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わいせつ (コメント数:16) |
1 manolo 2013-11-26 20:56:14 [PC] |
2 manolo 2013-11-26 20:58:49 [PC]
1-2. 【2. わいせつ罪の保護法益は何か】 公然わいせつ罪及びわいせつ物領布罪の保護法益をめぐっては、見解の対立がある。保護法益の内容によっては、刑法による道徳の強行につながる恐れがあるからである。大きく分けて三つの見解がある。(p.202) 1-3. 第一は、性道徳・性秩序の保護にあるとする見解である。社会には、誰もが認めなければならない性道徳があり、これを刑法は保護するべきであるとする。第二は、性的自己決定権の保護にあるとする見解である。つまり、わいせつ行為やわいせつ物を見る自由と見たくない自由があり、*見たくない自由を保護すべきであると考える。第三は、社会における精神的・文化的環境の保護にあるとする見解である。わいせつ行為、わいせつ物が社会に氾濫することにより、見たくない人の自由が侵されるだけでなく、性の商業化、青少年への悪影響を招き、生活環境も乱される恐れがある。(p.202) *見たくない自由の保護を徹底させれば、見せ方にさえ留意すればよいことになり、究極的にはわいせつ罪の非犯罪化に行き着く事になろう。(p.202) 1-4. 第一の見解は、まさに、刑法による道徳の強行につながる恐れがある。しかも、わいせつ性に対する社会の認識は日々流動していることを無視している。第二の見解の大きな特徴は、行為の相手側が行為に対して同意しているときは犯罪は成立しない、という点にある。例えば、ストリップショーの観客は、わいせつな行為を見ること自体に同意しているのだから、公然わいせつ罪は成立しない、ということになる。しかし、そうすると、日本全国にストリップ劇場が乱立してもよいことになりかねない。このような事態になれば、見たくない人の自由が脅かされるだけでなく、精神的・文化的な社会環境、生活環境は内容が曖昧な法益であるとの批判もあろう。しかし、わいせつ罪のもつ社会性にあえて目を閉ざし、個人法益にのみ還元しようとする第二の見解よりも、むしろ第三の見解の方が、*社会生活における現実の法益侵害を念頭に置いている見解であるとさえいえる。(pp.202-203) *なお平成11年より施行されている「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」にも注意すべきである。(p.203) |
3 manolo 2013-11-26 21:02:34 [PC]
1-5. 【3. わいせつ物領布罪におけるわいせつ性の判断基準】 小説や映画の中にある性交シーン、女性や男性の裸体をモデルにした写真集や絵画、像、これらは、普通に生活していてもよく出くわすものである。こうした作品を公にすることは、175条に該当する行為なのだろうか。制作者は、表現の自由(憲法21条1項)に基づいて作品を発表したのだ、と主張するだろう。ここにおいて、憲法上の権利とわいせつ物領布有罪が衝突するのである。(p.203) 1-6. *最高裁判所は、「わいせつ」を次の三つの要素から定義している。①徒(いたずら)に性欲を興奮または刺激させ、かつ、②普通人の正常な性的羞恥心を害し、③善良な性的道義観念に反するもの、である。それでは、表現の自由に最大限配慮しつつ、作品のわいせつ性はどのように判断されるべきなのだろうか。一つの方法は、作品の一部分のみに着目して、わいせつ性を判断する。小説の中にわずかに出てくる性交シーン、写真集や裸像の一部分だけを切り取り、そのわいせつ性を検討する。そして、わいせつ性が肯定できれば、表現の自由といえども公共の福祉の観点からそうした作品は許されない、とする行き方である。しかし、一部分だけを切り取ってわいせつ性を判断する方法は、まさに揚げ足を取るやり方であり、これでは性的表現が一切許されないことになろう。(p.203) *最判昭和26年5月10日刑集5巻6号1026頁(「週刊サンデー娯楽」に掲載された記事をめぐって)、最判昭和32年3月13日刑集11巻3号997頁(「チャタレー夫人の恋人」事件)など。(p.203) 1-7. そこで、作品のわいせつ性は、表現の自由に配慮し、全体的にとらえる必要が出てくる。最高裁判所は、**「四畳半襖(ふすま)の下張り」事件で、文書のわいせつ性は次の基準によるべきだとした。①当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、②描写叙述の文書の表現全体の占める比重、③文書に表現された思想などと描写叙述との関連性、④文書の構成や展開、⑤芸術性・思想性などによる性的刺激の緩和の程度、⑥文書全体としてみたときに主として読者の好色的興味に訴えるものとして認められるか否か、を検討し、その時代の社会通念にてらして、***わいせつ性の定義に当てはまるかどうか判断する、というものである。(p.203) |
4 manolo 2013-11-26 21:03:41 [PC]
**最判昭和55年11月28日刑集34巻6号433頁(p.203) ***なお、裁判所が芸術性や思想性を判断する立場にないことを重視し、むしろ問題となっている文書や図画が、どのような状況のもとで販売されたかも考慮すべきであるとの見解がある。例えば、同じ芸術作品が、美術館に展示されたのか、販売されたのか、というように行為状況に着目する。同じ文書・図面でも、わいせつとなったり非わいせつとなったりすることがあるという意味で、「相対的わいせつ文書」概念と呼ばれる。(p.203) |
6 manolo 2016-08-25 23:53:38 [PC]
