total:19552 today:10 yesterday:14

Tokon Debatabank

Ads by Google
[すべてのスレッドを一覧表示]
スレッド名コメント作成者最終投稿
政党9 manolo 2014-01-17 02:38:28 manolo
セクシャル・マイノリティ5 manolo 2013-12-03 06:13:48 manolo
コンプライアンス5 manolo 2013-10-31 17:43:25 manolo
アカウンタビリティ3 manolo 2013-10-09 20:48:28 manolo
同意11 manolo 2013-09-26 00:01:09 manolo
結婚6 manolo 2013-09-23 15:16:18 manolo
スポーツ21 manolo 2013-09-18 20:25:45 manolo
健康と保健行政5 manolo 2013-09-07 03:11:14 manolo
子ども・子どもの権利8 manolo 2013-09-02 23:48:01 manolo
人権の制限7 manolo 2013-09-01 22:36:26 manolo
Ads by Google
1 manolo 2014-01-16 18:01:44 [PC]


276 x 183
出典:『よくわかる憲法(第2版)』、工藤達朗編、5/25/2013、(「第3部 I-2 政党の役割」)、黒川伸一、pp.160-161

1-1. 【1. 政党の役割とその憲法上の地位】
 一般的に、*政党は一定の政治目的のために結成された結社であって、統治過程への参加によってその目的を目指すものと定義できる。現在の多くの民主主義国家では、民意を国政に反映させる上で政党が重要な役割を演じていることは周知の事実である。(p.160)

*政治資金規正法及び政党助成法では、政党は衆議院議員または参議院議員を5人以上有する等の一定の要件を満たした政治団体と定義されている。(p.160)

2 manolo 2014-01-16 18:06:14 [PC]

1-2.
 政党の法的な位置づけに関して、ドイツ連邦共和国基本法21条のように、憲法自身がその組織や運営を規定するものもある。しかし、日本国憲法は政党に関する規定を有していない。もちろん、政党もまた結社の一つであるので、日本国憲法21条1項の結社の自由によって、その結成や運営が保障されていることに異論はない。従って、正当な理由もなしに国家が政党の結成や運営に介入することは許されない。ただ、政党は他の結社と異なり、民意を国政に仲介するべく統治過程に参加するという特殊な役割を担っている。そこで、日本国憲法上、政党をどのように位置づけるべきか問題となる。(p.160)

1-3.
 いわゆる*八幡製鉄政治献金事件において、最高裁判所は、「憲法の定める議会制民主主義は政党を無視して到底その円滑な運営を期待することはできないのであるから、憲法は、政党の存在を当然に予定している」と指摘する。この判例のように、一般的には議員内閣制や政党が事実上果たしている機能を根拠にして、日本国憲法は政党の存在を予定していると考えられる。しかし、他方で、憲法には一見すると政党に敵対すると思われる規定も存在している。例えば、43条1項は、国会議員は「全国民の代表」であって、政党や政党支持者の代表ではないと規定する。また、51条の定める国会議員の**免責特権も、党所属議員の発言や表決を拘束しようとする政党にとって障壁となりうる。確かに、これらの規定は政党の存在を直接否定するものではないが、そのあり方に一定の制約を加えている。そこで、政党に関する個別的な問題を解決する際には、現代の議会制において政党の果たしている機能を前提にしながらも、これらの規定の趣旨をも顧慮することが重要となる。

*八幡製鉄政治献金事件
旧八幡製鉄の代表取締役によってなされた政党への政治献金が、会社の目的の範囲内の行為であるか否かが争われた事件。最高裁判所は会社の人権享有主体性を認め、会社の政治献金もその目的の範囲内であるとしたが、その関連で政党の憲法上の意義に言及している。(最大判昭和45年6月24日民集24巻6号625頁)(p.160)

3 manolo 2014-01-16 18:08:24 [PC]

**免責特権
国会議員に認められた特権の一つ。国会内での自由な討論を確保するために、国家議員によって議院でなされた「演説、討論又は表決について」、院外で民事責任および刑事責任を追及することが禁止される(政治責任が追及されることはあり得る)(p.160)

1-4. 【2. 政治活動に関する諸問題】
 現代の議会制で政党が重要な役割を演じるようになった結果、多くの議員は政党の公認を得て選挙で選出され、政党に所属しながらその職務を遂行していく。しかし、政党は結社の自由によって設立されるのであり、その加入や脱退は自由であって、所属政党の政策を受け入れられなくなった議員は、離党したり、別の政党に所属変更することも自由である。他方で、政党にも結社としての自治が認められるので、政党の政策に反して行動する議員の政治責任を追及することができ、場合によっては当該議員を政党から除名することも許される。もっとも、政党への所属は議員の資格要件ではないので、離党したり、政党から除名されても、議員たる資格を喪失するわけではない。(pp.160-161)

1-5.
 この点に関連して、*比例代表選挙で選出された議員について困難な問題が生じる。比例代表選挙では、当選人は政党が作成した名簿に基づき、政党の得票に応じて決定するから、議員が政党の所属を変更することは許されないようにも考えられる。実際、国会法並びに公職選挙法は、比例代表選挙で選出された議員が選挙戦に戦った相手方の政党に移動することを禁止し、移動した場合には議員の職を失うと規定している(国会法109条の2、公職選挙法99条の2)。このような規定は許されるだろうか。(p.161)

*比例代表選挙
政党の得票数に応じて議席が配分される選挙方法。ひとくちに比例代表選挙といっても、当選人を決定する方法にはいくつかの種類がある。現在、衆議院の比例代表選挙では、当選人が政党の提出する名簿の順位に従って決定される拘束名簿式が、参議院の比例代表選挙ではかような拘束の認められない非拘束名簿式が採用されている(公職選挙法95条の2、同95条の3)(p.161)

4 manolo 2014-01-16 18:10:46 [PC]

1-6.
 この問題について、比例代表選挙で選出された議員は当該政党に所属して初めて全国民の代表と言えることを理由にして、かかる規定の有効性を肯定する見解もある。他方で、どのような選挙方法で選出されたにしても、ひとたび選出されたら議員は全国民の代表になることを理由として、政党の所属を変更あるいは離脱しても議員の身分を失わないという見解も主張されている。確かに、比例代表選挙という方法の特殊性を考慮すれば、そこで選出された議員が全く自由に政党間を移動できることには問題があろう。しかし、議員は全国民の代表であって、選出母体の命令から自由に行動できることを考えれば、選挙時に所属していた政党から選挙戦を戦った相手方の政党へと移動しただけで即座に議席を失うことを正当化するのは、容易でない。(p.161)

1-7.
○党内民主主義の問題
政党は結社の自由に基づいて成立する団体であるから、本来、その内部組織をどのように構成するか、あるいは組織運営を実施するかは当該団体の自由に委ねられている。しかし、同時に政党は国民の意思を国会へ仲介するために、国家権力への参加を目指す公的な存在である以上、その内部組織の構成や運営にあたって党内民主主義を徹底することが要請される。従って、政党は民主的に組織され、民主的に運営されねばならず、恣意的な除名処分などは許されない。最高裁もいわゆる*袴田事件において、政党からの除名処分については適正な手続きにのっとってなされるべきであると指摘している。もっとも、党内民主主義を口実に、結社の自由を侵害するような形で国家が政党の内部問題に介入することは、結社の自由に基づき許されないと考えられる。(p.161)

*袴田事件
某政党の幹部に対してなされた、党を攻撃する表現活動を行ったことを理由とする除名処分の是非が争われた訴訟(最判昭和63年12月20日判時1307号113頁)。(p.161)

5 manolo 2014-01-16 23:49:52 [PC]

出典:『政治学』、川出良枝&谷口将紀編、7/15/2012、(「2. 政党と政党制」)pp.112~122

2-1. 【政党の役割とタイプ】
 政党とは何か。共通の政策的な目的を実現するために、政治権力に参画しようとする団体の総称とまとめることができよう。では、なぜ政党は必要なのか。日本国憲法には政党の規定は一つもない。しかし、現代の代議制民主政治が作動するためには政党の存在は必要不可欠である。政党が果たしている機能としては、次のようなものが挙げられる。(p.112)

2-2.
 まず、何が重要な争点であり、どのような解決策が望ましいのか、その問題を解決できるのは誰か、有権者に情報を提供する政治的社会化機能、有権者から寄せられるさまざまな要求をまとめる利益の集約機能、これらは有権者との関係において政党が果たさなければならない役割である。また、有権者の意思を政治に反映させるために、政党は政治家を育成し、政府を運営しなければならない。政治を担う人材を選抜し、育て上げる政治リーダーの選出機能、政府を運営する政府の形成機能も重要である。(p.112)

2-3.
 政党は、その成り立ちの経緯や社会の変化に対する適応の仕方、国家との関係のありかたなどに応じて、さまざまなタイプに分けることができる。幹部政党と大衆政党は主に成立の経緯に注目した分類である。幹部政党は、地方の名望家(有力者)が代表を議会に送り出したり、自らが議員となったりして、議会内で議員同士が集うことにより成立したタイプの政党とされる。有力者中心の、ゆるやかなつながりを特徴とする。保守主義や自由主義に基づく主張を掲げる政党に多い。(pp.112~113)

2-4.
 それに対して、大衆政党とは、社会主義や宗教など何らかの価値観を実現するための議会外の大衆組織が基礎となり、その組織が議員たちを指導するというタイプの政党である。議会外の組織を図式化すると、ピラミッド型に構成された階層的な組織が底辺では一般党員を包摂し、その頂上からは党指導部が強い指導力を発揮するというイメージである(コラム「寡頭制の鉄則」参照)。典型的には、労働者が主要な支持者となり、社会主義的な主張を掲げる政党に多い。労働者の生活改善や政治要求の実現が最優先課題である。(p.113)

6 manolo 2014-01-17 01:29:34 [PC]

2-5.
 これら2つの類型は主に19世紀以降のヨーロッパ諸国の事例を念頭に置いて考えられたものである。しかし、キルヒハイマーによると、第2次世界大戦後、いわゆる西側諸国では高度経済成長が実現したため、労働者の生活改善を掲げる社会主義や、それに対抗する自由主義といったイデオロギーの魅力が薄れてきた。これまでの政党はイデオロギーを掲げ、特定の有権者の支持を得ることを目標としてきたが、さまざまな階層の有権者を対象として支持を訴えるように変わっていった。このようなタイプの政党を包括政党という。包括政党と有権者との接点は、議会外の大衆組織からマスメディアや利益集団を通じたものへと、重点が移って行った点が特徴である。(p.113)

2-6
 支持政党を持たない人々(無政党派層)の増大に見られるように、政党と有権者のつながりが弱くなる傾向が続いた。そのため、政党は有権者の支持を得る手段として、マスメディアや世論調査への依存を強めるようになった。特に選挙において、宣伝やマーケティングの専門家が大きな役割をはたすようになる。それが選挙プロフェショナル政党である。その反面で、伝統的な政党組織の役割がさらに小さくなり、政党は党員の減少に見舞われている。党費を納める党員の減少は党財政に悪影響を与えるため、党は新たな資金源の確保を迫られる。そこで、政党間で「談合」し、国家財政から政党に対する補助を行うことを決めてしまう。このような政党をカルテル政党と呼ぶ。(pp.113-114)

2-7.
 政党は国家と社会を結ぶ重要な役割を担っている。社会におけるさまざまな利益を政治過程に反映させ、国家権力をコントロールすることが政党の重要な機能であることには変わりない。しかしカルテル政党に見られるように、政党がその役割を果たす上で、社会から国家へと存立基盤を次第に移しつつある傾向がうかがえる。しかし、政党が社会から遊離しすぎると、有権者を代表する力が弱くなり、政党離れと政治不信の昴進を招くであろう。(p.114)

7 manolo 2014-01-17 01:45:58 [PC]

【コラム:寡頭制の鉄則】
20世紀初頭におけるドイツの社会民主党を題材に、ミヘルスが提唱した法則である。社会民主党は政治から閉め出されていた労働者階級の利益を代表しており、政治の民主化を推し進める存在のはずだった。しかし、政党内部の意思決定は、巨大な党組織の頂上に位置する一握りの指導者層に委ねられており、民主的ではないという矛盾をミヘルスは指摘したのである。先述のように、大衆政党は巨大なピラミッド型の組織を議会外に形成し、その組織の指導者層には大きな力が与えられるという特徴がある。大衆政党に限らず、あらゆる組織には寡頭制が生じるという意味で、それが「鉄則」であるミヘルスは主張する。近年、各国の政党では一般政党が党首選びに参加する事例が珍しくなくなった。日本でも自民党の総裁や民主党の代表を選ぶ際、党員による投票を実施する場合が増えている。それは鉄則に対する反証といえるのか、それとも、大衆の支持を背景に力を振るう指導者が誕生し、寡頭制が独裁制に置き代わっただけなのか、慎重な見極めが必要である。(上神貴佳)(p.114)

2-8. 【政党制とは】
 政党と政党との関係にもさまざまなタイプがある。こうした政党同士の関係を政党制と呼ぶ。サルトーリによると、それに含まれる主要な政党の数とこれらの間の競争関係を考慮して、政党制を区別できる。まず、1つの政党が政権を握り続けている場合、それを一党優位政党制と呼ぶ。自民党の長期政権が続いたかつての日本のような事例に当てはまる。このタイプは自由な選挙により、結果として1つの政党が与党であり続けている場合に当てはまり、そもそも複数の政党間の競争を認めてない一党制とは区別される。2つの大きな政党が政権の座をめぐって競争しているような場合、それを二大政党制と呼ぶ。民主党と共和党が大統領のポストや議会の多数派を占めてききたアメリカの事例を想起されたい。(pp.114-115)

8 manolo 2014-01-17 02:06:06 [PC]

2-9.
 突出して大きな政党が存在するわけでなく、いくつかの政党が連立政権を形成するのが常である場合、それは多数党である。この多数党には、穏健的多党制と、分極的多党制の二つがある。前者にはイデオロギー的に極端な立場をとり、政治体制自体の正当性に挑戦するような政党は存在しないため、政党間の競争が求心的で穏健なものになる。それに対して、後者には極端な反体制政党が存在し、その結果、政党間の競争には遠心力が働く。連立政権も不安定にならざるをえない。(p.115)

2-10
 政党制は変容するものである。例えば、イギリスは長らく典型的な二大政党制の国とされてきたが、2010年の政権交代を経て、保守党と自由民主党の連立政権が成立した。一方日本では長年続いた自民党の一党優位政党制から、2009年の民主党への政権交代を経て、二大政党制に変わったのかもしれない。あるいは参議院の多数派を確保するために連立政権の形成が必要となったことを考慮にいれると、穏健な多党制に落ち着きつつあるのかもしれない。(p.115)

2-11.
 さて、それぞれの政党制には固有の政党間競争のパターンがあることを述べた。この点についてはダウンズの空間競争理論を参照しながら、さらに説明する。ダウンズは経済学における企業の空間立地研究を政治学に応用し、有権者の分布と政党間の競争には関係があることを指摘した。まず、政策空間というものを想定する。例えば、政府の経済政策について、最大限の政府介入を認めるべきだという考え方の有権者は最も左に位置し、まったく介入を認めるべきでないという考え方の有権者は最も右に位置する、そして各有権者は自分の政治的立場に最も近い政党に投票するか、近い政党がないと感じると棄権する。政党もまた、有権者からの支持を最大化するために政治的立場を調整するものであるとしよう。(pp.115-116)

