Tokon Debatabank II

イスラム教と民主主義 (コメント数:8)

1 manolo 2013-09-23 12:11:35 [PC]


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出典:『宗教と現代がわかる本2012』、渡邊直樹編、平凡社、2/24/2012、(「イスラームと民主主義」、小杉泰)pp.140~145

1-1. 《アラブの民主化とイスラーム政党の躍進》
 中東のアラブ諸国で民衆蜂起が起き、次々と独裁政権が倒れる事態が続いている。2011年にチュニジア、二月にはエジプトで長年の独裁を続けた大統領が失脚し、八月にはリビアでも半年の内戦を経て、四二年間の独裁体制が崩壊した。これまで、非民主的な体制が多かった中東でも、ようやく民主主義の時代が来たかのようである。(p.140)

2 manolo 2013-09-23 12:16:10 [PC]

1-2.
 その一方で、一九八〇年代からしばし起こってきたパラドクス、つまり民主化が進むとイスラーム復興が伸張するという現象が、再び目につき始めた。二〇一一年一〇月のチュニジア制憲議会選挙では、イスラーム政党の*ナフダ党が四割の議席を獲得し、第一党となった。翌一一月には、ゆるやかな民主化が進んできた王政のモロッコで、イスラーム政党の公正発展党が国会議席の四割を獲得し、第一党に躍り出た。エジプトでも、一一月から五カ月にわたる選挙プロセスが始まり、同国最大のイスラーム運動を基盤とする、自由公正党が優位に選挙戦を進めている。のみならず、これまで政治に関与してこなかった新しいイスラーム政党も現われ、想定外の善戦をしている。(p.140)

*ナフダ党
チュニジア最大のイスラーム運動で、青年イスラーム組織が発展して八〇年代末にイスラーム社会の「ナフダ(復興)」をめざす政党となった。指導者ガンヌーシーは、イスラーム民主主義者として知られるが、親西洋的な世俗国家を標榜する体制側はナフダ党を非合法化して、二〇年にわたってベンアリ独裁体制を敷いた。民主化革命で独裁が倒れると、制憲議会選挙で第一党となったナフダ党が二〇一一年一二月に連立内閣を組閣した。(p.140)

1-3.
 はたして、イスラーム政党の統治下でも民主主義が継続できるのであろうか。この疑問は、チュニジアやエジプトの世俗主義派が危機感をもって提起してきた。欧米や日本でも、基本的な疑問点として話題とされる。そもそも、イスラームと民主主義とは両立しうるのであろうか。(p.140)

1-4. 《「神の主権」と民主主義の矛盾?》
 現代のイスラーム国家として筆頭にあげられるのは、イランとサウディアラビアであろう。どちらの、イスラーム法(シャーリア)に従うことを国是としている。とはいえ、二つの国は大きく異なっている。イランは法学者が権力を握る革命国家であり、サウディアラビアは部族的紐帯を重視する社会の保守的な王国である。しかし、両国は、イスラーム法の優越性を認める点で一致している。イスラーム法は、神の啓示としての聖典クルアーンを最大の典拠として、法学者の解釈によって作られている。その前提は「神の主権」であり、聖典は「主権者の意思」とみなされる。そのため、欧米から「神の主権」は国民主権と対立し、民主主義を否定するとの批判がなされてきた。(pp.140-141)

3 manolo 2013-09-23 12:17:50 [PC]

1-5.
 実はこの批判は、論点が少しずれている。イスラームで言う「神の主権」は、世界を神が創造したという世界観・社会観を示すものであり、その意味では近代思想における社会契約説に相当する。つまり、なぜ、人間社会が存在し、人が法に従うべきなのかに関する哲学的な根拠である。超越的な絶対神が実際に姿を現すわけではなく、主権を行使するのは、権限を神に委任された人間である。言いかえると、国民主権に相当するのは、イスラームでの人間の「主権行使権」ということになる。国民主権と言えども、国民のわがまま勝手ではなく自然法に規制されるように、イスラーム法が主権行使権を規制しているというのが、イスラームの統治論である。問題は、自然法とイスラーム法は同じではなく、欧米から見れば文化的に容認しがたい規定がイスラーム法に含まれているという点にある。(p.141)

