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ヘイト・スピーチ (コメント数:23) | ||
1 manolo 2013-09-21 15:52:24 [PC]
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2 manolo 2013-09-21 16:23:01 [PC]
1-2. 現在のところ、日本ではヘイト・スピーチを規制する法は存在しない。名誉毀損罪(刑法230条)や侮辱罪(刑法231条)が適用できる事例もあるが、表現の対象が、人種、民族などの不特定多数の者である場合、名誉棄損罪や侮辱罪は適用できない。* *「在日特権を許さない市民の会(「在特会」)」が、京都朝鮮第一初級学校におしかけ、拡声器を用いて「北朝鮮のスパイ養成機関、朝鮮学校を日本からたたきだせ」、「日本から出ていけ。何が子どもじゃ、こんなもん、お前、スパイの子どもやないか」「約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人じゃ約束は成立はしません」などと公然と同学校を侮辱し、サッカーゴールを倒すなどした事例では、威力業務妨害罪、侮辱罪等が適用された。裁判平成24年2月23日判例集未登載。 1-3. また、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)4条が人種にもとづく差別の煽動を禁止し、処罰することを義務づけているが、日本は、条約加入に際し、4条について、言論の自由などに抵触しない限度で履行する旨の留保を付している(ただし、ヘイト・スピーチ規制に積極的な国を含む多くの国も、本条につき留保あるいは解釈宣言を付して対応している)。 1-4. なお、2002年には、人権擁護法案が、第154回国会に提出され、三会期連続で審議されたが成立せず、翌年廃案となった。同法案は、特定の個人に対する差別的な表現や、不特定の集団に対する差別を助長する表現などを規制する条項などが含まれていた(3条1項2号、同条2項)。その後も2005年に、人権侵害救済法案が第162回国会に提出されるなど、差別的表現の規制が検討されたが、いまだに成立には至ってない。 1-5. ヘイト・スピーチの害悪としては、主として、(1)犠牲者に身体的、精神的害悪を与える、(2)思想の自由市場の機能を歪めさせる、(3)平等保護の要請に反する、(4)人間の尊厳を侵害するなどが主張される。また、ヘイト・スピーチは、犠牲者だけではなく、社会全体に対しても害悪を与え、それにより、人種主義(レイシズム)の永続化に寄与するともいわれる。 | ||
3 manolo 2013-09-21 17:35:27 [PC]
1-6. しかし、ヘイト・スピーチを規制することは、表現の自由という極めて重要な権利を規制することになる。主権者である国民が代表(議員)を選ぶ際に、賢明な判断を下すためには、公の問題についてのあらゆる情報を持っていなければならず、それらの情報は、公の問題について自由に議論することができなければ存在しえないため、表現の自由は、民主国家においてとりわけ重要な権利であるとされる(A. Meiklejohn)。 1-7. このようにヘイト・スピーチを規制するか否かという問題は、人種主義の害悪の抑圧と自由の保障という、二つの重要な価値のバランスをどのようにとるのかという問題である。言い換えれば、人種主義者にどれだけ自由を認めるのかという問題であり、リベラルな民主国家にとって深刻なジレンマとなっている。 1-8.【二つの方向性-ヨーロッパとアメリカ】 ヘイトスピーチに対する法的規制につきましては、しばしば「規制に消極的なアメリカ合衆国」と「規制に積極的なヨーロッパ諸国(ドイツ、フランス、イギリス等)が対比される。「政府は、その思想自体が攻撃的あるいは不快であるからという理由だけで思想を禁止するべきではない(Texas v. Johnson, 491 U.S. 397,414(1989))という原則を固持しているとされるアメリカに対し、ヨーロッパ諸国では、平等、人間の尊厳、個人の名誉などの他の憲法的価値も民主的価値をゆうするために、それらの権利を攻撃的な言論から保護することは、言論の規制の民主的正当化事由となるとされる。 1-9. ヨーロッパ諸国をみてみると、公共秩序法(イギリス)や人種差別法(フランス)、あるいは刑法(ドイツ、スイスなど)に、ヘイト・スピーチを規制する条項をおいている。また、ロシアでは、憲法29条2項で「社会的地位、人種、民族、または宗教に対する憎悪および敵意を刺激する宣伝又は煽動は、これを禁止する。社会的地位、人種、民族、宗教または言語の優越についての煽動は、これを禁止する」として、ヘイト・スピーチを禁止している。 1-10. 現在では、ヨーロッパの多くの国で、人種差別主義的な言論を規制する法が制定され、ヨーロッパ人権裁判所も、人種あるいは宗教に関する煽動的な言論については、この傾向を支持している。EUもこの傾向を強化し、2008年には、加盟国に対し、人種等にもとづく憎悪あるいは暴力を煽動するような言論を違法化するよう求めた。 | ||
4 manolo 2013-09-21 18:09:01 [PC]
