世俗主義
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1 manolo 2014-10-20 21:15:28 [画像] [PC]

出典:『宗教と現代がよくわかる本2009』、渡邊直樹編、平凡社、3/18/2009、「トルコの世俗主義とイスラーム」、内藤正典、pp.104〜107

1-1. 【トルコ独自の世俗主義】
 トルコは、人口の大半をスンニー派ムスリムが占めている。その意味ではムスリムの国と言うことができる。しかし、トルコは「イスラームの国」あるいは「イスラーム国家」ではない。メディアでは、トルコを「イスラーム教国」と表現することがしばしばあるが、これは誤りである。理由は、トルコ共和国憲法が定める「世俗主義」(トルコ語ではlaiklik=ライクリキ)の原則にある。(p.104)

2 manolo 2014-10-20 21:17:45 [PC]

1-2.
 トルコの世俗主義とは、私たちが日本でいうところの「政教分離」に近いが、もっと厳格で適用範囲の広い原則である。その原則によって国家と宗教を切り離しているので、イスラーム教国とは呼べないのである。(p.104)

1-3.
 日本の政教分離は、政府をはじめ公的機関が宗教に介入せず、宗教もまた政治や行政など公的領域に介入しないことをいう。ただし、一個人が信仰を公的な場で表明することまでは原則的に妨げない。かつて、エホバの証人に属する生徒が、自分の信ずる聖書解釈に基づいて、格闘技としての剣道の実技授業を拒否したので、学校側は必修授業の単位を認定できないとして当該生徒を原級留置とした。このことをめぐって争われた訴訟で、最高裁は、一九九六年に学校(神戸市立工業高等専門学校)の措置を違憲とする判決を下している。公的な規則よりも、生徒個人の信仰と信教の自由を重視したのである。(p.104)

1-4.
 トルコと日本とを比べると、第一の相違点はここにある。トルコでは、個人であっても、信仰を公の場で表明することが認められない。トルコで最大の争点となっているのが、大学での女性のスカーフ着用の可否である。イスラームにおいては、成人した女性は頭髪を家族以外の異性にさらさないことが求められている。これは、女性の頭髪を性的部位として、乳房や性器と同様、隠すべきところと規定していることによる。(pp.104-105)

1-5.
 トルコ共和国憲法は、もちろん、直接スカーフ着用の可否を規定しないが、第二条において同国が「世俗主義」を国家原則とすると規定し、第四条で改定および改定の発議すら禁じている。他の条文や法律と整合的に判断すると、個人の側も宗教的シンボルを公の場で掲げたり、信仰に基づく行為を公の場で行うことも禁止される。(p.105)

3 manolo 2014-10-20 21:20:21 [PC]

1-6.
 高校までは制服の規定があるため、原則としてスカーフの着用は禁じられてきたのだが、大学に関しては法律の条文に服装規定がない。九〇年代初頭まで、トルコには国立大学しかなく、したがって、大学は公教育の一部、つまり公的空間とみなされていた。その後、私立大学も設置を認められ、いまでは相当数の私立大学もあるが、すべての大学は高等教育評議会の監視下に置かれており、同評議会の議長は大統領が任命する。高等教育評議会が、大学でのスカーフ着用を許可しない限り、以前からの慣例により、女子大生は構内でスカーフを着用できない。女性のスカーフやヴェールが、イスラームという宗教の信仰を表明するシンボルと解釈されてきたからである。(p.105)

1-7.
 しかし、イスラームにおいて女性の頭髪を隠せという規定は、頭髪を性的部位とするところに由来しており、羞恥心から頭部を覆いたいという女性にとっては、相当の精神的苦痛をもたらすことも事実である。そのために、人口の大半をムスリムが占めるトルコではスカーフ着用の可否がきわめて難しい政治問題となってきたのである。現状では、民意の過半数は着用を容認すべきという方向にある。この傾向は一九八〇年代から強まってきた。(p.105)