2-12.
 左右どちらでもない(=適度の政府の介入を認める)有権者が最も多い場合、政策空間では真中に位置する有権者が最も多い巣峰型の分布となる。従って、もし二大政党制が成立していたならば、各党は真中に限りなく近い立場を取ることが、得票を最大化するために合理的となる。一方、有権者の分布が左右両端に偏っている双峰型の場合、政党はいずれか両端に近い立場を取ることが合理的である。(pp.116-117)

9 manolo 2014-01-17 02:38:28 [PC]

【コラム:政治改革】
政治改革という言葉にはさまざまな意味が含まれている。1990年代における日本の政治改革が言及される場合には、1994年に成立した政治改革関連3法案の内容を参照すればよいであろう。まず、公職選挙法の改正により、かつての中間選挙区制から小選挙区比例代表並立制へと、衆議院の選挙制度が変更された。中間選挙区制下の自民党候補者同士の争いが解消されるため、派閥政治が消滅するだけでなく、政党主体の政策論争が中心となり、カネのかからない選挙が実現することが期待された。また、小選挙区制の導入は分立している野党に結集を迫ることから、自民党に取って代わりうる政党が生まれ、政権交代が実現するとも考えられた。さらに、企業・団体献金を厳しく制限し、政治資金の公開性を高めるために政治資金規正法が改正され、代わりに約300億円の助成金を各党に公布し、政党中心の政治資金の流れを促す政党助成法が導入された。一連の改革の結果、中選挙区時代の候補者本位の政治に変わり、政党・政策本位の政治がかなりの程度実現された。2009年には選挙を通じた政権交代も行われた。他方で、人びとの政治不信は依然解消されたとは言えず、政治とカネをめぐる疑惑も後を絶たない。90年代改革の成果をふまえながら、なお残された課題について粘り強く取り組む必要があろう。(上神貴佳)(p.122)
 
1 manolo 2013-12-03 06:05:00 [PC]


282 x 179
出典:『よくわかるジェンダー・スタディーズ ―人文社会科学から自然科学まで-』、木村涼子他編著、ミネルヴァ書房、3/30/2013、「III-1. セクシュアル・マイノリティ」、pp.186-187

1-1. 【1.セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)とは誰か】
 1960年代の米国で起こったさまざまなマイノリティ(少数者)運動に倣い、社会における多数者の性のありようとは異なる、統計学上の少数者という意味で使われているのが「セクシュアル・マイノリティ」という言葉です。しかし、単に多数者のありようとは異なるというのでは、たとえば小児性愛者なども含まれることになってしまいます。そういった問題を回避するうえでも、また他者からの「名づけ」ではない言葉で自分たちが表現するという意味でも、最近は英語圏を中心に、セクシュアル・マイノリティにかえてLGBTという用語が頻用されています。(p.186)

1-2.
 LGBTは、Lesbian=レズビアン(女性同性愛者)、Gay=ゲイ(男性同性愛者)、Bisexual=バイセクシュアル(両性愛者)、Transsexual/Transgender=トランスセクシュアル/トランスジェンダーの頭文字の集合体であり、この他にも、生物学的・解剖学的レベルで男女に非典型的な特徴を持つひとびとの総称であるインターセクシュアル=Intersexualや、好きになった相手を性的対象とはみなさないひとびとをあらわす*エイセクシュアル=Asexual、自己のアイデンティティとして、LGBTあるいは異性愛者など、既存の分類のカテゴリーがしっくりこない、あるいは明確な自己認知を確立していないひとびとをあらわすクエスチョニング=Questioningの頭文字が追加されることがあります。(p.186)

*人に愛情がもてない、好きになれないひとびととして誤解されることが多い。(p.186)

2 manolo 2013-12-03 06:08:35 [PC]

1-3. 【2. セクシュアル・マイノリティと生きづらさ】
 LGBTはそれぞれが固有の特徴とニーズをもつ不均質な集団ですが、*スティグマ・差別・偏見にさらされやすいという共通点も見られます。たとえば、性別違和を主訴に来院した患者1138名を対象に実施した調査結果として、自殺念慮62.0%、自殺企図10.8%など、自殺関連の高い経験率が報告されていますが、これは男性同性愛者6000名を対象とした調査においても、「自殺を考えたことがある」66%、「自殺未遂の経験がある」14%という、近似した数値が報告くされています。(p.186)

*スティグマとは、個人や社会集団に対して、他者あるいは社会によって押し付けられる負の表象・烙印のことを意味する。(p.186)

1-4.
 また、こうした経験のピークの一つは思春期にあり、学校という人生前半で最も長い時間を過ごす空間が安心・安全な場ではないと指摘されます。たとえば、男性同性愛者の調査においては「学校で仲間はずれにされていると感じたことがある」42.7%、「教室で居心地の悪さを感じたことがある」57.0%、「“ホモ”、“おかま”などの言葉による暴力をうけたことがある」54.5%、「“言葉以外のいじめ”を受けたことがある」45.1%といった結果が報告されており、トランスセクシュアル/トランスジェンダーにおいても高い不登校率が指摘されています。(pp.186-187)

1-5.
 スティグマ・差別・偏見によって社会的資源(予防啓発・検査・治療などの保健医療サービス、ケア、情報など)へのアクセスが阻害され、深刻な健康被害をもたらしていることも知られています。たとえば、「AIDSはウイルスによって引き起こされるが、パンデミックはスティグマによって引き起こされる」とよく言われます。これまで、HIV感染症の世界的流行(パンデミック)について最も深刻な影響を受けてきた集団(most affected population)の一つが男性同性愛者を含む*MSMである事実についても、人権的文脈によってその原因を分析し、対応していくことが求められています。(p.187)

*MSMとは、Men who have sex with menの略称。男性とセックスする男性のことを指す。(p.187)

3 manolo 2013-12-03 06:09:08 [PC]

1-6. 【3. セクシュアル・マイノティと医療・当事者運動】
 かつて同性愛が精神疾患とみなされていたことを代表例として、多数派のありようとは異なる特徴は、それを許容しない社会において、「治療」という名の「修正・矯正」の対象にされることがあります。インターセクシュアルの非典型的な外性器などの特徴も、長く「治療の対象」とされてきました。逆の観点から言えば、トランスジェンダーの求める医療サービスは(ホルモン療法や手術療法)が社会的に認知されるためには、性同一障害や性別違和症といった疾患概念が必要とされています。(p.187)

1-7.
 しかし、当事者運動においては、社会の多数者と異なるものであっても自分たちのありようは疾患/病理/障害でない、治療の対象とすることがスティグマ化されている証拠であり、さらなるスティグマを生み出すことにつながっているとの反論があります。他者(社会)からの名づけである疾患概念ではない、インタ―セクシュアルやトランスジェンダーといった呼称は、こうした当事者運動から生まれたものなのです。(p.187)

4 manolo 2013-12-03 06:12:36 [PC]

出典: 『エコノミスト』、花谷美枝、12/10/2013、(「ダイバーシティ経営 性的少数者に配慮した職場づくりに関心高まる」)p.13

2-1.
 同性愛者など性的マイノリティー(少数派)が働きやすい環境づくりに関心を持つ企業が増え始めている。11月22日、東京・品川区で人事担当者向けなどのセミナー「LGBTと日本の職場、今後と課題」が開かれ、約120人が参加した。LGBTはレズビアン(女性同性愛者)やゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛)、トランスジェンダー(性同一障害)など性的マイノリティーの総称。セミナーではLGBTの当事者が登場し、「職場で性的指向を明かせないと居心地が悪い」「同性愛者をからかう発言に傷ついた」など精神的な負担を抱えていると訴えた。同セミナーは昨年に続き2回目。主催は日本IBMやLGBTを支援する団体などでつくる任意団体のワーク・ウィズ・プライド。

2-2.【隠すことが苦痛】
 電通の2012年の調査では自分がLGBTだと答えた人は5.2%に上る。だが職場では性的指向を隠している人が多い。企業のLGBT対応を支援するNPO虹色ダイバーシティがLGBTの約1000人に行ったアンケートでは、同僚や上司、部下のいずれかにカミングアウト(公表)している人は38.5%にとどまる。また47.7%が職場で「差別的な言動がある」と答えている。差別はなくても居心地の悪さを指摘するLGBTは多い。都内のIT企業に勤める増原裕子さんは4回の転職を経て、現在の職場でレズビアンであることを明かした。以前は性的指向を隠すことにストレスを感じていたが、打ち明けると不利益があるのではと恐れて言い出せなかったという。

2-3.
 就職を控える学生も事情は同じだ。早稲田大学の学生を中心に性的マイノリティを支援するサークル、LGBTユース・ジャパンの代表を務めるレズビアンの学生は、「LGBTは経済的な自立を意識する人が多いので、働きやすさは大事。就職活動で企業のダイバーシティー(多様性)施策をチェックする」と話す。だが就職活動で性的指向を打ち明けることは難しい。来春、電機メーカーに就職予定のバイセクシュアルの女子学生は、内定先企業に性的指向を明かしていない。「学校でオープンに振る舞ってきたが、会社でどうなるか」と不安をもらす。

5 manolo 2013-12-03 06:13:48 [PC]

2-4.
 こうした問題に対して一部の企業は対策に取り組んでいる。日本IBMは04年からダイバーシティー推進にLGBTを加えた。職場環境の改善を議論する委員会を設置したり、相談窓口を設けている。12年からは結婚祝い金の対象を同性カップルや事実婚に拡大。1年間で9組の同性カップルが申請した。「会社が支援する姿勢を示すことで、当事者は不安が和らぎ仕事に集中できる」とダイバーシティー&人事広報担当の梅田惠部長は話す。

2-5.
 ただ、LGBT支援を啓蒙するポスターを「お客様に見られるのは恥ずかしい」と撤去するよう求める声もあるなど、反応はさまざまだ。社内の理解を広げるため、副社長が支援者として情報発信したり、当事者以外の社員向け勉強会を行うなどしている。
 
1 manolo 2013-10-11 01:08:48 [PC]


301 x 167
出典:『よくわかる組織論』、田尾雅夫、4/30/2010、ミネルヴァ書房(「5-I-5. コンプライアンス」、深見真希)pp.192-193

1-1. 1. 法令の遵守
 コンプライアンス(法令遵守)とは、法律や規則に従って活動を展開することを指し、コーポレート・ガバナンス(企業統治)や情報開示などと並んで、組織が会社に対して果たすべき責任であると考えられている。ビジネス・コンプライアンスの場合、企業の社会的責任(CSR)とともに重視されるようになっている。もともとは、1960年代に米国で独占禁止法違反やインサイダー取引などが発生した際に使用されたことに始まるといわれている。(p.192)

1-2.
 法令違反による信頼の失墜が企業活動に影響を与えることから法令遵守が強調されるようになったのであるが、企業の不正防止という観点でいえば、たとえ法律に定めがなくても、あるいは法律を遵守していても不祥事が発生する場合がある。したがって、倫理や規範といったモラルを守ることもコンプライアンスであるという考え方もある。法令違反にせよ、モラル違反にせよ、ひとたび発覚すると不祥事として報道され、損害賠償訴訟などによる法的責任や、信用の失墜による売上上下といった被害を負ったとしても、中長期的には企業イメージの低下は避けられず、その後の活動に大きなダメージを与えることになる。(p.192)

2 manolo 2013-10-11 01:11:50 [PC]

近年日本で起きたコンプライアンス違反の事例

◆企業による脱税・申告漏れ・所得隠し
◆介護サービスなどにおける介護報酬の不正請求:
-コムスンなど
◆食品関連:
-雪印集団中毒事件
-不二家の期限切れ原材料使用製品の出荷
-牛肉偽装事件、雪印牛肉偽装事件、ミートホープなど
-売れ残り再利用問題:赤福、船場吉兆など
◆保険業界の保険金不払い事件
◆自動車リコール隠し:
-三菱リコール隠し
-三菱ふそうリコール隠しなど
(p.192)

1-3.
 商法においては、善管注意義務や忠実義務などによって取締役や執行役、監査役などの決定責任義務が定められている。また、商法だけでなく、各種一般法や業法をすべて遵守し、従業員にも徹底させなければならず、特に大企業には内部統制システムの構築義務が課せられている。企業に関係してくる法律や規則は、民法、商法、独占禁止法、不正競争防止法、労働法、消費者保護法など多数あるほか、監督官庁からの命令や指導もある。これらの法令に違反した場合、損害賠償起訴や株主代表訴訟による法的責任、売上低下などの社会的責任を負わねばならない。(pp.192-193)

1-4. 2. 倫理や規範の遵守
 企業活動には、市場競争の校正さや職場環境、公務員や政治家との関係や情報公開などにおける高い倫理も多くの場合で求められる。また、法令そのものが倫理に反していても、法令さえ遵守していればコンプライアンスになるのかという問題もある。したがって、コンプライアンスに違反してもしなくても、倫理に反する行動によって信用を失墜させるケースもある。例えば、コムスンなど介護サービスで発覚した大規模な介護報酬の不正請求や、雪印集団食中毒事件、ミートホープなどの食品偽装事件、*三菱リコール隠しなどである。これらはすべて組織の存続に大きな影響を与えることになった。(p.193)

*
三菱リコルール隠しでは、市場の信頼を失い、三菱ふそうトラック・バス前会長らが逮捕されるにいたったが、同社ではその後4000人を動員して自主的に過去の記録を分析し、不具合究明の迅速化や品質改良の迅速化を図っている。不祥事は企業にとって大きなリスクであるが、他方では組織強化や改善の機会になる。(p.193)

3 manolo 2013-10-11 01:14:18 [PC]

1-5. 3. コンプライアンス違反を防ぐために
 企業の不正行為に関しては、コーポレート・ガバナンス(企業統治)の問題を考える必要がある。日本では、株式の持ち合いや生え抜きによる経営陣などから、コーポレート・ガバナンスが機能せず、経営や業務執行に対してチェック機能が働かないということが指摘されている。日本企業はコーポレート・ガバナンスが機能しにくいので、コンプライアンス違反を防ぐ仕組みを構築することがアメリカ企業以上に重要な問題となる、(p.193)

1-6.
 日本企業がコンプライアンス違反を防ぐ仕組みを構築するには、広範に及ぶ規則や規範、倫理を全役員、全従業員が遵守できるような体制を作り、違反行為があった場合は、早期に発見して修正できるマネジメントをすることが肝要である。業界慣行や社内ルールが法律や社会通念から逸脱していないか否かといったことをチェックするシステムを早急に整備しなれければならないことはいうまでもない。(p.193)

1-7.
 具体的な方法としては、法律遵守基準や倫理規定を整備すること、法務部門やコンプライアンス部門などの監視部門を設置すること、従業員への教育研修などによって気づきを促すことが挙げられる。しかしながら、最終的には、法令・倫理規定を企業文化や組織風土に根づかせるところまで達することが求められている。つまり、コンプライアンス活動とは、組織風土を変革していく過程であるといえるのであり、企業はそのような長期的視野に立ってコンプライアンスのシステムを構築していけるかが問われるのである。(p.193)。

4 manolo 2013-10-31 17:40:47 [PC]


953 x 1039
出典:朝日新聞、10/19/2013、(「みずほ、甘い企業統治 銀行、社外取締役なし」)p.7

2-1.
 みずほ銀行が暴力団組員らへの融資を放置した問題で、みずほグループの*企業統治のあり方にも批判が高まっている。取締役会で報告されていたのに経営陣が見逃し、それをチェックする体制にも「不備」があったからだ。自民党が18日に開いた部会では経営責任を問う声が出ており、佐藤康博頭取から話を聞くことも検討することになった。

*企業統治(コーポレートガバナンス)
経営者の暴走などに歯止めをかけて企業価値を高めるための仕組み。取締役や監査役に社外の経営者や有識者を加える例が多い。開会中の臨時国会に提出される見通しの会社法改正案では、社外取締役の設置義務化は見送られた。

