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■ 植村記者の記事 朝日新聞の報道がもたらした影響が、巷間指摘されるよりも遥かに限定的であったのは、もう一つの焦点である、1991年8月11日付朝刊(大阪本社版)の植村隆記者による「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦を韓国の団体聞き取り」と題する記事についても言うことが出来る。そもそもこの記事は3日後に行われることになっていた、金学順の元慰安婦としてのカミングアウトに関わる証言を朝日新聞が先取りして報じたものであり、その証言に関する報道内容は後に公表された金学順の発言によって書かれた他紙の報道と大きな違いはなかった。 だからこそ、この記事の内容部分について問題となり得るのは、金学順の証言を扱った部分よりも、この記事で植村が従軍慰安婦を「『女子挺身隊(ていしんたい)』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」ものとして紹介した点にある。 明らかなことは、このような植村の記述が、この時彼が取材にて入手した金学順の証言による産物ではないことである。植村も記事で書いているように、金学順はこの時の証言において「だまされて慰安婦にされた」と明確に述べており、例えば日本の官憲などにより物理的強制力をもって慰安婦にされたのではないことを、明確にしている。にもかかわらず、金学順の証言を離れて、植村が挺身隊と慰安婦を混同し、「戦場に連行」されたと記したのは、証言の以前に既に混同が存在したことを意味している。 それではこのような植村の混同をもたらしたのは何か。指摘すべきは、この時点においては既に、吉田証言を始めとする「慰安婦は挺身隊として強制連行された」という言説が(その真否は別として)無数に存在していたことである。 この点を考える上では当時、先の植村の文章と同一の主張を行っていたのが誰だったかを考えればよい。それは即ち第一に吉田清治その人であり、第二に、韓国における最大の元慰安婦支援団体である挺身隊問題対策協議会(通称「挺対協」)に他ならなかった。そしてこの両者に影響を与えたのは、1973年に出版された千田夏光の『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』という書籍だった。千田はこの著作で、ソウル新聞等に依拠する形で、朝鮮半島においては「慰安婦は挺身隊という名目で強制的に連行された」と結論付けており、このような千田の理解が、吉田証言や挺対協を創設した尹貞玉の従軍慰安婦問題に対する理解に大きな影響を与えていた。 事実、挺対協はその名称の一部に「挺身隊」を冠していることからも明らかなように、発足の当初から「慰安婦は挺身隊として強制連行された」という大前提に立っており、植村報道の3日後に行われた金学順との記者会見でも、団体側はこの見解を繰り返し示している。そのことは植村報道があろうとなかろうと、韓国の運動団体の主張に変化は全くなかったであろうことを意味している。 また朝日新聞においては「慰安婦は挺身隊として強制連行された」という理解は、80年代前半から繰り返し示されていている。その意味で、植村報道もまた同紙が用いて来た慰安婦に関する「枕詞」を繰り返したに過ぎなかった。その意味でこの植村報道の内容に、同紙の一連の報道の中で特殊な意味を見出すのには無理がある。
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