1-8.
 日本の政教分離との大きな相違点はもうひとつある。政府(国家)が、宗教を管理していることである。イスラームには、神(アッラー)の代理行為を為しうる聖職者は存在しない。しかし、日常生活の事細かな規範まで定めているイスラームには、どうしてもこれらの規範に精通する指導者が必要である。指導者のことをアラビア語ではウラマー、トルコ語ではイマームという。トルコでは、イマーム国家公務員とし、宗教業務を監督する宗務庁を設置している。したがって、トルコのイマームは、*イスラーム法を最上位の法源として信徒を教導することはできない。あくまで、トルコ共和国憲法を最上位の法として、その範囲内で、イスラーム法にしたがった「教え」や「規範」を信徒に説くことが許されるのである。(pp.105-106)

*イスラーム法
イスラームを形づくる法の体系。アラビア語ではシャリーア。聖典コーラン、預言者ムハンマドの生前の慣行(スンナ)、イスラーム法学者の合意(イジュマー)、聖典など合理的推論(キヤース)を法の源とする。シーア派は、ムハンマドの正統な後継者(イマーム)の慣行を含める。(p.105)

4 manolo 2014-10-20 21:27:31 [PC]

1-9.
 これは、イスラームの本質とは大きく矛盾する。なぜなら、イスラームでは、コーランは聖法、すなわち神の法であり、これを上回る法源の存在を認めないからである。しかしながら、いま現在、世界に存在する諸国家で、イスラーム法を完全に適用している国はない。それ近いのがサウジアラビアやイランだが、多くの国では、国民の多くがムスリムであったとしても、現実の法体系は、部分的にイスラーム法を適用するものの、世俗法との折衷である。トルコの場合、法体系からほぼ完全にイスラーム的な要素を締め出しているから、私的生活の範囲でしかイスラームの規範を実践できないことになる。(p.106)

1-10. 【民意との齟齬】
 トルコ共和国は、建国(一九二三年)直後から、イスラーム復興勢力の抵抗に直面した。建国を成功させた*ムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)らは、西欧列強との死闘の末に樹立した共和国を、以前のようなイスラーム帝国(全身はオスマン帝国)に戻す気はなかった。強大な西欧諸国の力を知悉(ちしつ)していたからこそ、国家の仕組みの基本を西欧諸国から採用した。世俗主義は、フランス共和国の憲法原則となっている**ライシテを範にとった。(p.106)

*ムスタファ・ケマル
一八八一〜一九三八。トルコ共和国建国の父。アタテュルクは、後に偉業を称えてトルコ国会が彼に贈った名前で「父なるトルコ人」を意味する。オスマン帝国の軍人で、第一次世界大戦中に名将として名をはせた。帝国の崩壊をまのあたりにして、民衆と軍を率いて列強と戦い、独立を達成した。(p.106)

**ライシテ(la?cit?)
フランス独自の世俗主義。国家と教会を切り離し、教会の国家への介入を阻止することを目的としたが、個人が公の領域で宗教を表明することも禁じられる。日本と異なり、首相のような公人だけでなく、一般市民も同様の規制を受ける。(p.106)

5 manolo 2014-10-20 21:30:12 [PC]

1-11.
 しかし、建国以来八五年の歴史を見ていると、世俗主義は幾度も危機にさらされてきた。国民のほとんどがムスリムなのだから、民意が政治のイスラーム化を望むことは不思議ではない。特に貧富の格差が拡大したり、一部の富裕層に富が集中して再分配が公正におこなわれない場合、民衆は、政治が「イスラーム的に公正であること」を求める。イスラームでは弱者の救済を「喜捨」として義務づけている。金をもうけることはなんら問題ではないが、もうけの一部を弱者救済のために、「神」に差し出すことを求めている。(p.106)

1-12.
 わざわざイスラームを持ち出さなくても、階層間格差の縮小を求めることは(私たちには)可能だが、ムスリムの場合、どうしても、それを「神の定め」としての公正観に引き付けて要求する。人間に関するありとあらゆる道徳規範を「神の定め」に求めるのがイスラームの基本構造だからである。(p.106)

