教育
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1 manolo 2013-02-23 00:21:14 [画像] [PC]
出典: 「よくわかる教育原理」汐見稔幸他編著、ミネルヴァ書房、4/30/2011
1-1. 本書でこれから説明されていく「教育」を簡略に定義すると「先に生まれた世代が後に続く世代に対して、その社会で生きていくのに必要な能力や態度、価値規範などを持続的に形成していく営み」となるでしょう。こうした意味での教育を子供たちが受けることは誰にもいわば自明でしょうし、その必要性を疑う人はあまりいません。ノーマルな学校ではなくフリースクールのようなオルタナティブな学校(*1)に通っていたとしても、教育そのものが不要だという人は少ないと思います。(p.2)
*1 フリースクールやホームスクールなど
1-2. 人間は教育をなぜ必要とするか。マクロな視点で考えると、他の哺乳類や動物と比べて、人間ははるかに複雑な社会をつくり、そのなかで文化・文明を発展させてきたので、後行世代は、必要な規範や文化能力(たとえば言葉を聞き話すようになる、世間のしきたりを理解して担えるようになる、複雑な経済活動を担えるようになる等々)を一通り身につけるのに、かなりの時間と労力がかかるということが最大の理由になるでしょう。そしてそうした力はたいてい自分一人だけでは十全に身につけられず、人の手を借りなければなりません。それが、人が教育を必要とする最も基本的な理由になります。(p.2)
1-3. 実際にはこの教育は、長い間子どもを産んだ親とその周辺の人間によって行われてきました。特に狩りの仕方、家事の手法、農業の技術、祭祀の手順などはていねいに教えられました。しかし、社会が近代化されて、産業も発展すると、教えるべき内容がどんどん高度化、多様化、複雑化し、家庭とその周辺だけではその役は十全には担えなくなります。そこで専門的機関をつくり、教師という教えの専門職を雇って、次世代に、その社会に必要な規範や文化(学問、芸術、技術)を教え獲得させるということがあちこちで始まります。(p.2)
1-4. こうして近代の教育は制度化された学校で行われるようになります。こうした制度化された学校での教育は、無償制で親の教育費負担が軽減されることが多い反面、子どもの意志よりも制度を運用する側の意思を優先させる傾向が強くなることがあって、そのことに由来する問題がしばしば発生します。これが義務教育と言われるものの実態です。(pp.2-3)
2 manolo 2013-02-23 00:36:15 [PC]
1-5. 他方で教育というと、たとえばソクラテスとプラトンのように師弟関係の中で行われる直接的な教え――学びの関係が私たちの頭に浮かびます。道元が弟子にどう教えていたかを描いた弧雲懐奘(こうんえじょう)の『正法眼蔵髄聞記』にも、教え方に悩む道元の姿が読み取れますし、キリスト教の『新約聖書』も、読み方によってはイエスによる弟子の教育の様を再現したものといえるでしょう。ここにも教育の実際の、ある意味純粋な姿があることは疑えません。(p.3)
1-6. つまり、教育には、2つの原理やモデルがあるということです。ひとつは今みた師弟モデルといってよいものです。これは、教えを乞いたい人が師と仰ぐ人にお願いし、許可をもらい弟子になって、師の技術や思想を伝授してもらうというものといってよいでしょう。この場合、被教育者の側に弟子になりたいという意志があること、そして弟子を師が選ぶことが要件になります。教育し、される側の相互の積極的意志が教育成立の前提になっています。(p.3)
1-7. それに対して、先の義務教育がそうであるように、社会や国家が、その社会、国家に必要な人材を養成する必要があると考えて、ある意味強制的に教育を受けさせるという類型があります。そうしないとその社会、国家の担い手が育たないと考えるからです。義務教育(compulsory education)は、明治の初め頃は「強制教育」と訳していました。こちらの方が原意に忠実な訳です。これは教育の社会モデルといってもよいもので、こともの意志よりも、社会、国家の意志の方が重要な契機になります。明治期に強制教育(義務教育)が始まったとき、村人は自分の子どもをなかなか学校にやらなかったので(授業料もとられた)、役人が苦労して生徒集めをしていたという記録がたくさん残っています。(p.3)
3 manolo 2013-02-23 00:46:50 [PC]