1-6.
 イランから見ると、最高指導者、大統領、国会議員などの選出は民主的に行われており、国民は主権を十分行使していることになる。イスラーム法に従うことはムスリム(イスラーム教徒)の義務であり、イランでは憲法にも明記されているため、国民の自由裁量の対象とはならない。欧米から見ると、それも国民の自由でなければ民主的とは言いがたいのであるが、このあたりから文化的な摩擦の色合いが強くなる。イスラーム世界では、神の実在は社会的価値の根幹をなす認識であり、容易に譲りがたい。(p.141)

1-7.
 聖典クルアーンには「諸事について彼らと協議せよ」(イムラーン家章五九節)とある。伝統的な解釈では、当事者はしかるべき専門家と協議をしなければならないが、彼らの見解を採用するかどうかは、統治者の判断でよいとされていた。サウディアラビアは、この解釈に今でも従っている。つまりイスラーム法学者を「協議の民」として、そのアドバイスを聞きながら、協議運営をおこなっている。その一方で、現代では「協議の民」は法学者に限らず、国民の間から広く専門家、識者を集めるべきで、彼らを適切に選んだ上で、統治者は彼らの見解に従わなければならないという解釈も広まっている。選出方法として近代的な自由選挙を採用し、さらに協議の結果を多数決で決めるのであれば、議会制民主主義に限りなく近くなる。今、アラブ諸国で選挙に参加しているイスラーム政党は、多くがこの見解を取っている。(p.142)

4 manolo 2013-09-23 12:19:58 [PC]

1-8.
 「神の主権」が社会契約説・国民主権と違うのは、民主的かどうかよりも、個人主義と自由主義を採用するかどうかに関わっている。イスラーム法の優位は、社会共通の価値としてイスラームがあるという前提に拠っており、そこでは宗教や信条を個人的なものとして考える発想は弱い。(p.142)

1-9.《複数政党制でのイスラーム政党》
 イスラーム国で独裁体制から複数政党制へと民主化の移行がなされた代表例は、実は中東ではなく、インドネシアである。一九九八年に、それまで開発独裁を進めていたスハルト体制が改革を求める国民の叫びの前に終わりを告げると、民主主義の時代となった。地方分権も推進されているし、スハルト以降の大統領も民主的に交替してきた。その意味では、インドネシアはイスラーム世界の民主化のお手本とも言える。(p.142)

1-10.
 この国がイスラーム的要素を濃厚に持つことは、「パンチャシラ」と呼ばれる建国五原則の第一が「唯一神の信仰」であることに示されている。その原則に合致する宗教として公認されているのが、イスラーム、キリスト教のほかに、バリのヒンドゥー教や仏教、儒教というあたりは、東南アジア的な特色が現われている。憲法にイスラーム教を国教とする条項はないが、人口の九割をムスリムが占め、宗教的な価値が社会的に重きをなしている。民主化後のインドネシアではイスラーム政党として、近代的なイスラーム改革派の国民信託党、それと対抗する伝統的な*ナフダトゥル・ウラマに基盤を置く民族覚醒党、近年になって若手中心に伸びてきたイスラーム復興派の福祉正義党などが、これまで活躍してきた。特に福祉正義党は、都市部の中流階層を中心に、確実に勢力を伸ばしてきた。(pp.142-143)

*ナフダトゥル・ウラマ
インドネシア語で「イスラーム学者たちの復興」を意味する。東南アジアでも、二〇世紀初頭に、伝統派を批判するイスラーム改革派が勃興したが、それに対抗して伝統的な宗教指導者たちがこの組織を立ち上げ、自己改革と新世代への対応を進めた。現在、インドネシア最大のイスラーム組織となっている。その指導者アブドゥルラフマン・ワヒドは、スハルト独裁が崩壊した後に、宗教界出身の最初の大統領となった(在任一九九九~二〇〇一年)。(p.142)

