべきかという問題、すなわち量刑基準の問題が生ずる。ここでは、一方において、個々の被告人の罪責に見合った刑を科すためには可能な限り多様な状況について検討を加えるべきであるが、しかし他方において、同等の重さをもった犯罪を行った者の間で可能な限り不平等を生じさせないようにすべきである、という相反する要請を満たすというきわめて困難な課題が待ち受けているのである。(p.106)

*再犯加重
58条1項は、懲役に処せられた者が、その執行を終わった日又はその執行の免除を得た日から5年以内にさらに罪を犯した場合において、そのものを有期懲役に処するときはときは再犯とすることを規定しており、57条は、再犯の刑はその罪について定めた懲役の長期の2倍以下とすることを規定している。(p.106)

12 manolo 2014-01-21 06:53:26 [PC]

**自首
犯罪事実又は犯人が誰であるかが捜査機関に発覚する前に、犯人自ら捜査機関に対して犯罪事実を申告し、その処分に服する意思を表示すること(42条)。なお、特別の規定について刑の免除事由となることもある(例えば、内乱罪に関して80条参照)。(p.106)

**酌量減軽
裁判所は刑を言い渡すに際して犯罪の上場に酌量すべきものがあるときは、一定の基準(71条、72条)に従って、法定刑より軽い刑の範囲で処断することができる(66条)。(p.106)

4-2. 【2. 量刑基準と刑罰目的の関係】
 行為者にどの程度の刑罰を科すべきか、という問題を考えるのであれば、そのは必然的に「刑罰は何のために課されるのか」という問題に至ることになる。現在では、刑罰はあくまで犯した罪の限度において、責任非難に見合う範囲内で科されるものではあるが、その枠内において、可能な限り一般予防や特別予防の効果についても考慮しようとする考え方(*相対的応報刑論)が主流である。この考え方によれば、純粋な応報の観点からは刑の重さは同等であると思われる場合であっても、個別具体的な予防効果の程度に応じて刑の重さは変わり得ることになる。このような考え方を一応の前提として量刑基準の問題に目を向けるとき、処断刑という一定の範囲を持った「責任刑」の枠内で考慮され得る事情には、おおまかに分けて以下のようなものがあると考えられる。まず第一に、その犯罪結果がどれだけ重大なものであったか、行為の態様がどれだけ悪質なものであったか、いかなる動機から犯罪行為に出たのか、というようなその犯罪の違法性・責任の程度に直接関係してくる事情を挙げることができる。(pp.106-107)

*相対的応報刑論
刑罰の目的を応法の観点から説明する見解(応報刑論)と、逆に予防の観点から説明する見解(目的刑論)を折衷した考え方。(p.106)

13 manolo 2014-01-22 14:46:22 [PC]

出典:『よくわかる刑法』、井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(「第1部 VI-2 「軽量理論と刑罰目的」)、照沼亮介、pp.106-107(修正版)

4-1. 【1. 刑の量定】
 犯罪の成立が認められると、裁判所は被告人に対して法律上認められた範囲において言い渡すべき刑を確定する作業を行う。これを広い意味での刑の量定(量刑)というが、そこではまず、①個々の刑罰法規に定められた一定の範囲を持つ刑(法定刑)について加重・減刑を行って量定の基礎となる刑(処断刑)を形成し、次に、②その範囲内で被告人に言い渡す刑(宣告刑)を決定する、という手順が踏まれることになる。①の過程においては、例えば*再犯加重(56条、57条)のような加重事由や、**自首(42条)などの任意減軽事由、心神耗弱(39条2項)などの必要的減軽事由、その他裁判官の裁量に委ねられている***酌量減軽(66条)が考慮され、また、複数の刑罰法規の適用の有無が問題となるような場合には罪数/犯罪競合の判断を行った上で、例えば「半月以上5年以下の懲役」のような形で処断刑が形成される。その後、②において、処断刑の範囲内で具体的に被告人に言い渡される刑が決定されることになるが、この②の過程を狭い意味での「量刑」と称する。②の狭義の量刑判断に際しては、いかなる事実がいかなる観点から考慮されるべきかという問題、すなわち量刑基準の問題が生ずる。ここでは、一方において、個々の被告人の罪責に見合った刑を科すためには可能な限り多様な状況について検討を加えるべきであるが、しかし他方において、同等の重さをもった犯罪を行った者の間で可能な限り不平等を生じさせないようにすべきである、という相反する要請を満たすというきわめて困難な課題が待ち受けているのである。(p.106)

