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■ 札幌農学校へ (画像: 内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0#/media/File:Kanzo_Uchimura_Kingo_Miyabe_Inazo_Nitobe.jpg ) 札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する。 農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。 在学中、札幌丘珠事件が発生し、解剖担当者にあたったという。 稲造は祖父 達同様、かなり熱い硬骨漢であった。 ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。 その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。 他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられた。 クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。 二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。 農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していた メソジスト系の宣教師 メリマン・ハリスから洗礼を受けた。 クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。 この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。 学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。 聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。 その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。 この頃から稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。 やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。 数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。 それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。 その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。 その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。 この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となったという。
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