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犯罪論 (コメント数:16)

1 manolo 2013-10-16 16:28:53 [PC]


259 x 194
出典:『よくわかる刑法』、井田良、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(序-5.「犯罪論の体系」、飯島暢)pp.10-11

1-1. 1. 犯罪論体系の意義
 犯罪行為の一般的な成立要件を検討するのが犯罪論である。刑法の条文をみれば明らかなように、例えば199条なら殺人罪に固有の犯罪の成立要件が問題となる。しかし、そうした個々の犯罪類系の成立要件から抽象化して取り出してきた、いわばすべての犯罪に妥当する一般的な成立要件を犯罪論は取り扱う。犯罪成立の一般的用件はいくつかあるが、それらを明確な概念として構成し、一定の観点の下で相互に関連づけながら、論理的な首尾一貫性によってまとめ上げて配列したのが犯罪論の体系である。そして、通説的見解によれば、犯罪とは「構成要件に該当する違法で有責な行為」であると定義されている。それ故、犯罪が成立するための基礎となる行為はさておき、犯罪の一般的な成立要件とは、①構成要件該当性、②違法性、③有責性(責任)であり、この順番にそって、分析的・段階的に犯罪の成立を判断する思考の枠組みこそが犯罪論の体系といえる。では、何故このような犯罪論の体系が必要なのであろうか。刑罰という厳しい制裁を予定する刑法は、感情に流されることなく、適正に適用されなければならない。そして、そのためには犯罪の成立を判断する際に、刑法の基本原則にのっとった明確で統一的な指針が刑事司法の運用者(特に裁判官)にとって不可欠となる。つまり、この指針を提供するのが、分析的・論理的な判断を可能とする犯罪論の体系なのである。(p.10)

2 manolo 2013-10-16 16:30:40 [PC]

1-2. 2. 構成要件該当性・違法性・有責性という*三段階体系
 わが国で一般的に主張されている三段階の犯罪論体系における3つの犯罪要素、つまり、①構成要件該当性、②違法性、③有責性は、それぞれ刑法の基本原則に対応する要素である。①には罪刑法定主義が、②には法益保護主義が、③には責任主義が対応する。つまり①→②→③の順番での段階的な判断の際に、それぞれの基本原則の要請が満たされなければならない。いくら大衆の関心を惹く重大事件であっても、それを捕捉する規定がなければ、処罰することは許されない(①の要請)。そして、いくら犯人が悪辣な人間であっても、その者の行為が他人に与えた客観的な被害(法益侵害性)を抜きに刑法的な判断をすることは許されない(②の要請)。さらに、いくら被害が甚大であったとしても、場合によっては犯人を非難できないような主観的・個人的事情を無視して処断することはできないのである(③の要請)。(pp.10-11)

*三段階体系
通説は、犯罪論体系を①構成要件妥当性、②違法性、③有責性という順番で考える三段階体系をとっているが、学説上は更に、行為に独自の体系的地位を与え、①行為、②構成要件該当性、③違法性、④有責性とする四段階体系を唱える見解や、構成要件該当性を違法性のなかに取り込んでしまって、①行為、②不法(違法性)、③有責性という犯罪論体系を主張する見解もある。(p.10)

3 manolo 2013-10-16 16:32:02 [PC]

1-3.
 また、①→②→③という段階的判断の順序は、刑事司法の担い手(裁判官)による判断の適切さを担保する意味ももっている。つまり、①構成要件該当性の判断は、ある程度形式的で明確な判断であるので、これをまず第一に検討して、枠づけを行っておく。こうしておけば、その後で、より実施的な性質を持つ②違法性・③有責性の判断を行っても、処罰範囲が不当に拡張される恐れもない。そして、原則的に客観的なものである②違法性の判断は、主観的な③有責性の判断よりも比較的明確なものであるので、②は③に先行することになる。できるだけ明確な判断を先行させて粋づけを行い、それに続く比較的不明確になりがちな判断によって犯罪の成立範囲が不当に広がることを防ぐわけである。以上のような三段階体系も、その体系自体に意味があるのではない。それはあくまで、刑事司法の運用者の思考過程を適切に統制し、犯罪の成否を慎重かつ精確に判断させるという目的のための道具なのである(*目的論的体系)。(p.11)