2-2. 【自民、頭取聴取を検討】
 「(暴力団など)反社会的勢力と幹部がわかりながら、(融資を)続けたのが問題だ」「ガバナンスの問題だ。幹部を外部の目でチェックする必要がある」 自民党本部で18日に開かれた金融調査会で、みずほ銀行の問題について説明する金融庁幹部に対し、議員から厳しい指摘が続いた。そのわけは、みずほグループの企業統治の甘さにある。みずほ銀行と親会社のみずほファイナンシャルグループ(FG)の取締役会で問題融資の報告資料を「見た記憶がない」(佐藤氏)という取締役ばかりだったのに、責任を果たさない取締役を監視する機能も働かなかった。2年以上問題を改めず、「経営トップに報告された事実がない」と誤った報告まで金融庁にしていた。

5 manolo 2013-10-31 17:43:25 [PC]

2-3.
 疑問の声は金融界からも出ている。全国銀行協会の国部毅会長(三井住友銀行頭取)は17日の記者会見で、三井住友では暴力団組員らへの融資は「一定額以上判明した場合は、経営会議メンバーにメールで速報される」と話した。「取締役会の資料には各取締役は目を通している」と述べ、みずほのような失態はありえないこともにじませた。18日の自民党の財務金融部会の後、菅原一秀部会長は、「歴代の頭取も知っていたとするならば、大きな経営責任を問われる問題だ」と述べ、同部会で佐藤氏の聴衆も検討する。

2-4. 【見えぬ法令順守重視】
 みずほには、企業統治の体制そのものにも「不備」がある。3大金融グループの三菱UFJ、三井住友と比べると、傘下の主力銀行の取締役メンバーに社外取締役がいないのはみずほだけだ。社外から招いた弁護士や経営コンサルタントらは、銀行内の「身内の論理」から距離を置き、公正な目で取締役を監視する役割を担う。みずほ銀では、2010年12月に校内で問題が発覚した当時から社外取締役がいない。

2-5.
 暴力団組員らへの融資を監視する「法令遵守(コンプライアンス)」の担当役員も、みずほ銀と2行には差がある。みずほ銀では担当役員は取締役メンバーではなかった。同30日付で担当役員は副頭取に代わったが、この副頭取も執行委員で取締役メンバーではない。だが、三菱東京UFJ銀は常務取締役、三井住友銀は専務取締役が担当役員で、取締役メンバーだ。企業統治の問題に詳しい久保利英明弁護士は「社外取締役がいなければ内輪の論理が優先されかねず企業統治が弱いと言わざるをえない。他の金融グループに比べてコンプライアンスを軽視しているように映る」と指摘する。
 
1 manolo 2013-10-09 20:44:01 [PC]


235 x 214
出典:『よくわかる組織論』、田尾雅夫編著、4/30/2010、ミネルヴァ書房(「5-III-2. アカウンタビリティ」、深見真希)pp.212-213

1-1. 1. アカウンタビリティとは:双方向の説明責任
 一般的に、アカウンタビリティとは「説明責任」と訳されている。もともとは、会計用語で「会計(accounting)」と「責任(responsibility)」を合わせた「会計説明責任」という用語で、株主に対して企業の経営状況を説明することおよび、その義務を示すものである。しかしながら、実際にアカウタビリティという考え方が生まれたのは、実は1960年代の米国行政であった。公共組織が、納税者である米国市民に、公金使用の説明を行うところからアカウンタビリティの考え方が生まれたといわれている。(p.212)

1-2.
 アカウンタビリティの活動は、利害関係者(ステークホルダー)に対して、組織の活動内容や財務状況を公開、説明することを指す場合が多いが、一方的に説明すればいいというのではなく、説明する側とされる側の間で信頼関係を築くための双方向的なものである。説明することによって透明性が確保されることが目的であり、したがって特に重要になるのは意思決定過程の可視化である。目標を達成するという意味で「遂行責任」という意味を帯びる場合もある。ただし遂行責任は用語的にはレスポンスビリティ(responsibility)が当てられ、アカウンタビリティの結果責任と区別されることが多い。現在アカウンタビリティは、従来の会計や行政といった文脈のほか、環境や人材開発といった文脈でも用いられることが増えてきている。(p.212)

2 manolo 2013-10-09 20:46:57 [PC]

1-3. 企業のアカウンタビリティ
 企業が行うアカウンタビリティ活動の代表例は、IR(インベスターズ・リレーション、財務広報)活動である。企業は、投資家や利害関係者に対して、企業活動の結果や成果、事業活動の状況について情報を公開し、説明しなければならないが、財務諸表など経営状況の情報開示は、商法や証券取引法などの法律によっても義務づけられている。このように法律で義務づけられているものだけでなく、状況に応じて、様々な利害関係者と対話をすることも、社会的責任という点から、重要なアカウンタビリティになる。例えば、地域住民を対象とした説明会や見学会を開催したり、環境に与える影響に関して情報提供をしたり、事件や事故が発生した場合に記者会見を積極的に行ったり、NPOやNGOと対話したりするようなことも、今日の企業に求められるアカウンタビリティなのである。(pp.212-213)

1-4. 3. 行政のアカウンタビリティ
 日本でアカウンタビリティが注目されるようになったきっかけは、1990年代に欧米で流行した*ニュー・パブリック・マネジメント(New Public Management: NPM 新公共管理)であった。NPMでは、市民をユーザーや顧客として捉え、彼らのニーズを満たすような行政サービスを提供するというように考える。業績評価や行政評価などを用いて
業績指標の達成程度を測定し数値化することによって、元来見えにくい行政サービスを、市民に対して見えるようにした試みが、行政におけるアカウンタビリティであった。(p.213)

*ニュー・パブリック・マネジメント
民間企業の経営手法を、政府や行政を応用したもの。成果主義の導入や市場メカニズムの活用、顧客中心主義など。(p.213)

3 manolo 2013-10-09 20:48:28 [PC]

1-5.
 わが国においても、行政のアカウンタビリティとして「政策評価」や「行政評価」といった手法が導入され、90年代後半から自治体を中心に取り組まれるようになった。例えば、当該事業の投資効果を客観的に評価する事業評価システムや事業アセスメント制度の導入、費用対効果分析の制度化や目標達成状況の評価などであり、それらは主に、目的、成果、費用対効果を数値で判定することを指していた。(p.213)

1-6.
 しかしながら、実際には公共サービスの数値化は難しく、業績評価や行政評価だけで公共サービスの質を問うことはできない。アカウンタビリティの目的は、行政が当該サービスの目的や意義、必要性を市民に理解してもらい、相互に信頼関係を築くことにある。したがって、業績評価や行政評価以外にも方法はある。例えば、企業の社会的責任と同様に、積極的に情報を開示することや多様な利害関係者と対話する機会を設定すること、意思決定や政策実施などの過程で市民やNPOと協働することや誰にでも理解できるような平易に言葉遣いによる説明や用語の統一などである。また、政府や行政における事業活動そのものをマネジメント・プロセスとして捉え、「Plan」「Do」「Check」「Action」というマネジメント・サイクルで回していく過程において、評価システムなどを取り入れていくようにしなければ、効果の出にくい断片的な取り組みで終わってしまうことも少なくない。(p.213)

1-7. 4. その他のアカウンタビリティ
 アカウンタビリティの考え方は、企業や行政だけでなく、他の様々な分野で使用されている。例えば、医療におけるインフォームド・コンセント(医師が患者に対し、治療に関する十分な説明を行い、それに基づいて同意をえること)や、スポーツの世界でプロ選手がメディアを通じて自らの成績を説明すること。NPOやNGOが地域や市民のニーズに応えるために展開する諸活動などである。(p.213)
 
1 manolo 2013-08-23 01:48:36 [PC]

出典:『Jurist増刊 刑法の争点』、10/30/2007、有斐閣、「18. 被害者の同意」、木村光江、pp.38-39

1-1. I. 問題の所在
 被害者の同意(承諾)とは、法益の主体が法益侵害に対して同意を与えることをいう。国家、社会法益については、「個人の同意」が犯罪の成否に影響を及ぼすことはないため、同意が問題となるのは個人法益に対する罪に限られる(もっとも、「被害者ではないものの、放火罪における居住者の同意、偽造罪における名義人の同意は、犯罪の成否に影響を及ぼす場合がある)。(p.38)

1-2.
 個人法益の中でも、生命については同意があっても処罰される(刑202条)。他方、財産犯においては、被害者が放棄した財物は要保護性を欠くことが明らかであるから構成要件該当性が欠ける。このほかの犯罪類型のうち、自由に対する罪では強姦罪や強制わいせつ罪(13歳以上の者に対する場合)、さらに逮捕・監禁罪も同意により構成要件該当性を欠く。また、住居侵入罪も住居権説の立場からは、被害者の同意により構成要件該当性が阻却されることになる。(p.38)

1-3.
 これに対し、傷害罪は被害者の同意があっても当然には犯罪の成立を否定しないと解する立場が有力である。違法阻却としての被害者の同意が問題となるのは、事実上同意傷害に限られる。なお、同意により構成要件該当性が阻却される犯罪類型についても、同意が欺罔や脅迫により得られた場合には、そもそも同意が無効とされる余地がある。(p.38)

2 manolo 2013-08-23 01:52:04 [PC]

1-4. II. 同意傷害の処理 ――被害者の同意の体系的位置づけ
1. 被害者の同意の体系的位置づけ
 被害者の同意は、一般に違法阻却事由として説明されることが多い(大谷實〔2007〕、川端博〔2006〕)が、構成要件該当性が欠けるとする見解も有力である(山中敬一〔1999〕、前田雅英〔2006〕、山口厚〔2007〕)。(p.38)

1-5.
 この対立は、同意、すなわち被害者の自己決定権を犯罪の成否においてどの程度重視するかに関わる。(a)被害者の自己決定権を重視し、同意による法益の放棄があれば、法益侵害性が否定されると解せば、構成要件該当性が欠けることになる。これに対し、(b)被害者の自己決定権に絶対的な意味を持たせず、同意のみで法益侵害性は失われないと考えれば構成要件該当性は否定されない。同意があることを一要素としつつ、他の要素と併せて違法阻却の可否を論ずることになる。したがって、同意を単独で阻却事由と認める見解が構成要件該当性阻却説と結びつき、同意を単独では阻却事由として認めない見解が違法阻却事由説と結びつく。(p.38)

1-6.
 もっとも、同意を単独の阻却事由としつつ、違法阻却事由説と採る見解もある(曽根威彦〔2000〕)。この見解は、被害者という同一主体の中で、「自己決定の自由」という利益が「行為により侵害された法益」に優越することを理由に、同意を違法阻却で扱うとする。しかし、202条が存在する以上、自己決定の自由が「生命」に優先しないことは明白であるし、逆に自己決定の自由が「財産」に優先することもまた明白である。傷害罪について、なぜ自己決定権の自由が「常に優先する」のかについて、なお説明が必要であろう(山中・前褐参照)。(p.38)

3 manolo 2013-08-23 01:56:16 [PC]

1-7.
2. 同意と社会的相当性・生命への危険
 現在の判例・多数説は、上記(b)の立場に立ち、同意を単独では違法阻却事由として認めない。ただ、同意に加え、違法阻却のためにどのような要件を必要とするかについては争いがあり、①同意に加え、傷害行為が社会的に相当であることを要するとする見解と、②同意に加え、傷害の程度が生命に危険を及ぼすことのない程度であることを要するとする見解とに分かれる。(p.38)

1-8.
 ①の社会的相当性を要求する立場は、多くの判例・裁判例が採用するもので、たとえば、やくざの指詰めは、いかに被害者の同意があっても社会的に相当な行為とはいえないため違法性は阻却されず(仙台地石巻支版昭和62・2・18版時1249号145頁)、自動車事故を装って、保険金を騙取するという違法な目的で被害者の承諾を得ても、違法阻却は認められない(最決昭和55・11・13刑集34巻6号396頁)。「承諾が存在するという事実だけでなく、右承諾を得た動機、目的、身体傷害の手段、方法、損傷の部位、程度など諸般の事情を照らし合わせて決すべきものである」とするのである(同決定。さらに無資格者による手術に関し、患者の承諾があっても違法阻却されないとした東京高判平成9・8・4高刑集50巻2号130頁参照)。(p.38)

1-9.
 これに対し、学説上は②の傷害の程度を重視する見解が有力に主張されている。この見解はさらに、生命に危険が及ぶ場合に限って同意を無効とする見解(西田典之〔2006〕)と、「重大な(取り返しの付かない傷害)」についても「含むべきであるとする見解(井田良〔2005〕)、さらに山中・前褐参照)とがある。前者は、202条の存在を根拠に、その延長線上にあるものとして生命危険の高い傷害への同意を無効とするものであり、後者は、自己決定を行う主体そのものを破壊するような結果についての同意は、もはや意思決定として尊重すべきでないことを理由とする。(p.38)

4 manolo 2013-08-23 01:59:39 [PC]

1-10.
 しかし、同意殺から「類推」して、条文上存在しない(「同意重傷害罪」)を認めることはできない。また、202条に未遂規定があることから、「生命への危険」も保護すべき対象となるとの主張もみられるが(井田・前褐)、これは(同意)殺人罪と傷害罪の区別を軽視するものである。また、自己決定を行う主体そのものを破壊するという場合も、どの程度の傷害であれば「取り返しの付かない」傷害となるのかは、まさに人によって評価の分かれるところであろう。(p.38)

1-11.
 もっとも、②の見解は、社会的に相当でないとされる傷害行為について違法阻却を認める。やくざの指詰めや、保険金目的で得られた同意についても、傷害罪の成立を否定することになろう。しかし、違法阻却という観点から同意を捉えるのであれば、傷害の程度だけではなく、むしろ、目的の正当性、行為の相当性や緊急性をも含めた判断がなされるべきである。したがって、仮に、同意傷害を違法阻却として扱うのであれば、判例の判断基準の方が妥当性を持つといえる。(pp.38-39)

1-12.
3. 自己決定権に対する意識の変化
 自己決定をどの程度重視するかは、時代により変化しうる。近年、青少年に対し刺青を施す行為について青少年保護育成条例で罰則付きの禁止規定が盛り込まれる例が見られるが(従来からの例に加え、たとえば平成17年の愛知県、宮城県、平成19年の宮崎県、山梨県条例への導入)、これは少なくとも18歳未満の少年について、自己決定権よりもパターナリズムを重視する傾向が強まったことを意味する。しかし他方では、あくまで青少年保護条例における規制にとどまるものであることも重要である。この規制を成人に拡大することや、条例ではなく傷害罪として評価することについてまで、国民の合意があるとはいえない。(p.39)

1-13.
 現時点では、少なくとも成人の自己の身体に対する意思決定については、当該個人の意思を無視してまで保護しなければならない利益はないと考えるべきであり、法益の不存在により構成要件妥当性が阻却されると解すべきである。この結論は、自傷行為を処罰しないとする、現在の通説的な見解とも整合する。(p.39)

5 manolo 2013-08-23 02:02:37 [PC]

1-14.
 たしかに、やくざの指詰めや、無免許医師による施術による傷害は、傷害罪として処罰に値するという結論は妥当性を持つ。しかし、その理由は、社会的相当性を欠くことや、生命に危険が及ぶためではなく、脅迫や欺罔により得られた同意は、被害者の真摯な同意とは認められないからである。(p.39)

1-15. III. 推定的同意
 たとえば、意識不明の重傷者を意識の回復を待たずに手術する場合のように、「現実」の同意はないが一般人なら同意するであろうという状況であれば、処罰しないとする見解が有力である(大谷・前褐)。しかし、どのような論理で、どこまで正当化するのかについては、見解が分かれる。(p.39)

