人権の制限 (コメント数:7)
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1 manolo 2013-09-01 22:09:56 [PC]
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出典:『よくわかる憲法』、工藤達朗編、ミネルヴァ書房、5/3/2006、pp.128-129 (「IX-1. 人権の限界(1):基本的人権と公共の福祉」)
1-1. 1. 基本的人権の保障と制約 憲法の保障する基本的人権も、決して絶対的なものではない。多数の個人からなる社会では、ある者の表現行為が他者の名誉やプライヴァシーを侵害するなど、各人の権利行使が相互に抵触することがある。その場合、それぞれの権利が一定の制約を受けるのはやむを得ない。フランス人権宣言のいうように、「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する」(4条)からである。(p.128)
1-2. 人権の保障と制約の問題は、わが国では、日本国憲法の下で初めて生じた。明治憲法の権利保障は、*法律の留保を伴うほか、**緊急勅令(旧8条1項)や、***非常大権(旧31条)の制限にも服していた。天皇が付与した臣民の権利は、初めから、政治の必要があればいつでも制限し、剥奪し得るものだったのである。(p.128)
*法律の留保 憲法の権利保障にあたって、「法律ノ範囲内ニ於テ」あるいは「法律ニ定メタル場合ヲ除ク外」などの条件を付すること。法律に基づく限り、いかなる権利制限も許されることになる。(p.128)
**緊急勅令 明治憲法下では、天皇は、帝国議会閉会時に緊急の必要がある場合、法律と同一の効力をもつ勅令を発することができた(8条)。1928(昭和3)年の治安維持法改正が、その一例である。(p.128)
***非常大権 明治憲法下では、「戦争又ハ国家事変ノ場合」に、臣民の権利規定の全部または一部を停止することが認められていた(31条)。実際には、一度も発動されたことがない。(p.128)
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2 manolo 2013-09-01 22:13:36 [PC]
1-3. 日本国憲法は、人権の不可侵性を認めた(11条、97条)。だが、人権制約を予定する規定を置いてもいる。国民に人権の濫用を禁止し、「公共の福祉のためにこれを利用する責任」を課すとともに(12条)、人権の最大の尊重に「公共の福祉に反しない限り」との限定を付したのがそれである(13条後段)。個別の人権規定にも、公共の福祉を謳うものがある(22条1項、29条2項)。そこで、この「公共の福祉」により基本的人権を制約し得るか否かが論じられてきた。(p.128)
1-4. 2. 公共の福祉論 第一説は、広く公共の福祉により人権制約を認める。憲法は条文ごとに自由の限界を示してはいないが、無制限ではなく、社会生活と両立しない自由は制約を受けなければならないという。かかる人権の限界を示したのが公共の福祉(12条、13条)であり、人権は公共の福祉の範囲内でのみ認められる。ただし、公共の福祉に反するか否かは、国民代表の制定する法律で定めなければならない。憲法による人権保障の意義は、この法律主義の徹底にあるとしている。(p.128)
1-5. しかし、公共の福祉の内容を問うことなく抽象的に人権制限の根拠とするならば、少なくとも立法権に対しては。憲法による人権保障の意義がほとんど失われてしまうことになろう。(p.128)
1-6. 第二説は、22条1項や29条2項など特に公共の福祉の定めがある場合を除き、公共の福祉による人権制限を認めない。12条は国民に人権保持の努力を求め、13条は個人の尊重を謳った、いずれも宣言的規定であって、国家権力による権利制約を認める趣旨ではないとする。もとより、人権も絶対無制限なものではなく、個人が国家や社会を構成している以上、恣意的な行使や濫用が許されないとの制限を当然に内包している(内在的制約)。だがそれは、権利・自由に外から加えられる政策的制約とは異なるという。(pp.128-129)
1-7. この見解は、12条、13条には法規範性はなく、人権制約の根拠とはならないとする。故郷の福祉による政策的な制約は、個別規定に明示された経済的自由の場合にのみ許されるというのである。だが、とりわけ13条は*包括的人権の根拠規定とみなされており、その法規範性を否定するのは妥当ではない。(p.129)
*包括的人権 憲法に明文の規定はないが、なお憲法の保障を受けるとされる一定の権利がある。(p.129)
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3 manolo 2013-09-01 22:25:04 [PC]