1-8. 師弟モデルには、原理に無理があまりありませんが、実際にどう教え育てるべきかということは重要な問題となります。世阿弥の『風姿花伝』は父・観阿弥の教えをまとめた一種の教育論ですが、7歳から稽古を始めよということから始まってスランプの抜け方等までていねいに論じられています。(p.3)
1-9. それに比し社会モデルは、教育を受ける側の意志や同意を前提としていませんので、しばしば困難を抱えます。そのため、戦後教育改革では「義務」を親と社会の義務とし、子供には権利があるという義務教育観念の転換が試みられましたが、制度化された学校の根本矛盾は解消されていません。細かな論点を省くと、この社会モデルに師弟モデルをどう介入させ、社会モデルの質を変容させるかということが、歴史的な課題だといえるかもしれません。学社融合などの新しい学校づくりの試みをそうした視点でみると、意義が鮮明になる可能性があります。(p.3)
4 manolo 2014-01-23 02:05:27 [PC]
出典:『よくわかる教育学原論』、安彦忠彦他編著、ミネルヴァ書房、4/20/2012(「I-1 教育と文化」)、長尾彰夫、pp.6-7
2-1. 【1. 教育と文化の基本的関係】
教育と文化は深く結びついた関係にあるといえます。というのは、教育という仕事(使命、役割)の中心は、文化を次の若い世代に(*子ども達)に伝えていくことであり、そのことによって人間の社会を維持し、発達させていくことだからです。こうした教育と文化の関係は、常識的にはよく理解されることとなっていますが、少し立ち止まって考えてみると、そこには教育はどうあるべきか、文化とは何かといった大きな問題があるのです。(p.6)
*教育学では「子供」とせずに「子ども」とすることが多い。「供」が「つき従う者」の意があるためである。「子ども」は何歳から何歳までと明確に言えるものではないが、小学生は児童、中学生以上を生徒といっている。(p.6)
2-2. ○生活様式としての文化
教育の仕事は文化の伝達にあるといった場合、ではその伝達されるべき文化(culture)とはどのようなものなのでしょうか。その問いかけに対する答えの1つは、文化とは生活の仕方(way of life)だということです。人間(人類)は、それぞれの人種や民族、あるいは国家といった固有の集団によって、それぞれ独自の生活の仕方や様式、そして行動パターンや価値観などを歴史的にも、また現在も有しています。そうした固有で独自の生活の仕方、様式を身につけることによって子ども達は、その共同体の一員として行きていくことができます。こうしたことは*社会化ともいわれるのもですが、それもまた広い意味では教育(education)ということができます。(p.6)
*社会化(socialization)
固有の文化をもった特定の共同体社会の一員となっていくことを文化人類学などでは社会化(socialization)あるいは文化化(enculturation)として注目しているが、そこは固有の文化そのものの研究に力点がおかれることになっている。(p.6)
2-3.
しかしこの社会化としての教育は、親子関係や子ども達がその集団の中に参加していく過程で、非計画的で無意図的な、つまり非定型的な教育としてなされています。しかし現在、私達が教育ということでイメージするのは、学校教育といった、むしろ定型的で制度的な教育の方が多いといえます。(p.6)
5 manolo 2014-01-23 02:08:30 [PC]
2-4. ○蓄積されてきた文化
文化といった場合、私達はたとえば文化的生活といったように、これまで人間がつくり出してきた科学、技術、学問、芸術などの蓄積されてきた人間的英知に関係するものといったイメージがあります。文化的生活というのは、そうした人間が作り出してきた、英知に支えられ、それを活かした生活ということなのです。人間がその長い歴史の中でつくりだしてきた、科学、技術、学問、芸術などは、まさしく人間が人間として生きていくために、今や欠かすことができない文化となっています。そしてこうして蓄積されてきた文化をしっかりと次の世代を担う子ども達に伝えていくことは、教育が果たすべき重要な社会的機能の1つとなってきているのです。(pp.6-7)
2-5. 【2. 文化の体系と制度的教育】
科学、技術、学問、芸術などの蓄積されてきた文化は、実は大きな特徴をもっています。それは蓄積されてきた文化は、非常に体系的で系統的なまとまりをもったものとしてあるということなのです。それはたとえば科学といったことを考えればすぐにもわかることでしょう。科学はその発生から発展の過程を通して、1つの体系として積み重ねられてきています。では、そうした科学を子ども達に伝え、理解してもらうためにはどのような教育が必要となるのでしょうか?(p.7)
2-6.
