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民社党の衰退 結党直後の昭和35年(1960年)、40議席から 17議席まで落ち込み、深刻な打撃を受けました。 昭和35年(1960年)10月12日、浅沼稲次郎暗殺事件が勃発。 浅沼稲次郎(日本社会党委員長)は「米国は、【日中共同の敵】」と述べ、かつ【台湾は中国の一部】で、(当時、返還されていなかった)沖縄は日本の 一部ですが、これはアメリカ帝国主義のためという演説を行いました。 演説中の浅沼委員長を、当時17歳の山口二矢(おとや)少年が小刀で殺害した事件が、浅沼稲次郎暗殺事件です。 逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万才、七生報国」と遺書を残して首吊り自殺しました。 (本会議で記者会見する浅沼稲次郎) 浅沼委員長は、昭和天皇・皇室を敬愛していたことでも知られ、ここは今の左翼とは異なります。 非常に人気が高く、刺殺後は 44万人もの集会、デモに 37万が参加したと言われます。 党首を刺殺された日本社会党は、「弔い合戦だ!」として躍進。 その煽りを受け、民社党は 40議席から 17議席と、改選前の半分以下という惨敗を喫しました。 のち、70年後半から 80年前半にかけては党勢を回復。 1983年には 39議席を獲得しましたが、この間に労働組合の左傾化が異常に進行していったと考えています。 労組という団体に対し、対になる政党が衰退していたため、左派による労組浸食が浸食していったのでしょう。 私の生まれる以前の話ゆえ、様々な先輩方に当時のことを聞き取りしていった感想です。
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