*目的論的体系
哲学の分野では、広く自然のすべての現象がある目的のもとに秩序づけられているとする見方を目的論という。犯罪論の体系は目的論的体系であるというとき、それは犯罪論体系がそれ自体だけで何か意味があるのではなく、あくまで刑法の正しい適用という「目的」に奉仕するために、それに適合する形で構成された思考の枠組みであるということを意味している。(p.11)

1-4. 3. 体系的思考と問題的思考
 犯罪論の体系構築が、単なる「体系美」の完成に走ってしまう場合、そこからは現実を無視した空理空論しか生まれてこないだろう。いくら体系的思考が重視されても、具体的に妥当とはいえない結論しか導き出せない犯罪論体系ならば問題である。そこで、体系的思考ではなく、問題的思考をスローガンとして掲げ、犯罪論体系の整合性よりも問題解決の具体的妥当性を重視すべきとの意見もある。しかし、具体的妥当性を過度に重視すると、犯罪論体系によって担われた刑法の基本原則の要請が軽視されてしまいかねない。従って、あくまで体系的思考と問題的思考両者の有機的な調和が目指されるべきであり、体系的整合性を壊さない限りにおいて、具体的に妥当な結論につながるような犯罪論体系の構築が図られなければならない。(p.11)

4 manolo 2014-01-17 12:35:35 [PC]

出典: 『Criminology: the essentials』、Anthony Walsh、2012、SAGE Publications、pp.6-7

2-1. 【What Constitutes a Crime?】
 *Corpus delicti is a Latin term meaning “body of the crime” and refers to the elements of an act that must be present in order to legally define it as a crime. All crimes have their own specific elements, which are the essential constituent parts that define the act as criminal. In addition, all crimes share a set of general elements or principles underlying and supporting the specific elements. There are five principles to be satisfied in order a person to be “officially” labeled as a criminal, but in actuality it is only necessary for the state to prove **actus reus and ***mens rea to satisfy corpus delicit. The other principles are typically automatically proven in the course of proving actus reus and mens rea. (p.6)

*corpus delicti: (法)罪体(犯罪の基礎となる実質的事実)、犯罪構成事実
**actus reus: 犯罪行為
***mens rea: 犯罪意思

2-2.
 Actus reus means guilty act and refers to the principle that a person must commit some forbidden act or neglect some mandatory act before he or she can be subjected to criminal sanctions. In effect, this principle of law means that people cannot be criminally prosecuted for thinking something or being something, only for doing something. This prevents governments from passing laws criminalizing status and systems of thought they don’t like. For instance, although drunken behavior may be a punishable crime, being an alcoholic cannot be punished because “being” something is a status, not an act. (p.6)

2-3.
 Mens rea means guilty mind and refers to whether or not the suspect had a wrongful purpose in mind when carrying out the actus reus. For instance, although receiving stolen property is a criminal offense, if you were to buy a stolen television set from an acquaintance without knowing it had been stolen, you would have lacked mens rea, and would not be subject to prosecution. If you were to be prosecuted, the state would have to prove that you knew the television was stolen. Negligence, recklessness, and carelessness that results in some harmful consequences, even though not intended, do not excuse such behavior from criminal prosecution under mens rea. Conditions that may preclude prosecution under this principle are self-defense, defense of others, youthfulness (a person under 7 years of age cannot be held responsible), insanity (although being found insane does not preclude confinement), and extreme duress or coercion. (pp. 6-7)

5 manolo 2014-01-17 12:37:03 [PC]