人間がつくり出してきた科学、技術、学問、芸術といった蓄積された文化は、それらが精緻な体系をもったものとして成立し、発展してきました。だからそうした蓄積された文化を子ども達の中にしっかりと伝えていくためには、意図的に計画された制度的な教育が何よりも必要となってきたのです。(p.7)
2-7. 【3. 文化の伝達と社会の創造】
教育の中心的な仕事は文化の伝達ということになります。それは文化というものをどう捉えるかにかかわらず、教育と文化の基本的な関係としてあります。しかしその文化の伝達の意味(意義)をされにどう捉えるかについて、教育学の中ではいくつかの考え方が示されてきました。(p.7)
6 manolo 2014-01-23 02:09:51 [PC]
2-8. ○文化教育学(*kulturpadagogik)
文化の伝達は教育の大切な仕事なのですが、そこでは文化の伝達がなされなければ人間社会が維持され、存続することができないということだけでなく、文化伝達の教育的意味が検討されてきています。その1つである文化教育学では、文化が伝達され学ばれていくことによって、人間の精神がより豊かになり、自分を高め自己形成に役立つと考えられてきました。ドイツを中心としたこうした考えはいささか観念的で抽象的であるとはいえ、教育と文化の関係を人格形成という視点から捉え直そうとするものとなっていました。(p.7)
*シュプランガ−(Spranger, E. :1882-1963)は、文化と教育の関係(文化教育学)に関する哲学的な考察を行い、教育学の基礎を築いた学者としてその名をよく知られている。(p.7)
2-9. ○本質主義(essentialism)と*進歩主義(progressivism)
教育と文化の伝達の関係について、アメリカでは対立する2つの考え方が見られてきました。その1つである本質主義の考えでは、本質的な価値を有する文化的遺産の伝達こそが学校教育の中心となるべきであり、読み・書き・算といった基礎的な知識の教育が重視されなければならないとしました。他方、進歩主義の考えでは、教育は単なる知識の伝達に止まるべきではない、むしろ教育は子ども達の生活的な経験を中心とすべきであり、そのことによって教育は社会の進歩と創造に役立つべきだとしたのです。(p.7)
*本質主義と進歩主義の2つは、文化内容をどのような教育内容(カリキュラム)として具体化していくかの立場(視点)の違いとなってきたが、デューイ(Dewey, J. :1859-1952)は進歩主義に立つ教育の提唱者としてとくに有名である。(p.7)
7 manolo 2014-01-26 11:28:54 [PC]
出典:『よくわかる教育学原論』、安彦忠彦他編著、ミネルヴァ書房、4/20/2012(「I-2 教育と子供観」)、深谷昌志、pp.8-9
3-1 【1. 教育観の相克】
日本の場合、教育課程の基準を国が測定するので、教育課程論争が大きく展開されることがあまりありません。しかし、欧米では教育は地方自治に属する事項なので、自治体により教育の姿が異なります。それだけに、教育理念や教育過程をめぐる議論が交わされる状況にあります。(p.8)
3-2.
アメリカの教育界では、*「本質主義」と「進歩主義」との対立が1世紀以上も続いています。「本質主義者」は教育という営みの本質は基本的な事項をきちんと子供に伝達することだと主張します。それに対し、「進歩主義者」は、本質主義の教育は知識の注入であって、真の教育は子どもの主体的な学習経験を尊重することだと説きます。そうした意味では、両者の対立の根底に子ども観が横たわっています。図式的に説明するなら、進歩主義は子どもの可能性を信頼する性善説を取ります。それに対し、本質主義は幼いうちにきちんと教育することが重要と子ども性悪説的な視点を踏まえているといえなくもありません。(p.8)
*「本質主義」(essentialism)と「進歩主義」(progressivism)
両者の相違は、「基本的な教材の系統的な伝達を目指す教育」と「子どもの経験を重視して子どもの主体的な学習を尊重する教育」との違いといえよう。(p.8)
3-3. 【2. コペルニクス的な転換】
アメリカの教育が学者のデューイは「学校と社会」(岩波書店、1957年)の中で「これまでの教育の中心は教師で、子どもは教師の周りを取り巻く存在だった。しかし、これからの学校では子どもが中心に位置し、その周りを教師たちが取り巻き、子どもの学習を支える形が望ましい。したがって、教師中心から子ども中心へ教育観のコペルニクス的な転換を図るべきだ」と説きました。こうしたデューイの指摘はシカゴ大学での3年間に及ぶ実験学校での実践を踏まえたものなので、具体的な説得力があり、アメリカの教育に大きな影響を与えました。(p.8)
8 manolo 2014-01-26 11:31:17 [PC]
3-4.
