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材大なれば用を為し難し

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被リンク集めでSEO対策1 Ryou 2014-06-21 19:18:38 Ryou
しかしながら1 Ryou 2014-06-06 21:05:43 Ryou
佐々木君の報告の中に1 Ryou 2014-06-06 21:05:24 Ryou
オシラ神のことについては1 Ryou 2014-06-06 21:05:03 Ryou
東北文化の研究1 Ryou 2014-06-06 21:04:39 Ryou
しかしてその配下の人民が1 Ryou 2014-06-06 21:03:49 Ryou
『保暦間記』によると1 Ryou 2014-06-06 21:03:28 Ryou
奥州平定の当時1 Ryou 2014-06-06 21:02:54 Ryou
この時、葛西・伊沢ら1 Ryou 2014-06-06 21:02:32 Ryou
乱平定の後、1 Ryou 2014-06-06 21:01:47 Ryou
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1 Ryou 2014-06-21 19:18:38 [URL]

SEO対策は難しそう、自分でもできるのかわからないという声を多く聞きます。しかし、そんなSEO対策の中でも、比較的簡単ですぐにできるSEO対策というものがあります。
それは、ずばり被リンク集めです。この被リンクとは、リンクされている状態の事です。多くのサイトなどからリンクをされればされる程、SEO対策の効果があがると考えられています。さらにこの被リンクは数はもちろんの事、質なども考慮されています。
この被リンクを増やす方法ならばとてもわかりやすくもありますし、どなたも気軽に行う事ができると言えるでしょう。このように、被リンク集めでしたら自分にはできないかもしれないと思っていた方でも、比較的簡単にSEO対策に踏み出す事ができると言えるのではないでしょうか。
SEO対策に興味を抱いていたなんていう人は、これらの事を参考にし、まずは被リンクから手をつけてみてはいかがでしょうか。そうすればきっと成功しやすくなると言えるでしょう。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:05:43 [URL]

しかしながら、それが事実でない事は、その実体がその実間竿の切れではなくて、ただの細い竹であることからでも裏切られる。或いは当初間竿の切れで作ったのであったが、後にそれにならってただの竹で作ったと言うかもしれぬ。しかしそれにしても、ふつうに男女二体並んでいることが、たんに宮内大輔様では不似合である。のみならず、それが奥州方面でふつうにオシラ様と呼ばれているものと同一系統に属するものであることは、その実物や行事を一見しても明らかなことで、何もわざわざ酒井家領分の庄内限りにしか通用しないような、窮屈な説明を必要としないのである。佐々木君に従えば同じ山形県でも酒井家の領分を離れた山形地方では、オクメナイ様といっているという。してみればオクナイ実はオクメナイの略称かもしれぬ。いずれにしてもこれは宮内大輔の領分なる庄内限りのものではなく、広く奥羽地方に、いなおそらくは、さらに他地方にも行われたものとして、一般的に通用する説明を求めねばならぬ。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:05:24 [URL]

 佐々木君の報告の中に、黒川友恭著「荘内方言考」を引いて、山形県荘内地方では、他の地方ではオシラ神というものを、オコナイ様というとの事が見えていた。文藝春秋所載柳田君の「オシラ神の話」にも、真澄翁の「月の出羽路」に、このオシラ神をオコナヒガミ(行神)というところありとの記事があることを引いておかれた。
 オコナヒあるいはオクナイともいう。その義如何。
 これはオシラということの意味の不明であると同様に、まったく不明である。しかし庄内地方では、すでに佐々木君も引いておられたように、ふつうにこれを藩祖酒井宮内大輔忠勝に関係して説明している。忠勝入国の際検地が案外寛大であったので、農民その徳を頌し、土地を測るに用いた間竿を切って神に祭ったのだというのである。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:05:03 [URL]

 オシラ神のことについては、これまでにもすでに柳田、佐々木の両君をはじめとして、少からずその説が学界に紹介せられている。しかしながらそれは主として現代における奥州方面のことであって、過去の事、また他の地方のことは、あまり多く紹介せられておらぬかに見受けられる。所変れば品変る、難波の芦は伊勢の浜荻だなどと、いまさら事新しゅう言うまでもないが、もとは同一根原のものであっても、地方により、時代によって、名称も違えばこれに関する伝説も変ってくる。余輩はそれらの違った材料をなるべく多く集めて、また変った立場からの見解をも広く尋ねて、これを綜合した上にはじめてこの神の由来沿革を明らかにすることを期待する。前記佐々木喜善君も引き続きその薀蓄を発表せられるべく予約せられた。東大史料編纂官たる鷲尾順敬博士も、博士の仏教的見地から採訪せられたる資料について、不日高見を寄せらるべく承諾せられた。願わくば各地の同好者諸君、この機会をもって続々見聞せられたところを御報告くだされたい。これが説明のために写真またはスケッチを添えられることはもっとも歓迎するところである。
 取りあえず本号には、羽前庄内地方のオクナイ様のことを紹介して、次にいささかこれに関する臆説を述べてみたい。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:04:39 [URL]

 東北文化の研究については、土俗上、信仰上、見のがすことのできないものの一つにオシラ神がある。オシラ神の事については、ことにこの方面の研究にはなはだ多くの薀蓄を有せられる佐々木喜善君の報告を、本誌創刊号上において紹介するを得たことを光栄とする。たまたまこれと時を同じゅうして、わが郷土研究界の権威なる柳田國男君が、「オシラ神の話」と題する興味深い一文を文藝春秋の九月号に発表せられた。けだしこの神に関する研究が、ますます盛んになろうという機運の到来したものといわねばならぬ。もしこれをこの神の威霊を信ずる人たちに言わせたなら、或いはオシラ神の思召だと言うかもしれぬ。これがまことに偶然の事であるとしても、我々はこれを機会として、ますますこの方面の資料の蒐集に努力し、各方面からこれが研究を進めてみたい。かくの如くにして、わが東北文化の一面は漸次明らかにせらるべきである。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:03:49 [URL]