1-16.
 まず、①被害者の同意の延長戦上にあるものと理解し、一般人から見て同意があったと同視しうる客観的事情があれば正当化するとする見解がある。しかし、「同意」の問題とする以上、あくまで「本人」の同意が必要とされるべきであろう。これに対し、②同意とは別の、許された危険の法理により違法阻却されるとする見解は、行為の有用性を根拠に結果を正当化する(手術は死ぬ確率が高くても有用な行為だから許される)。しかし、いかなる手術でも常に許されるわけではない。当該本人にとって本当に望ましい「許された」ものかどうかは、本人以外の者が判断するわけにはいかないからである。(p.39)

1-17.
 自己決定の自由を重視する立場からは、現実の同意がない以上、原則として処罰されると解されることになろう。ただ、たとえば正当な治療目的の相当な医療行為であれば、本人の同意を得ることができないという緊急状態であることを考慮して、違法性が阻却される余地を認めるべきである(前田・前褐参照)。(p.39)

6 manolo 2013-08-23 02:09:04 [PC]

1-18. IV. 同意に瑕疵[かし]がある場合 ――欺罔[ぎもう]・脅迫により得られた同意

 同意に瑕疵がある場合、特に同意が欺罔や脅迫により得られた場合には、その同意の有効性が争われる。主として同意殺、監禁罪、準強姦罪、さらに住居侵入罪において問題となるが、同意傷害についても、インフォームド・コンセントがなかった場合には同意に瑕疵がある場合の一類型と考えることができる。(p.39)

1-19.
 同意が脅迫により得られた場合には、一般には同意は無効とされる(福岡高宮崎支判平成元・3・24高刑集42巻2号103巻参照)。これに対し、錯誤に基づく同意の場合については見解が対立する。その錯誤が被害法益に直接関わるものに限り同意を無効とするとする「法益関係的錯誤説」(佐伯仁志・神戸法学年報1号51頁以下、山口・前褐)によれば、殺人罪を認めた裁判昭和33・11・21(刑集12巻15号3519頁)のように、被告人が追死するものと被害者が誤信しているのを利用して自殺を決意させる行為は、被害者の生命と「法益関係的」でない行為者の死についての錯誤であるから、同意は有効となり、202条の成立にとどまることになる。(p.39)

1-20.
 しかし、「法益関係的」錯誤を形式的に捉えると、同意が無効となる範囲は極めて限られてしまう。そこで、たとえば、炎上する自動車内の人を救助してくれと騙され、火傷を負いながら助けようとしたが、中には犬しかいなかったような場合、「自己の身体が火傷を負う」という意味での「法益関係的」錯誤はないものの、より大きな法益(人の生命)を救うために自らの法益を犠牲にするという、法益の「相対的価値」について錯誤があるから、やはり法益関係的錯誤が認められ同意は無効であるとする主張もある(山中・前掲、さらに山口・前褐)。しかし、「法益関係」をこのような相対的なものと理解するのであれば、「自己の生命」を(その者にとって)より大きな利益(心中すること)のために犠牲にするという点についての錯誤も法的関係錯誤にあたると解する余地もある。(p.39)

7 manolo 2013-08-23 02:09:40 [PC]

1-21.
 法益関係の範囲が必ずしも明確でないとすると、法益関係以外の何らかの判断基準が必要となる。しかし、「本当のことを知ったら同意しない場合」のすべてにつき同意を無効とすることもできない。些細な事情についても「誤信」があれば、すべて合意を無効にするというわけにはいかないからである。結局その同意が自由な意思決定によってなされたか否かにより判断せざるをえない。①十分な情報を与えられたうえで、②自由な価値判断により意思決定ができる状況にあった場合にはじめて、真摯な同意があったといえるのである。(p.39)

1-22.
 この観点からは、脅迫による場合は、②自由な意思決定とはいえず、錯誤による場合は、①十分な情報を与えられていないことになる。どの範囲の「情報」を問題とすべきかは「法益関係」のみでは判断しえない。たとえば治療行為であると誤信し行為者と性交した場合は、いかに「性交」自体の認識があったとしても、当該治療行為についての情報が与えられたとはいえず、準強姦罪が成立することになる(東京地判昭和62・4・15判時1304号147頁参照)。(p.39)

【参考文献】
・大谷實『刑法講義総論(新版第2版)』(2007)
・川端博『刑法総論講義(第2版)』2006)
・山中敬一『刑法総論Ⅰ』(1999)
・前田雅英『刑法総論講義(第4版)』(2006)
・山口厚『刑法総論(第2版)』(2007)
・曽根威彦『刑法総論(第3版)』(2000)
・西田典之『刑法総論』(2006)
・井田良『刑法総論の理論構造』(2005)

8 manolo 2013-09-25 23:56:24 [PC]


425 x 427
出典:『よくわかる刑法』井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(II-7. 「被害者の同意」、飯島暢)pp.60-61

2-1. 1. 自己決定権としての被害者の同意
 法益の主体が、その侵害に対して同意を与えることを被害者の同意(承諾)という。自分のことを自分で決めることは自己決定権として尊重されるが、それは幸福を増進するようなポジティブな内容だけでなく、ネガティブに自己の利益を放棄することも含んでいる。従って、被害者が自己の法益に対する侵害に同意することも自己決定権の現われとして尊重されなければならない。ここから、被害者の同意に基づく法益的侵害行為が原則として適法とみなされ、処罰されないという結論が導き出される。こうして学説の多くは、被害者の自己決定権を同意による適法化の根拠に据え、法益の主体が自主的に法益を放棄する場合には刑法によって保護する必要がなくなり、たとえ法益侵害行為がなされても、その違法性は阻却されるとしている。ただ、*被害者の意思に反することを法益重視の前提にする犯罪類型においては、被害者の同意によって、法益侵害自体がなくなり、そもそも構成要件該当性を否定することができる。また、生命に関しては、その重要性から法益主体の自己決定権が制限され、たとえ被害者が殺害されることに同意していても、殺害行為の違法性は阻却されずに減少するにとどまり、同意殺人罪(202条後段)が成立することになる。(p.60)

*被害者の意思に反することを法益侵害の前提にする犯罪類型
例えば、監禁罪、住居侵入罪、強姦罪のような自由に対する罪が挙げられる。他人の住居に同意を得て立ち入ることは、もはや「正当な理由がないのに、人の住居……に侵入」(130条)したとはいえないのである。(p.60)

9 manolo 2013-09-25 23:58:31 [PC]

2-2. 2. 同意の有効条件
 同意の対象となる法益は、被害者が放棄できるものでなければならないので原則として個人的法益である。そして、同意が有効なるためには、まず被害者が同意の内容として意味を理解できる能力(*同意能力)を有していなければならない。それ故、幼児や精神障害者の同意は無効である。そして、同意能力のある被害者が、無理に強要されたり、だまされたりしないで、任意で(かつ真意に基づいて)法益侵害に対して同意を行わなければならない。ただ、被害者が錯誤に陥って同意を与えた場合については、その錯誤の意義をめぐり学説上争いがある。通説・判例は、被害者の意思決定にあたり重要な影響をもつ錯誤がある場合には同意を無効とする。これに対し、最近の有力説は、放棄される法益の内容に関する法益関係的錯誤とそれ以外の動機の錯誤を区別して、後者の錯誤の場合には法益が失われること自体をきちんと認識して同意を与えているとして、その有効性を認める(**法益関係的錯誤の理論)。また、同意の存在を行為者が認識している必要があるか否かという問題がある。有力説は行為者の認識は不要とし、そもそも同意は被害者の内心にあるだけでよく、それが外部に表示される必要もないとしている。(pp.60-61)

*同意能力
刑法は、性的自由に対する侵害である強制わいせつ罪、強姦罪について、13歳未満の被害者に同意能力を否定している(176条後段、177条後段)。これはわいせつ行為、姦淫行為について、13歳未満の者は適切に理解することができないとみなされるからである。(p.60)

**法益関係的錯誤の理論
この理論によれば、被害者が処分する法益の種類や範囲に錯誤がある場合にだけ同意は無効となる。例えば、輸血のために血液を採取する場合に、約束した以上の量の血液を採る場合には、法益関係的錯誤が認められ、同意は無効になって傷害罪が成立する。これに対して礼金として金を払うからといってだまして、約束した量の血液を採取した場合には、被害者はその量だけ血液を採られることをきちんと認識しているのだから同意は有効であり、たとえ礼金がもらえる点について錯誤に陥っていたとしても、それは動機の錯誤でしかないので同意の有効性には関係がないことになる。この法益関係錯誤の理論は偽装心中の事例の関係においても問題となる。(pp.60-61)

10 manolo 2013-09-26 00:00:35 [PC]

2-3. 3. 同意傷害の問題
 被害者の同意に基づく傷害(同意傷害)において、どの範囲で違法性が阻却されるのかについて学説上の対立がある。*判例(最決昭和55年11月13日刑集34巻6号396頁)及び従来の通説は、被害者の同意だけでなく、(傷害行為の)同意を得た目的、行為の手段・方法・態様、生じた結果の重大性等の様々な要素も総合的に考慮して社会的に相当といえる場合に傷害罪の違法性を阻却させる。つまり、身体という法益が侵害されることに被害者が同意していても、それだけでは違法性は阻却されないというのである。しかし、これでは被害者の身体という法益の保護とは無関係に、主観的に違法な目的を行為者が有しているかとか、侵害行為が社会倫理や公序良俗に反しているどうかという観点から違法性の有無が決められてしまいかねない。そこで、近時の有力説は、同意傷害は原則として違法だが、傷害の程度に着目して、死ぬ危険性があるような重大な傷害について同意を与えている場合には違法性が阻却されないという見解を唱えている。生命については同意による違法阻却の効果は完全でなく同意殺人罪が成立する。しかも、刑法はその未遂も罰している(203条)。つまり、同意があっても生命にとって危険となる行為は違法とされるのであるから、それに近い重大な傷害を与える行為についても同意によって違法性は阻却されないと有力説は解するわけある。ただ、学説の中には、自己決定権をより強調して同意傷害は全面的に不可能であるとする見解もある。(p.61)

*最決昭和55年11月13日刑集34巻6号396頁
本事案は、XとYら数人がわざと交通事故を起こして保険金をだまし取ることを共謀し、Xは車をYの車に衝突させ、Yらに身体傷害の結果を生じさせたがYらはそれに同意を与えていたというケースであった。最高裁はYらに対する傷害が軽いものであり、彼らがそれに同意していたとしても、彼らがそれに同意していたとしても、ここでの同意は保険金詐欺という違法な目的のために得られたものであるので違法性阻却は認められないとした。(p.61)

11 manolo 2013-09-26 00:01:09 [PC]

2-4. 4. 推定的同意
 推定的同意とは、被害者が現実には同意を与えていないが、もし彼が事態を正しく認識していたら同意していたであろうと推定されることをいい、推定的同意に基づく法的侵害の行為の違法性は阻却される。例えば、意識不明の負傷者を医師が手術する行為や、火災の際に不在者宅に勝手に入って貴重品を持ち出す行為などが考えられる。被害者の現実の同意がないのに、それを推定して違法性を阻却できる理由について、有力説は、被害者の同意が現実には存在しなくても、彼の意思に合致していると合理的に判断される法益侵害行為が行われることを挙げている。また、あくまで推定的同意は被害者の現実の同意を補充するものなのであるから、推定的同意を援用できるのは、現実の同意を得ることが不可能な状況だけである。これを補充性の原則という。(p.61)
 
1 manolo 2013-09-19 12:19:56 [PC]


275 x 183
出典:『よくわかる現代家族』神原文子他編著、ミネルヴァ書房、4/30/2009、(VI-2.「結婚とはなんだろう」)、pp.86-87

1-1. 1. 結婚の意味
 結婚とは、従来より*一組の男女が社会から性関係を承認された夫婦という関係になるための契約を結ぶことととらえられてきた。配偶者選択においては、①それぞれの社会で**近親婚禁止規則や***外婚・内婚規制を遵守すること、②それぞれの社会で重視される人々(例えば、血縁や地縁による了解、領主や幕府の許可など)の承認を得ること、③社会的承認を得るために、婚姻儀礼の習俗慣習、法的届け出といった手続きを行うこと、などがある。また、夫婦としての権利‐義務として、婚外の性関係の規制、居住規則、夫婦の財産権、離婚権などが規定されており、それらはそれぞれの社会における支配体制や男女の社会的地位を反映し、身分、階層、地域によっても異なった様相を呈してきた。(p.86)

* 結婚は、当事者男女の性的結合のみならず、生まれた子どもの嫡出の認知や新たな姻戚関係形成の契機ともあることから、古代より結婚の社会的承認には様々の条件を満たすことが必要とされてきた。(p.86)

**近親婚禁止規則
インセストタブーともいう。親子、きょうだいなど、近親関係にある者同士の性関係を禁止する規範である。(p.86)

***外婚・内婚規制
配偶者を求める範囲を規定する制度であり、外婚は、同族などの範囲の外側から配偶者を求めること、内婚は、身分、階層、文化など、一定の範囲内で配偶者を求めること。(p.86)

2 manolo 2013-09-19 12:24:51 [PC]

1-2. 2. 戦前の結婚から戦後の結婚へ
 戦前の日本においては、明治初期の一時期、身分を超えた結婚の自由や妻からの離婚請求を認めるなど、近代的な婚姻法が施行されたが、1889年(明治22)に施行された明治民法では、婚姻制度は国家と家長による統制の強い内容となった。すなわち、明治民法のもとで家制度が強化されたことにより、結婚は当事者の意思に関係なく家と家との婚姻となり、夫婦同姓が規定され、嫁入り婚が一般化した。また戸籍届により婚姻が成立する法律婚主義が全国民に適用され、婚姻届によって女性は夫の家の妻として組み込まれることになり、生まれた子どもは嫡出子として位置づけられることとなった。しかし、明治民法のもとでは婚姻は妻の地位を保障するものではなく、妻は財産権も親権も認められない無能力者とみなされ妻の地位は歴史上最も低く位置づけられた。(p.86)

1-3.
 1947年(昭和22年)施行の日本国憲法第24条では、「婚姻は、両性の合意のみに基」づき、家族における個人の尊厳と両性の平等が明記された。さらに1948年の民法改正によって家制度は廃止され、夫婦家族制が確立した。とはいえ現民法も婚姻年齢の男女差、女性のみの再婚禁止期間の規定などに、性差別の要因を留めており、また、夫婦同姓の規定にも問題をはらんでいる。(p.86)

*近年、北欧やフランスなどでは、多様なカップル関係を容認する法制度の整備により、非法律婚カップルが増加している。さらに欧米を中心に同性婚を法的に認める国も増加している。(p.86)

**女性が男性の家に“入籍”することではなく、いわば、ふたりで新たに“創籍”することである点を強調しておきたい。(p,86)

***
改姓したくない人々が婚姻届を受理されなかったり、婚姻後に通称使用を余儀なくされたりしている。ジェンダー平等の観点に立った民法改正が期待される。(pp.86-87)

3 manolo 2013-09-19 12:26:53 [PC]

1-4. 3. 結婚をめぐるコミュニケーション
 今日、未婚の男女は結婚をめぐって対等で十分なコミュニケーションを行っているだろうか。

「結婚をめぐる自己内と自他のコミュニケーション」(概要)