1-11. アメリカではヘイト・スピーチを規制する連邦法はない。州法により、特定の者に対する脅迫にあたるヘイト・スピーチを規制することは合憲とされる。しかしながら不特定の者に向けられたヘイト・スピーチの規制は、表現内容規制にあたるとして、その合憲性は厳格に審査され、1992年のR.A.V.判決(R.A.V. v. City of St. Paul, Minnesta、505 U.S. 377(1992))では、ヘイト・スピーチの一類型である*十字架を燃やす行為を規制する条例が、内容に基づいて特定の言論を差別的に扱っているとして違憲とされた。 *十字架を燃やす行為(cross burning)は、もともとは、クー・クラックス・クラン(KKK)の儀式に使われてきた行為であり、白人プロテスタント優越主義というイデオロギー的メッセージを伝達するものである。また、十字架を燃やす行為は、アフリカ系アメリカ人などに対する脅迫の手段としても使われ、特定の者に対してなされた場合、その対象者が暴力の標的であるとのメッセージを伝達するものであるともいわれる。 1-12. また、1965年に採択された人種差別撤廃条約についても、イギリス、ドイツ、ロシア(当時はソ連)は1969年、カナダは1970年、フランスは1971年、イタリアは1976年と、比較的早期に批准したのに対し、アメリカが批准したのが1994年であった。 1-13. このように、ヘイト・スピーチに対するヨーロッパ諸国とアメリカの対応は対象的ともいえる*。しかしながら、ヨーロッパ諸国とアメリカが対象的な対応をするようになったのは、必然的なものではない。以下で述べるように、アメリカでも、ヨーロッパと同様の方向に進む可能性があったと指摘されている。それでは、アメリカとヨーロッパとは袂を分かったのはなぜか。この点、Eric Bleichは歴史的文脈の相違を指摘する。 *例えば、イギリスでは、炎に包まれた世界貿易センタービルの写真などに「イスラム教徒はイギリスから出ていけ」、「イギリス人を守れ」などの言葉を重ね合わせたポスターを自宅の窓に貼った行為が、公共秩序法第5条違反とされたが、アメリカではこのような行為の規制は違憲となるであろう。Norwood v. DPP[2003]EQHC 1564 (Admin). | ||
5 manolo 2013-09-21 18:47:39 [PC]
1-14. 【ヨーロッパとアメリカの歴史的文脈】 《ヨーロッパ》 ヨーロッパ諸国では、ワイマール共和国がファシズム国家に変化して行くのを目の当たりにした1930年代来、人種主義的な言論の規制を議論するようになった。第二次世界大戦後には、非ナチス化を目指したドイツやオーストラリアが、ナチスのレトリックや象徴を禁止するようになった。それ以外の国家が、人種主義的な言論の規制に乗り出すのは1960年代中葉から1970年代にかけてであった。この時期には反ユダヤ主義的な言論や反移民的な言論が吹き荒れていた(なお、このような反ユダヤ主義は、人種差別撤廃条約の採択のきっかけともなった)。1990年代には、排外主義の波が押し寄せ、各国は徐々に規制を強化していった。 1-15. このような歴史的経緯により、ヨーロッパは人種主義的な言論を規制する法を発展させ、近年では、違反を繰り返す者に対しては、より厳しい罰を科すようになっている。ただし、多くのヨーロッパ諸国は、単に不快なだけである人種主義的な言論の規制には消極的である。多くの法の内容は過剰に見えるが、実際には、限界事例においては適用しないことも多い。また、適用されるとしても、懲役刑ではなく、たいては罰金刑や執行猶予にとどまる。これには1つの例外がある。それが*ホロコーストの否定に対する規制である。 *なお、ホロコーストにもとづく人種主義には、ホロコーストという出来事を、(1)露骨に是認する、賞賛する、あるいは正当化するもの、(2)矮小化するもの、(3)否定するもの、といった3つの類型がある。 1-16. 1980年代以降、ホロコーストの否定を禁止する法は徐々に範囲を広げ、「私はホロコーストはなかったと信じている」と述べただけで刑罰を科される。罰金等にとどまることの多い人種主義的言論禁止法とは異なり、ホロコーストの否定を禁止する法の場合は懲役を科すこともある。このようなホロコーストの否定への対応が、「規制に積極的なヨーロッパ」という印象を強くしているとの指摘もある。 | ||
6 manolo 2013-09-21 19:04:26 [PC]
1-17. 《アメリカ》 アメリカでは、言論の事由が厚く保護されているといわれるが、建国以来、市民が言論の自由を享受してきたわけではない。むしろ集団的名誉毀損法を合憲とした1952年のボハネ判決(Beauharnais v. Illinois, 343 U.S. 250(1952))にみられるように、1940年代から50年代の合衆国憲法最高裁の判決は、アメリカが、ヨーロッパと同様の、言論規制的な方向へ進む可能性があったことを示している。 1-18. アメリカがヨーロッパとは異なる方向に進んだのは、1960年代から1970年代にかけてのことである。この時期になると、公民権運動やベトナム反戦運動などにおいて、民族的マイノリティなどが現状に挑戦するための最大限の自由を欲するようになった。それゆえ、多くの集団は、人種主義的言論を規制する法は、彼らの表現の自由を制約しうるものと考え、政府に対し、人種主義言論を規制する法の制定を求めなかった。そして、合衆国最高裁判所も、公民権運動の時代を通じて、アメリカの核心的な価値としての言論の自由を定着させていった。 1-19. こうして、例外はあるものの、概して表現の自由はアメリカの法制度に深く浸透した。このようにアメリカが言論保護的なアプローチをとるようになったのは、決して必然でなく、アメリカ社会の選択によるものだった。アメリカは1960年代に言論の自由の保護と人種主義的な言論との戦いの間でバランスをとることを求められたヨーロッパとは「異なる挑戦」を受けた、「異なる国」だったのである。 1-20. このような歴史的な文脈により、ヨーロッパ諸国とアメリカは異なるアプローチを採るようになったと指摘される。もちろん、歴史的文脈がすべてではないが、ヨーロッパとアメリカの軌跡を把握するために重要な要素となるであろう。 | ||
7 manolo 2013-09-22 01:25:18 [PC]
