ヘイト・スピーチ
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1 manolo 2013-09-21 15:52:24 [画像] [PC]

出典:『WEBRONZA(シノドス・ジャーナル)』、桧垣伸次、7/23/2013、「ヘイト・スピーチ規制について ―言論の自由と反人種主義との相克」(http://webronza.asahi.com/synodos/2013072300004.html)(閲覧日9/21/2013)

1-1.
 近年、日本でもヘイト・スピーチという言葉がしばしば聞かれるようになり、ヘイト・スピーチを規制するか否かについての議論がなされている。ヘイト・スピーチという用語は、1980年代のアメリカで使われるようになったものであるが*、その捉え方自体が多様であるため、定義は論者によって異なる(そのためか、議論が錯綜していることもある)。本稿では、さしあたり、「人種、民族、宗教、性別等に基づく憎悪及び差別を正当化もしくは助長する表現」と定義する。

*それ以前では、1920〜1930年代は人種嫌悪(race hate)、1940年代は集団的名誉毀損(group libel)などと呼ばれていた。

2 manolo 2013-09-21 16:23:01 [PC]

1-2.
 現在のところ、日本ではヘイト・スピーチを規制する法は存在しない。名誉毀損罪(刑法230条)や侮辱罪(刑法231条)が適用できる事例もあるが、表現の対象が、人種、民族などの不特定多数の者である場合、名誉棄損罪や侮辱罪は適用できない。*

*「在日特権を許さない市民の会(「在特会」)」が、京都朝鮮第一初級学校におしかけ、拡声器を用いて「北朝鮮のスパイ養成機関、朝鮮学校を日本からたたきだせ」、「日本から出ていけ。何が子どもじゃ、こんなもん、お前、スパイの子どもやないか」「約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人じゃ約束は成立はしません」などと公然と同学校を侮辱し、サッカーゴールを倒すなどした事例では、威力業務妨害罪、侮辱罪等が適用された。裁判平成24年2月23日判例集未登載。

1-3.
 また、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)4条が人種にもとづく差別の煽動を禁止し、処罰することを義務づけているが、日本は、条約加入に際し、4条について、言論の自由などに抵触しない限度で履行する旨の留保を付している(ただし、ヘイト・スピーチ規制に積極的な国を含む多くの国も、本条につき留保あるいは解釈宣言を付して対応している)。

1-4.
 なお、2002年には、人権擁護法案が、第154回国会に提出され、三会期連続で審議されたが成立せず、翌年廃案となった。同法案は、特定の個人に対する差別的な表現や、不特定の集団に対する差別を助長する表現などを規制する条項などが含まれていた(3条1項2号、同条2項)。その後も2005年に、人権侵害救済法案が第162回国会に提出されるなど、差別的表現の規制が検討されたが、いまだに成立には至ってない。

1-5.
 ヘイト・スピーチの害悪としては、主として、(1)犠牲者に身体的、精神的害悪を与える、(2)思想の自由市場の機能を歪めさせる、(3)平等保護の要請に反する、(4)人間の尊厳を侵害するなどが主張される。また、ヘイト・スピーチは、犠牲者だけではなく、社会全体に対しても害悪を与え、それにより、人種主義(レイシズム)の永続化に寄与するともいわれる。

3 manolo 2013-09-21 17:35:27 [PC]

1-6.
 しかし、ヘイト・スピーチを規制することは、表現の自由という極めて重要な権利を規制することになる。主権者である国民が代表(議員)を選ぶ際に、賢明な判断を下すためには、公の問題についてのあらゆる情報を持っていなければならず、それらの情報は、公の問題について自由に議論することができなければ存在しえないため、表現の自由は、民主国家においてとりわけ重要な権利であるとされる(A. Meiklejohn)。

1-7.
 このようにヘイト・スピーチを規制するか否かという問題は、人種主義の害悪の抑圧と自由の保障という、二つの重要な価値のバランスをどのようにとるのかという問題である。言い換えれば、人種主義者にどれだけ自由を認めるのかという問題であり、リベラルな民主国家にとって深刻なジレンマとなっている。

