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台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より 1899年(明治32年)から 2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。 赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした 。 民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した 。 その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。 1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。 同年、牧野伸顕 文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。 1911〜1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。 帰国後、健康を害したこともあって、1913年に 一高校長を辞職。 東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。 その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。
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