1-8. そこで第三説は、13条に法規範性を認め、公共の福祉を人権制約の根拠としつつも、その内容を限定しようとする。同条は、個人の尊重(前段)という人権保障の基礎を謳った規定であり、公共の福祉(後段)もこれを調和し得るよう厳格に解されねばならない。最大の尊重を必要とする人権を制約し得るのは、何よりもまず、等しく尊重さるべき他者の人権であって、そこにいう公共の福祉とは、権利に内在する必要最小限の制約を意味する(自由国家的公共の福祉)。他方、22条や29条の公共の福祉は、憲法が社会権(25~28条)を保障していることから、これと対立する経済的自由に政策的な制約を認めたものと解される(社会国家的公共の福祉)。個別の条項に改めて規定された公共の福祉は、総則的規定たる13条のそれとは意味内容を異にするのである。(p.129)
1-9. 3. 公共の福祉の運用 判例は、初期から現在に至るまで、公共の福祉による人権制約を広く容認してきた。職業選択の自由(最大判昭和30年1月26日刑集1号89頁)や財産権(最大判昭和37年6月6日民集16巻7号1265頁)といった経済的自由のみならず、わいせつ文書の規則(最大判昭和32年3月13日刑集11巻3号997頁)や選挙運動の制限(最大判昭和44年4月23日刑集23巻4号235頁)など、精神的自由についても同様である。その際、公共の福祉を抽象的にとらえて、ただ法律の目的が正当だというだけで、たやすく合憲とした例も少なくない。(p.129)
1-10. かつては最高裁判所も、公務員の労働基本権(28条)の制限につき、内在的制約論の見地から、人権制約により得られる利益と失われる利益を衡量して(比較衡量論)法律の制限を、法律の制限を限定的に解していた時期があった(最大判昭和41年10月26日刑集第20巻8号901頁等)。だがその後、判例変更によってこの立場は放棄され、法律による制限を全面的に合憲とする立場に復している(最大判昭和48年4月25日刑集27巻4号547頁等)。(p.129)
1-11. 基本的人権は、確かに、公共の福祉の制約を受ける、しかし、人権の限界や制約の問題は、単なる一般論にとどまってはならず、個別の事案に即した具体的な考察が必要である。抽象的な公共の福祉を根拠にたやすく制限を認めるならば、人権保障の意義を大きく損なってしまうからである。(p.129)
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4 manolo 2013-09-01 22:28:46 [PC]
出典:『よくわかる憲法』、工藤達朗編、5/3/2006、ミネルヴァ書房、pp.130-131 (「IX-2. 人権の限界(2):二重の基準の理論」)
2-1. 1. 公共の福祉論の限界 基本的人権の保障も絶対的ではなく、公共の福祉による制約を受ける(13条)。だが、重要なのはむしろ、ある法律の課した人権制限が、憲法上許される正当なものか、それとも人権侵害であり憲法に違反するか、という具体的な問題である。学説は公共の福祉という抽象的な概念の代わりに、違憲審査で用いられる判断基準をいくつか呈示してきた。(p.130)
2-2. 2. 違憲審査とその基準:*司法消極主義の立場から 違憲審査とは、国家行為の憲法適合性を審査し、有権的に決定することをいう。従って、違憲審査の基準は「憲法」である。だが、一般に憲法とりわけ人権規定は簡潔であり、その文言に依拠するだけでは合憲・違憲の判断が困難な場合も少なくない。むしろ、**機能的視点を取り入れた審査基準を形成することが有益であろう。(p.130)
*司法消極主義 裁判所は、違憲審査に際して、政治部門の判断を尊重すべきだとする考え方。法律は原則として合憲性の推定を受け、その違憲判断はできるだけ回避すべきものとされる。(p.130)
**機能的視点を取り入れた審査基準 法律の合憲性が争われたとき、違憲審査権を有する裁判所(81条)がどのような態度でこれを行使すべきかという観点から構成された基準。裁判所は、法律に現われた国会の判断に対して、どの程度積極的に自らの憲法解釈を代置すべきなのか。このときには、いかなる問題が政治部門の判断に適し、いかなる問題が裁判所の判断に適するのかという点が重要となる。(p.130)
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5 manolo 2013-09-01 22:31:50 [PC]
2-3. そもそも裁判所が違憲審査権を行使する際には、慎重な考慮が必要となる。憲法は、国民代表たる国会(43条1項)を国権の最高機関とし(41条)、立法その他の重要な権限を与えた。民主制の過程から独立した地位にある裁判所(76条3項参照)が、政治部門の行為をたやすく違憲無効とするならば、国民意思の軽視という批判を招きかねないからである。そこで、司法の自己抑制(消極主義)が唱えられてきた。(p.130)