2-4.
 Concurrence means that act (actus reus) and the mental state (mens rea) concur in the sense that the criminal intention actuates the criminal act. For instance if John sets out with his tools to burglarize Mary’s apartment ant takes her VCR, he has fused the guilty mind with the wrongful act and has therefore committed burglary. However, assume John and Mary are friends who habitually visit each other’s apartments unannounced. One day, John decides to visit Mary, finds her not at home, but walks in and suddenly decides that he could sell Mary’s VCR for drug money. Although the loss to Mary is the same in both scenarios, in the latter instance, John cannot be charged with burglary because he did not enter her apartment “by force or fraud”, the critical element needed to satisfy such a charge. In this case, the concurrence of guilty mind and wrongful act occurred after lawful entry, so he is only charged with theft, a less serious crime. (p.7)

2-5.
 Causation refers to the necessity to establish a causal link between the criminal act and the harm suffered. This causal link must be proximate, not ultimate. Suppose Tony wounds Frank in a knife fight. Being macho, Frank attends to the wound himself. Three weeks later, the wounds becomes severely infected and results in his death. Can Tony be charged with murder? Although the wounding led to Frank’s death (the ultimate cause), Frank’s disregard for the seriousness of his injury was the most proximate (or direct) cause of his death. The question the law asks in cases like this is, “What would any reasonable person do?” Most people would agree that reasonable person would have sought medical treatment. This being the case, Tony cannot be charged with homicide, the most he could be charged with is aggravated assault. (p.7)

3-6.
 Harm refers to the negative impact a crime has either on the victim or on the general values of the community. Although the harm caused by the criminal act is often obvious, the harm caused by many so-called victimless crime is often less obvious. Yet some victimless crimes can cause more social harm in the long run than many crimes with obvious victims. (p.7)

6 manolo 2014-02-03 23:39:29 [PC]

出典:『よくわかる刑法』、井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(序-6「行為無価値論と結果無価値論」)、井田良、pp.12-13

3-1. 【1. 違法性と有責性】
 犯罪とは、*構成要件に該当し、違法で、かつ有責な行為である。しかし、犯罪の成立・不成立を判定する際に行なわれる実質的な価値判断は、違法性(不法)と有責性(責任)の二つである。現在の犯罪論体系においては、違法判決が下されたことを前提にして責任の有無を検討するという順序がふまれる。違法性の判断とは、処罰対象の確定の判断であり、そこでは「何を何ゆえに処罰するか」が明らかにされる。責任とは、その違法行為につき行為者の意思決定を非難し得ることをいう。いくら違法な行為でも責任を問えなければ刑罰を科すことはできない。違法判断とは、処罰の理由があるかどうかを確定する判断にほかならないから、比喩的に言えば、犯罪論のエンジン部分である。責任は、処罰を限定するものであるから、それはブレーキにほかならない。乗用車を購入しようと考える人はエンジンの性能に注目するであろう。犯罪論についても同じである。違法の実質についてどう考えるかは、犯罪論の理論構成にあたり最も決定的な意味を持つ問題である。それは「犯罪の本質」をめぐる議論とも呼ばれる。(p.12)

*構成要件
個々の刑罰法規において犯罪として規定された行為の類型のことをいう。例えば、窃盗罪の構成要件は「他人の財物を摂取する」ことである(235条参照)。刑罰法規に定められた行為は、刑法規範により禁止され、かつ処罰の対象として提示された行為である。構成要件該当する行為とはふつう法的に許されない行為、すなわち違法行為にほかならない。構成要件は、違法な行為を類型化した違法類型ということができる。その意味では、構成要件該当性の判断も違法判断の一部にすぎない。(p.12)

7 manolo 2014-02-03 23:41:48 [PC]

3-2. 【2. 行為無価値論と結果無価値論】
 違法性の実質をめぐっては、根本的な見解の対立がみられる。一つの考え方は、行為が外部的に実害を生じさせたこと、すなわち、法益を侵害した(または危険にさらした)という結果発生の側面を重視する。実害を生じさせたがゆえに否定的な評価を受けるという意味で結果無価値が認められることが本質的であるとする。このような見解を結果無価値論という。これに対し、もう一つの考え方は、結果の側面を無視するものではないが、行為無価値、すなわち行為そのものの法違反性・反規範性を重視する。この立場を行為無価値性論と呼ぶ。結果無価値論か、それとも行為無価値論かという対立は、犯罪の本質をめぐる根本的な見解の対立である。(p.12)