5 manolo 2013-09-23 12:21:38 [PC]

1-11.
 複数のイスラーム政党の存在は、イスラームの解釈が多様であることを意味する。だれもイスラームを独占できないのである。しかも、選挙では、イスラーム以外の政策も問われるようになる。イスラーム政党が得票を伸ばすと、政治にイスラームを反映させるという有権者の望みはある程度叶うので、次に生活に密着した政策が問題になる。イスラームを掲げても、失業の解消や経済の活性化は果たせない。それぞれの政党は支持基盤が異なるので、誰の生活を優先するかで政策にも違いが生じる。(p.143)

1-12.
 アラブ諸国の場合、独裁体制が続く中で、イスラームを唱えるのが反体制派だけであるかのような状況が続いてきた。抑圧状況が続くと、一つのイスラーム運動だけが独裁に抵抗し、それがイスラームを独占しているように見える状況も生じる。これまでのチュニジアのナフダ党、*エジプトのムスリム同胞団などはそのよい例である。そうなると、イスラーム政党が政権を握ると一枚岩的なイスラーム化が生じて自由が抑圧されるのでは、という疑義が生じやすい。(p.143)

*ムスリム同胞団
1928年にエジプトで設立され、その後アラブ諸国に広がった大衆的なイスラーム運動。伝統的なイスラーム社会が解体する中で、近代的な職業人や労働者、学生を主役とする組織化を進め、現代に適した「同胞」意識を育て、その組織化を進めることをめざした。社会全体のイスラーム化を進めれば、おのずと政治もそれに従うという漸進主義を取っており、政治闘争や権力奪取を優先する急進派とは一線を画す。急進派から微温的と批判されることもある。(p.143)

1-13.
 複数のイスラーム政党が活動していると、非イスラーム政党とも競合が生じるし、それ以上にイスラーム政党の間で激しい競合が生じる。それが、特定の政党が権力を乱用するのを防ぐ最も民主的な方法となる。その意味では、社会の中でイスラーム的な価値が活性化して、多様なイスラーム理解が生じ、複数のイスラーム政党が有権者の支持を求めて競合することが、イスラームと民主主義が融合する近道となる。(p.143)

6 manolo 2013-09-23 12:24:36 [PC]

1-14.
 ただ、そのような融合が成功するまで、欧米が介入せずに見守ることができるのか、不安がないわけではない。一九八〇年代末のアルジェリアでイスラーム救国戦線が選挙で圧勝した時は、軍政がそれを潰すのを欧米諸国は支持した。二〇〇六年にパレスチナ自治評議会の選挙で、ハマース(イスラーム抵抗運動)が勝利を収めると、民主化を祝福するかわりにテロ嫌疑を理由に国際的に経済制裁が科された。民主化の結果としてイスラームが現れると、欧米がそれを否定するというパターンが、今次のアラブ民主化革命で破られるかどうかは、大きな試金石となっている。(pp.143-144)

1-15.《宗教の内容を誰が決めるのか》
 最後に、イスラームとは何か。その教義や信条を誰が決めるのか、という問題を考えてみたい。法や統治を重視するイスラームでは、民主主義も教義の問題となるからである。(p.144)

1-16.
 イスラームには、キリスト教の教会や公会議に相当する組織は存在しない。キリスト教では、たとえば八〇年代末の東欧において、カトリック教会が民主化を支持して共産主義との決別を助けた。宗教が民主的を推進する好例であるが、その後で教会が政治に参画したわけではない。逆に、イスラームの場合は、宗教そのものが政治性を帯びているが、カトリック教会のような役割を果たす教皇も教会もない。代わりに、ムスリムは単一のウンマ(共同体)をなし、その中で法学者などのウラマー(イスラーム学者)が指導するとされるが、法学者は一枚岩ではなく、中央の司令塔もない。(p.144)