① 自分はこれからどんな生き方をしたいのか、自分の生き方志向にとって結婚はどんな意味があるかという自己内コミュニケーションをする。
② 結婚することに意味を認める人は、結婚に期待すること、結婚の意義、期待するパートナー像などについて自己内コミュニケーションをしてみる。
③ 特定の異性と出会ったら、相手についての自己評価や気になる点、ふたりが対等な関係かどうかなどについて自己内コミュニケーションをするとともに、自他のコミュニケーションをする。納得できなければ先へ進まない。
④ 気になる点や疑問点が解消されてきたら、再び自己内コミュニケーションにより、自分は相手を愛しているのか、愛されている実感はあるのかを確認する。
⑤ ふたりが愛し合っていても、ありのままの自己を開示し、ありのままの相手を受容できるかどうか、自己内と自他とコミュニケーションをする。
⑥ 結婚への合意ができるかどうか、時間をかけて自己内と自他のコミュニケーションを繰り返す。いつまでも立ち止まったり、引き返したりしてよい。
⑦ 私的了解への判断。
⑧ 結婚への準備。
(pp.86-87)

4 manolo 2013-09-23 14:31:26 [PC]

出典:『よくわかる現代家族』神原文子他編著、ミネルヴァ書房、4/30/2009、(VII-1.「夫婦ってなんだろう」)、pp.92-93

2-1. 1. 夫婦関係の歴史的変遷
 夫婦関係が恋人関係と異なるのは、結婚という契約(契り)を結ぶことにある。結婚自体が、時代や文化によって多様であるため、夫婦関係を普遍的に定義することはできない。ただし「婚姻」とは結婚の法的制度のことである。(p.92)

2-2.
 日本でも戦前の家父長制的イエ制度のもとでは、結婚では夫婦の愛情よりも、家と家のつり合いが重視され、妻は夫の監督のもと、家の嫁として夫の親に仕え、農作業などの生産労働に励み、跡取りを産むことが何よりも期待された。戦後、イエ制度が廃止され、新憲法の制定と民法改正により、婚姻の自由と個の尊重が認められ、夫婦関係は法的に平等となった。では、戦後60年以上たって、夫婦関係は実質的に平等になったといえるのだろうか。実際のところ、個々の夫婦関係の平等の度合や勢力関係はをどのように測定するのかは案外難しい。(p.92)

2-3. 2. 夫と妻の三層構造
 夫婦関係は親密な関係なのか、あるいは夫婦といえども他人の関係なのか。夫婦関係は「一心同体」なのか、「二心別体」なのか。従来、夫と妻の関係について相反するとらえ方がされているが、夫婦関係はAかBかではなく、生活者の視点から「*夫妻関係」を三層構造としてとられる考え方を紹介しよう。(p.92)

*「夫婦関係」ではなく、「夫妻関係」と呼んでいるのは、「婦」という文字に、女は「掃除する」者という女性差別的な意味が含まれているからであり、「夫」に対応する語は「妻」だからである。(p.92)

5 manolo 2013-09-23 14:53:10 [PC]

2-4.
①狭義には、「夫妻関係」は、家族内の「夫」という地位につく男性と「妻」という地位につく女性との社会的に承認されたカップル関係である。プライベートな資源・時間・空間を共有・共同できる関係であり、社会的には連帯責任、一夫一妻の性的な拘束性を期待される関係でもある。(p.92)

2-5.
②広義には、「夫婦関係」は、夫である家族成員と妻である家族成員との関係であり、自分たちの家族を維持・存続させることの合意に基づいて協力しあう関係である。性別役割分業であろうとなかろうと、役割の協力・分担におけるギブ・アンド・テイクが互いの許容範囲に収まることが関係存続の条件である。また、個人名義の財産を保持する資源分有性、夫妻といえども賞罰は個人に帰属するという責任個別性、離婚により関係が終結するという有限性によって、夫婦であっても、夫は妻とは別々の個人であって、個人の利益を保障されている点を押さえておこう。(p.93)

2-5.
③最も広義には、ひとりの生活者である夫と妻ともに、夫婦であることが互いの個としての生き方をサポートするけれども妨げないという合意に基づく関係である。*疑似他人関係と呼ぶことができる。(pp.92-93)

*疑似他人関係
互いの個としての生き方を認め合っていながら、無関心・無干渉な関わりを維持するという「他人関係」の特徴も持ち合わせている関係を指す。神原の造語である。(p.93)

2-6.
 夫にせよ、妻にせよ、カップルとしての夫婦関係満足度が、家族成員としての満足度に影響を及ぼし、さらに生活者としての満足度にも影響を及ぼすことになるだろう。にもかかわらず、夫婦関係を三層でとらえるのは、個々の生活者にとって三層のの夫婦関係の意味づけが異なり、それゆえに、満足できる夫婦関係のあり方も異なるものと考えられるからである。(p.93)

6 manolo 2013-09-23 15:16:18 [PC]

2-7. カップルとしての夫婦関係
 男と女であれ、女同士であれ、男同士であれ、カップルになる意味は何だろう。まず、第1に互いの肉体的・性的な交わりそのものに価値をみいだすというエロス的結合に基づき愛を育てられることである。第2に、互いの生命を支え合う互助的結合に基づき、生命を育めることである。第3に、日常の喜怒哀楽をふたりで共同体験指定ことに意味をみいだす共生的結合に基づき、一緒に生きることを喜べることである。そして、第4に、互いの個を尊重し合える受容的結合に基づき、互いに自己を解放できることである。(p.93)

2-8.
 性の違いを認めた上で対等な関係を築いていくこと、そして互いを拘束しないことが、双方のカップルとしての満足度を高めることになりそうです。(p.93)

2-9. 現代の夫婦関係の特徴は?
 誰しも、ひとりで生きていくことが可能になったことを受け止め、双方がカップルとして生活することに積極的な意味をみいだすことができなければ、カップルになることを選ばないという選択肢があること、そして、たとえ結婚してもふたりの関係が永続するという保障は何もないことを暗黙の前提として、夫婦関係が成り立っていることを押さえておく必要がある。しかも、カップルとしての夫婦間の愛情を重視するほど、愛情が冷めたら夫婦生活を続ける意味は低下することになるだろうし、愛情が低下すると、家族成員としても夫婦間の利害関係が露呈しやすく、その場合、生活者としての夫婦関係が対等で支配服従関係でないほど、夫婦間に生じた葛藤が顕在化しやすくなり、離婚にもつながりやすいことも押さえておく必要がある。それだけに、夫婦関係になるという選択が、男性にも女性にも多大なが犠牲を強いることなく、共同生活から生じるリスクと、離別するかもしれないときのリスクとを最小限かつ公平にできるような、公的・私的な予防的施策が必要であると提案したい。(p.93)
 
1 manolo 2013-09-17 16:16:44 [PC]


262 x 192
出典:『よくわかるスポーツ文化論』井上俊&菊幸一編著、ミネルヴァ書房、1/20/2012、(「I-1. 近代以前のスポーツ」)pp.6-7

1-1. 1. 先史時代
 人びとは、生きるために槍や弓矢などの単純な狩猟具で毎日獲物を捕らなければならなかったので、栄養不足で余暇も持てなかったと考えられていましたが、各地の先住民を調査した結果、採集や狩猟に費やす時間は1日平均3時間程度に過ぎず、それ以外の時間は余暇だったことが明らかになりました。余暇を利用して、男性も女性の球技、格闘技、陸上競技などの近代のスポーツ原型を楽しみました。とくに*通過儀礼のように、スポーツと宗教との関係が強調されていますが、宗教とは関係のないスポーツも多様におこなわれていました。(p.6)

*通過儀礼
たとえば、成人と認められるための試練。ペンテコスト島では、つたを足首に結んで高所から飛び降りた(バンジー・ジャンプ)。(p.6)

12 manolo 2013-09-17 16:50:27 [PC]

出典:『よくわかるスポーツ文化論』井上俊&菊幸一編著、ミネルヴァ書房、1/20/2012、(「IV-6. スポーツ政策)pp.48-49

4-1. 1. 政策と政策科学
 政策(policy)とは、ある集団が目標を達成するためにおこなう決定や行動の指針のことです。そのなかでも公共的な問題を解決するための政府の決定や社会全体にかかわる行動の指針のことを「公共政策(public policy)」といいます。しかし、社会の諸価値や諸制度が多元化し複雑化し変動している状況においては、何が公共的な問題なのか、またどのように行動の指針を決定すべきなのかは明白ではありません。このため、H.D. ラスウェルやY. ドロアは、公共的秩序のための政策決定プロセスに関する知識を提供し、政策決定の合理性を追求する学際的な研究として、「政策科学」を提唱しました。(p48)

4-2.
 政策は、法律や計画などの行動の指針だけでなく、それを具体的に実施するための施策や事業を含めて広義に捉えることができます。政策には政策・施策・事業といった階層構造を持った政策体系が存在し、一連の政策の連鎖の中で政策が実際に実施されます。また、政策は、政策過程として捉えることができます。たとえば、政策は国会において決定され、行政機関によって実施され、市民によって評価されるというように、政策決定、政策実地、政策評価などの政策過程に分けることができます。さらに政策過程には、スポーツ団体やメディアなどの多様な*政策アクターが関与しています。(p.48)

*政策アクター
政策に関与する者のこと。政治家、政党、官僚、利益団体、マスメディアなど、それぞれの政策には多様なアクターが関与している。(p.48)

13 manolo 2013-09-17 16:52:10 [PC]

4-3. 2. 公共政策としてのスポーツ
 スポーツは、文化社会的に発達し、歴史的に徐々に公共政策の対象として認められてきました。スポーツが単に政治や他の政策目的のために利用されるのではなく、スポーツそのものの価値や公共性が認められ、振興されるようになってきました。たとえば、1978年にユネスコは、「体育およびスポーツに関する国際憲章」を採択し、スポーツが人間の発達、文化教育、健康にとって不可欠なものであり、人びとのスポーツへのアクセスが基本的な権利であることを定めました。また、諸外国では、国のスポーツ政策の基本を定める法律、いわゆるスポーツ基本法が制定され、スポーツを専門に担当する行政機関が設置されています。また、スポーツは、本来自由で自発的な活動であり、国の介入が遠慮されてきましたが、スポーツに関係する人びとの権利・利益を保護し、また*公共財としてのスポーツ文化そのものを保護するために、国が積極的にスポーツに介入する動きも生じています。たとえば、スポーツの倫理的価値と競技者の健康を保護するために、2005年にユネスコは、「スポーツにおけるドーピングの防止に関する国際規約」を採択し、各国でドーピング防止政策が展開されています。また、スポーツ界における紛争を公正かつ公平に解決するために**裁判外紛争解決制度が形成され、世界レベルではスポーツ仲裁裁判所(CAS)が、国内では日本スポーツ仲裁制度が設置されています。(pp.48-49)

*公共財
誰もがその財を競合することなく使用し、もしくは消費することができ、またはほかの者の使用もしくは消費を排除することができない性質の財のこと。(p.48)

**裁判外紛争解決制度
ADR(Alternative Dispute Resolution)とも呼ばれ、裁判ではない手続きによって
第三者が紛争を処理する制度のこと。仲裁や調停などの手続きがある。(p.49)

14 manolo 2013-09-17 16:53:58 [PC]

4-4. 3. 日本のスポーツ政策の現状と課題
 日本のスポーツ政策は、主に文部科学省(とくにスポーツ・青少年局)と地方の教育員会によって実施されてきました。しかし、スポーツに関する施策は、厚生労働省の障害者スポーツ施策、健康づくり施策、国土交通省の公園施策、スポーツ・ツーリズム施策、総務省のスポーツを通した地域活性化、外務省のスポーツ外交など多様に実施されています。このため、スポーツを専門に担当する省庁を設置し、政策を一元的に管理することができるかどうかが政策課題となっています。地方レベルでは、2007年の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の改正にともない、それまで教育委員会が担当していたスポーツに関する事務を地方公共団体の長も担当ができるようになりました。(p.49)

4-5.
 また、日本のスポーツ政策は、1961年の「スポーツ振興法」に基づき実施されてきましたが、制定後50年が経過したことから、2011年に新たに*「スポーツ基本法」が制定され、スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことが人々の権利であることが基本概念として定められました。また、文部科学省は2010年に「スポーツ立国戦略」を策定し、新たなスポーツ文化の確立をめざして**5つの重点戦略を掲げています。(p.49)

*スポーツ基本法
1章総則、2章スポーツ基本計画等、3章基本的施策(1節スポーツの推進のための基礎的条件の整備等。2節多様なスポーツの機会の確保のための環境の整備、3節競技水準の向上等)、4章スポーツ推進に係る体制の整備、5章国の補助等から構成。(p.49)

**(1)ライフステージに応じたスポーツ機会の創造(2)世界で競うトップ指すリートの育成(3)スポーツ界の連携・協働による「好循環」の創出(4)スポーツ界における透明性や公平・公正性の向上(5)社会全体でスポーツを支える基礎の整備。(p.49)

15 manolo 2013-09-17 16:55:12 [PC]

4-6.
 国および地方公共団体のスポーツ施策は、行政計画により具体化されています。たとえば、2006年に改訂された「スポーツ振興基本計画」では、(1)スポーツの振興を通じた子どもの体力の向上方策、(2)生涯スポーツ社会の実現にむけた地域におけるスポーツ環境の整備充実方策、(3)わが国の国際競技力の総合的な向上方策が主要な課題として掲げられ、具体的な施策が示されています。さらに、これらのスポーツ振興施策は行政によってのみ実施できるものではなく、日本体育協会や日本オリンピック委員会などのスポーツ団体とのパートナーシップやスポーツ界内部や地域社会の連携活動が必要となっています。(p.49)

4-7.
 また、スポーツに関する行政計画の実施は、2001年の「行政機関が行う政策の評価に関する法律」の施行にともなって政策評価の対象となっています。*ニュー・パブリック・マネジメントの考え方の影響により、客観的な根拠に基づく政策(Evidence-Based Policy)の実施と評価が求められるようになっており、スポーツ政策についてもより専門的な政策評価制度の導入が求められています。(p.49)

*ニュー・パブリックマネジメント
NPM(New Public Management)と略される。行政に経営手法を導入して行政改革を進め、行政の効率化や合理化を進めようとする考え方。(p.49)

16 manolo 2013-09-18 18:01:36 [PC]

出典:『よくわかるスポーツ文化論』井上俊&菊幸一編著、ミネルヴァ書房、1/20/2012、(「序.スポーツ文化論の視点 」)pp.2-5

5-1. 1. スポーツとは何か
 「スポーツ」という英語は、今や世界の共通語としてグローバル化しています。各国の言語はその文化を代表する第一のコミュニケーション・ツールですから、外国語は原則として翻訳された自国語に翻訳されます。しかし、スポーツという語に限っていえば、たとえば日本語の場合、「運動競技」や「体育」、「身体活動」などと表現するほか、「スポーツ」という英語がそのまま使われます。これは他国においても事情は同じで、私たちはどのような言語を使用する国に行っても、「スポーツ」と発音しさえすればその現象と意味が地球上のどこでも通じてしまうような社会に生きていることになります。このような文化は、他に例を見ません。いったいスポーツとは何なのでしょうか。(p.2)

5-2.
 私たちが今日、オリンピック競技大会や世界選手権大会などで目にするスポーツの原形は、18-19世紀にかけてイギリスという小さな島国で誕生しました。それはもともと、一地方の、特殊なゲーム形式をともなう身体運動文化にすぎないものでしたが、しだいにルールの整備や統一なども進み、19世紀の中頃には、「スポーツ」は「戸外で行われる競技的な性格を持つゲームや運動を行うこと、及びそのような娯楽の総称」を意味する語になり、1968年の国際スポーツ・体育協議会(ICSPE)の「スポーツ宣言」では「遊戯の性格を持ち、自己または他人との競争、あるいは自然の障害との対決を含む運動」と定義されました。しかし、この言葉の定義からだけでは、近代スポーツがなぜこれほどまでグローバルな文化になったのかは説明できません。(p.2)