1-21.【むすび】 以上みてきたように、ヘイト・スピーチ規制については、アメリカとヨーロッパとの対比がしばしば指摘される。アメリカでは人種差別行為には厳しい規制を課しているのに対し、人種主義的な言説も言論の自由として保護されるため。その特殊性あるいは例外性がしばしば指摘される。 1-22. このような違いは、歴史的文脈によるものであると指摘される。すなわち、ヨーロッパでは、ナチスや反ユダヤ主義に対応するために、ヘイト・スピーチなどの過激な言論を規制するようになり、アメリカでは、公民権運動やベトナム反戦運動などでの「反対者」の自由を保護するために、過激な言論をも保護するようになったのである。ヨーロッパでは、人種主義に対応するためにも言論の規制が必要されたのに対し、アメリカでは、人種的平等を達成するために、言論の自由が必要とされたのである。 1-23. そうであるならば、日本がどのようなアプローチを採るべきか。この点は、日本における歴史的文脈に着目し、慎重に検討する必要がある。仮にヨーロッパ的なアプローチを採るとしても、言論に対する過度な規制にならないよう、規制範囲を厳格に限定しなければならず、立法化のハードルは非常に高い。なお、ヘイト・スピーチの規制が憲法上可能か否かという問題と、規制の政策的適否は別の問題であることにも留意すべきである。ヘイト・スピーチ規制法の効果や影響などを日本の現状等を踏まえて慎重に考慮する必要がある。今後のさらなる議論が期待される。 | ||
8 manolo 2013-10-29 22:02:22 [PC]
出典:『WEBRONZA(シノドス・ジャーナル)』、小谷順子、5/23/2013、「憎悪表現(ヘイト・スピーチ)の規制の合憲性をめぐる議論」 http://webronza.asahi.com/synodos/2013052300001.html(閲覧日10/5/2013) 2-1. 20世紀の半ば以降、過激な人種差別思想の台頭に直面した国々は、これを深刻な事態として受け止めた。そして、こうした差別思想にもとづく憎悪表現を規制すべく、人種差別撤廃条約4条において、差別思想の喧伝を禁止する法律を制定するよう加盟国に義務づけた。現在、イギリス、フランス、ドイツ、カナダなどでは、この条文を履行すべく憎悪表現を規制する法律を設けている。一方、アメリカは、表現の自由の保障を最大限に保障しようとする判例法を背景に、第4条に留保を付して表現方法を回避するかたちで条約本体に加入しており、現在も憎悪表現を規制する立法は行っていない。アメリカ同様、日本も同条に留保を付して加入しており、憎悪表現を規制する立法は行っていない。 2-2. 過去10年ほどのあいだで、日本国内においても、インターネットを中心に、自己とは異なる人種・民族集団に属する人々に対する憎悪や偏見の表現を、日常的かつ一般的に見聞きする機会が増えた。さらに、最近では、そのような憎悪や偏見の思想を宣伝する街頭デモも見られるようになっている。このような、特定の人種・民族集団(およびその集団を構成する人々)に対する憎悪や偏見の表現(以下、単に憎悪表現と記す)の発信については、なんらかの方法で規制すべきだという意見が聞かれる一方で、憲法21条の保障する「表現の自由」の重要性に照らして規制すべきでないとする慎重な意見もある。はたして、憲法が「表現の自由」を保障している国家において、「憎悪表現の発信の自由」を規制することは許されるのだろうか。本稿では、以下、まず憲法上の表現の自由の保障をめぐる従来の考え方を確認した上で、憎悪表現の規制をめぐる問題点を指摘していく。 | ||
9 manolo 2013-10-29 22:08:21 [PC]
2-3. 【「表現の自由」とは】 まず、「表現の自由」の重要性について確認しておく。表現の自由とは、憲法の保障する様々な自由の中でもっとも重要なもののひとつとして位置づけられているが、それは、表現の自由の保障が、個人の「自己実現」と社会全体の「自己統治」に不可欠だと考えられているからである。つまり、人間はだれしも自己の意見を形成し、それを他者に伝え、他者の意見にも触れて、さらに自己の意見を再形成していくと過程を通して、自由な人間としての人格を形成していく。このような個人の人間性の実現のための過程に着目した表現の自由の価値が「自己表現」である。 2-4. 一方、健全な民主主義(ないし代表民主主義制)の実現のためには、たんに、人気投票(選挙)で代表者(国会議員)を選んだ上で、選ばれた代表者が国会で多数決で政策を決定しさえすればよいというものではなく、選挙から国会での意思決定に至るまでのあらゆる過程において、つねに国政に関するあらゆる情報が社会全体にくまなく流通していて、だれもが自由に国政に関する自己の意見を主張することができる環境が整っている必要がある。なかでもとくに、政権に対する批判的見解を自由に述べることのできる環境が整っている必要がある。このように、社会全体の民主主義の過程に着目した表現の自由の価値が「自己統治」である。 2-5. さらに、「思想の自由市場」の重要性が唱えられることもある。経済の自由市場をなぞらえたこの考え方のもとでは、さまざまな思想や言論を「思想・言論の市場」のなかで自由競争に委ねることで、真に価値のある思想や言論が勝ち取っていくという過程を重視し、「思想市場」に対する政府の介入は避けるべきであるとされる。 | ||
10 manolo 2013-10-29 22:10:56 [PC]
2-6. 【憎悪表現の規制をめぐる諸見解】 上記の「自己実現」と「自己統治」が表現の自由の重要性を支える考え方である。このような考え方に照らすと、憎悪表現の規制には多くの難題がともなうことがあることが分かる。たとえば、歴史を振り返ると、政府や皇室を批判する表現や模範的な道徳観に反する表現などは、しばしば規制の対象とされてきた。そして、従来、個人の自由を重んじる憲法学者や弁護士たちは、このような政府が一定の内容の表現を「悪い表現」であると認定した上で規制すること(=表現内容にもとづく規制)を批判し、個人の表現の自由は最大限に確保されるべきであると主張し、表現の自由の強化を主張してきた。 2-7. この文脈に沿って考えると、憎悪表現が一定の人々にとっていかに耳障りで不愉快であったとしても、また、憎悪表現の蔓延が共生社会の実現という政策遂行に不適切なものであったとしても、「不愉快、不適切だから規制する」という結論を導き出すことは許されないことになる。さらに言えば、人種・民族的な憎悪表現は、たんに「さまざまな表現のうちのひとつ」であるにとどまらず、日本国の重要な政治課題である内政・外政に関する意見表明という一面も有していると言いうる場合がある。政治的な論点に関する表現の自由はもっとも手厚く保障されるべきであるということになる。 2-8. 一方、憎悪表現の規制を肯定する論者たちは、憎悪表現が従来の規制対象とされてきた反政府・反道徳的な表現とは異なるのだという点を強調する。こうした論者は、たとえば、憎悪表現が被害者に与える精神的な苦痛や日常生活への支障などを防止することの必要性を指摘したり、憎悪表現の蔓延が社会の偏見や差別構造を増長させることの問題点などを強調したりして、規制の正当化を試みる。 | ||