1-8.【二つの方向性−ヨーロッパとアメリカ】
 ヘイトスピーチに対する法的規制につきましては、しばしば「規制に消極的なアメリカ合衆国」と「規制に積極的なヨーロッパ諸国(ドイツ、フランス、イギリス等)が対比される。「政府は、その思想自体が攻撃的あるいは不快であるからという理由だけで思想を禁止するべきではない(Texas v. Johnson, 491 U.S. 397,414(1989))という原則を固持しているとされるアメリカに対し、ヨーロッパ諸国では、平等、人間の尊厳、個人の名誉などの他の憲法的価値も民主的価値をゆうするために、それらの権利を攻撃的な言論から保護することは、言論の規制の民主的正当化事由となるとされる。

1-9.
 ヨーロッパ諸国をみてみると、公共秩序法(イギリス)や人種差別法(フランス)、あるいは刑法(ドイツ、スイスなど)に、ヘイト・スピーチを規制する条項をおいている。また、ロシアでは、憲法29条2項で「社会的地位、人種、民族、または宗教に対する憎悪および敵意を刺激する宣伝又は煽動は、これを禁止する。社会的地位、人種、民族、宗教または言語の優越についての煽動は、これを禁止する」として、ヘイト・スピーチを禁止している。

1-10.
 現在では、ヨーロッパの多くの国で、人種差別主義的な言論を規制する法が制定され、ヨーロッパ人権裁判所も、人種あるいは宗教に関する煽動的な言論については、この傾向を支持している。EUもこの傾向を強化し、2008年には、加盟国に対し、人種等にもとづく憎悪あるいは暴力を煽動するような言論を違法化するよう求めた。

4 manolo 2013-09-21 18:09:01 [PC]

1-11.
 アメリカではヘイト・スピーチを規制する連邦法はない。州法により、特定の者に対する脅迫にあたるヘイト・スピーチを規制することは合憲とされる。しかしながら不特定の者に向けられたヘイト・スピーチの規制は、表現内容規制にあたるとして、その合憲性は厳格に審査され、1992年のR.A.V.判決(R.A.V. v. City of St. Paul, Minnesta、505 U.S. 377(1992))では、ヘイト・スピーチの一類型である*十字架を燃やす行為を規制する条例が、内容に基づいて特定の言論を差別的に扱っているとして違憲とされた。

*十字架を燃やす行為(cross burning)は、もともとは、クー・クラックス・クラン(KKK)の儀式に使われてきた行為であり、白人プロテスタント優越主義というイデオロギー的メッセージを伝達するものである。また、十字架を燃やす行為は、アフリカ系アメリカ人などに対する脅迫の手段としても使われ、特定の者に対してなされた場合、その対象者が暴力の標的であるとのメッセージを伝達するものであるともいわれる。

1-12.
 また、1965年に採択された人種差別撤廃条約についても、イギリス、ドイツ、ロシア(当時はソ連)は1969年、カナダは1970年、フランスは1971年、イタリアは1976年と、比較的早期に批准したのに対し、アメリカが批准したのが1994年であった。

1-13.
 このように、ヘイト・スピーチに対するヨーロッパ諸国とアメリカの対応は対象的ともいえる*。しかしながら、ヨーロッパ諸国とアメリカが対象的な対応をするようになったのは、必然的なものではない。以下で述べるように、アメリカでも、ヨーロッパと同様の方向に進む可能性があったと指摘されている。それでは、アメリカとヨーロッパとは袂を分かったのはなぜか。この点、Eric Bleichは歴史的文脈の相違を指摘する。

*例えば、イギリスでは、炎に包まれた世界貿易センタービルの写真などに「イスラム教徒はイギリスから出ていけ」、「イギリス人を守れ」などの言葉を重ね合わせたポスターを自宅の窓に貼った行為が、公共秩序法第5条違反とされたが、アメリカではこのような行為の規制は違憲となるであろう。Norwood v. DPP[2003]EQHC 1564 (Admin).

