Tokon Debatabank

正義論 (コメント数:22)

1 manolo 2014-01-13 23:18:32 [PC]


208 x 212
『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、(「第1部 I-2 正義論の体系化:アリストテレス」)、戒能通弘、pp.6-7

1-1. 【1. アリストテレスの法思想】
 アリストテレスの法思想を理解するには、彼の人間本性論の理解が必要である。よく知られているように、アリストテレスは、「人間は本性的にポリス的動物(ゾーオン・ポリティコン)である」と述べているが、それは、共同生活そしてポリス(都市国家)で生きることは、人間の本性に基づくという認識による。それ故、アリストテレスの法思想では、ソクラテス・プラトンと同様に、*ノモス(ポリス的法秩序)とピュシス(人間の自然)をソフィストのように対立的の捉え、後者によって、前者を批判、あるいは全否定するのではなく、その統一的な理解が展開されている。(p.6)

*ノモス(ポリス的法秩序)とピュシス(人間の自然)
ノモスは、現代の実定法的法秩序よりは、幅広いものとして捉えられるべきである。それは、ポリスにおいて伝統的に継承されてきたルールであり、現代における実定法のみでなく、道徳、あるいは、習俗をも含み、ポリス構成員の生活全般を規律するものであった。一方、ピュシスとは、人間の自然、本性的なものである。前項目で扱ったソフィストは、ノモスを恣意的なもので、ピュシスに反すると論じていたが、アリストテレスはこれに反論したのであった。(p.6)

2 manolo 2014-01-13 23:20:29 [PC]

1-2.
 アリストテレスは、『二コマコス倫理学』において、ノモスは、自然法的な正と実定法的な正の結合から成ると論じている。このうち、自然法的正とは、自然本性的なものであり、あらゆる国家で妥協するものである。すでにみたように、共同生活を送ることは人間にとって自然本性的なもので、共同体の中で生きる義務や共同体の規律に服することは、必然的に自然法的な義務とされている。ここから例えば、家族を扶養する義務や、都市国家を守るために市民が軍役に就く義務などが、あらゆるところで妥協する義務とされる。一方で、共同体はあくまでも人間の幸福のためにあるので、共同体への服従義務は無制限なものではなく、例えば、市民の幸福のために市民の財産を尊重することなども自然法的正い含まれることになる。(p.6)

1-3.
 自然法思想は、19世紀までヨーロッパの法思想を支配することになるが、実定法を基礎づける上位規範という自然法の役割が明確な形で展開されるのは、全項目で触れた古代ローマのキケロからであった。しかしながら、諸国民に共通の法、あるいは自然法がそれぞれの国法秩序を支えており、実定法は、その自然法から導かれ、その自然法に反するものもあることなど、後の古典的自然法論の輪郭を、我々はアリストテレスにおいて見出すことができる。(p.6)

1-4. 【2. アリストテレスの正義論】
 後世への影響を考える上で、アリストテレスにおいて最も注目されるべきは彼の*正義論である。その正義論については『二コマコス倫理学』において詳細な分析が展開されているが、まず、正義は、一般的正義と特殊的正義に分類される。前者については、アリストテレスの時代では、正義とは善き生き方のことでもあり、道徳を含めた国宝秩序に従うこと、すなわち適法的正義が一般的な正義とされている。一方、特殊的正義とは複数の市民当事者間で問題になる正義であるが、そこにおけるアリストテレスの考察こそ、正義の役割を権利、義務あるいは経済的な利益、不利益の割当を決定することとして捉えている現代の正義論の基礎となるものである。(pp.6-7)

*正義論
わが国の最高裁判所を含め、多くの裁判所には正義の女神の像が並置されている。また、英語のjusticeという言葉が、正義という意味とともに、裁判という意味にも使われているように、法、裁判と正義の関係は密接なものである。(p.7)

3 manolo 2014-01-13 23:23:17 [PC]

1-5.
 特殊的正義は、*矯正的正義と配分的正義に分けられる。そのうち、前者は、契約の当事者間や、犯罪、不法行為における加害者と被害者の間のように、利害関係が対立する当事者間で問題になる正義であるが、アリストテレスは、ここでは当事者の属性や価値とは関係なく、算術的平等が要求されるとする。一方、ポリス的市民間における名誉や財産、あるいは権力の配分に関わる配分的正義においては、各人の価値に応じた比例的な配分が要求される。これは、各人に□□(一定の価値基準)に応じて配分するという定式で言い換えることができる。(p.7)

*矯正的正義と配分的正義
矯正的正義は、契約法、不法行為法における損害賠償、刑罰に関係しており、現代においては、裁判官の正義といわれている。一方で、配分的正義は、現代においては、社会保障等のあり方に関わり、立法者の正義ともいわれる。(p.7)

1-6.
 第2部の第III章でもみるように、現代の正義論の主要な争点は、権利や財産とどのような価値に基づいて配分(分配)するのかという配分(分配)的正義の問題である。単純化してしまえば、例えば、功績に応じて分配を主張するのがR.ノージックであり、J.ロールズは、必要に応じた分配を目指しているとも言える。これらは、すべてアリストテレスの正義の定式に基づく議論である。絶対的正義を説くのではなく、ポリスにおける正義の分類と体系化を実証的に行ったこと、配分的正義の基準となる価値の相対性を認識し、正義を形式的な原理として提示したことが、アリストテレスの影響力を強めている。(p.7)