3-3.
 結果無価値論は、次のことをその論拠としてあげる。刑法は道徳や倫理を強制するために存在するのではなく、法益の保護のために存在する。従って、不適切な行為が行われたとしても(すなわち、行為無価値が認められたとしても)、ただちに違法とすることはできず、現に法益が侵害されるか危険にさらされなければ、違法性を肯定することはできないという。また、法益への侵害・危険が生じたことの判断は明確であるが、行為無価値の評価は不明確であって、そのようなものを重視すれば、責任判断との区別も曖昧なものとなってしまう。これに対し、行為無価値論は、違法判断の内容は結果無価値の評価に尽きるものではないとして反対する。法益侵害結果が発生しさえすれば違法だというのであれば、雷が落ちて建物が壊れても「違法」だということになってしまい、違法評価が加えられる範囲が無限大に拡大されてしまうとする。行為無価値論の主張者の中には、道徳・倫理的評価を刑法的評価から排除できないことを根拠するものもあるが、刑法と道徳・倫理を分離する立場に基づき、*規範論を根拠として。行為無価値論を支持するものもある。(pp.12-13)

*規範論
刑法は、法益保護のために、行動を規制する規範(例えば、「人を殺してはならない」)を国民に向けているのであり、規範の効力を維持することを通じて法益を保護している。規範に反する行為があれば(すなわち行為無価値論が認められれば)法益保護のための規範の効力を維持するために違法性を肯定しなければならない。このような考え方に基づいて行為無価値論が主張される。(p.13)

8 manolo 2014-02-03 23:42:45 [PC]

3-4. 【3. 結果が分かれるポイント】
 結果無価値論によると、違法性判断は実害が生じたかどうかの判断であるから、行為者の目的や意思とは独立に客観的に行われることとなり、違法判断は行為の客観面の判断ということになる(これに対し、責任は行為の主観面を対象とする判断である)。従って、故意の殺人罪(199条)と過失致死罪(210条、211条)とでは、結果そのものは同一である以上、違法性の程度はまったく同じで、責任の重さが異なるに過ぎないということになる。故意と過失は主観的要素だということになる。(p.13)

3-5.
 また、どちらの見解を採るかにより、未遂犯の諸問題との関係でも、異なった結論が導かれる。例えば、結果無価値論によれば、行為そのものはルール違反の行為であっても、法益の侵害もその現実的危険もまったく生じなかったという場合には違法ではない。例えば、犯人が、ベッドで寝ているAを殺そうとして、ふとんの上から思い切りナイフで刺したところ、偶然Aはトイレに行っていてベッドにおらず無事であったという事例を考えてみよう、結果無価値論によれば、客観的にみて法益侵害の差し迫った危険は発生していないことから、不能犯として殺人未遂罪にはならず、せいぜい殺人予備罪(201条)が成立する。これに対し、行為無価値論によれば、「人を殺すな」という規範に違反する行為そのものは行われている以上、殺人未遂罪が成立する。(p.13)

9 manolo 2014-02-26 22:08:48 [PC]

出典:『よくわかる刑法』、井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(「第1部 I-7 故意概念」)、照沼亮介、pp.34-35

4-1. 【1. 故意とは何か】
 38条1項には、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」と規定されている。この条文は、犯罪の成立には、故意が必要であるということを規定したものである。ここから、故意犯罪の原則が導かれ、過失犯処罰が例外となる。また、法定刑も故意犯と過失犯では大きな開きがある。故意犯が重く処罰される理由は、故意犯は、刑法が保護している法益を意識的に侵害・危殆化している点で、過失犯よりも重い評価が与えられるところにある。つまり、行為者は、まさにその法益侵害結果を実現しようとしていたのであり、行為者の違法評価が重くなるからである(ただし、*故意の体系的地位に注意)。(p.34)

*故意の体系的地位
故意が体系上どこに位置するのかが問題となっており、通説は、違法(及び責任)にあるとしている(行為無価値論)。本文の説明は、故意を違法要素と解した場合である。それに対し、有力な見解は、故意は違法にはなく、もっぱら責任要素と解している(結果無価値論)。(p.34)