5 manolo 2013-09-21 18:47:39 [PC]

1-14. 【ヨーロッパとアメリカの歴史的文脈】
《ヨーロッパ》
 ヨーロッパ諸国では、ワイマール共和国がファシズム国家に変化して行くのを目の当たりにした1930年代来、人種主義的な言論の規制を議論するようになった。第二次世界大戦後には、非ナチス化を目指したドイツやオーストラリアが、ナチスのレトリックや象徴を禁止するようになった。それ以外の国家が、人種主義的な言論の規制に乗り出すのは1960年代中葉から1970年代にかけてであった。この時期には反ユダヤ主義的な言論や反移民的な言論が吹き荒れていた(なお、このような反ユダヤ主義は、人種差別撤廃条約の採択のきっかけともなった)。1990年代には、排外主義の波が押し寄せ、各国は徐々に規制を強化していった。

1-15.
 このような歴史的経緯により、ヨーロッパは人種主義的な言論を規制する法を発展させ、近年では、違反を繰り返す者に対しては、より厳しい罰を科すようになっている。ただし、多くのヨーロッパ諸国は、単に不快なだけである人種主義的な言論の規制には消極的である。多くの法の内容は過剰に見えるが、実際には、限界事例においては適用しないことも多い。また、適用されるとしても、懲役刑ではなく、たいては罰金刑や執行猶予にとどまる。これには1つの例外がある。それが*ホロコーストの否定に対する規制である。

*なお、ホロコーストにもとづく人種主義には、ホロコーストという出来事を、(1)露骨に是認する、賞賛する、あるいは正当化するもの、(2)矮小化するもの、(3)否定するもの、といった3つの類型がある。

1-16.
 1980年代以降、ホロコーストの否定を禁止する法は徐々に範囲を広げ、「私はホロコーストはなかったと信じている」と述べただけで刑罰を科される。罰金等にとどまることの多い人種主義的言論禁止法とは異なり、ホロコーストの否定を禁止する法の場合は懲役を科すこともある。このようなホロコーストの否定への対応が、「規制に積極的なヨーロッパ」という印象を強くしているとの指摘もある。

6 manolo 2013-09-21 19:04:26 [PC]

1-17.
《アメリカ》
 アメリカでは、言論の事由が厚く保護されているといわれるが、建国以来、市民が言論の自由を享受してきたわけではない。むしろ集団的名誉毀損法を合憲とした1952年のボハネ判決(Beauharnais v. Illinois, 343 U.S. 250(1952))にみられるように、1940年代から50年代の合衆国憲法最高裁の判決は、アメリカが、ヨーロッパと同様の、言論規制的な方向へ進む可能性があったことを示している。

1-18.
 アメリカがヨーロッパとは異なる方向に進んだのは、1960年代から1970年代にかけてのことである。この時期になると、公民権運動やベトナム反戦運動などにおいて、民族的マイノリティなどが現状に挑戦するための最大限の自由を欲するようになった。それゆえ、多くの集団は、人種主義的言論を規制する法は、彼らの表現の自由を制約しうるものと考え、政府に対し、人種主義言論を規制する法の制定を求めなかった。そして、合衆国最高裁判所も、公民権運動の時代を通じて、アメリカの核心的な価値としての言論の自由を定着させていった。

1-19.
 こうして、例外はあるものの、概して表現の自由はアメリカの法制度に深く浸透した。このようにアメリカが言論保護的なアプローチをとるようになったのは、決して必然でなく、アメリカ社会の選択によるものだった。アメリカは1960年代に言論の自由の保護と人種主義的な言論との戦いの間でバランスをとることを求められたヨーロッパとは「異なる挑戦」を受けた、「異なる国」だったのである。

1-20.
 このような歴史的な文脈により、ヨーロッパ諸国とアメリカは異なるアプローチを採るようになったと指摘される。もちろん、歴史的文脈がすべてではないが、ヨーロッパとアメリカの軌跡を把握するために重要な要素となるであろう。

7 manolo 2013-09-22 01:25:18 [PC]

1-21.【むすび】
 以上みてきたように、ヘイト・スピーチ規制については、アメリカとヨーロッパとの対比がしばしば指摘される。アメリカでは人種差別行為には厳しい規制を課しているのに対し、人種主義的な言説も言論の自由として保護されるため。その特殊性あるいは例外性がしばしば指摘される。

1-22.
 このような違いは、歴史的文脈によるものであると指摘される。すなわち、ヨーロッパでは、ナチスや反ユダヤ主義に対応するために、ヘイト・スピーチなどの過激な言論を規制するようになり、アメリカでは、公民権運動やベトナム反戦運動などでの「反対者」の自由を保護するために、過激な言論をも保護するようになったのである。ヨーロッパでは、人種主義に対応するためにも言論の規制が必要されたのに対し、アメリカでは、人種的平等を達成するために、言論の自由が必要とされたのである。