*再犯加重
56条1項は、懲役に処せられた者が、その執行を終わった日又はその執行の免除を得た日から5年以内に更に罪を犯した場合において、その者を有期懲役に処するときはときは再犯とすることを規定しており、57条は、再犯の刑はその罪について定めた懲役の長期の2倍以下とすることを規定している。(p.106)

14 manolo 2014-01-22 14:50:32 [PC]

**自首
犯罪事実又は犯人が誰であるかが捜査機関に発覚する前に、犯人自ら捜査機関に対して犯罪事実を申告し、その処分に服する意思を表示すること(42条)。なお、特別の規定について刑の免除事由となることもある(例えば、内乱罪に関して80条参照)。(p.106)

**酌量減軽
裁判所は刑を言い渡すに際して犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、一定の基準(71条、72条)に従って、法定刑より軽い刑の範囲で処断することができる(66条)。(p.106)

4-2. 【2. 量刑基準と刑罰目的の関係】
 行為者にどの程度の刑罰を科すべきか、という問題を考えるのであれば、それは必然的に「刑罰は何のために科されるのか」という問題に至ることになる。現在では、刑罰はあくまで犯した罪の限度において、責任非難に見合う範囲内で科されるものではあるが、その枠内において、可能な限り一般予防や特別予防の効果についても考慮しようとする考え方(*相対的応報刑論)が主流である。この考え方によれば、純粋な応報の観点からは刑の重さは同等であると思われる場合であっても、個別具体的な予防効果の程度に応じて刑の重さは変わり得ることになる。このような考え方を一応の前提として量刑基準の問題に目を向けるとき、処断刑という一定の範囲を持った「責任刑」の枠内で考慮され得る事情には、おおまかに分けて以下のようなものがあると考えられる。まず第一に、その犯罪結果がどれだけ重大なものであったか、行為の態様がどれだけ悪質なものであったか、いかなる動機から犯罪行為に出たのか、というようなその犯罪の違法性・責任の程度に直接関係してくる事情を挙げることができる。(pp.106-107)

*相対的応報刑論
刑罰の目的を応報の観点から説明する見解(応報刑論)と、逆に予防の観点から説明する見解(目的刑論)を折衷した考え方。(p.106)

4-3.
 第二に、例えば犯罪がきっかけとなって被害者が自殺したり被害者の家族に様々な悪影響が及んだりした場合には、それらの事実は違法性や責任の程度には直接関係してくるのではないとしても、行為者に対する非難の度合いが具体的にどの程度であるのかを調べるための手掛かりとして位置づけることができるであろう。

15 manolo 2014-01-22 15:23:10 [PC]

4-4.
 第三に、行為者の性格や、前科の有無の経歴、行為者周囲の環境、さらには犯行後に示していた態度、例えば被害者やその家族に対する損害賠償の有無などの諸事情は、本人が再び犯罪行為に出る危険性がどの程度存在するのか(特別予防の必要性の程度)の判断に関わって来るであろうし、社会全体に与えた衝撃や不安の程度という事情については、同種の事案の再発の危険性がどの程度存在するのか(一般予防の必要性の程度)の判断に関わってくるであろう。第四に、行為者本人も大きな怪我を負ったりすでに難しい社会的制裁を受けているというような事情については、責任非難や予防効果とは一応区別された形で、最終的に刑を科すこと自体の必要性をチェックするための事情として位置づけることができる。(p.107)

4-4. 【3.量刑判断における今後の課題】
 従来は、量刑判断はもっぱら裁判官の裁量に委ねられるものと考えられてきた部分があり、その基準を理論的に明確化しようとすれる試みは必ずしも成功してきたとは言い難い。しかし、裁判員制度の導入等に伴い。実務家の直感や経験だけに頼って解決を図ることはもはや不可能となりつつある。例えば被害者の処罰感情が著しく厳しい場合に、それと量刑との関係をいかに考えればよいのかといった問題は、量刑基準の早急な理論化が要請されていることをわれわれに示しているように思われる。(p.107)

【量刑基準の内容】
①量刑判断の基礎となる事情(違法性・責任の程度に直接関係する事情): 例えば、結果の重大性、行為態様の悪質性、動機の悪質性など

②行為責任のおおまかな範囲を判断するための事情: 例えば、被害者やその家族に及ぼした悪影響の度合いなど

③特別予防・一般予防の程度を判断するための事情: 例えば、行為者の性格・経歴・周囲の環境・犯行後の態度、社会に与えた衝撃の程度など

④刑罰を科すこと自体の必要性を判断するための事情: 例えば、行為者自身も負傷している場合や、既に厳しい社会的制裁を受けている場合など(p.107)