11 manolo 2013-10-29 22:13:21 [PC]
2-9. また、憎悪表現の「発信」の自由を保障することがかえって表現の自由の保障の意義を損なう結果をもたらすことを指摘する。さらに、人種差別撤廃条約がその加入国に対して、人種的優越思想の流布や人種差別の扇動を禁止するための立法措置を求めていることにも言及し、憎悪表現規制が国際的な差別撤廃の動きに則したものであることも指摘する。 2-10. 憎悪表現の規制は、弱者の人権保護や社会全体の利益のために設ける必要があるものなのだろうか。それとも、表現の自由を不当に制約するおそれのある危険なものなのだろうか。以下、まず、日本国内において想定しうる憎悪表現規制の手法を概観した上で、アメリカとカナダにおける憎悪表現規制をめぐる議論の展開に焦点を当てて、この問題についてさらにさらに掘り下げて考えていきたい。 2-11. 【日本国内で想定しうる法規制の手法】 現在の日本社会でみられる過激な憎悪表現は、既存の法制度のなかで規制することが可能なのだろうか。また、諸外国の規制例参照した場合、現在の日本で採りうる規制手法にはどのようなものがあるだろうか。ここでは、既存の法令を憎悪表現に適用するパターンと、新規の法制度を設けて憎悪表現を規制するパターンの双方に言及しておく。 2-12. 第一の手法は、刑事法規を使って憎悪表現を規制するというものがある。イギリス、カナダ、ドイツ、フランスなどでは、この手法で規制を行っている。日本の現行法の刑法関連規定のうち、憎悪表現に対して適用できそうなものとして、脅迫罪(刑法222条)、名誉毀損罪(刑法230条)、侮辱罪(刑法231条)などがあげられる。しかし、これらの規定は「〇〇人はみな犯罪者だから〇〇国へ帰れ」といったタイプの憎悪表現に対して適用するのは困難である。 | ||
12 manolo 2013-10-29 22:15:41 [PC]
2-13. これらの刑法規定を適用することができる表現は、原則的には特定の個人に向けられた表現に限定されるのであって、不特定多数の人々の集合体である「〇〇人」という人種・民族的な集団に向けられた憎悪表現には適用されない。そのため、もしも日本において刑事法によって上記のような不特定多数に向けられた憎悪表現の規制を設けるのであれば、たとえば、脅迫罪、名誉毀損罪、侮辱罪等の概念を応用して人種・民族的な集団に対する名誉毀損や侮辱を規制対象にするといった新たな手法を採るか、憎悪表現の規制のための規定を新たに創設するという手法を採る必要がある。 2-14. ところで、刑事司法体系は、法律上に「罪」になる行為を明記した上で、その行為を行わったとされる者を裁判所に呼び出し、裁判所で審理を行った上で、「有罪」であれば「刑罰」を科すという構造を有している。したがって、もしも憎悪表現を規制する刑事法規を設けた場合、違反者(すなわち憎悪表現を発信した者)は裁判所で審理された上で、有罪と判断された場合が刑罰を科されることになる。不適切な内容の表現を発信したことを理由として個人に罰を科すという手法は、表現の自由の保障への重大な脅威であり、本来、できるかぎり回避されるべき手法である。そのような脅威を緩和する方策であると言えるのが、次にあげる第二の方法である。 2-15. 第二の手法は、人権法を新たに制定して、人権法体系のもとで憎悪表現を規制するというパターンである。カナダやオーストラリアなどでは、この手法が用いられている。日本の民主党政権下導入が模索された人権法(人権擁護法)もこの手法の一例である。刑事司法体系と人権法体系には大きな差異がある。刑事司法体系が上述のとおり「法に違反したものを、司法府(裁判所)が審理して、有罪なら刑罰を科す」という構造であるのに対し、人権法体系は、「違反者を、行政府に設けられた独立の機関(人権委員会等)で審理した上で、違反者が認定された場合は、被害者への救済策を講じる」、という構造を持つのが、一般的である。 2-16. 人権法体系が目標としているのは、違反者を罰することではなく、被害者を救済することである。つまり、人権法による憎悪表現規制は、うまく機能した場合、表現者を罰することなく被害者を救済することが可能となるという画期的なものなのである。 | ||
13 manolo 2013-10-29 22:20:01 [PC]
2-17. しかし、人権法による表現規制にも重大な難点がある。刑事司法体系のもとでは、厳格な構成要件を満たす表現行為のみが規制対象となるのに対し、人権法体系のもとでは、一般に、規制対象となる表現行為が幅広くなりがちである。さらに、刑事司法体系のもとでは、加害者とされる者(被疑者・被告人、ここでは憎悪表現の発信者)の権利を保障するための手厚い予防策が講じられているのが一般的であるのに対し、人権委員会のもとでは、そのような手厚い権利保護のための対策設けられていないのが一般的である。 2-18. このように、表現発信者の権利の保護が万全でない制度の中で幅広い表現が規制対象となって、表現発信者が(犯罪としてではないとはいえ)社会的に責められることになる点において、表現の自由の保障への莫大な脅威となりうる危険性がある。 2-19. 第三の手法として、デモという表現手法による憎悪表現の伝播という場面に限定して考えると、たとえば都道府県の公安条例にもとづくデモの許可条件を厳格化することで、憎悪表現の伝播を抑制するという手法が考えられる。より具体的に言えば、たとえば、憎悪表現を宣伝するデモについては許可をしないという手法や、デモの許可の際にデモを行う場所や時間についての条件を付して、一定の場所でのデモを認めないという手法である。 2-20. この手法は、表現行為に対して直接刑罰を科すわけではなく、あくまでも「表現の機会を与えない」ということにすぎないゆえ、一見すると、表現の自由のもとで何らの問題もない対応であるかのように思われるかもしれない。しかし、デモ行進は、これまで、効果的な意見伝達手段を持たない一般市民が自分の意見を世間に知らしめる手法として、表現の自由の保障を存分に受けるべきものだと考えられてきた表現形態なのであり、伝統的な理解では、デモで発信するメッセージの内容の不適切さを理由に不許可とすことは許されない。 2-21. 第四に、憎悪表現の発信を民事上の不法行為として理解した上で、被害者に損害賠償請求の機会を与えるという手法もありうる。しかし、従来の理解のもとでは、不特定多数の人々で構成される民族・人種的な集団全般に対する攻撃発信を不法行為とみなす余地はあまりなく、この手法での対処は困難である。 | ||