17 manolo 2013-09-18 18:26:22 [PC]

5-3.
 これを解く重要な文化論的視点は、近代スポーツがイギリスの*パブリック・スクールで誕生したことから教育的機能を果たし、これからの社会(近代社会)を形成していくうえで重要な役割を果たすよう意図的につくられた身体運動文化であったところにあります。近代スポーツの特徴としては、(1)教育的性格、(2)禁欲的性格、(3)倫理的性格、(4)知的・技術的性格、(5)組織的性格、(6)都市的性格、そして何よりも(7)非暴力的性格などが強調されます。このような特徴の形成は、近代社会における人びとのライフスタイルにとって基本的に認められることにほかなりません。逆にいえば、近代以降の社会が成立するためには、このような性格を内面化した人びとの存在が不可欠であるということになります。近代スポーツを受け入れた他の国の人びとには、このような意味合いを十全に表現する自国語(翻訳語)がなかったということになるのです。(pp.2-3)

*パブリック・スクール
イギリスにおいて、主として少年期の男子を教育する私立の寄宿制学校のこと。とくに近代サッカーやラグビーの発祥は、このパブリック・スクールにおけるスポーツ改革の成果であるとされている。(p.2)

5-4. 2. スポーツという文化
 ところで、私たちにとってのスポーツ「体験」は、スポーツ以外の文化と違って、読んだり、調べたり、見たり、考えたりなどを通じてよりも、まず身体を介して「運動する」ことに直接的に焦点化されます。日常生活における身体への負荷はスポーツ行動を通じて高められ、その体験は身体や物の非日常的な激しい動きによって特徴づけられるので、スポーツは身体的技能に代表されるような「物理的な運動」としてイメージされます。また、私たちは運動をすると汗をかき、筋肉が疲労し、心臓が早鐘のように鼓動するため、身体の生理的変化を意識せざるをえません。スポーツ行動は、このような「身体的・生理的な現象」としてイメージされます。そして、私たちは試合を前にしてあがったり、試合後の爽快感を味わうなど、心の状態が変化する体験としてもスポーツを捉えることができます。ここでは、スポーツが「心理的な現象」としてイメージされることになります。(p.3)

18 manolo 2013-09-18 18:37:35 [PC]

5-5.
 このように、ほかの文化現象と比べると、スポーツは従来からイメージされている「文化」として体験しにくい性質を持っているようです。つまり、スポーツ=身体運動として捉えると、これまでの「文化」が洗練された、上品で知的な、あるいは感性的な営みとして捉えられることと比べ、そのようなコントロールが効かない、暴力的でさえある身体運動のイメージが、これまでの文化概念にそぐわないものとして捉えられてしまうのです。また、このような捉え方は、主にキリスト教の教義に影響された西洋の心身二元論にも依っています。心=精神の理性的な働きが、常に身=肉体の動物的な欲望をコントロールしなければならないとする考え方は、身体運動として直接的に体験されるスポーツを文化として考えることからさらに遠ざけててしまう要因となりました。学校期の課外活動がくしくも「運動部」と「文化部」とに分けられているのは、その典型と見ることができるのではないでしょうか。(p.3)

5-6.
 今日、私たちが体験している近代スポーツは、1.でみたように近代社会を成立させていくのに相応しい性格や特徴をもたらされたからこそ誕生したものです。近代スポーツは、具体的には近代社会が望ましいと認めた理念や目標にかわって初めて意味あるものとなり、そこから共通に認められたルールや規則が制定され、その範囲内で運動することや行動することによって成立します。そして、そのルールの範囲内でお互いに競争するレベルを高めたり、よりよい記録の達成を追求したりするために、合理的で効率的な施設や用具が開発されていくことになります。私たちが路上での喧嘩とボクシングを区別し、あるいはボールを追いかけて戯れる犬とボールゲームを区別するのは、ボクシングやボールゲームをこのような「スポーツという文化」として捉えているからにほかならなりません。(pp.3-4)

19 manolo 2013-09-18 19:35:16 [PC]

5-7. 3. スポーツをめぐる文化
 これまでは、どちらかといえば、私たちが今日経験する現在の私のスポーツ=近代から現代に至るスポーツを対象に話を進めてきました。しかし、*古代ギリシア・ローマ時代にも「スポーツが存在していた」、といわれるように、広い意味でのスポーツ的な営みはあらゆる文明においても見出され、それぞれの文明や時代、社会の特徴を帯びながら、文化としてある種の共通性をもって、世界中に遍在してきたものと考えられます。(p.4)

*古代ギリシアでは、近代オリンピック競技大会のモデルとなった、古代オリンピックが都市国家アテネで4年に一度開催され、古代ローマではローマ市内に遺跡として残っているコロッセオ(円形競技場)で剣闘士(スパルタカス)同士の戦いが見世物(スペクタクル)として行われた。(p.4)

5-8.
 それでは、このようなスポーツをめぐる文化としての共通要素とは何でしょうか。生れたばかりの人間が生理的早産の状態であるといわれるように、人間はその本能のみに頼って生きていくことはできません。そこで、人間は自分たちの生活を維持し、より豊かにしていくことを求めて、様々な事物(物質)、行動の方法(行動)、考え方(概念)を考案し、工夫して、発展させていきます。このような人間の生の営みこそが、文化形成の営みにほかなりません。これと同じように、どの時代や文明のスポーツも、それ自体は他の動物と同じく「歩く」「走る」「跳ぶ」などの身体運動によって構成されていますが、それらをある観念(目標や理想)に基づいてルール化した範囲内で複雑に組み合わせて行動(技能)化し、そのための物質(施設や用具)を開発することによって成り立っているのです。(p.4)

20 manolo 2013-09-18 20:07:14 [PC]

5-9.
 すなわち…スポーツをめぐる文化の構成要素としては、(1)各時代や各社会によって価値づけられた特定の目標にかかわる信念や観念の体系(観念文化)、(2)ルールとそれに基づく技術などにかかわる一定の行動様式の体系(行動文化)、(3)運動を発展させたり、させやすくしたりする物的条件としての施設や用具等の事物の体系(物質文化)、といった文化的側面があげられることになります。そして、これらに関連するスポーツ内外の3つの文化的側面と、これを支える社会のしくみや歴史的変動などの影響によって、スポーツをめぐる文化は変化し続けることになるのです。(p.4)

5-10. 4. 社会のなかのスポーツ文化
 私たちが生活する現代社会では、スポーツの持つ社会的役割がますます重要になってきています。このような現象を近代スポーツから現代スポーツへの歴史的な変化と捉えて、スポーツ文化論の視点から少し整理してみましょう。(pp.4-5)

5-11.
 まず、3.で述べたスポーツをめぐる文化的構成要素から考えると、近代スポーツという文化にかかわる社会的な担い手が、ごく一部の上流・中産階級から労働者階級に広がり大衆化した結果、スポーツに対する考え方(観念文化)が大きく変化したことがあげられます。とくに産業資本家層である中産階級は、自分たちの社会的地位を守るためにリベラリズム(自由主義)という価値観を持っていたので、スポーツに対しても社会的自由=個人主義、政治的自由=政治的中立、経済的自由などの価値観を強く求めました。その結果、近代スポーツは、あくまで個人の立場で政治の動きとは関係なく、経済的に余裕のある範囲内でおこなうべきであるという、素人主義=アマチュアリズムに象徴される観念文化によって特徴づけられることになります。そして、この*イデオロギーは、スポーツ大会への参加資格などにまで徹底化され、スポーツを専門知的職業とする**プロフェショナルの参加を長らく排除することになったのです。(p.5)

*イデオロギー
…スポーツとの関連では、ある特定の利害集団や組織あるいは社会階級が、スポーツの社会的存在を正当化するために主張する意義や価値のことである。(p.5)

**1866年にイギリス陸上クラブで最初につくられたアマチュア規定では、機械工や職人、労働者は競技に参加できないとされた。(p.5)

21 manolo 2013-09-18 20:25:45 [PC]

5-12.
 ところが、スポーツの大衆化は、スポーツによる勝敗の結果に対する社会的重要性を高め、それが政治的な国家の威信を高めたり、経済的な宣伝・広告に利用されたりする土台を形成します。それは同時に、スポーツの高度化による差異(優劣)化を求めるので、そのパフォーマンスを高めるためのルールの変更や施設・用具の開発を促進させることになります。このように近代スポーツは、その大衆化と高度化によって政治や経済の分野から利用され、この両者をつなぐメディアの発達によって大きな影響力を与えられるようになり、今日私たちが経験するスポーツ文化=現代スポーツの姿に変容させられていくのです。(p.5)

5-13.
 近代スポーツの伝統的な観念文化である*アマチュアリズムは、ようやく120年余の歳月を経て変容しました。しかし、施設や用具といった物質文化は社会のテクノロジーの発達によって急速に進歩し、ルールや技能といった行動文化を比較的容易に変化させていきます。また、今日ではメディアの発達によって「見るスポーツ」の大衆化が進行し、スポーツを商品化するコマーシャリズム(商業主義)という考え方が行動文化や物質文化に影響を与えています。(p.5)

*1974年にオリンピック憲章のアマチュア規定はすでに撤廃されていたが、1984年のロサンジェルス・オリンピック競技大会から部分的に特定の種目に限り、プロ参加が初めて容認された。(p.5)

5-14.
 たしかに今日、現代スポーツはますます文化として隆盛を極め、見るスポーツ、読むスポーツ、支えるスポーツなど、様々な文化領域に広がっています。しかし、このようなスポーツ文化の隆盛は、一方で政治や経済の分野からコントロールされており、他方でアスリートの身体を蝕むドーピング問題を発生させるなど、様々な社会問題を引き起こしていることもまた事実です。現代社会のなかで望ましいスポーツ文化のあり方を考え、これを実践していることが強く求められています。(p.5)
 
1 manolo 2013-09-07 03:00:22 [PC]


275 x 184
『よくわかる健康心理学』、森和代他編、ミネルヴァ書房、8/20/2012、「I-6.健康と保健行政」、pp.18-21

1-1. 1. 保健行政(衛生行政)の目的
 わが国の保健行政(衛生行政)は、基本的人権である「生存権」を規定した憲法25条に基づいています。憲法25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めています。つまり保健行政の目的は「健康で文化的な生活」といえます。(p.18)

1-2.
【健康の定義】
 健康の定義としては、WHO(世界保健機構)憲章の前文が有名です。

「Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.(健康とは身体的にも精神的にも社会的にも良好な状態であり、単に疾病や虚弱が存在しないことではない。)」

 この定義は、目標とすべき理想の健康状態を示したものといえます。よって、住民の実際の健康感と隔たりがあったり、理想の健康の達成が困難だったりすることも事実です。一般住民の健康感を現実的に考慮すると、健康を「より健康な方向へ向かっていく状態」、つまり動的な状態(dynamic state)としてとらえることも大切です。(p.18)

2 manolo 2013-09-07 03:03:54 [PC]

1-3.
【文化的な生活】
 文化的な生活の明確な定義はありませんが、*QOL(生活の質)が維持された状態と言いかえることができるかもしれません。QOLとは、生存率や疾病治癒率などの単なる量的評価とは異なり、個人が感じる主観的な生活状態を質的に評価するものです。WHOは、QOLを構成する領域として以下の6つの側面を定義しました。①身体面(例:疲労・痛み・休養など)、②心理面(例:前向きな気持ち・思考・学習など)、③自立の程度(例:移動能力・仕事能力など)、④社会的なつながり(例:人間関係・利用可能な社会支援など)、⑤環境面(例:生活環境・安全・治安・経済状態・医療介護へのかかりやすさなど)、⑥個人の信条や心のもち方(例:宗教・生きる意志など)です。保健行政の実施にあたり、これらQOLの構成要素を意識し文化的生活の向上に努めることが大切です。(p.18)

*QOL(Quality of Life:生活の質)
各人の生活状態を主観的に判断したもの。住民や患者の視点に立脚した質的評価指標の一つである。(p.18)

1-4. 2. わが国の健康保健行政(衛生行政)の仕組み
 わが国の衛生行政は、憲法25条に基づいて国民の保持増進を図るため、国や地方公共団体によって行われる公の活動です。保健医療福祉と労働の所管は厚生労働省、学校の所管は文部科学省、環境保全の所管は環境省で、各省庁に分かれて管理されます。(pp.18-19)

1-5.
【一般衛生行政】(地域保健行政)
 地域社会の一般生活を対象とするのが一般衛生行政です。[国(厚生労働省)―都道府県(衛生主管部局)-保健所(都道府県、政令指定都市、中核市、その他指定された市または特別区が設置)-市町村(衛生主管課係・市町村保健センター)]の体系が確立されています。保健所は地域保健推進の広域的な拠点と位置づけられ、健康増進、感染症、疾病の予防、食品、環境衛生、母子、老人保健、歯科・精神保健、医療薬事、公共医療事業にかかわる事柄など保健活動の中心的機関としての役割を担っています。市町村保健センターは、地域住民に身近なサービスを総合的に行う拠点であり、市町村レベルでの健康づくりを進める役割を担っています。行政の規模により、保健所と市町村保健センターの機能・業務が異なる場合があります。(p.19)

3 manolo 2013-09-07 03:06:31 [PC]

1-6.
【労働衛生行政(産業保健行政)】
 労働者の職業性疾病の予防、健康の保持増進および快適な職場環境の形成を目的として行われます。厚生労働省労働基準局安全衛生部において所管されます。第一線の業務は、厚生労働省直轄の都道府県労働局と管内の労働基準監督署で行われています。
 現場労働者の健康確保のためには、①作業の管理、②作業環境の管理、③労働者の健康管理の3つが有機的に機能する必要があります。(p.19)

1-7.
【学校保健行政】
 学校保健は、「学校における保健教育及び保健管理」(文部科学省設置法4条12項)と定義されています。児童生徒に、心身ともに健康で充実した生活を営む能力を身につけさせるために、保健教育と保健管理、保健活動の推進が総合的に行われます。原則として、[国(文部科学省)-都道府県(教育委員会)-市町村(教育委員会)-学校]という体系で行われます。(p.19)

1-8.
【環境保健行政】
 環境要因が健康に及ぼす問題を扱う環境保健行政は、環境保全対策とあわせて環境省が総合的に推進しています。(p.19)

1-9.
【わが国の保健対策】
 わが国の保健対策として、健康推進、生活習慣疾病対策、母子保健、老人保健障害児・者対策、精神保健、歯科保健、感染症・HIV・結核などの対策・予防接種、がんや難病などの疾病対策、医療対策などが行われています。(pp.19-20)

1-10. 3. 政策としての健康づくり
【予防の概念】
 保健医療福祉領域での予防の概念には、①第1次予防、②第2次予防、③第3次予防があります。第1次予防は、おもに健常者を対象に食事・運動など生活習慣の見直しやストレスマネージメントを行ったり、筋力トレーニングを行ったりして、疾病や要介護状態にならないようにするものです。予防接種などや環境整備、外傷予防なども含まれます。第2次予防は健康診断などで疾病を早期発見し、早期治療につなげることです。第3次予防は疾病の悪化を予防するために適切な治療を行ったり、社会復帰のためのリハビリテーションを行ったりする活動です。わが国の以前の保健行政では、疾病の早期発見のための健康診断を中心とする第2次予防に力が注がれていましたが、2003年に健康増進法が施行され、第1次予防やヘルスプロモーションにも重点がおかれるようになりました。(p.20)

4 manolo 2013-09-07 03:09:33 [PC]