4-2. 【2. 認識の対象】
 犯罪の成立には故意が必要であるならば、その故意の内容(行為者の認識内容)が問題となる。故意犯とは、刑法で禁止(命令)された行為を意識的に行うことであり、そうすると故意犯における行為者の認識の対象は、刑法で禁止されているということ、つまり*客観的に構成要件に該当する事実ということになる。(p.34)

*客観的に構成要件に該当する事実
主観的構成要件要素が故意の対象にならないという点は問題がないだろう。つまり、(主観的構成要件要素である)故意を認識することは不要だからである。(p.34)

10 manolo 2014-02-26 22:13:02 [PC]

4-3.
 しかし、故意とは構成要件該当事実の認識である、としたとしても認識すべき内容が明らかになったとは言えない。確かに殺人罪(199条)のような構成要件では、人の「死」の概念は明確であるから、故意の内容も明確となるが、わいせつ概念のような、いわゆる規範的構成要件要素においては、故意の内容は不明確なままである。わいせつ物領布等罪(175条)を例に挙げると、行為者に故意が認められるには、その物が「わいせつ」であるという意味を認識していることが必要であり、記載されている内容を知らなければ故意を認めることができない。「いやらしい物である」という認識が必要であろう。その一方で、構成要件そのままの認識の必要はない。例えば、文書概念や薬物の正式名称(覚せい剤取締法では覚せい剤を「フェニルアミノプロパン」と規定)のように、法律用語や専門用語で表された構成要件概念を、素人である一般国民が知るということは困難であり、それを完全にあてはめて認識していなければ故意が成立しないとするならば、専門家以外故意犯は不成立ということになってしまい不当である。(p.34)

4-4.
 それ故、条文上の概念を日常的概念へと翻訳する必要が出てくる。この翻訳されたものこそが刑法で禁止している内容(行為規範)なのであり、故意犯に必要な認識の対象となる(「*素人仲間の平行評価」)。この認識を、特に**意味の認識と呼び、これが故意にとって決定的に重要だということになる。(pp.34-35)

*素人仲間の平行評価
ドイツの刑法学者メツガーの言葉であり、故意の成立には専門家の判断と平行した素人的な認識があれば足りるとするものである。(p.35)

**意味の認識
故意の成立には、刑法が禁止しようとしている行為の意味を認識していなければならない。覚せい剤取締法に規定されている「フェニルアミノプロパン」という認識は当然、故意には不要であり、「覚せい剤」や「シャブ」という認識があれば意味の認識が認められ、故意犯成立となる反面、「フェニルアミノプロパン」という認識があっても、その物質が覚せい剤であるという認識がなければ、その物質の意味することに関し認識が欠けるため、故意犯は不成立となる。(p.35)

11 manolo 2014-02-26 22:17:47 [PC]

4-5. 【3. 故意と過失の限界】
 故意犯の成立に関し、認識すべき対象の他に、行為者がどのように犯罪事実の実現を認識していたかが問題にとなる。つまり、故意犯と過失犯の境はどこにあるのか、ということである。(p.35)

4-6.
 故意を三つに分けることができる。まず一つめが意図であり、これは構成要件の実現を目的として実行する場合である(例えば、人を殺すことを目的にピストルの引き金を引くこと)。次が、*確定的故意であり、構成要件の実現が目的ではないが、その事実の発生が確定的であることを認識して実行する場合である(例えば、保険金を目当てに住居に火を放つ際、中に住む老人が焼死することを確実と認識して放火すること)。最後が、未必の故意であり、結果の発生を意図することもなく、また確定的であると認識してもいない場合(例えば、人の頭上にりんごを置き、少し離れたところからそれを矢で射るのだが、人に当たることを意図していない場合)である。未必の故意を明らかにすることによって、**認識ある過失との限界が明らかになる。(p.35)

*確定的故意
意図を含めて、確定的故意という場合もある。(p.35)