2-2. データ配布は有罪 検察側は罰金80万円を求刑していた。「女性器をモチーフにした芸術作品だ」と訴えていた被告は、判決を不服として控訴した。判決によると、被告は2014年7月に東京都文京区のアダルトショップで女性器をかたどった立体作品3点を展示したほか、13年10月から14年5月にかけ、自身の女性器の3Dデータをインターネットなどを使って東京都や名古屋市などに住む計9人に配布した。 2-3. 判決は、作品や3Dデータがわいせつ物にあたるかを検討。作品については現実の女性器とは違う着色や装飾がされているため、「ただちに女性器を連想させない」とした。「ポップアートの一種ととらえられることが可能で、女性器への否定的なイメージをちゃかすなどの制作意図を読み取ることができる」とも指摘。「芸術性、思想性によって性的刺激が緩和されている」としてわいせつ物にはあたらないと結論づけた。一方、3Dデータについては「女性器の形状を立体的、忠実に再現している」として、わいせつ物に当たると認定した。 2-4. 判例に忠実だが根本的疑問残る 今回の事件に関する共著がある園田寿・甲南大学法科大学院教授(刑法)の話 判決はわいせつ性について、従来の判例の流れ忠実に判断した。3Dデータについては、アダルトグッズに使われる可能性があるなど社会的に様々な問題を投げかけていることも考慮して有罪としたのではないか。ただ、ネット上に過激な性病表現があふれる中でどこまでこうした規則をするのかや、そもそも裁判所が芸術性を判断してよいのかなど、この種の裁判にまつわる根本的な疑問は残る。 |
7 manolo 2016-08-25 23:55:42 [PC]
2-5. 「うれしいが納得できない」 「自分の活動を裁判官に理解してもらえるか不安だったが、アートとして認定してくれたことはうれしかった」。判決後に東京都内で会見した五十嵐被告は笑顔を見せた。一方で、「わいせつではなく芸術活動だ」という無罪の主張は一部で退けられた。「自分の体の一部が『わいせつなもの』というのはおかしい、と思ってずっと活動してきた。無罪の理由が『女性器に見えないから』というのは納得できない」とも話した。弁護団の山口貴士弁護士が「わいせつ性が問われた刑事裁判で、一部でも無罪になったのは珍しい。画期的な判決だと評価。 2-6. だが判決は、有罪とした3Dデータの配布について「データを使って、創作活動をしてもらいたいという被告の意図が、かえってデータのわいせつ性を高める可能性も否定できない」とも指摘した。主任弁護人の須見建也弁護士は「最低限の結果は出たが、一部が有罪になったことで創作活動に対する萎縮効果もある。控訴審で引き続き頑張りたい」と話した。 |
8 manolo 2016-08-25 23:58:14 [PC]
出典:『朝日新聞』、7/27/2016、「オピニオン&フォーラム 性表現と法規制」、p.13 ろくでなし子さんの作品をめぐる経緯 14年7月 自らの女性器の3Dデータを配布したとして警察庁が作者を逮捕。6日後に保釈 10月 東京芸術大学で逮捕をテーマにシンポジウム開催 12月 女性器をかたどった立体作品「デコまん」をアダルトショップで展示した疑いで警視庁が再び逮捕。わいせつ物陳列罪とわいせつ電磁的記録等送信頒布[はんぷ]などの罪で起訴後、保釈 15年4月 初公判で被告が無罪を主張 16年2月 検察側が罰金80万円を求刑 5月 東京地裁が罰金40万円の判決。「デコまん」展示は無罪、3Dデータ配布は有罪に。被告側は翌日控訴し、検察も後に控訴 3-1. 自らの女性器をかたどったアート作品をめぐり、作者の刑事責任が問われている。この性表現は犯罪なのか。その根っこにある問題を、研究や表現の最前線にいる人たちに聞いた。 |
9 manolo 2016-08-26 00:03:05 [PC]
【多様な芸術 司法は硬直】 林道郎(はやしみちお)さん(上智大学教授) 3-2. 誰を傷つけることもなく、見たくない人は見ないですむ配慮もされた表現にたいする司法の介入です。明らかに行き過ぎで、一部でも有罪になったのは、ナンセンスとしかいいようがありません。 3-3. アーティストのろくでなし子さんが、自らの性器をかたどって装飾を加えた作品「デコまん」と、性器の3Dデータを、陳列したり配布したりしたとして起訴されました。一審判決で「デコまん」は無罪になりましたが、制作、流通のどこをとってもポルノといえるものではない。むしろフェミニズム・アートと位置づけられるものです。1960年代、女性は「描かれる側」だった美術界で、「自身の体を自身の手に取り戻す」と考えた国内外の女性アーティストが象徴として女性器をモチーフにした作品を作り始めます。ろくでなし子さんの作品も、この経緯を想起させます。その意味でいまだ後進的な日本での素朴な生活実感から出たもので、本人の漫画や言論活動を含め、問題提起的な美術表現です。 3-4. 現代美術の表現は多様化し、一方で、ネットには性器を含むポルノ画像があふれています。それなのに、捜査当局も裁判所もわいせつ性について「性器が見えているか」を最も重要な判断基準とする姿勢を変えていません。時代の変化に対応する難しさをわいせつ罪を規定する刑法175条が元々持つあいまいさが合わさって、凡例踏襲と硬直した性器中心主義を繰り返しているように見えます。 3-5. 3Dのデータは「性器そのもの」として有罪になりましたがここにも矛盾があります。データ化は、女性器型ボートをつくるために必要な作業で、この計画への出資者に謝礼として配られました。作品の資金調達や制作過程を含めた全体を芸術活動とすることはプロジェクト・アートといい、多くの事例があります。 3-6. 最高裁はかつて「芸術性がわいせつ性を緩和することがある」との判断を示しており、データ配布を軽術の一環として考慮することはできたはずです。しかし、今回の判決は「前後の文脈は考慮せず、データそのものだけで判断すべきだ。」とした。一方女性器の医学標本は、医学のためという文脈が考慮され、摘発されることはない。この非対称性には疑問を持ちます。 |
10 manolo 2016-08-26 00:07:40 [PC]
3-7. 芸術を含む表現の自由が、憲法に書き込まれているのは重要なことです。今の価値観が絶対でないという疑いをもち、自己批判的な意見が出ることを保障している。芸術はその時代の価値観に挑戦し、それを取り込むことで発展してきました。これは社会にとって大きな推進力です。児童ポルノ、ヘイトスピーチなど誰かを傷つける表現を除き、表現への司法介入は最小限であるべきです。 【社会の欺瞞 挑発で問う】 平野啓一郎さん 小説家 3-8. ろくでなし子さんの作品と、性器にモザイクがかかったアダルトビデオ(AV)を比べれば、大半の人がAVの方をわいせつだと思うでしょう。刑法175条の定める「わいせつ性」という概念、規定がおかしな状況にあることは明白です。日本は不思議なほど、わいせつの問題を性器中心でとらえる。春画では性器が非常に誇張して描かれますが、これも日本独特です。外国映画でも、日本で公開されるときは、性器にモザイクがかかる。かえって「わいせつなもの」と意識化させています。 3-9. 一方、ネットには法律上、見られるはずのない性器の写真や動画があふれている。法律が現実に対応できていないからこそ、変に機能させようとしている力を感じます。そこに潜んでいるのが「公益」という発想です。今の憲法改正の議論でも、公益と公共の福祉の混同が見られますが、本来は全く違う概念です。公益は社会的な合意もなしに一般人にとっての「利益」が定められ、強制されることで、人間の多様性を脅かすものになりかねません。一方、公共の福祉は、個々人の多様な利害調整のための概念です。わいせつの問題の解決に役立つのはこちらで、見たくない人には見せない、子供には見せないというゾーニングなどが考えられます。 |