デューイに象徴される進歩主義の教育では知識の注入を避け、子どもの景観を重視します。子ども自身が経験することを通して学習が成立します。それだけに、子どもにどういう経験を積ませるかというカリキュラム作りが重要になります。といっても、必要とされる経験は地域の状況や子どもの属性などにより異なるので、教育委員会は学習のガイドラインを示すに留めるのです。そして、具体的な学習の展開は学校や教師の学習課程づくりに委ねられることになります。(pp.8-10)
3-5.
進歩主義の経験に基づいた実践に対し経験を重んじる教育は場当たり的な学習になりやすく、基礎的な学力が身につかないと批判します。そして、学力は系統的な教材の伝達を通して定着すると説きます。(p.9)
3-6. 【3. 大正自由教育】
日本の教育史の中で、子どもの自主性を尊重する教育実践が見られます。その典型が*大正自由教育でしょう。これまでの学校では子どもの興味や関心と無関係に知識を注入する教育が行われていました。それだけに、子どもの意欲を大事に自由で伸び伸びとした学習を心掛けたいという実践です。(p.9)
*大正自由教育
知識を注入する旧教育に対し、児童中心主義をスローガンに掲げる新教育運動で、一般に時代的な背景を視野に入れて「大正自由教育」と呼ばれる。なお、運動は学校教育の範囲を超えて、鈴木三重吉の「赤い鳥」運動や山本鼎の「自由画教育」などの多方面に及んだ。(p.9)
2-7.
1920年代は世界的に自由教育の運動が盛んでした。現在の日本の教育に影響を与えてる*モンテッソーリ教育やシュタイナー学校もこの時代にルーツを持ちます。そして、日本では奈良女子高等師範学校や千葉師範学校などの附属小学校のほかに、成城学園や玉川学園などの私立小学校でも子どもの自主性を尊重する運動が展開されました。黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』(講談社、1981年)は大正自由教育の末期、1937(昭和12)年に創設されたトモエ学園に「徹子」が学んだ記録です。同書は、個性的で公立高校になじめない「徹子」が小林宗作校長の温かいまなざしに安堵して学校に適応していく実話です。(p.9)
9 manolo 2014-01-26 11:32:42 [PC]
*モンテッソーリ教育とシュタイナー教育
モンテッソーリはイタリア生まれの医師だが、「教具」と呼ばれる木製玩具を通して子どもの感性を育てる教育を提唱した。モンテッソーリ教育は、日本では幼児教育の指導法と評価されがちだが、「子どもの家」は障害児や貧困層の教育の中から発展してきた教育実践である。また、シュタイナー学校はシュタイナー(Steiner, R.; 1861-1925)の提唱した学校で、オイリュトミーやフォルメンなど、子ども感受性を尊重する実践で知られる。なお、シュタイナー学校は「自由ヴァルドルフ学校連盟」として全国に展開されている教育運動である。(p.9)
3-8. 【4. 「ゆとり教育」と「学力保障」】
ここ20年来、日本でも「ゆとりの時間」や「総合的学習の時間」などが提唱され、実践に移されてきました。これらの政策の底流に子どもの主体性を尊重したいという思想が感じられます。それに対し、学校の授業には時間的な制約があるのに、「ゆとり教育」に多くの時間を割くと、国語や算数などの基礎的な学力低下を招くとの指摘がなされています。そして、国際的な比較で、日本の学力が相対的に低下したとの資料が提出されたことも手伝って、学力保障の重要性が説かれるようになりました。(p.9)
3-9.
「子どもの主体性を踏まえた教育」は理念的に望ましいものです。しかし、経験主義の教育を展開するには教育集団の卓越した指導力や豊かな教育環境が求められます。そうした条件を欠くと、這いまわる経験主義といわれる劣悪な教育に陥りやすいのです。それに対し、系統的な学習は整然としてはいますが、子どもの心情と遊離しがちになります。それだけに、「知識や技能の伝達」と「子どもの主体性」をいかに成立させるかは教育の永年の課題となるでしょう。(p.9)
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