**認識ある過失(p.35)
犯罪事実を認識・予見したが、最終的には犯罪事実を否定した場合。(p.35)

意図  (犯罪実現の意思 大 ⇔ 小)   未必の 認識ある 認識なき
確定的意図(確実性の認識 大 ⇔ 小) 故意  過失     過失
(p.35)

12 manolo 2014-02-26 22:19:39 [PC]

4-7.
 故意と過失を区別するにあたり、大まかに三つの見解が存在する。構成要件実現(結果発生)の蓋然性を認識していた場合には故意が認められるとする蓋然性説(認識説)、構成要件の実現を認容する必要があるという*認容説、構成要件を認識したが、それを、行為を思いとどまる動機とせず実現した場合に故意ありとする**動機説(実現意思説)がある。蓋然性説の難点は、蓋然性が不明確である点や、行為者に意図が存在したが結果発生の確率が非常に低い場合に故意を認めることが困難となる点にある。通説とされ、判例も支持しているとされる認容説に関しては、認容という心理状態は、法益侵害結果に対する「悪い心情」を問題にするものであり心情刑法であって、妥当ではないといった批判や、認容にも幅があり、「かまわない」というような積極的認容から「意に介さない」「無関心」といった消極的認容まで存在し曖昧である、という批判がなされている。有力説である動機説は、統一的に故意を理解することが可能となる点で、つまり、未必の故意論のみならず、意図、確定的故意の場合においても説明可能ある点で優れている。(p.35)

*認容
うけいれるということ。(p.35)

**動機説
ここでいう動機とは「恨み」や「保険金目的」といったいわゆる動機とは異なる。(p.35)

13 manolo 2014-02-26 22:33:43 [PC]

出典:『よくわかる刑法』、井田良他著、4/20/2006、ミネルヴァ書房、(「第1部 I-10 過失犯論」)、南由介、pp.40-41

5-1. 【1. 過失犯】
 31条の1項のただし書きは「法律に特別の規定がある場合は、この限りではない」と規定している。この「特別の規定」とは過失犯のことであり、法律上、「過失により」あるいは「注意を怠り」といった文言で規定されている。実際上、罪を犯す意思がなかったとしても、不注意により、見過ごすことのできない重大な結果を発生させたという場合(例えば、過って人を死なせた場合や失火など)は決して少なくない。過失犯とは、このような場合に例外的に処罰しようとするものである(ただし、今日では過失処罰規定は少なくない)。なお、38条1項を素直に読むと、「特別の規定」があれば過失のない行為でも処罰することができるかにみえるが、過失すらない行為に対して非難することは不可能であり、それは責任主義に反することにある(ただし、結果的加重犯)。(p.40)

5-2.
 過失犯の問題は、過失犯にあたる構成要件行為が明文で規定されておらず(不注意とされるような行為は世の中に限りなく存在する)、不明確である点にある。それ故、どのような場合に刑法上の不注意が認められるかが重要となる。(p.40)

5-3.
【2. 注意義務】
 過失犯が成立するためには、注意義務違反(不注意)がなければならない。その不注意義務の内容について、伝統的な考え方によれば、結果予見義務とされてきた。例えば、よそ見をしながら自動車を運転する際、よそ見をすれば人を死傷させるかもしれない、という人の死傷結果を予見する義務が課され、この予見に基づき結果回避のための行動をとらねばならない、ということになる。この注意義務の中心を結果予見義務に求め、予見可能性があれば過失犯が成立するという考え方を、旧過失論*(伝統的過失論)と呼ぶ。なお、この見解における結果の予見可能性については、法益侵害結果(結果無価値)の予見が処罰を基礎づけることから、結果回避へと動機づけるのに十分な、ある程度高度な予見可能性、すなわち、「具体的予見可能性」が要求されることになる。(p.40)

14 manolo 2014-02-26 22:35:21 [PC]