1-13.
 一九九〇年代に入ると、選挙のたびに民意がイスラーム政党を選択する傾向が顕著になってきた。一九九〇年半ばには、地方選挙(市長および市議会議員の選出)と総選挙(一院制の国会議員の選出)で、イスラーム色の強い福祉党が第一党の座を占めた。トルコでは、県は内務省の直轄であり、知事は任命制、県議会はない。国会では、単独で政権を取れず中道右派との連立となった。一九九七年、世俗主義擁護を掲げる軍部とのあいだに対立が強まり、政権は崩壊した。憲法裁判所は同党を世俗主義違反として解党させた。(p.107)

1-14.
 しかし二〇〇一年には、かつて福祉党の党員で改革派を名乗る政治家たちが公正・発展党を結党し、〇二年の総選挙で勝利し、初めてイスラーム政党の単独政権が成立した。〇七年の総選挙でも四七%の得票率で圧勝し、現在も与党の座にある。〇七年にはこの党の結成以来のメンバーだったアブドゥッラー・ギュル前外相・副首相が大統領となり、首相のレジェブ・タイイプ・エルドアンとともにイスラーム主義者が国家を率いることになった。(p.107)

6 manolo 2014-10-20 21:32:05 [PC]

1-15.
 この二年間でトルコの世俗主義は危機に瀕した。〇八年、共和国検察庁は与党を世俗主義違反で憲法裁判所に提訴したが、判決は、憲法違反と認めながらも政党助成金を削減するにとどまった。もはや、司法や軍が世俗主義の絶対原則を盾に政治に介入できる時代ではなくなったという見方がトルコでは強い。来春に予定される地方選挙を前に、公正・発展党はめだって福祉政策を打ち出している。日本ならば、ばら撒き型といわれるところだが、トルコの貧困層にとっては、「イスラーム的に公正な」政策の実現である。民主主義の成熟がイスラーム政党の台頭と並行していくところに、トルコの政治過程の特色と困難がある。(p.107)

7 manolo 2014-10-20 21:34:41 [PC]

出典:『よくわかる宗教社会学』、櫻井義秀・三木英編著、11/25/2007、ミネルヴァ書房、「I-2. 世俗化論と私事化」、川又俊則、pp.4-5

2-1. 【1. 世俗化論の興隆】
 欧米の宗教社会学界で1960−70年代に盛んに論じられたテーマが世俗化論という「宗教と社会変動」をめぐる一般理論である。ヨーロッパにおける教会の日曜礼拝出席率、受洗率の低下については1930年代からフランスのル・ブラなどが調査結果を示していたが、そうした教会離れは、産業社会の進展などを背景に宗教が衰退もしくは消滅へ向かう徴候なのか、それともそのようなことはあり得ないのかという議論が1960年代以降噴出したのである。(p.4)

2-2.
 宗教集団の類型論研究でも有名なブライアン・ウィルソンは世俗化を、近代化の進展に伴い「宗教的な諸制度や行為及び宗教的意識が、社会的意義を喪失する過程」と見なす。現代社会はより世俗的になり、社会内部や組織自体が変化したため、宗教性の重要性が減少したと説明するウィルソンの主張は「宗教的衰退論」であるといえよう。彼は、変化の緩慢さや一時的な宗教復興はあっても、逆行はありえないと主張する。また、宗教を超自然的なものへの祈りと見なすウィルソンは、宗教は共同体のイデオロギーだとも述べる。したがって、世俗化は、社会組織が共同体を基盤にしたシステムから、大規模な社会契約的なシステムへ変化したことに連動しているというのである。(p.4)

2-3. 【2. 聖なる天蓋・宗教の私事化。市民宗教】
 世俗化、すなわち宗教が社会の中心から周辺領域へ拡散する現象は、*論者によってさまざまな角度から考察されてきた。(p.4)

*以下を参照。バーガー, P.、園田稔訳、1979、『聖なる天蓋―神聖世界の社会学』。ルックマン, T.、赤池憲他訳、1976、『見えない宗教―現代宗教社会学入門』ヨルダン社。なおバーガーは、1990年代の後半に自らの議論を撤回した。(p.4)