1-23.
 そうであるならば、日本がどのようなアプローチを採るべきか。この点は、日本における歴史的文脈に着目し、慎重に検討する必要がある。仮にヨーロッパ的なアプローチを採るとしても、言論に対する過度な規制にならないよう、規制範囲を厳格に限定しなければならず、立法化のハードルは非常に高い。なお、ヘイト・スピーチの規制が憲法上可能か否かという問題と、規制の政策的適否は別の問題であることにも留意すべきである。ヘイト・スピーチ規制法の効果や影響などを日本の現状等を踏まえて慎重に考慮する必要がある。今後のさらなる議論が期待される。

8 manolo 2013-10-29 22:02:22 [PC]

出典:『WEBRONZA(シノドス・ジャーナル)』、小谷順子、5/23/2013、「憎悪表現(ヘイト・スピーチ)の規制の合憲性をめぐる議論」
http://webronza.asahi.com/synodos/2013052300001.html(閲覧日10/5/2013)

2-1.
 20世紀の半ば以降、過激な人種差別思想の台頭に直面した国々は、これを深刻な事態として受け止めた。そして、こうした差別思想にもとづく憎悪表現を規制すべく、人種差別撤廃条約4条において、差別思想の喧伝を禁止する法律を制定するよう加盟国に義務づけた。現在、イギリス、フランス、ドイツ、カナダなどでは、この条文を履行すべく憎悪表現を規制する法律を設けている。一方、アメリカは、表現の自由の保障を最大限に保障しようとする判例法を背景に、第4条に留保を付して表現方法を回避するかたちで条約本体に加入しており、現在も憎悪表現を規制する立法は行っていない。アメリカ同様、日本も同条に留保を付して加入しており、憎悪表現を規制する立法は行っていない。

2-2.
 過去10年ほどのあいだで、日本国内においても、インターネットを中心に、自己とは異なる人種・民族集団に属する人々に対する憎悪や偏見の表現を、日常的かつ一般的に見聞きする機会が増えた。さらに、最近では、そのような憎悪や偏見の思想を宣伝する街頭デモも見られるようになっている。このような、特定の人種・民族集団(およびその集団を構成する人々)に対する憎悪や偏見の表現(以下、単に憎悪表現と記す)の発信については、なんらかの方法で規制すべきだという意見が聞かれる一方で、憲法21条の保障する「表現の自由」の重要性に照らして規制すべきでないとする慎重な意見もある。はたして、憲法が「表現の自由」を保障している国家において、「憎悪表現の発信の自由」を規制することは許されるのだろうか。本稿では、以下、まず憲法上の表現の自由の保障をめぐる従来の考え方を確認した上で、憎悪表現の規制をめぐる問題点を指摘していく。

9 manolo 2013-10-29 22:08:21 [PC]

2-3. 【「表現の自由」とは】
 まず、「表現の自由」の重要性について確認しておく。表現の自由とは、憲法の保障する様々な自由の中でもっとも重要なもののひとつとして位置づけられているが、それは、表現の自由の保障が、個人の「自己実現」と社会全体の「自己統治」に不可欠だと考えられているからである。つまり、人間はだれしも自己の意見を形成し、それを他者に伝え、他者の意見にも触れて、さらに自己の意見を再形成していくと過程を通して、自由な人間としての人格を形成していく。このような個人の人間性の実現のための過程に着目した表現の自由の価値が「自己表現」である。

2-4.
 一方、健全な民主主義(ないし代表民主主義制)の実現のためには、たんに、人気投票(選挙)で代表者(国会議員)を選んだ上で、選ばれた代表者が国会で多数決で政策を決定しさえすればよいというものではなく、選挙から国会での意思決定に至るまでのあらゆる過程において、つねに国政に関するあらゆる情報が社会全体にくまなく流通していて、だれもが自由に国政に関する自己の意見を主張することができる環境が整っている必要がある。なかでもとくに、政権に対する批判的見解を自由に述べることのできる環境が整っている必要がある。このように、社会全体の民主主義の過程に着目した表現の自由の価値が「自己統治」である。