5-4.
 これに対し、わが国では戦後、ドイツの学説の影響を受け、予見可能性という程度の概念では幅が広く不明確であり、予見可能性が認められるならばただちに処罰されることになってしまうのではないか(つまり予見可能性のみでの判断は、可能であっても不可能であったともいえ、限定にならないのではという疑問)、という批判から、注意義務の中心を結果回避義務とする*新過失論が有力に主張されるに至った。この見解によれば、結果の予見可能性あったとしてもただちに過失犯が肯定されるのではなく、一般に要求される行動基準を逸脱した場合に、結果を回避すべき義務に違反したことになり、過失犯の成立が認められる。先の例でいえば、人の死傷の予見のみでは注意義務として足らず、よそ見をして運転するというような行動基準の逸脱があってはじめて、注意義務違反が肯定されるのである。ただし、新過失論は、当初、旧過失論の処罰範囲を限定するものであったが、行動基準の内容の不明確さにより、今では処罰拡大へと動いているという批判がなされている。(pp.40-41)

*新過失論
行動基準(基準行為)から逸脱した行為があれば結果回避義務違反が肯定されるという、「行為」を問題にする見解であることから、新過失論は、行為を違法要素とする行為無価値論に親和的な見解ということができる。それ故、過失は違法要素となり、結果予見義務、結果回避義務は客観的注意義務となる。(p.41)

5-5.
 また、高度経済成長期に、未知の分野における公害や薬害が問題になったという時代背景から、「何か起こるかもしれない」という漠然とした程度の危惧感(予見可能性)があれば足り、この危惧感を払しょくするため何らかの措置がとられなければ結果回避義務違反が肯定されるとする*危惧感説が主張されるに至ったが、処罰範囲が極めて拡大されることから、少数説にとどまっている。(p.41)

*危惧感説
不安感説、新新過失論とも呼ばれる。新過失論と同様に、結果回避義務を注意義務の中心におく見解であるが、新過失論が旧過失論を処罰の限定へと導くものであるのに対し、危惧感説は、抽象的予見可能性があれば結果回避義務を認めることから、処罰を拡大する方向へ導くことになる。(p.41)

15 manolo 2014-02-26 22:37:11 [PC]

5-6.
 なお、いずれの見解からも、結果予見義務、結果回避義務の前提として、結果の予見可能性、結果回避可能性が必要であることはいうまでもない。(p.41)

注意義務をめぐる各学説の相違点

旧過失論……結果予見義務中心 具体的予見可能性 結果無価値論(責任要素)
新過失論……結果回避義務中心 具体的予見可能性 行為無価値論(違法要素)
危惧感説……結果回避義務中心 危惧感(抽象的予見可能性)行為無価値論(違法要素)
(p.41)

5-7.
【3. 信頼の原則】
 自己に落ち度があったが、相手側(被害者)にも不適切な行動があったという場合、行為者にはいかなる評価が下されるべきであろうか。刑法においては*過失相殺という考え方は認められないので、このような場合であっても、行為者の落ち度が刑法上の過失に該当するか否か判断されなければならない。(p.41)

*過失相殺
民法上の概念であり、被害者側にも過失があった場合には、賠償額から被害者側の過失分を減らすことが認められているが(民法418条、722条2項)、刑法上は認められない。(p.41)

16 manolo 2014-02-26 22:38:28 [PC]

5-8.
 そこで考え出された概念が、*「信頼の原則」である。これは、相手側に不適切な行為があった場合に、相手がそのような行為に出てくることを予測し、それにより結果を回避しなければならないとすれば、行為者に対する過大な要求であるから、相手側が適切な行動に出てくることを信頼できるならば、仮に信頼が裏切られたとしても過失責任は負わないとする考え方である。例えば、原付自転車がセンターラインの若干左側で後方の安全確認を十分にせず右折しようとした際、後方から高速度でセンターラインの右側にはみ出して追い越してきたオートバイと接触し、相手側を死亡させた場合(最判昭和42年10月13日刑集21巻8号1097頁)では、行為者には、交通法規に違反して追い越してくる車両を予見し、結果を回避する義務はない、ということになる。(p.41)

*信頼の原則
ただし、この原則は、相手側が老人や幼児であったり、自己の過ちが重大である場合には、もはや相手を信頼できないため、適用されない。また、この原則が適用された場合には、結果予見義務あるいは結果回避義務が否定される。(p.41)
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