1-11.
【ヘルスプロモーション】
 1886年にカナダのオタワで開かれ第1回ヘルスプロモーション国際会議で採択された「オタワ憲章」で、「ヘルスプロモーションとは、人々が自らの健康をコントロールし、改善することができるようにするプロセスである。」と定義されました。ヘルスプロモーションが目指すものは「すべての人々があらゆる生活の場面で健康を享受できる公正な社会を作ること」。「健康は毎日の生活のための資源であって、それ自体が人生の目的ではない。」とも記されています。(p.20)

1-12.
 また同憲章では、健康のための基本的条件源として、平和、住居、教育、食物、経済的収入、安定した生態系、持続可能な生存のための資源、社会的公正と公平性を挙げています。健康のためには、保健医療サービス以前に、これら基礎的前提条件が大切であることを認識する必要があります。そして、目標実現のための活動方法として、健康な公共政策づくり、健康を支援する環境づくり、コミュニティー活動の強化、個人の能力の開発、疾病治療にとどまらずヘルスプロモーションの方向へ保健医療サービスを見直すことが必要とされます。(p.20)

1-13.
 オタワ憲章以来、ヘルスプロモーションを取り巻く背景は著しく変化し、不平等の増加、コミュニケーションや消費形態の変化、環境の悪化など、健康に影響を及ぼす重大な要因が生じました。そのため、2005年のバンコク憲章ではグローバル化する世界でのヘルスプロモーション展開のための戦略として、①人権と連帯に基づいた健康の提唱、②健康の決定要因に焦点を当てた持続的な政策・活動・社会基盤への投資、③政策展開、リーダーシップ、ヘルスプロモーション実践、知識移転・研究、健康リテラシーを身につけるための能力開発、④すべての人々の健康と福祉のため、有害事象から保護し平等な機会を保障するための規則と法の整備、⑤持続的活動のための組織をこえた連帯が求められました、(pp.20-21)

5 manolo 2013-09-07 03:11:14 [PC]

1-14.
 ヘルスプロモーションには、健康実現のための環境を整えることと、個人やコミュニティのパワーを高めること(*エンパワメント)が車の両輪のように大切です。ヘルスプロモーションにおけるエンパワメントとは、健康に影響を及ぼす行為や意思決定を、人々がよりよくコントロールできるようになるプロセスです。個人のエンパワメントとは、個人が意志決定したり、個人の生活をコントロールできるようになる能力を促進することを指します。コミュニティのエンパワメントとは、コミュニティにおける健康の決定因子や生活の質をコントロールし、個人的行動の集積で大きな影響を与えられるように促すことを指し、コミュニティの保健活動の大切なゴールでもあります。このエンパワメントの過程で健康心理学の果たす役割はとても大きいといえます。(p.21)

*エンパワメント
「自らの生活を決定する要因を自己統御する能力を高めること」である。また「他者と共同で何らかの目的を達成することができる自己能力を高めること」ともいえる。(p.21)

1-15. 4. 今後の課題
 昨今のわが国でも経済状態に格差が生まれ、国民が受けられる医療サービスにも格差が生じはじめています。また中央と地方の格差も生じ、政策立案者と現場の間の認識にも格差が生じる危険性をはらんでおり、住民や地域社会が主体となる健康施策を実施する必要がますます高まりました。住民や地域社会の抱える問題点をきちんと把握し、可能な限り科学的根拠を重視した保健施策を行うことが大切です。その効果をコストも含めてきちんと評価しフィードバックすることも必要です。(p.21)

*科学的根拠の重視
 Evidence-based Decision Making(科学的根拠に基づく意思決定)は、より科学的な根拠に基づいて意思決定する方法である。従来から行われていた。特定領域の権威者や先例に基づく意思決定の方法に対して用いられることが多い。(p.21)
 
1 manolo 2013-08-25 00:52:20 [PC]


253 x 200
出典:『よくわかる子ども家庭福祉(第5版)』、山縣文治編、ミネルヴァ書房、7/20/2007、(「5. 子どもとは何か」)pp.12-13


1-1. 1. 子どもとは何か
 「子どもとは何か」という質問に的確に答えるのはなかなか難しいものです。一般によくある答え方は、年齢を基準にした答え方ですが、社会的成熟度のようなものを基準にした答え方もできます。こども家庭福祉論においては、一般にこどを次のような存在と考えます。

①一個の独立した人格であること。
②*受動的権利(保護される権利)と同時に、能動的権利(個性を発揮する権利)も有する存在であること。
③成長発達する存在であり、それを家族や社会から適切に保障されるべきこと。(p.12)

*受動的権利と能動的権利
子どもの権利保障の歴史においては、ジュネーブ宣言や児童権利宣言で、まず受動的権利の保障が明らかにされ、児童の権利に関する条約において、能動的権利保障の姿勢が明らかにされた。(p.12)

2 manolo 2013-08-25 01:01:02 [PC]

1-2. 2. 子どもと児童
 「子ども」と表現するか、「児童」と表現するかについては、人によって考え方が分かれるところです。わが国では、法律や制度では「児童」という表現がよく用いられますが、日常会話では逆に「子ども」という表現の方がよく用いられます。年齢のイメージが異なるという考え方もありますが、これは制度や社会があとでつけた意味であり、両者の本質的な違いを示すものではありません。本著では、子ども家庭福祉という言葉にこだわっていますが、これはⅠ-1で示したように、従来は児童福祉と言われてきた内容であり、現在でも一般には児童福祉と表現されることの方が多いのも事実です。(p.12)

1-3.
 児童の権利に関する条約の日本語訳を作る際も、こどもの権利条約とするかどうかで、大きな議論がありましたが、結局は法律や制度がよく使用する「児童」という表現の国と締約したという経緯があります。ただし、国では一般には「子どもの権利条約」と表現することも否定していません。たとえば、「児童」ということばを小学生とほぼ同様の意味で使うことが多く混乱を招く、また思想的にも「子ども」という表現が妥当であるという主張が見られた教育現場では、当時の文部省の担当者から『「児童の権利に関する条約」について』(1994年5月20日付 文部事務次官通知)の8項目で、「本条約についての教育指導に当たっては、「児童」のみならず「こども」という語を適宜使用することも考えられること」という通知が発せられています。(p.12)

1-4. 3. 子どもの定義の類型
 法律的に子供を定義する場合は、年齢による場合が多いようです。ここでは、年齢による定義の類型をいくつか取り上げてみます。また、年齢による定義のほとんどは、子どもの終了年齢を定義しているのみで、いつからが子どもなのか、たとえば、胎児を子どもとみなすかどうかなどについては定義していません。遺産の相続などでは、これが大きな問題となり、胎児も含まれることになっていますが、特に定義をしていない場合は、出生後を指していると考えるのが一般的なようです。ちなみに、児童の権利に関する条約では、各国の判断に委ねるとしています。(p.13)

3 manolo 2013-08-25 01:04:41 [PC]

1-5. ①年齢を定めない場合
 年齢を定めていない代表的な法律は民法です。これは親子の関係を示す意味で「子」と表現しています。親が存在する限りにおいて、子はいつまでも関係性においては子であるということになります。ただし、20歳未満の者を「未成年」と呼び、子ども的な意味合いを持たせています。(p.13)

1-6. ②20歳未満を指している場合
 母子及び寡婦福祉法、特別児童扶養手当等の支給に関する法律などが、これを児童として定義しています。*少年法では、これを少年として定義しています。この他にも、「20歳に満たない者」「未成年」などの名称を使っているものに、未成年者禁酒法禁止法、未成年者喫煙禁止法などがあります。(p.13)

*少年法による少年の定義
少年法では、少年をされに犯罪少年(14歳以上で刑罰法令に触れる行為を犯した少年)、触法少年(14歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年)、ぐ犯少年(20歳未満で、その性格または環境に照らして、将来、罪を犯し、又は刑罰法令に触れる行為をするおそれのある少年)の3つに分けている。(p.13)

1-7. ③18歳に達する日以降の最初の3月31日までの間にある者を指している場合。
 児童扶養手当法、児童手当法などがこれにあたります。これは、手当の支給を年度途中で切らないという考え方に基づいています。(p.13)

1-8. ④18歳未満の場合
 児童福祉法、児童売春・受動ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律などがこれにあたります。児童福祉法では、児童をさらに、乳児(満1歳に満たない者)、幼児(満1歳から、小学校就学の始期に達するまでの者)、少年(小学校就学の始期から、満18歳に達するまでの者)としています。(p.13)

1-9. ⑤その他
 学校教育法では、幼稚園児を幼児、小学生を学童児童、中学生を学齢生徒、高校生を生徒、大学生を学生と呼んでいます。道路交通法では、6歳以上13歳未満者を児童、労働基準法では15歳未満の者を児童と定義しています。(p.13)

4 manolo 2013-09-02 15:52:55 [PC]

出典:『人権入門 憲法/人権/マイノリティ(第2版)』、横藤田誠&中坂恵美子、法律文化社、11/20/2012、(「第12講 子どもは人権の主体?保護の対象?―子どもの人権)pp.138-149

2-1. 1. 子どもは人権の主体?
【こどもは権利の主体】
 子どもにも人権はあるの?・・・権利にもいろいろあって、私法上の権利(債権・物件など)は義務と対応しているが、憲法はそもそも人権を保障するのが目的だから、義務を規定するのは例外にすぎない。憲法が保障する自由権や社会権などを子どもがもつのは当たり前のことだ。(p.139)

2-2.
 実際、子どもを「権利の主体」と見るようになったのはそんなに古い話ではない。J・S・ミルは『自由論』(1859年)の中で、「社会は彼ら〔社会の成員〕」の人生のはじめの期間中、ずっと彼らに絶対的権利をもっていたのだ。……現存の世代は、きたるべき世代の訓練とすべての環境とを、意のままにすることができる」と述べている。近代の人権理念形成の経緯を考えれば、これは当然ともいえる。身分制から解放され、国家と直接向き合うことのできる「強い個人を」を人権の主体と考えていたからだ。家族の中で家長(多くは父親)のみが権利の主体で、家長は子どもを意のままに教育できるということになる(家父長制)。(p.139)

2-3.
 「子どもの権利」という概念が出現したのが、産業化・大衆社会化の進行に伴って、家父長制の保護・教育機能が衰退し、家族における子どもの保護・教育に対して国家の介入が本格的に始まった19世紀後半以降のことだ。この頃、欧米では無償の義務教育制度や少年裁判所制度が成立する。それらの制度形成のシンボルが「子どもの最善の利益」とともに、「子どもの権利」だった。

2-4.
 子どもの権利が全世界的に注目された結果として生まれたのが、「児童の権利に関するジュネーブ宣言」(1924年、国際連盟第5会期採択)だ。同宣言は、「すべての国の男女は、人類が児童に対して最善のものを与えるべき義務を負うとし、「児童は、身体的ならびに精神面の両面における正常な発達に必要な諸手段が与えられなければならない」といった内容を規定している。(pp.140-141)

5 manolo 2013-09-02 16:36:19 [PC]

2-5.
 第二次世界大戦後、国際連合も、「児童の権利に関する宣言」(1959年)で、「人類は児童に対し、最善のものを与える義務を負う」と確認した。「児童の権利」と称されてはいるが、ジュネーブ宣言と同様、子どもは「特別の保護が必要である」というスタンスで貫かれている。つまり、子どもは未成熟な存在であり、その利益は親または国家によって客観的に、子どもの現在の意思とは無関係に判定されるというパターナリズムの哲学に基づくものであった。(p.140)

2-6.
 自由権を中心とする人権を子どもも享有するという見方が、広く認められるようになったのは、ようやく1970年前後からだ。アメリカの連邦最高裁判所のティンカ―判決(1969年)は、子どもが憲法にいう「人」であり、言論の自由を有すると明言した。この延長線上にあるのが児童の権利条約(1989年)だ。

2-7. 子どもの人権の特殊性
 この段階で、「子どもの権利」論は以下のようなバリエーションをもつようになったといえる。①親による虐待・遺棄、使用者による酷使、危険な環境から子どもを保護するよう主張するもの(「保護」)、②親の支配から子どもを解放し、大人と同等の権利をすべての子どもに保障するように主張するもの(「自律」)、③大人に保障される権利を制限的にではあるが、可能な限り子どもにも保障するよう主張するもの(「保護+自律」)。欧米でも②の主張は例外にとどまるようだが、日本では③の立場が圧倒的で、どちらかといえば「保護」が強調される傾向にある。

2-8.
 戦後の代表的な憲法学者は、こう述べている。「人間の主体としての人間たる資格がその年齢に無関係であるべきことは、いうまでもない。しかし、人権の性質によっては、一応その社会の成員として成熟した人間を主として眼中に置き、それに至らない人間に対しては、多かれ少なかれ特例をみとめる事が、ことの性質上、是認される場合もある。」(宮沢、1971、p.246)。また、別の学者も言う。「子どもが成長・成熟のために最も必要としているのは〈関係〉であって、権利の名の下で孤立化された利益ではない。〈権利〉は〈関係〉を保障しないのである。〈権利〉の文字通りの貫徹が予期せぬパラドックスを生み出す理由はここにある」(森田、1999、p.95)(p.140)

6 manolo 2013-09-02 17:08:33 [PC]

2-9.
 一般に、子どもは大人よりも保《保護》の必要性が強いことは認めなければならない。憲法に特に子どもに焦点をあてた権利がある(教育を受ける権利〔26条〕、児童酷使の禁止〔27条3項〕)のは、このことの現れだ。法律上も、職業の制限(労働基準法56条以下)、種々の福祉の措置(児童福祉法)、財産上の行為の制限(民法5条)、飲酒・喫煙の禁止(未成年者飲酒禁止法1条、未成年者喫煙禁止法1条)など、多くの保護規定がある。(p.141)

2-10.
 自由権については、基本的には子どもの自律的選択に委ねられるべきであるが、一定の「保護的干渉」が必要であると見られている。つまり、「限定されたパターナリスティックな制約」を認めるということだ。親の教育権との関係で、子どもの思想・良心・宗教の自由を制限されたり、子どもの未成熟性を考慮して、表現の自由、性的行為の自由に制限が加えられることは十分考えられる。(p.141)

2-11.
 子どもの問題を人権(自律)の貫徹のみで解決することができないのは、以上の点に加えて、家族の自律性を破壊し、結局子どもにとって不幸な結果を招かないか、また、家族から解放された子どもを政府権力による抑圧や疎外から誰が守るのか、といた懸念もあるからだ。(p.141)

2-12. 子どもの人権の制約の正当性
 常識的にある程度子どもの人権制約を認めざるをえないとしても、具体的にどのような権利をどの程度制約できるか、判断は難しい。まだ議論が熟しているとはいえないけれども、いくつかヒントはある。(p.141)

2-13.
 まず、人権を、一定の行為をするかどうかの選択を内容とする権利(精神的自由、職業選択の自由、自己決定など)と、反対の行為を追求する自由を保障しない権利(拷問・虐待を受けない権利、不合理な捜索・押収を受けない権利、手続き的権利など)に分け、前者については、子どもの未成熟性を根拠に一定の制約を認める見解がある。後者の権利は大人と同等に認めるというもので、妥当な考えだ。ただ、合理的な判断能力を身につけるには自由を行使する練習が必要という点には注意する必要はあるだろう。(pp.141-142)

7 manolo 2013-09-02 23:43:28 [PC]

2-14.
 次に、子どもを①人格主体、②成長途上の存在、③将来の大人という3つの属性に分け、それぞれに保障されるべき権利をあげるという考えがある。①では拷問を受けない権利、差別されない権利など(前述の選択を内容としない権利に相当)、②では知る権利(有害図書への接近)など、③では教育を受ける権利などが想定されている。(p.142)