14 manolo 2013-10-29 22:29:12 [PC]
2-22. このように、既存の法制度のもとでは、不特定多数で構成される集団に対する憎悪表現に対処することは困難である。そして、仮にそのような憎悪表現を規制するための新しい法律を制定したとしても、今度はそのような規制が表現の自由の保障に対する脅威となる恐れが拭えない。このような難点を念頭におきつつ、以下、諸外国が憎悪表現の蔓延という事態に直面してどのような対応策を選んできたのかを見て行きたい。ここでは、規制違憲派のアメリカと規制合憲派のカナダの2カ国を見ていく。 2-23. 【アメリカの状況】 日本でも近年耳にすることが増えた「ヘイト・スピーチ(hate speech)」という語は、アメリカから輸入された用語である。アメリカにおいて、「ヘイト・スピーチ」という用語が一般的に用いられるようになったのは1980年代後半以降である。この時期、人種や性別をめぐる差別や偏見の解消のための効果的な対策が模索され、とくに大学のキャンパスにおける人種的・性的な嫌がらせ(ハラスメント)行為に対処するため、多くの大学が憎悪表現を含むハラスメント行為全般を規制する学則を採用するようになったことから、憎悪表現規制の合憲性及び妥当性をめぐる議論が一気に活性化した。そのような議論のなかで、「ヘイト・スピーチ」という用語が定着していったのである。 2-24. ヘイト・スピーチの規制をめぐる対立は、従来の表現規制をめぐる典型的なリベラル派と保守派の対立とは異なる様相を見せた。すなわち、従来繰り広げられてきたわいせつ表現、不道徳な表現、反国家的な表現の規制の合憲性をめぐる議論では、保守派が規制を認める姿勢を見せる一方で、リベラル派は一貫して表現規制を否定してきたのであるが、ヘイト・スピーチ規制をめぐる議論では、保守派(の一部)が規制に反対し、リベラル派(の一部)が規制に賛成するという構図を見せたのである。とくに1980年以降のヘイト・スピーチ規制をめぐる議論は、有色人種や女性の積極登用を進めるアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)やハラスメント防止対策を中心とした「政治的な正しさ(Political Correctness)」を追求する流れと相まって推進され、リベラル派と保守派のあいだでの社会的・政治的な論争を激化させた。 | ||
15 manolo 2013-10-29 22:32:48 [PC]
2-25. さらに、そのような対立にとどまらず、リベラル派の内部においても規制肯定派(マイノリティの自由と権利を重視)と規制否定派(個人の表現の自由を重視)とが対立する予想を見せ、「リベラル派の分断」(Owen Fiss. “Liberalism Divided”(1996))と呼ばれる状態を生み出した。そのような論争のつづくなか、1992年、アメリカ連邦最高裁は、RAV(R.A.V. v. City of St. Paul, 505 U.S. 377(1992))において、憎悪表現規制は違憲であると判断した。RAV事件の争点はとなったミネソタ州セントポール市の「偏見を動機とした犯罪に関する条例」は、ある者のなした表現行為が人種、肌の色、信条、宗教、性にもとづく怒り、不安、憤りをもたらし、それが「*喧嘩言葉」を構成する程度に至った場合に刑罰を科すというものであった。 *なお、「喧嘩言葉」とは「言葉自体が侵害を与え、あるいは平和の破壊を即座に引き起こす傾向にある」表現を指し、連邦最高裁の先例の中では、わいせつや名誉毀損と並んで表現規制が許されるとされた表現領域である。 2-26. 連邦最高裁は、当該条例が人種等の不人気な題材(disfavored topics)に関する表現のみを喧嘩言葉のなかから選び出していることを指摘し、当該条例は表現の内容にもとづく規制であると述べた。そして、連邦最高裁は、市の主張する規制利益(=歴史的に差別の対象となってきた集団に属する人々の基本的人権を保障すること)の重要性を認めつつも、当該利益を達成するために表現内容にもとづく規制を課す必要性を否定し、同条例は違憲であると述べた。 | ||
16 manolo 2013-10-29 22:35:16 [PC]
2-27. RAV判決によって、全米において憎悪表現の規制は不可能となったと理解され(*)、それまで憎悪規制を設けていた自治体や大学は規制を廃止した。しかし、憎悪表現規制を違憲と判断した連邦最高裁のRAV判決に対しては、規制合憲説の論者からさまざまな反論が寄せられている。規制合憲派の主張は多岐にわたるが、まずは合憲派の主張するところの 「憎悪表現のもたらす害悪」を紹介したい。ここで紹介する害悪は、被害者個人に及ぶ害悪と、社会全体に及ぶ害悪とに大別できる。 *2003年の連邦最高裁のブラック判決では、脅迫に該当する「十字架を燃やす行為」を規制する州法を合憲としている。十字架を燃やす行為は、白人優越主義集団KKKが黒人を威嚇・迫害するために用いた表現行為であり、アメリカにおいては今日でもとくに強烈な威嚇的・迫害的なメッセージを発するものとされる。さらに、連邦最高裁は、人種・宗教的な憎悪を動機とする「犯罪」を罰する際に刑を加重すること(憎悪犯罪刑罰加重規定、hate crime法)は合憲であると判断している。 2-28. 第一に、憎悪表現が伝達するメッセージは、差別意識の残る米国社会において、その被害者に劣等感を植えつけ、精神面に重大な影響を与えるのみならず、自己表現の権利を行使することを躊躇させるなど、被害者の自由な行動を抑制する効果を持つと言われる。つまり、憎悪表現は、被害者の尊厳を傷つけるとともに、被害者の自律的な自己決定を妨げるものであると言われる。 2-29. さらに、憎悪表現は、被害者側の表現活動の自由を抑制する効果を生み出すと言われる。そのため、憎悪表現の被害者に「言論には言論で対抗せよ」という原則(=「対抗言論」の原則)を強いるのは不適当であると言われる。つまり、憎悪表現に関しては、表現発信者に対して被害者がまともに反論をすることができる可能性は低いのであり、現実には多くの被害者は沈黙を強いられ、表現発信の機会を奪われていると言うのである。 | ||