11 manolo 2016-08-26 00:12:41 [PC]
3-10. ろくでなし子さんはその名からも、社会のまじめさとか欺瞞を挑発する姿勢を持っているのでしょう。その作品は、性器中心主義が結局は男性中心主義の価値観ではないかと社会を挑発しています。芸術家は時に、社会を挑発する表現をするものです。社会システムは主に経済合理性で設計されていますが、人間は複雑で、そこに組み込まれない部分をもっている。合理的な秩序が取こぼしているものを、芸術が実現することで救われる人もいる、ささやかな作品一つで、社会がそれまで排除してきた価値観を包摂し、より複雑な現実に対応した豊かなものになることもある。そこに芸術の魅力を感じます。 3-11. 挑発的な芸術といっても、発表によっても従来と同じ事態しか生まないなら二流でしかありません。今回は性器中心主義の問題や3Dプリンターという技術について新しい問題を提起した。意義のある作品だったと思います。もちろん、芸術に携わる側も、社会的に弱い立場の人たちを傷つけることには敏感で中ればなりません。ただ、ろくでなし子さんの作品は誰も傷つけていない。取り締まられたのは「公益」反するからという発想からでしょう。好意的に見れば、その現象の風刺として作品になっています。今の社会の色々な問題がはからずも現れたのが今回の事件だったと思います。 【消費の形 作者は関心を】 上野千鶴子さん 社会学者(立命館大学教授、東大名誉教授) 3-12. 今回の事件で、私は「いまだに女性器は眉をひそめられる存在なのか」と正直、ショックを受けました。ろくでなし子さんは、法廷では完全に無罪であるべきだと思います。男性に所有され管理されてきた女性器を女性自身に取り戻そうというのは、フェミニストが60年代から取り組んできたテーマでした。それを一人の若い女性が思いついてアクションに移した。司法が介入するべき問題だと思いませんし、処罰の対象になるとも思いません。 |
12 manolo 2016-08-26 00:13:37 [PC]
3-13. ただ、自分の性器の3Dデータをクラウドファンディングの寄付者に提供したことについては、3Dデータを「性器そのものだから」として有罪とした司法の判断とは離れた立場から疑問に思います。司法は「女性器はわいせつか」という命題を立てた上で「芸術性がわいせつ性を緩和する」と考えてきましたが、社会学的には無意味です。解剖学も医学も文脈次第でいくらでもわいせつになる。芸術に価値を与えるものも、わいせつ物にするのも、作品がどう消費されるか、という文脈があるからです。 3-14. 3Dデータの配布は「プロジェクト・アート」だったとの主張ですが、大事なのは「アートだったかどうか」よりも、それがどう消費されるのか、です。ネット上のデータは、表現者の意図を無視して世界中に広がる、だからこそ、フェミニストはこれまで、作品が意図しない形で消費されないように、公開する場を女性限定にするなど慎重な配慮をしてきました。ネットや複製技術が進化した現代では、より慎重さが求められて当然です。 3-15. 「性器を自分自身に取り戻す」と言いながら、大切な性器をあずかり知らぬ形で消費されても関知しないというのは無責任です・フェミニストたちが今回の件で、沈黙しがちだったのは、男性に利用されかねない点に違和感を持ったからでしょう。なにより、アーティスト自身が傷つかないのでしょうか。彼女の無防備さに、セクハラが蔓延する男性中心社会で「わたし、これくらいは大丈夫なのよ」と言いながら、感受性を鈍くして生き延び来た現代女性の「鈍感さ」を感じます。セクハラをすると反応する人型ロボットが世に出て、デザイナーが女性だと話題になりましたが、通停するものがあります。 3-16. 60年代から半世紀、女性の社会進出が進みましたが、ごく普通の女性が援助交際などの性産業にかかわるハードルは下がる一方です。女性が「消費される性」であり続ける現代はむしろ、悪化している。女性が「性器を自分に取り戻す」こと自体はすばらしいですが、それがセクハラ文化につけ込まれる可能性にも敏感であってほしいです。 |
13 manolo 2016-08-26 00:19:15 [PC]
出典:『The Japan Times News』、5/9/2016、「‘Vagina artist’ Igarash loses obscenity case over 3-D data but is acquitted over pop art replicas」 (http://www.japantimes.co.jp/news/2016/05/09/national/crime-legal/vagina-artist-convicted-of-obscenity-court-acknowledges-pop-art-motive/#.V79iFZiLTIU (閲覧日8/25/2016)) 4-1. An artist was fined \400,000 for obscenity on Monday after distributing 3-D printer data of her genitals and said she plans to appeal the ruling. Megumi Igarashi, 44, known by pseudonym Rokudenashiko (Good-for-Nothing Girl) or -more bluntly- the “vagina artist,” was convicted of distributing the data over the Internet in October 2013 and March 2014. She said she will appeal the Tokyo District Court ruling. 