2-4.
 ピーター・バーガーは、社会と文化の諸領域が宗教の制度や象徴の支配から離脱する過程を世俗化と規定し、世俗化によって社会全体を覆っていた「聖なる天蓋」というチャーチ的な宗教制度が合理化されると論じた。だが、宗教自体が社会的に意義を失うというのではなく、個人的な関心としての対象へと変わるのだと述べた。(p.4)

8 manolo 2014-10-20 21:36:52 [PC]

2-5.
 トーマス・ルックマンは、現代社会は世俗化されたというより、宗教から教団組織や儀礼などの要素が後退し、宗教が個々人に内面化され、見えないかたちで機能している、すなわち制度的組織ではなく「見えない宗教」(invisible religion)として潜在化していると述べた。宗教を組織の側面ばかりで見ず、個人の消費の対象として展開するという見解であり、これは「宗教の私事化」(privatization of religion)ともいえる。現代のスピリチュアリティなどとも関連する主張であろう。(pp.4-5)

2-6.
 そして、ロバート・ベラーは、政教分離が原則のアメリカの宗教事情を検討し、アメリカではキリスト教の伝統を引き継ぐ宗教的理念が、アメリカ再統合の機能をもたらすものとしての役割を果たしていることを論じた。これが、文化宗教(「市民宗教」; civil religion)である。(p.5)

2-7. 【3. 現代の世俗化論:修正派と廃棄派】
 だが1980年後半より、多くの新宗教の台頭や、欧米における保守派プロテスタンティズムの復活、そして政治的に強い影響を与える宗教的要素など、宗教の復興を思わせる現象が世界各地で見られるようになり、世俗化や宗教衰退の議論は見直しを余儀なくされた。(p.5)

2-8.
 山中弘はこうした現代の世俗化論を修正派と廃棄派に二分して説明している。前者は、制度的教会の全般的衰退や宗教の個人化を認めつつも、制度に属さない宗教の存続ないし高まりを強調している人々を指す。代表的論者としてはカーレル・ドベラーレがいる。ドべラーレは、全体社会・組織・個人と3つのレベルを設定し、全体社会レベルの世俗化を「非聖化」(laicization)と言い換え、宗教の影響力縮小過程を世俗化と見なす。そして、教会など(組織)の衰退や、宗教に関与する人々(個人)の減少を認めつつ、超越的システムだった宗教が、他と同様に1つのサブシステムとなる状態を「柱状化」と名づけた。(p.5)

2-9.
 廃棄派の論者としてはホセ・カサノヴァがいる。カサノヴァは、世俗化論を制度や規範から世俗領域が分化する命題、宗教実践や信仰が衰退する命題、宗教が周辺領域に追い出される命題に分類し、1番目は正しいが2番目、3番目は反証可能なので否定されるとした。そして、公共宗教について、国家・政治社会・市民社会の3つのレベルで論じた。(p.5)

9 manolo 2014-10-20 21:38:20 [PC]

2-10.
 人々の行為がどのようなメカニズムで選択され、その行為が集まってどのような社会的状態に帰結するかを特定する理論が、経済学で注目を集め社会学にも応用された「合理的選択理論」(rational choice theory)である。ロドニー・スタークやウイリアム・ベインブリッジたちは、この合理的選択理論を宗教社会学に導入した。宗教的多元主義が広まる中で、宗教選択を個人の消費行動と同様に捉えるのである。この立場では、「宗教が公共領域から衰退する」という見解は、「市場の独占や国家規制が自由競争になったに過ぎない」と言い換え可能となる。中野毅は、こうした各論者の世俗化論を適用範囲・時代・性質によって簡潔に整理している。(p.5)

2-11.
 従来の議論が「前近代=宗教的」「近代≠宗教的」との図式をめぐるに過ぎず、今後はその図式そのものが問われるべきだとの議論もあり、世俗化論はいまだ議論を呼ぶ重大な概念といえよう。(p.5)


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