4 manolo 2014-01-13 23:24:00 [PC]

(Column)「正義という言葉」
 アリストテレスは、『二コマコス倫理学』において配分的正義を以下のようなものと述べている。「もし当事者が均等なひとびとでないならば、彼らは均等なものを取得すべきではないのであって、ここからして、もし均等な人々が均等ならぬものを、ないし均等ならぬ人々が均等なものを取得したり配分されたりすることがあれば、そこに闘争や悶着が生じるのである。さらに『価値に相応の』という見地から見てもこのことは明らかであろう。けだし、配分における『正しい』分け前は何らかの意味における価値(アクシア)に相応のものでなくてはならないことは誰しも異論のないところであろう。」
 一方、矯正的正義においては、配分的正義とは違い、当事者の価値は関係ないとされる。「よきひとがあしきひとから詐取したにしてもあしきひとがよきひとから詐取したにしても、また、姦淫をおかしたものがよきひとであるにしてもあしきひとであるにしても、それは全く関係ない。かえって、法の顧慮するところはただその害悪の差異のみであり、(中略)法は彼らをいずれも均等なひとびととして扱う。」(アリストテレス『二コマコス倫理学』岩波文庫、1131a, 1132a)
 このように、西洋思想の歴史において、そして、法哲学、法思想史においては、正義という言葉は、わが国でそれが一般的に用いられる際に意味するような「道徳的な正等性」ではなく、「複数当事者間の正しい関係性」という意味で用いられることに注意すべきである。(p.7)

5 manolo 2014-01-21 06:39:39 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳&濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、(「第2部 III-2 正義観念の多様性(1):多様な正義観念の整理」)、濱真一郎、pp.96-97

2-1. 【1. 正義観念の多様性】
 正義という観念は曖昧で多義的であり、正義について論じる人々の間で混乱が生じることがある。さらに、正義という言葉が人々に与える情緒的なイメージから、自分の都合のよい仕方で正義を語ったり、自分だけが正義で相手は悪であるというレッテル貼りがなされることがある。正義の名の下に、血で血を争う出来事が存在したことは、歴史が示すとおりである。そこで、本項目を含む以下の3項目では、多様な正義観念について整理しておきたい。正義観念はしばしば、適法的正義、形式的正義、実質的正義の三つに分類される。さらに、実質的正義は、分配的正義と矯正的正義の二つに分けて説明され、それら二つに交換的正義がつけ加えられることもある。なお、衡平及び手続的正義という、法による正義の実現に関して重要な位置を占めている正義観念も存在する。以下、順を追って整理していこう。(p.96)

2-2. 【2. 適法的正義、形式的正義、実質的正義】
 適法的正義は、実定法の内容の正・不正を問わず、その規定が遵守され適用されているかを問う、従って、実定法の内容が不正であっても、その実定法の規定が守られるならば、適法的正義は実現されることになる。適法的正義は、価値観が多元的に対立し流動状況にある場合は、法の運用を硬直化させ、実質的正義の新しい要求に目を閉ざすことになる。しかし逆に、そうした状況において、適法的正義がしっかり根づいていることが、特定の恣意的な法運用への歯止めとなる。(p. 96)

6 manolo 2014-01-21 06:41:12 [PC]

2-3.
 形式的正義は、「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように取り扱え」という、古くからの定式によって表現される。純粋に形式的な要請である。この正義観念は、いかなる人々ないし事例が同一のカテゴリーに属するかとか、それぞれのカテゴリーに属する人々や事例をどのように取り扱うべきかを決定する、実質的基準については何も語らない。従って、形式的正義は、それ自体は不完全であり、決定的な指針を与えることはできない。ただし、逆に言えば、形式的正義は、実質的基準をあえて明示しないことで、正義の共通基準を示している。つまり、「等しきものは等しく」という形式的な公式は、「各人に同じものを」「各人の能力に応じて」「各人の労働に応じて」等々の、多種多様なすべての具体的な諸基準に共通する。正義原理の普遍的要素を(暗黙に)示しているのである。(pp.96-97)

2-4.
 *実質的正義は、具体的な法的決定の正当性を評価・判定する、実質的な正義観念である。実質的正義は、各人の善き生き方の問題と、社会的制度上の正しさの問題の両者に関わる、包括的な理想像と同一視される場合がある。しかし、最近では、それは、**社会制度上の正しさの問題のみにかかわる正義観念と、みなされてきている。(p.97)

*実質的正義
以下の実質的正義の分類はアリストテレスによって提唱された。(p.97)