2-5.
 さらに、「思想の自由市場」の重要性が唱えられることもある。経済の自由市場をなぞらえたこの考え方のもとでは、さまざまな思想や言論を「思想・言論の市場」のなかで自由競争に委ねることで、真に価値のある思想や言論が勝ち取っていくという過程を重視し、「思想市場」に対する政府の介入は避けるべきであるとされる。

10 manolo 2013-10-29 22:10:56 [PC]

2-6. 【憎悪表現の規制をめぐる諸見解】
 上記の「自己実現」と「自己統治」が表現の自由の重要性を支える考え方である。このような考え方に照らすと、憎悪表現の規制には多くの難題がともなうことがあることが分かる。たとえば、歴史を振り返ると、政府や皇室を批判する表現や模範的な道徳観に反する表現などは、しばしば規制の対象とされてきた。そして、従来、個人の自由を重んじる憲法学者や弁護士たちは、このような政府が一定の内容の表現を「悪い表現」であると認定した上で規制すること(=表現内容にもとづく規制)を批判し、個人の表現の自由は最大限に確保されるべきであると主張し、表現の自由の強化を主張してきた。

2-7.
 この文脈に沿って考えると、憎悪表現が一定の人々にとっていかに耳障りで不愉快であったとしても、また、憎悪表現の蔓延が共生社会の実現という政策遂行に不適切なものであったとしても、「不愉快、不適切だから規制する」という結論を導き出すことは許されないことになる。さらに言えば、人種・民族的な憎悪表現は、たんに「さまざまな表現のうちのひとつ」であるにとどまらず、日本国の重要な政治課題である内政・外政に関する意見表明という一面も有していると言いうる場合がある。政治的な論点に関する表現の自由はもっとも手厚く保障されるべきであるということになる。

2-8.
 一方、憎悪表現の規制を肯定する論者たちは、憎悪表現が従来の規制対象とされてきた反政府・反道徳的な表現とは異なるのだという点を強調する。こうした論者は、たとえば、憎悪表現が被害者に与える精神的な苦痛や日常生活への支障などを防止することの必要性を指摘したり、憎悪表現の蔓延が社会の偏見や差別構造を増長させることの問題点などを強調したりして、規制の正当化を試みる。

11 manolo 2013-10-29 22:13:21 [PC]

2-9.
 また、憎悪表現の「発信」の自由を保障することがかえって表現の自由の保障の意義を損なう結果をもたらすことを指摘する。さらに、人種差別撤廃条約がその加入国に対して、人種的優越思想の流布や人種差別の扇動を禁止するための立法措置を求めていることにも言及し、憎悪表現規制が国際的な差別撤廃の動きに則したものであることも指摘する。

2-10.
 憎悪表現の規制は、弱者の人権保護や社会全体の利益のために設ける必要があるものなのだろうか。それとも、表現の自由を不当に制約するおそれのある危険なものなのだろうか。以下、まず、日本国内において想定しうる憎悪表現規制の手法を概観した上で、アメリカとカナダにおける憎悪表現規制をめぐる議論の展開に焦点を当てて、この問題についてさらにさらに掘り下げて考えていきたい。

2-11. 【日本国内で想定しうる法規制の手法】
 現在の日本社会でみられる過激な憎悪表現は、既存の法制度のなかで規制することが可能なのだろうか。また、諸外国の規制例参照した場合、現在の日本で採りうる規制手法にはどのようなものがあるだろうか。ここでは、既存の法令を憎悪表現に適用するパターンと、新規の法制度を設けて憎悪表現を規制するパターンの双方に言及しておく。

2-12.
 第一の手法は、刑事法規を使って憎悪表現を規制するというものがある。イギリス、カナダ、ドイツ、フランスなどでは、この手法で規制を行っている。日本の現行法の刑法関連規定のうち、憎悪表現に対して適用できそうなものとして、脅迫罪(刑法222条)、名誉毀損罪(刑法230条)、侮辱罪(刑法231条)などがあげられる。しかし、これらの規定は「〇〇人はみな犯罪者だから〇〇国へ帰れ」といったタイプの憎悪表現に対して適用するのは困難である。


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