4-2. The data allows users to create precise replicas of her genitals. The data contained such detail that the court judged it to comprise an obscene object as defined by law. The ruling added, the stunt’s artistic merit was too low to balance out its sexuality titillating nature. 4-3. But the court acquitted Igarashi of a separate charge of “displaying obscene materials publicly,” namely exhibiting a vagina-shaped plaster artwork in a Tokyo sex shop in July 2014, because the item was made with colored materials and did not resemble a real vagina. Prosecutor sought a fine of \800,000 for the obscenity charges. In the trial, Igarashi maintained her innocence, calling her art a form of expression that was not intended to cause sexual arousal. She told reporters after the ruling she was “happy” that the ruling partly acknowledged her works to be a form of pop art, as the public has often misunderstood her artwork. 4-4. However, she expressed disappointment at not being exonerated by the court. “The ruling explained my artwork was OK because it didn’t look like real female genitals,” she told a news conference. “It’ still says genitalia are obscene objects.” She said she plans to appeal to a higher court as she believes she is innocent. 4-5. A feminist and manga artist, Igarashi claims her artwork is intended to challenge taboos in Japan, where the vagina is considered obscene. Igarashi was initially charged in July 2014 for distributing the 3-D data to donors of at least \3,000 to a crowd-funding project aimed at raising cash to produce a kayak modeled on her genitals. She was released days later but was arrested in December that year for obscenity. In April, Igarashi announced that she is engaged to be married to British to musician Mike Scott, a singer and guitarist. She said she would move to Ireland, where Scott lives. |
14 manolo 2016-08-26 00:23:42 [PC]
出典:『The Japan Times』、5/28/2016、「The vagina on trial: more absurd than obscene」 by Philip Brasor (http://www.japantimes.co.jp/news/2016/05/28/national/media-national/vagina-trial-absurd-obscene/#.V79ZwJiLTIU (閲覧日8/25/2016)) 5-1. Though the obscenity trial of the artist know as Rokudenashiko ? real name Megumi Igarashi- ended earlier this month with a conviction on one of her charges, we haven’t heard the last of her. She plans to appeal the verdict, which is good news for the press and the public, since few court trials of recent memory has been as entertaining. 