2-15. 2. 児童の権利条約
児童の権利条約の内容
 子どもの権利の問題を考えるにあたって、憲法とならんで重要なのが、児童の権利条約である。1989年に国連総会で採択され、翌年発効したこの条約を、日本は1994年、世界で158番目にようやく批准した。この条約の内容は極めて豊かであり、しかも1つの条項で複数の権利を保障することもあるが、あえて図式的に分ければ、①一般原則、②大人と同様に子どもにも保障される権利で選択を内容とするもの、③大人と同様に子どもにも保障される権利で選択を内容としないの、④子どもを特に保護する権利、の4つになる。(p.142)

2-16.
 ①一般原則として、差別の禁止(2条)、子どもの最善の利益の保証(3条)、生命・生存・発達の権利(6条)、子どもの意見発明権(12条)がある。権利条約の最大のポイントは、意見表明権を明記したことだ。「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」。「自律」を重視する権利条約の象徴的な規定だと言えるが、「年齢及び成熟度に従って相応に考慮」という限定がついており、「保護」の要請にも目配りしている。(pp.142-143)

2-17.
 ②の権利には、表現の自由(13条)、思想・良心・宗教の自由(14条)、結社・集会の自由(15条)などがある。「自律」の重視という権利条約の性格を劇的に示すものだ。しかし、他者の権利・自由、公共の安全・秩序・健康・道徳といった、大人の場合でも権利制約の理由となりうる事項に加えて、思想・良心・宗教の自由については、親の養教育権を考慮して、「父母……が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務」に言及している点に注意が必要だ。(p.143)

8 manolo 2013-09-02 23:48:01 [PC]

2-18.
 ③には、プランバシー・名誉の保護(16条)、健康・医療への権利(24条)、社会保障への権利(26条)、人身の自由(37条)、非行少年に対する手続的保障(40条)などが含まれる。これらの権利は、選択を内容とせず権利行使に判断能力が前提とされないから、原則として大人と同等に保障される。(p.143)

2-19.
 ④は、子どもを特に保護する、次のような多くの権利を含む。登録・氏名・国籍等に関する権利(7条・8条)、監視下の虐待・搾取等からの保護(19条)、教育への権利(28条)、少数民族に属する児童の文化・宗教・言語についての権利(30条)、遊びへの参加権(31条)、有害労働から保護される権利(32条)、麻薬・性的搾取・虐待からの保護(33条~36条)など。(p.143)
 
1 manolo 2013-09-01 22:09:56 [PC]


500 x 323
出典:『よくわかる憲法』、工藤達朗編、ミネルヴァ書房、5/3/2006、pp.128-129 (「IX-1. 人権の限界(1):基本的人権と公共の福祉」)

1-1. 1. 基本的人権の保障と制約
 憲法の保障する基本的人権も、決して絶対的なものではない。多数の個人からなる社会では、ある者の表現行為が他者の名誉やプライヴァシーを侵害するなど、各人の権利行使が相互に抵触することがある。その場合、それぞれの権利が一定の制約を受けるのはやむを得ない。フランス人権宣言のいうように、「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する」(4条)からである。(p.128)

1-2.
 人権の保障と制約の問題は、わが国では、日本国憲法の下で初めて生じた。明治憲法の権利保障は、*法律の留保を伴うほか、**緊急勅令(旧8条1項)や、***非常大権(旧31条)の制限にも服していた。天皇が付与した臣民の権利は、初めから、政治の必要があればいつでも制限し、剥奪し得るものだったのである。(p.128)

*法律の留保
憲法の権利保障にあたって、「法律ノ範囲内ニ於テ」あるいは「法律ニ定メタル場合ヲ除ク外」などの条件を付すること。法律に基づく限り、いかなる権利制限も許されることになる。(p.128)

**緊急勅令
明治憲法下では、天皇は、帝国議会閉会時に緊急の必要がある場合、法律と同一の効力をもつ勅令を発することができた(8条)。1928(昭和3)年の治安維持法改正が、その一例である。(p.128)

***非常大権
明治憲法下では、「戦争又ハ国家事変ノ場合」に、臣民の権利規定の全部または一部を停止することが認められていた(31条)。実際には、一度も発動されたことがない。(p.128)

2 manolo 2013-09-01 22:13:36 [PC]

1-3.
 日本国憲法は、人権の不可侵性を認めた(11条、97条)。だが、人権制約を予定する規定を置いてもいる。国民に人権の濫用を禁止し、「公共の福祉のためにこれを利用する責任」を課すとともに(12条)、人権の最大の尊重に「公共の福祉に反しない限り」との限定を付したのがそれである(13条後段)。個別の人権規定にも、公共の福祉を謳うものがある(22条1項、29条2項)。そこで、この「公共の福祉」により基本的人権を制約し得るか否かが論じられてきた。(p.128)

1-4. 2. 公共の福祉論
 第一説は、広く公共の福祉により人権制約を認める。憲法は条文ごとに自由の限界を示してはいないが、無制限ではなく、社会生活と両立しない自由は制約を受けなければならないという。かかる人権の限界を示したのが公共の福祉(12条、13条)であり、人権は公共の福祉の範囲内でのみ認められる。ただし、公共の福祉に反するか否かは、国民代表の制定する法律で定めなければならない。憲法による人権保障の意義は、この法律主義の徹底にあるとしている。(p.128)

1-5.
 しかし、公共の福祉の内容を問うことなく抽象的に人権制限の根拠とするならば、少なくとも立法権に対しては。憲法による人権保障の意義がほとんど失われてしまうことになろう。(p.128)

1-6. 
 第二説は、22条1項や29条2項など特に公共の福祉の定めがある場合を除き、公共の福祉による人権制限を認めない。12条は国民に人権保持の努力を求め、13条は個人の尊重を謳った、いずれも宣言的規定であって、国家権力による権利制約を認める趣旨ではないとする。もとより、人権も絶対無制限なものではなく、個人が国家や社会を構成している以上、恣意的な行使や濫用が許されないとの制限を当然に内包している(内在的制約)。だがそれは、権利・自由に外から加えられる政策的制約とは異なるという。(pp.128-129)

1-7.
 この見解は、12条、13条には法規範性はなく、人権制約の根拠とはならないとする。故郷の福祉による政策的な制約は、個別規定に明示された経済的自由の場合にのみ許されるというのである。だが、とりわけ13条は*包括的人権の根拠規定とみなされており、その法規範性を否定するのは妥当ではない。(p.129)

*包括的人権
憲法に明文の規定はないが、なお憲法の保障を受けるとされる一定の権利がある。(p.129)

3 manolo 2013-09-01 22:25:04 [PC]

1-8.
 そこで第三説は、13条に法規範性を認め、公共の福祉を人権制約の根拠としつつも、その内容を限定しようとする。同条は、個人の尊重(前段)という人権保障の基礎を謳った規定であり、公共の福祉(後段)もこれを調和し得るよう厳格に解されねばならない。最大の尊重を必要とする人権を制約し得るのは、何よりもまず、等しく尊重さるべき他者の人権であって、そこにいう公共の福祉とは、権利に内在する必要最小限の制約を意味する(自由国家的公共の福祉)。他方、22条や29条の公共の福祉は、憲法が社会権(25~28条)を保障していることから、これと対立する経済的自由に政策的な制約を認めたものと解される(社会国家的公共の福祉)。個別の条項に改めて規定された公共の福祉は、総則的規定たる13条のそれとは意味内容を異にするのである。(p.129)

1-9. 3. 公共の福祉の運用
 判例は、初期から現在に至るまで、公共の福祉による人権制約を広く容認してきた。職業選択の自由(最大判昭和30年1月26日刑集1号89頁)や財産権(最大判昭和37年6月6日民集16巻7号1265頁)といった経済的自由のみならず、わいせつ文書の規則(最大判昭和32年3月13日刑集11巻3号997頁)や選挙運動の制限(最大判昭和44年4月23日刑集23巻4号235頁)など、精神的自由についても同様である。その際、公共の福祉を抽象的にとらえて、ただ法律の目的が正当だというだけで、たやすく合憲とした例も少なくない。(p.129)

1-10.
 かつては最高裁判所も、公務員の労働基本権(28条)の制限につき、内在的制約論の見地から、人権制約により得られる利益と失われる利益を衡量して(比較衡量論)法律の制限を、法律の制限を限定的に解していた時期があった(最大判昭和41年10月26日刑集第20巻8号901頁等)。だがその後、判例変更によってこの立場は放棄され、法律による制限を全面的に合憲とする立場に復している(最大判昭和48年4月25日刑集27巻4号547頁等)。(p.129)

1-11.
 基本的人権は、確かに、公共の福祉の制約を受ける、しかし、人権の限界や制約の問題は、単なる一般論にとどまってはならず、個別の事案に即した具体的な考察が必要である。抽象的な公共の福祉を根拠にたやすく制限を認めるならば、人権保障の意義を大きく損なってしまうからである。(p.129)

4 manolo 2013-09-01 22:28:46 [PC]

出典:『よくわかる憲法』、工藤達朗編、5/3/2006、ミネルヴァ書房、pp.130-131 (「IX-2. 人権の限界(2):二重の基準の理論」)

2-1. 1. 公共の福祉論の限界
 基本的人権の保障も絶対的ではなく、公共の福祉による制約を受ける(13条)。だが、重要なのはむしろ、ある法律の課した人権制限が、憲法上許される正当なものか、それとも人権侵害であり憲法に違反するか、という具体的な問題である。学説は公共の福祉という抽象的な概念の代わりに、違憲審査で用いられる判断基準をいくつか呈示してきた。(p.130)

2-2. 2. 違憲審査とその基準:*司法消極主義の立場から
 違憲審査とは、国家行為の憲法適合性を審査し、有権的に決定することをいう。従って、違憲審査の基準は「憲法」である。だが、一般に憲法とりわけ人権規定は簡潔であり、その文言に依拠するだけでは合憲・違憲の判断が困難な場合も少なくない。むしろ、**機能的視点を取り入れた審査基準を形成することが有益であろう。(p.130)

*司法消極主義
裁判所は、違憲審査に際して、政治部門の判断を尊重すべきだとする考え方。法律は原則として合憲性の推定を受け、その違憲判断はできるだけ回避すべきものとされる。(p.130)

**機能的視点を取り入れた審査基準
法律の合憲性が争われたとき、違憲審査権を有する裁判所(81条)がどのような態度でこれを行使すべきかという観点から構成された基準。裁判所は、法律に現われた国会の判断に対して、どの程度積極的に自らの憲法解釈を代置すべきなのか。このときには、いかなる問題が政治部門の判断に適し、いかなる問題が裁判所の判断に適するのかという点が重要となる。(p.130)

5 manolo 2013-09-01 22:31:50 [PC]

2-3.
 そもそも裁判所が違憲審査権を行使する際には、慎重な考慮が必要となる。憲法は、国民代表たる国会(43条1項)を国権の最高機関とし(41条)、立法その他の重要な権限を与えた。民主制の過程から独立した地位にある裁判所(76条3項参照)が、政治部門の行為をたやすく違憲無効とするならば、国民意思の軽視という批判を招きかねないからである。そこで、司法の自己抑制(消極主義)が唱えられてきた。(p.130)

2-4.
 だが、*付随的審査制の下では、違憲の主張は当事者の権利救済の法的根拠として提出されるから、抑制的な審査ばかりを強調するならば、個人の権利保護という裁判所本来の職務に背くであろう。政治部門の判断の尊重と個人の権利救済という、時に相反する要請の調和を図ることが肝要である。(p.130)

*付随的審査制
裁判所が、司法権執行に付随して違憲審査を行う制度。(p.130)

2-5. 3. 二重の基準論
 このような観点から、学説では二重の基準という考え方が広く支持されている。一般に、表現の自由を中心とする精神的自由は、経済的自由に対して優越的地位に立つという。表現の自由は、個人の人格形成とその発展のために重要であるとともに、民主制の過程が成立するための不可欠の前提をなす。それゆえ、表現の自由その他の精神的自由は、憲法上、経済的自由より強く保護され、裁判所の違憲審査においても、精神的自由を制限する法律の審査基準は、経済的自由を制限する法律のそれより厳しくあるべきだというのである。(pp.130-131)

2-6.
 通常、精神的自由の場合には*厳格な基準が、経済的自由の場合には**合理性の基準が用いられるべきだとされる。精神的自由よりも経済的自由を制限する法律の方が合憲となりやすいが、その場合、仮に不都合な事態が生じても、民主制の通程自体を傷つけることになるから、裁判所が積極的に介入すべきなのである。(p.131)

*厳格な基準
自由を制限する法律の立法目的が、極めて重大な(已(や)むに已(や)まれぬ)利益をもち、かつ規制手段がその目的達成のために必要不可欠である場合に限って、当該法律を合憲とする判断基準。(p.131)

**合理性の基準
法律の立法目的が正当であり、規制手段が当該目的と合理的関連性を有するならば、法律を合憲とする判断基準。(p.131)

6 manolo 2013-09-01 22:35:46 [PC]

2-7.
 こうした考え方は、アメリカの判例によって形成されてきたものだが、日本国憲法の解釈にも適合的であった。憲法は、経済的自由が「公共の福祉」により制限されることを予定しているのに対し、(22条1項、29条2項)、精神的自由(19条、20条、21条、23条等)には、そのような制限を置いていないからである。(p.131)

2-8. 4. 判例とその問題点
 小売市場距離制限事件(最大判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁)で、最高裁は、経済活動の規制は、社会公共の安全と秩序の維持のための消極的規制のほか、精神的自由の場合と異なり、国の責務たる積極的社会経済政策の実現のための規制も許されるとした。社会経済分野における法的規制の必然性、対象、手段・態様の決定は立法府の使命であるから、裁判所はその裁量的判断を尊重すべく、立法府が裁量権を逸脱し、規制が著しく不合理であることの明白である場合に限って違憲とすることができるという。(p.131)

2-9.
 他方、薬事法事件(最大判昭和50年4月30日民集29巻4号572頁)では、最高裁は、①22条1項は職業活動の自由を保護するが、職業は社会的相互関連性が大きいから、精神的自由に比較して公権力による規制の要請が強い。②多様な職業に対する具体的な規制を決定するのは、立法府の権限と責務である、裁判所はその判断を尊重すべきではあるが、合理的裁量の範囲にも事の性質上自ずから広狭がある。③規制が積極的目的でなく、消極的・警察的目的の場合、許可制をとるには、より緩やかな規制では目的が十分に達成できないことを要すると、述べた。その上で、④薬事法に規制は、国民の生命及び健康に対する危険防止という消極的・警察的目的の規制だが、薬局設置場所の地域的制限のような強力な制限は、目的と手段の均衡を著しく失し合理性が認められないとして、違憲判断を下した。(p.131)

7 manolo 2013-09-01 22:36:26 [PC]

2-10.
 これらの判決は、一見、二重の考え方を採ったようにみえる。だがそれは、経済的自由の規制を正当化する文脈で述べられたものであった。本来、該理論の意義は、精神的自由と経済的自由を区別し、前者に優越的地位を認めて裁判所の厳格な審査を根拠づけるところにある。だが最高裁には、精神的自由の規制が問題となった事件で、*二重の基準論を用いて法律の合憲性を審査した例は存しない。該理論に対する理解の妥当性が問われるところである。(p.131)

*もっとも、最高裁も、集会の自由をめぐる規制をめぐる事件で、精神的目的の優越性に配慮する判断を下したことがある。(最判平成7年3月7日民集49巻3号687頁、最判平成8年3月15日民集50巻3号549頁)。だが、それらは、行政行為の合法性判断に関わる事例であった。(p.131)