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■ 生涯 陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれる。 幼名は稲之助。 新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。 やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。 祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り新渡戸家の家計を大いに助けた。 ■ 盛岡から上京 作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいる叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。 この時、名を稲造と改めた。 東京に着くと、稲造は叔父の洋服店を訪ね、養子となって太田稲造と名のるようになった。 まず英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主 南部利恭が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。 この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。 それは、ある日の冬に自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われるほどであったという。 それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。 13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。 ここで稲造は佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。 この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて農学の勉強に勤しむことを決意する。
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