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よくよく考えてももらいたい、これまでも私たちは、肺炎による死者を毎年12万人以上出し続け(一日300人以上の計算)、インフルエンザでさえ年平均1万人の犠牲者(一日30人)を出し続けきているのです(補足すると、アメリカの 2017年〜18年におけるインフルエンザによる死亡者数は 6万人です)。 それに比べて、今年の 2月 から 5月にかけての「新型コロナ」による死亡者数は 一体どれほどにものなのでしょうか(5月5日時点で 521人)。 もちろん、「数量」によって個人の悲劇を図ることはできません。 が、それなら、単純に「命」と「経済」とを天秤にかけるべきでもない。「経済」とは「命」なのです。 カミュは、その小説『ペスト』のなかで、旅行者でありながら、保険隊を結成するタルーという人物に、〈 抽象的に人々に死を強いるもの 〉の比喩としてペストを語らせていました。 しかし、だとすれば、タルーが語る ―あるいはカミュが描く―「ペスト」の不条理(致死率7割)は、弱毒性の「コロナ」には全く対応していないと言うべきでしょう。 むしろ、〈 私たちのペスト 〉は、「8割削減」と「過剰自粛」の不条理にこそ当て嵌まります。 そして、小説の後半、疲れ切った 一日を過ごした後で、タルーは、医師のリウーを、市のロックダウンによって禁じられている海水浴に誘いながら、次のように語るのでした、「せんじつめてみれば、あんまり気のきかない話だからね、ペストのなかでばかり暮らしてるなんて。 もちろん、人間は犠牲者たちのために戦わなきゃならんさ。 しかし、それ以外の面でなんにも愛さなくなったら、戦っていることがいったい何の役にたつんだい?」と。 この度の「コロナ禍」においても、政策の判断基準(クライテリオン)は、このタルーの言葉と違うものではないはずです。 すなわち、私たちのクライテリオンは、人々の「共感」であり、「愛情」であり、その「温かみ」の保守にほかなりません。 その他細かい政策は、その時々の状況を見定めながら ―コロナの毒性、経済状況、人々の心理状態などを鑑みながら―、その都度、適宜比較衡量して決めて行くしかないし、決めて行けばいい。 その「愛情」の基準において、捨てるところは捨て、得るところを得ればいいだけなのです。 果たして、私たちは今、政府の「過剰自粛」によって殺されかけています。 が、同時に、私たちの人生を最後に守るのは、やはり私たち自身であることも間違いありません。 政府が「不条理」を強いるなら、それに「反抗」(カミュ)することは、決して不道徳なことではない。 むしろ、それこそが、私たちの「エートス」(その住み慣れた場所)を守るための最後のエチカ(倫理)なのです。 人が何と言おうと、私たちは私たちの「生き方」を守る必要がある。 それ以外に、私たちの「生き甲斐」など、どこにもありはしないのですから。 ━━━━━━━━━ (略) From 浜崎洋介(文芸批評家) 2020.05.06 https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20200506/
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