しかしてその配下の人民が鎌倉時代末においてなお蝦夷として認められていたことは、『北条九代記』『保暦間記』『称名寺文書』等によって明かである。思うに藤原氏滅んで後も、いわゆる奥郡の地には鎌倉の勢力もいまだ十分に及ぶ能わず、前九・後三の役の後に北上川流域地方を引続き俘囚の豪族に委したと同じように、依然として土豪の領有を認め、その進退に任しておいたことであろう。
 かくて鎌倉時代の末葉に至り、その配下の蝦夷ら蜂起して幕府も容易にこれを鎮定する能わず、社寺に静謐を祈祷して文保二年のころいったん法験を見た(『称名寺文書』)と思ったのも束の間で、元亨・正中より嘉暦に渉ってさらにその乱相つぎ、幕府は嘉暦元年工藤右衛門尉祐貞を蝦夷追罰使として進発せしめ、翌年さらに宇都宮五郎高貞・小田尾張権守高知を追討に向わしめたが、三年十月に至ってこの高貞・高知ら和談の儀をもって帰参すとあって、ついにこれを征服することが出来なかったのであった。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:03:28 [URL]

『保暦間記』によると、安東五郎というもの東夷の堅めにとて、義時の代官として津軽に置かれたとある。また延文の『諏訪大明神絵詞』には、根本は酋長もなかりしを、武家その濫吹を鎮護せんために、安藤太というものを蝦夷管領とすともある。異本『伯耆巻』にも、「奥州津軽の住人安東又太郎季長云々、此の安東と云は義時が代に夷島の抑へとして、安藤が二男を津軽に置ける彼等が末葉なり」ともいっている。これらの安東五郎といい、安藤太といい、安藤が二男というものはいずれも同人で、安倍貞任の後と称し、実に後の秋田氏の祖先なのである。けだし奥地の夷酋が後に武家から本領の安堵を得たものであろう。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:02:54 [URL]

 奥州平定の当時、諸将の賞賜せられた地方は明かなものが少い。『吾妻鏡』には畠山重忠が狭少の葛岡郡(後玉造郡の一部)を与えられ、葛西清重が伊沢・磐井・牡鹿郡以下、数ヵ所を拝領したとあるほかには、千葉介最もこれを拝領すといい、重忠の傍輩皆数ヵ所広博の恩に預るとあるのみで、その地名を明記したものがない。奥羽諸旧家の家伝には、それぞれ先祖がこの戦役に随って軍功あり、某々の地を給せらるなどと書いてはあるが、中にはその人名すら『吾妻鏡』の出征諸将の中に見えぬものがあるくらいで、他になんら参照すべき史料もなく、どこまで果して信じてよいか、明かでないものがはなはだ多い。
 南部家の祖と称する南部次郎光行の名は、現に鎌倉出立御供に候する輩という中にもあって、この役に従事したことは明白であるが、この時彼が糠部五郡を賜わったといい、あるいは九戸・閉伊・鹿角・津軽・糠部の五郡を給せられたというに至っては、ただに事実に合わぬものあるのみならず、一も他に傍証すべきもののないのを憾みとする。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:02:32 [URL]

 この時、葛西・伊沢ら奥州総奉行の勢力の及んだ範囲は、果してどの辺までであったであろう。『吾妻鏡』文治五年十一月八日の条によれば、窮民賑給のために農料種子を供給した範囲は、磐井・胆沢・江刺・和賀・稗貫の五郡であって、紫波・岩手等その以北には及んでおらぬ。これはその以北の地が当時兵乱の巷となること少く、土民の疾苦多からざりしという理由もあるべく、必ずしもこれによって、奉行施政の及ぶ北限を定めることは出来なかろうが、それにしても、とうていもと藤原氏管領の六郡以北に至ったとは思われず、当時幕府施政の範囲は、おそらく岩手郡をもってその北限としていたものであろうと解せられる。けだし二戸・九戸以北の地方は、『陸奥話記』にいわゆる奥地に当り、これを糠部(『吾妻鏡』文治五年九月条に糟部郡とあるは誤記なるべし)と汎称して、当時にあっても、なおほとんど化外に置かれ、俘囚長たる安倍・清原・藤原諸氏も、措いて顧みなかったものではなかろうか。
 
1 Ryou 2014-06-06 21:01:47 [URL]

 乱平定の後、頼朝は、葛西三郎清重を奉行に任じて奥州の御家人を進退せしめ、以下それぞれ勇士勲功の恩賞あり、翌年三月十五日にはさらに伊沢左近将監家景を奥州留守職となし、これより両人奥州総奉行と号して国務を執ることとなった。当時出羽にも留守所があったが、何人がその所務に当っていたかは明かでない。やはり秀衡・泰衡時代の例によって、いわゆる奥州総奉行が奥羽両国を管領していたのであろう。『吾妻鏡』文治五年十月の条には、国中のことは秀衡・泰衡の先例に任せて沙汰すべしといい、同正治二年八月条にも、陸奥・出羽両国諸郡郷地頭所務のことは、秀衡・泰衡の旧規を守るべきの旨、故将軍の御時に定めらるとあるのである。
 
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