5-2. Rokudenashiko’s crime was distributing 3-D data to sponsors of one of her projects: a kayak in the shape of the artist’s own vagina, big enough to launch in open water with a human in the driver’s seat. According to police the data qualifies as obscene materials, so Rokudenashiko was basically distributing pornography. She said the data constituted a work of art and was thus protected by free speech statutes. She also emphasized that the purpose of the project was to challenge the notion that depictions of female genitals are inherently “shameful”, 5-3. “I wanted to get rid of the image,” she said before the trial began, “so I created the artworks were humorous.” She drew comics and other graphic pieces featuring vaginas and colorful, silly motifs. None of them seemed to bother the police, but the 3-D data, since it represented actual genitalia, was too much even though the only way someone could possibly be sexually stimulated by it would be to input it into 3-D printer and produce a cast, which no one except the prosecution did, apparently. The vast majority of people do not have such devices at their disposal 5-4. And it was this aspect of the trial - the idea that police, prosecutors and judges were the only people making claims that Rokudenashiko’s work was arousing ? that gave the story its eyebrow-raising subject. The artist’s aim of countering the authorities’ reception of female genitalia as something disgusting through the use of humor found its most successful expression in the courtroom. The trial itself was a work of art, though it was definitely not a solo show. 5-5. The prosecution’s case was based on the idea of pornography as something that stimulates sexual desire to the extent the consumer “feels” “self-loathing”. This is a highly subjective call. The prosecution would have to generalize the reaction to the 3-D data, which is hypothetical anyway, since none of the people who received it turned it into something that resembled a vagina.So the strategy became part of subtraction: remove the “art” component and what you have is pornography, because according to their logic there are only two ways to consume information of a sexual nature. |
15 manolo 2016-08-26 00:27:25 [PC]
5-6. The Asahi Shimbun’s detailed coverage of last November of the cross-examination of defense witness Michio Hayashi, a Sophia University professor of art history, was particularly diverting. The defense established the idea that while most people can tell the difference between pornography and art, obscenity is more personal. To Hayashi, pornography is designed to be “commercially consumed” by provoking lustful feelings,” and to him Rokudenashiko’s work satisfied neither of those criteria. “If you told me (Rokudenashiko’s work) depicts female genitalia, I would recognize it as such,” he told the court. “But that doesn’t mean I think it’s obscene.” 