17 manolo 2013-10-29 22:37:55 [PC]
2-30. 第二に、憎悪表現の発信は、被害者個人に被害をもたらすにとどまらず、社会全体の憲法上の理念を損なう結果をもたらすと言われる。まず、憎悪表現の「発信」の自由を保障することは、社会全体における表現の自由そのものを後退、または縮小させることにつながると言われる。つまり、憎悪表現の発信の自由を保障することによって、将来的に憎悪表現の蔓延した社会が到来する可能性が指摘される。 2-31. 先に述べたとおり、憎悪表現に関しては「対抗言論の原則」が想定している「(憎悪表現を受けた側からの)反論」が実際になされる可能性が低いため、その結果として、社会には憎悪表現(およびその思想)のみが流通することになり、憎悪表現に対する反論は流通しない。さらに、憎悪表現は、連鎖的に周囲の者を感化して憎悪表現の蔓延を促進させる可能性が高く、長期的には社会全体の人々の偏見や憎悪を増進することとなり、社会の理性のレベルを下げる傾向にある。 2-32. こうして憎悪や偏見の思想が社会に充満してしまうという段階に達してしまった場合、もはや憎悪表現に対する反論を発信しようにも、偏見や憎悪の思想を理性的に論破することは極めて困難であるし、そもそも偏見や憎悪の対象者出である被害者の意見は軽んじられる可能性も高い。そして、このように社会に憎悪表現が蔓延すということは、民主主義の過程に偏見や憎悪の思想が浸透するという事態をもたらすにみならず、公共の議論に被害者の観点が登場しないという事態をもたらす。このような影響を考慮すると、憎悪表現に関しては、積極的に(善良なる)政府が介入をして規制を試みる必要があると主張される。 2-33. 憎悪表現の害悪はこのように説明されるのであるが、もちろん、憎悪表現の害悪の重大さの程度は、個々の憎悪表現の内容、性質、状況、あるいは、その受け手の立場、性質、状況などによって異なる。そこで、規制合憲説は、規制可能な憎悪表現の範囲を厳格に確定することで、表現の自由の侵害を避けようと試みる。そして、厳格に定義された憎悪表現については、喧嘩言葉や脅迫などの既存の原則のもとで、あるいは新規の規定を設けることで規制することが可能であると主張するのである。 | ||
18 manolo 2013-10-30 21:16:24 [PC]
2-34. もっとも、このような規制肯定派の見解に対して、規制否定派からは、それでも表現内容規制は避けるべきであるという主張がなされる。つまり、憎悪表現の害悪がいかにひどいものであろうとも、特定の内容の表現(つまり憎悪表現)を「悪い表現」であると政府が認定して、そのような表現の発信を禁止するということは、表現の自由の保障の中核にある表現内容規制の禁止という考え方に基本的に反するがゆえ、許されないというのである。 2-35. このような指摘に対し、規制合憲派は次のような反論を展開する。まず、憎悪表現のもたらす害悪は、わいせつ表現や脅迫の害悪とは異なり、法的に認識されるようになってから間もないため、それを規制すべきか否かをめぐる社会のコンセンサスが得られないために、その規制が許容されないのだという主張がある。 2-36. また、憎悪表現の害悪は深刻かつ重大であるにもかかわらず、社会の多数派にはその害悪が及ばないがゆえに、わいせつ表現などのように多数派にも害悪が及びうるものと比較して、害悪の重大さが理解されにくいという指摘もある。この点につき、1960年代以降の国際社会では人種や宗教を原因とした憎悪にもとづく思想の流布や人種差別の煽動などを法的に規制すべきとする見解が主流であって、人種差別撤廃条約などでも無差別表現の国内規制が義務化されているという主張もなされる。 2-37. 【カナダの状況】 カナダでは、1960年代に反ユダヤ主義が反黒人主義の動きが広がり、白人優越主義集団の活動が活発化したことが社会問題となった。そのようななか、連邦議会は、1970年に刑法典に憎悪表現(hate propaganda)を禁止する条項を設けた。その後の改定を経た現行の連邦刑法は、肌の色、人種、宗教、性的志向などの指標によって識別される集団に対する憎悪を煽動する意見を公然と伝えることを禁止するとともに、プライベートな会話以外の場面で特定集団に対する憎悪を意図的に促進する意見を伝えることを禁止する。そして、免責条件として、(a)真実性の証明がある場合、(b)誠意をもって宗教上の題材に関する意見を述べた場合、(c)公共の利益のためになされた場合、(d)憎悪感情の除去を目的としていた場合という4つの場合を規定している。 | ||
19 manolo 2013-10-30 21:17:42 [PC]