1-17.
 実際のところ、イスラームの歴史を見れば、法学者たちが主張する多様なイスラーム解釈の中で、一般信徒の支持をより多く集めたものが生き延びてきたことがわかる。筆者の考えでは、ウンマを「思想の市場」とみなし、そこで自由競争がおこなわれていると解するとわかりやすい。公会議がなくても、市場を席巻した解釈はイスラーム世界の合意として重きをなすようになる。(p.144)

7 manolo 2013-09-23 12:26:24 [PC]

1-18.
 たとえば、かつては、イスラーム国家といえば王朝であった。誰もがイスラームと君主制は親和性があると思っていた。前近代では、君主制が「思想の市場」でスタンダードだったのである。ところが、近代に入って王朝がみな西洋列強に負けると、人気が次第になくなった。列強の時代に自力で建国したサウディアラビアが、ほぼ唯一の例外といえる。しかも、七〇年代になると、ついにイラン革命のように、王政は反イスラーム的という主張さえ生まれた。逆に世俗的な共和国でも、現在のトルコのようにイスラーム化を推進する政党が政権を担って、成功する例も現れた。(p.144)

1-19.
 君主制の国もいろいろである。湾岸の産油国はいずれも君主制であるが、石油の富で国民の要求を実現できることもあり、クウェートで議会制が定着してきたのを除けば、あまり民主化が進んでいない。それに対して、産油国でないヨルダン、モロッコは、イスラーム的な色彩の濃い君主制ながらも、民主化をかなり進めてきた。(pp.144-145)

1-20.
 総じて言えば、君主制か共和制かは、イスラームの統治論から見れば今ではどちらも可となっている。むしろ各国にとっての問題は、多様化する国民の価値観をいかに政治的に統合していくかということであり、イスラームと民主主義の両立ないしは融合は、早晩どこでも重要な課題とならざるをえない。(p.145)

8 manolo 2013-09-23 12:27:12 [PC]

1-21.
 イスラーム世界では、一九世紀後半に議会制と反専制の思想が生まれた時に、民主主義がイスラーム思想に取り込まれるようになった。この点で重要な思想家*カワーキビーは、二つの主著『専制の性質』『マッカ会議』で専制を批判し、知的な指導者たちが「ウンマの諸事」を協議すべきであると主張した。それからほぼ百十年が過ぎ、その間にイスラーム国家の民主的な運営を唱える思想が次第に広まってきた。イスラームの解釈についても、より広範な人びとが参加するようになってきている。(p.145)

*カワーキビー
シリア生まれのイスラーム思想家。カイロで刊行された『マナール』誌を中心とするイスラーム改革派の一人で、彼の論考は東西のムスリムに広く影響を与えた。主著では、内政的には王朝権力を批判して議会制の重要性を唱え、国際関係では、イスラーム世界全域から知的な指導者を結集して重要事を合議すべきと訴えた。王朝なき後のイスラーム世界を構想する先見的な彼の主張は、現在の「イスラーム諸国会議機構」にも結実している。(pp,144-145)

1-22.
 民主主義は単なるドグマではなく、実践によって経験値を高め、人びとが「この方式でやれる」という確信を持つようにならないと、社会に根付かない。その意味では、トルコやインドネシアに続き、アラブ諸国でもイスラーム政党が選挙で議席を集めるようになった今、イスラームと民主主義の融合の試みも本格的になってきたと言えよう。欧米諸国の側も、民主化を通してイスラーム色が強まったとしても、すぐに拒絶感をあらわにしたり介入するのではなく、民主化の進展を見守るべきであろう。世界的に民主主義が広まる以上は、地域差や文化伝統の違いを認めることも不可避となる。アラブ民主化革命が進みつつある現在こそ、民主主義の真のグローバル化が試されている。(p.145)
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