5-7. The prosecution tried to undermine this approach by entering as evidence a paper by a criminal law scholar who stated that the artistic value of Rokudenashiko’s work cannot be recognized “by the average person,” thus suggesting that those without a grounding in aesthetics will look at her kayak and see something dirty. Hayashi said it doesn’t make sense to judge artistic merit based on reaction of the general public” because it isn’t always the purpose of art to be appealing. 5-8. “Everyone has a different way of seeing,” he reiterated and went on to assert that something originally produced to elicit lust can later be seen as having artistic value, such as the erotic shunga drawings of Edo period (1603 to 1868). Sometimes both exist at the same time. Nagisa Oshima’s 1976 film, “In the Realm of the Senses,” could be “marketed as at or as pornography” with equal effectiveness, said Hayashi. When one of the judges asked what “art” means to him, the scholar induced chuckles by remarking, “That’s the kind of thing you write books about.” 5-9. A few days later the artist herself took the stand and threw the prosecution’s reasoning back in their face while explaining the history of her “vagina art,” pointing out that visitors to one of her exhibitions complained that her depictions “weren’t explicit enough.” “They told me they got no sexual gratification from it”, she said, because to those people there’s nothing exciting about female genitalia unless it is seen as being forbidden. In response, she tried to make her reactions more realistic, which is how she came up with the idea of 3-D scanning her own vagina. When she was asked why she chose to print the data as a kayak, she said, “I wanted to make a vagina car, but I couldn’t afford an engine.” |
16 manolo 2016-08-26 00:28:26 [PC]
5-10. In the end, the prosecution couldn’t prove that the vagina kayak was obscene since it was so stylized, but the 3-D data - which only they had “seen”- was. So, the court fined her only \400,000, or half the amount the prosecution had demanded. It’s notable that the sentence was delivered by a female judge, who nevertheless failed to revert the misogynistic essence of the case. Manga artist Jun Miura was especially tickled by this fact. During a discussion on Bunka Hoso radio, he said the legal rationale for obscenity implied that the prosecution was in a constant state of arousal during the trial, and to a person like him, who revels in lewdness as a matter of professional duty, it proved the value of Rokudenashiko’s work: “It’s good to be excited by art, isn’t it” 5-11. If you took the prosecutor’s argument at face value, as he pointed out, then so many things can be deemed obscene. Fortunately, Miura’s own fetishistic sensibility was not the source of the law’ s definition. Otherwise, all sorts of things would be banned. “I got into a department store and see a row of bright red high-heeled shoes,” she said, “and I get really turned on.” |
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