2-38. カナダでは、刑事法に加えて人権法による憎悪表現規制も行っている。カナダの人権法は、人種、肌の色、宗教等の事由による様々な形態の差別「行為」を禁止する法律であるが、その第13条において、電話や通信システムを利用して憎悪表現を発信することを禁止している。カナダの連邦最高裁は、1990年の判決において、連邦刑法と連邦人権法の規制について、いずれも表現の自由に対する正当な制約であるがゆえに、合憲であると判断している。連邦最高裁は、憎悪表現が個人や社会に与える強い害悪を認定し、さらに、その害悪の防止を必要とすることの重要性も認めた上で、そのような害悪を防止するという立法目的を肯定し、そのような害悪を防止するために表現規制という手段をとることを肯定している。 2-39. もっとも、21世紀に入り、カナダにおける憎悪表現規制をめぐる状況に変化が生じている。2007年以降にイスラム教を批判する複数の表現物が憎悪表現であるとして人権員会に申し立てられたことを契機に、とくに人権法にもとづく憎悪表現規制の廃止論が強く唱えられるようになったのである。そして、2012年6月、連邦議会下院は廃止法案を可決し、現在(2013年5月)、同法案は上院で審議中である。カナダの上院は公選制でないがゆえに下院の法案を否決しない憲法習律が存在しており、今後、人権法13条の廃止案は上院でも可決される見込みである。 2-40. 【アメリカ、カナダの経験から学びうること】 カナダの連邦最高裁が、現実社会における差別構造や差別意識の存在を直視し、歴史上の反省点を振り返り、憲法や国際条約上の表現の自由や平等の価値を考慮しつつ、憎悪表現規制を合憲であると判断したことは一定の意義が認められるように思われる。そして、カナダが、刑法にもとづく厳格な構成要件にもとづく憎悪表現規制に加えて、人権法による調停機能や救済機能を特色とする人権委員会や人権裁判所を通した憎悪表現規制を設けることについても、一定の意義があるように思われる。 | ||
20 manolo 2013-10-30 21:22:00 [PC]
2-41. しかし、規制を設けることには慎重さが必要である。慎重さが要求される理由についてはすでに述べてきたところであるが、ここではさらに三つの理由をあげておく。 2-42. 第一に、表現の自由が持つ「社会の安全弁」としての機能(=何らかの事柄に不満を持つ者が、実力の破壊行為ではなくたんなる言論行為で鬱憤を晴らすという意味において、表現は社会の安全弁としての役割を果たしているという考え方)を強調する立場からは、憎悪表現を規制してしまうと、憎悪思想を抱く人々が鬱憤をはらすための手段が閉ざされることになり、その結果、憎悪感情にもとづく過激な犯罪行為の発生につながるおそれがあると指摘される。 2-43. 第二に、社会的な弱者を守ることを目的として導入した憎悪表現規制であっても、弱者の言論を取り締まるために活用されてしまうおそれも指摘される。たとえば、憎悪表現にさらされた社会的弱者が発信する反論のなかに社会的強者を攻撃する憎悪表現が含まれていた場合に、当該弱者の言論を取り締まるために規制が用いられてしまうという構図である。第三に、合憲的な規制たりうるためにはごく限定的な一部の憎悪表現のみを対象とせざるをえないことを踏まえると、ほんのわずかな効果のために表現の自由の保障全体を揺るがすような規制を設けることを正当化できないという指摘もある。 2-44. さらに、アメリカやカナダで見られる規制反対論のなかには、伝統的に表現の自由の保障を重視してきた論者による反対論に加えて、政治的な対立を背景にした反対論があることにも留意しておく必要がある。たとえば、アメリカの連邦最高裁は憎悪表現規制を違憲と判断しているが、同最高裁が憎悪表現を生み出す害悪を認めつつもなお規制を許さないという考え方をとった背景には、「Political Correctness(政治的妥当性)」を追求する動きに対する保守派判事の反発感があったと言わることがある。 | ||
21 manolo 2013-10-30 21:22:51 [PC]
2-45. また、近年のカナダにおける人権法の憎悪表現規制廃止の動きは、保守派のなかで規制反対の声が強まった結果、保守党政権の主導で進められているのである。憎悪表現をめぐるこのような政治的な対立構造を目の当たりにすると、そもそも表現規制が許されないとされる理由、すなわち表現内容規制には政府による恣意的な表現規制の危険がつきまとうという指摘が現実味をもつようになり、憎悪表現への法的対策の困難さが浮き彫りになる。 2-46. 憎悪表現の広まりに対して国家として何をすべきなのか、何ができるのか、本稿でみてきた憎悪表現規制をめぐるアメリカとカナダの対応の経緯は、われわれに様々な示唆を与えていると思われる。 | ||
22 manolo 2013-10-31 07:33:59 [PC]
出典: The Japan Times、10/9/2013(Editorials: "Penalizing hate speech")、 http://www.japantimes.co.jp/opinion/2013/10/09/editorials/penalizing-hate-speech/#.UnGE2lSCjmI 3-1. The Kyoto District Court on Oct.7 ordered an anti-Korean group, Zaitokukai, and activists to pay some ¥12 million in damages to a pro-Pyongyang school in Kyoto for disrupting classes by staging demonstrations in which they used hate speech against Koreans. The court also banned the street demonstrations within a 200 meter radius of the school. 3-2. This ruling, long overdue, is important because it has made it clear that speech that fans discrimination and hatred against a specific ethnic group is illegal. Zaitokukai has repeatedly conducted street demonstrations laced with hate speech in Tokyo's Shin Okubo district and Osaka's Tsuruhashi. It must take the ruling seriously and halt such activities. 