2-4. だが、*付随的審査制の下では、違憲の主張は当事者の権利救済の法的根拠として提出されるから、抑制的な審査ばかりを強調するならば、個人の権利保護という裁判所本来の職務に背くであろう。政治部門の判断の尊重と個人の権利救済という、時に相反する要請の調和を図ることが肝要である。(p.130)
*付随的審査制 裁判所が、司法権執行に付随して違憲審査を行う制度。(p.130)
2-5. 3. 二重の基準論 このような観点から、学説では二重の基準という考え方が広く支持されている。一般に、表現の自由を中心とする精神的自由は、経済的自由に対して優越的地位に立つという。表現の自由は、個人の人格形成とその発展のために重要であるとともに、民主制の過程が成立するための不可欠の前提をなす。それゆえ、表現の自由その他の精神的自由は、憲法上、経済的自由より強く保護され、裁判所の違憲審査においても、精神的自由を制限する法律の審査基準は、経済的自由を制限する法律のそれより厳しくあるべきだというのである。(pp.130-131)
2-6. 通常、精神的自由の場合には*厳格な基準が、経済的自由の場合には**合理性の基準が用いられるべきだとされる。精神的自由よりも経済的自由を制限する法律の方が合憲となりやすいが、その場合、仮に不都合な事態が生じても、民主制の通程自体を傷つけることになるから、裁判所が積極的に介入すべきなのである。(p.131)
*厳格な基準 自由を制限する法律の立法目的が、極めて重大な(已(や)むに已(や)まれぬ)利益をもち、かつ規制手段がその目的達成のために必要不可欠である場合に限って、当該法律を合憲とする判断基準。(p.131)
**合理性の基準 法律の立法目的が正当であり、規制手段が当該目的と合理的関連性を有するならば、法律を合憲とする判断基準。(p.131)
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6 manolo 2013-09-01 22:35:46 [PC]
2-7. こうした考え方は、アメリカの判例によって形成されてきたものだが、日本国憲法の解釈にも適合的であった。憲法は、経済的自由が「公共の福祉」により制限されることを予定しているのに対し、(22条1項、29条2項)、精神的自由(19条、20条、21条、23条等)には、そのような制限を置いていないからである。(p.131)
2-8. 4. 判例とその問題点 小売市場距離制限事件(最大判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁)で、最高裁は、経済活動の規制は、社会公共の安全と秩序の維持のための消極的規制のほか、精神的自由の場合と異なり、国の責務たる積極的社会経済政策の実現のための規制も許されるとした。社会経済分野における法的規制の必然性、対象、手段・態様の決定は立法府の使命であるから、裁判所はその裁量的判断を尊重すべく、立法府が裁量権を逸脱し、規制が著しく不合理であることの明白である場合に限って違憲とすることができるという。(p.131)
2-9. 他方、薬事法事件(最大判昭和50年4月30日民集29巻4号572頁)では、最高裁は、①22条1項は職業活動の自由を保護するが、職業は社会的相互関連性が大きいから、精神的自由に比較して公権力による規制の要請が強い。②多様な職業に対する具体的な規制を決定するのは、立法府の権限と責務である、裁判所はその判断を尊重すべきではあるが、合理的裁量の範囲にも事の性質上自ずから広狭がある。③規制が積極的目的でなく、消極的・警察的目的の場合、許可制をとるには、より緩やかな規制では目的が十分に達成できないことを要すると、述べた。その上で、④薬事法に規制は、国民の生命及び健康に対する危険防止という消極的・警察的目的の規制だが、薬局設置場所の地域的制限のような強力な制限は、目的と手段の均衡を著しく失し合理性が認められないとして、違憲判断を下した。(p.131)
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7 manolo 2013-09-01 22:36:26 [PC]
2-10. これらの判決は、一見、二重の考え方を採ったようにみえる。だがそれは、経済的自由の規制を正当化する文脈で述べられたものであった。本来、該理論の意義は、精神的自由と経済的自由を区別し、前者に優越的地位を認めて裁判所の厳格な審査を根拠づけるところにある。だが最高裁には、精神的自由の規制が問題となった事件で、*二重の基準論を用いて法律の合憲性を審査した例は存しない。該理論に対する理解の妥当性が問われるところである。(p.131)
*もっとも、最高裁も、集会の自由をめぐる規制をめぐる事件で、精神的目的の優越性に配慮する判断を下したことがある。(最判平成7年3月7日民集49巻3号687頁、最判平成8年3月15日民集50巻3号549頁)。だが、それらは、行政行為の合法性判断に関わる事例であった。(p.131)
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