道徳と法
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1 manolo 2014-01-23 02:36:15 [画像] [PC]

『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、5/20/2007、(「第2部 II-4 不道徳な行為は罰せられるべきか」)、菅富美枝、pp.88-89

1-1. 【1. 道徳と刑法】
 これまで、法の多様性、道徳の多様性についてみてきた。法と道徳の関係について考えるにあたっては、どの意味における「法」と、どの意味における「道徳」について問われているのかが注目されなければならない。多様な道徳の中で、法に取り入れられることの多いものは「社会道徳」であるが、すべてではない。道徳が法に取り入れられる場合があるとして、特に注目されるのは刑法における場合である。刑法は背後に強制権力を控えており、そこに取り入られることにより、「道徳」は「遵守しよう」ではなく、「遵守せよ」さもなくば処罰だ」と強制の根拠となる。個人の自由の重要性に目を向けるならば、こうした強制力に担保された「道徳」はできるだけ少ない方がよいということになりそうである。(p.88)

2 manolo 2014-01-23 02:38:40 [PC]

1-2. 【2. 法は不道徳な行為を処罰すべきか:法による道徳の強制の是非】
 社会には、法に規定されているといないにかかわらず、人々が道徳的に問題があると考えたり感じたりする行為がある。中でも、殺人、窃盗、放火など被害者を生み出すような行為については、およそどの社会においても「悪徳、不道徳」であると受けとめられている。そして、これらの行為については、人々のそうした道徳観を後押しするかのように、刑法によって構成要件該当行為(犯罪行為)と規定され、処罰の対象とされている。他方、時代や文化の違いによって、人々の感じ方、・受け止め方が異なる行為もある。例えば、売春や同性愛などの性道徳に関する行為があげられる。売春や同性愛行為は、特にヨーロッパを中心に、長く犯罪行為と扱われてきた。だが、19世紀から20世紀にかけて、社会の変化に伴い、人々の性風俗に関する感覚にも変化が見えはじめる。(p.88)

1-3. ○ウォルフェンドン報告
 厳格な道徳観が雪どけをむかえる中、1957年、英国において、売春や同性愛行為を刑法で規制すべきか否かという問題について、ウォルフェンドン氏を中心とする委員会は、調査に基づいて意見書(ウォルフェンドン報告)を議会に提出した。その基本的立場とは、刑法の目的は「私的でない」道徳の規制であり、「私的な」道徳については処罰の対象とすべきではないというものであった。(p.88)

1-4. ○ハート対デヴリン論争
 ウォルフェンドン報告に対して、厳しい非難を行ったのが、当時の裁判官P.デヴリン卿(1905-92)であった。デヴリン卿は、共通の道徳(公共道徳)こそが社会における絆であり、悪徳、不道徳とみられるものを放っておいては社会が崩壊するとして、それを未然に防ぐべく、法による規制を唱えた。だが、道徳の法的強制を説くデヴリン卿の見解に対して、そのような規制を正当化する理由は不十分であるとして批判を加えたのが、H.L.ハートである。ハートは、「私的な」不道徳の存在を認め、これをもって性急に法の処罰の対象とすることは、道徳問題において多数者専制を甘受しかねず望ましくない、と主張した。ウォルフェンドン報告やハートに見られるような、法の射程範囲を制限しようとする見解は、19世紀における自由主義的伝統を受け継いでいる。こうした彼らの思想的背景にあるのが「危害原則」と呼ばれる考え方である。(p.89)

3 manolo 2014-01-23 02:39:58 [PC]

1-5. 【3. J.S.ミルの危害(防止)原理】
○ミルの「危害原理」
 ミルは、*「文明社会の成員に対し、彼の意思に反して権力を行使し得る場合とは、他人に対する加害の防止を目的とするときのみである」と述べた。これは、一般に「危害原理」と呼ばれ、自由主義の基本的見解を示すものと考えられている。ここでは、「自分自身にのみ関連する生活部分」と「他人に関連する部分」とが区別され、前者については、行為者に自由があり、なにものも干渉すべきでないと考えられている。他方、後者については、**他人に危害を与えそうな場合には苦痛を与えて思いとどまらせることも許され、法の強制になじみやすい部分だと考えられている。(p.89)

*J.S.ミル「自由論」関嘉彦編『ベンサム J.S.ミル(世界の名著49)[第6版]』(早坂忠訳)中央公論社、1995年、224頁参照。

**しかしながら、こうした「私事」「私的な事柄」と「他人に害を及ぼしうる事柄」との線引きは見かけほど容易ではない。

1-6.
○リベラリズムとリーガル・モラリズムとの対立
 リベラリズムにおいて、「害」とは、他人に対する直接的な危害を指し、単に、社会の調和を乱すといった、抽象的で漠然としたものとは区別される。これに対して、先のデヴリン卿にみられたような、不道徳を社会を崩壊させる「害悪」と考え、法による積極的な規制を唱える見解を、リーガル・モラリズムと呼ぶ。両者の違いが最も顕著になるのは、誰かに危害を与えるわけではないが、社会の風紀に大きく抵触すると考えられるような行為が問題となる場合である。先にみた売春、同性愛などの「道徳犯罪」のほか、いわゆる*「*被害者なき犯罪」がこの場合にあたる。これらを処罰する理由として、社会的風土・モラルの維持といった社会的観点から説くのがリーガル・モラリズムであるが、あくまで個人的観点に立って、規制の必要性を説く見解もある。(法的パターナリズム)(p.89)

*被害者なき犯罪
賭博罪について、殺害行為や窃盗行為とは異なり、直接的な被害者は想定しにくい。いわば「勝っても負けても」本人の同意の上だからである。この点について、刑法学において、賭博罪の保護の対象は、「個人的法益」ではなく「社会的法益」であると説明され、その具体的内容については、国民の健全な勤労意欲に対する影響などがあげられる。(p.89)

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