3-3. The lawsuits was filed by Kyoto Chosen Daiichi Elementary School in Minami Ward, Kyoto. It requested ¥30 million in damages from Zaitokukai and associated activities and a ban on their demonstrations. Discriminatory phrases were uttered through loudspeakers on three occasions when Zaitokukai activists demonstrated near the school from December 2009 to March 2010. The group claimed that its activities were a legitimate protest against the school's setting up a speech platform for morning assembly in a park without first getting permission from the Kyoto citiy government, adding that its protest should fall under the purview of freedom of speech guaranteed by the Constitution. (The school principal was fined ¥100,000 in a separate case.) | ||
23 manolo 2013-10-31 07:50:55 [PC]
3-4. The Kyoto District Court based its ruling on the International Conventionon on the Elimination of All Forms of Racial Discrimination, which Japan has ratified. The ruling stated that Zaitokukai and activists' demonstrations near the pro-Pyongyang school and the group's streaming of the demonstrations over the Internet constituted racial discrimination as prohibited by the treaty and as such are illegal. Without using the phrase "hate speech," the court ruling said that the demonstrations terrorized students, made teaching in classes difficult, damaged the environment for quiet education activities, and harmed the honor of the school and its teachers and students. 3-5. Zaitokukai's claim that its activities are legitimate is unreasonable given the phrase it used near the Korean school - "Throw Korean schools out of Japan," "Children of spies," "Cockroaches, maggots, go back to the Korean Peninsula," "Any Korean who is discriminated against by Japan and feels mortified, go back to the Korean Peninsula," etc. There is a possibility that the online streaming of the demonstrations helped to nurture anti-Korean feelings among some Japanese citizens. 3-6. It is notworthy that the ruling said it was necessary to se the compensation amount at a level that serves to protect and provide relief to people who were targeted by the demonstrations. Thus it ordered psyment of some ¥12.26million in compensation. 3-7. The ruling will prompt public discussion on whether a law prohibiting hate speech should be enacted. While such a law might make it easier to crack down on hate speech, there is a chance that the authorities could abuse it by using as a license to silence activities with which they disagree. The best outcome would be for ordinry citizens to reject hate speech and build up a social movement against it. |
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