**例えばJ.ロールズは実質的な正義の適用範囲を「社会の基本構造」に、つまり基本的な政治構造や重要な経済的社会制度に限定している。(p.97)

2-5. 【3. 実質的正義の諸類系】
 次に、*実質的正義を三つの類型に分けておこう。*分配的正義は、負担や便益を分配する際に満たされるべき正義観念である。例えば、Aという人物とBという人物が1:2の割合で働いた場合、AとBは1:2の割合で報酬を得る。このように、分配的正義は、負担に応じてその分配をすることで実現される正義である。(p.97)

*分配的正義
経済学では、資本・労働・原料をどこにどれだけ投下するかについては「配分」、経済活動を通じて所得と富が分け与えられることを「分配」と表記する。本書では、後者の「分配」という語を用いる。なお、アリストテレスの正義論については「配分的正義」が用いされることが多いが、以下では「分配」の正義という意味で「分配的正義」を用いる。(p.97)

7 manolo 2014-01-21 06:42:37 [PC]

2-6.
 矯正的正義は、人間が交渉する際に生じた不正をなくし、元の状態に戻すことで実現させる正義である。例えば、お金を貸したのに返してもらえない場合に、借りた側にお金を返させることで、この正義が実現される。あるいは、盗みを働いた者に、盗んだ不正に見合う罰を科すことで、この正義が実現される。(p.97)

2-7.
 交換的正義は、売買や交換、またはそのための契約の場面ではたらく正義である。例えば、大工の建てる家と靴職人の作る靴とを交換する場面を想定してみよう。家が靴の1000倍の値打ちであるとして、実際に1軒の家と靴1000足が交換されるならば、その交換は正義に適っていることになる。(p.97)

2-8. 【4. 衡平と手続的正義】
 以上の実質的正義に加えて、法によって正義を実現する場面では、衡平及び手続き的正義という正義観念が重要な役割を果たしている。法的ルールは、将来に生じるすべての事例の詳細を予測して定めることができないため、一般的で包括的な内容となっている。従って、個別の事例に適用する際に、不合理な結果が生じる場合がある。衡平(equity)はそうした場合に、法的ルールの適用を制限ないし抑制する役割を果たすのである。(p.97)

2-9.
次に、手続き的正義について。実質的正義は、決定の結果(裁判の判決など)内容の正しさを判断する。それに対して、手続き的正義は、決定に至るまでの手続き(裁判の訴訟手続など)の正しさを判定する。それは、決定の利害関係者のそれぞれの要求に、公正な手続きにのっとって公平な配慮を払うことを要請する、正義観念なのである。(p.97)

8 manolo 2014-02-09 01:59:44 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、5/20/2007(「第2部 III-6 「功利主義の現代的形態(1):ヘア」)、戒能通弘、pp.104-105

3-1. 【1. 功利主義と現代正義論】
 功利主義は、J. ベンサム以降、社会制度設計、政策決定の際の最も有力な原理であった。わが国でも、全体のパイを最大化するという功利主義の発想は、*高度経済成長時代の政策とマッチするものであった。しかしながら、功利主義に内在する欠陥が、J. ロールズの『正義論』(1971年)によって明らかにされて以来、正義論における功利主義の評判はすこぶる悪い。ただ、それにもかかわらず、現代においても、それが有力な社会制度設計、政策決定の原理であることは確かである、本項目では、ヘアなどの現代の功利主義の特徴を概観するとともに、功利主義批判についても検討したい。(p.104)

*高度成長時代には、全体のパイが増え続けていだので、個人への配慮、すなわち、それをどのように配分するかはという問題は、それほど大きな問題とは考えられなかった。しかしながら、近年になって、全体のパイが縮小したことで、配分の問題への関心が増し、功利主義の欠点も強調されるようになった。

3-2. 【2. 功利主義の特徴】
 18世紀から19世紀にかけて活躍した J. ベンサムによって生み出されたとされる功利主義であるが、現代においても、様々な論者による様々な形態の功利主義的立場がある。そこに共通する要素を抽出すると、まず、功利主義においては、ある行為の正不正は、その結果によって判断される(帰結主義)。また、その行為の結果の是非は、その行為の影響を受ける人々の幸福を加算した際に(福利主義、単純加算主義)、それを最大化するか否かによって(最大化主義)判断される。要するに、功利主義においては、ある行為の正しさは、この行為の結果が、関係者一人一人の幸福を加算したものを最大化するかという基準によって判断されるのである。以上が功利主義の共通要素であるが、功利主義の様々な形態は、幸福の捉え方、総量か平均かどちらかを最大化するのか、幸福計算の範囲、判断のレベルといった諸次元における多様性から生じている。(p.104)

9 manolo 2014-02-09 02:02:46 [PC]

3-3.
 まず、幸福とは具体的に何かという問題がある。ベンサムなどは、快楽説を取り、幸福=快楽、苦痛の欠如であると考えていた。ただ、これでは、*本人が望んでいなくとも、例えば、快楽機械につないでしまえば、幸福の最大化が実現してしまう。よって現代においては、本人の選択、あるいは選択の充足を最大化すべきであるという選好充足説が一般的である。他には、幸福計算の範囲の問題もある。ベンサムの功利の原理は、基本的には立法者の原理であり、一つの政治共同体にその適用範囲は限定されていたが、次項目で検討するP.シンガーのように、グローバルな功利主義を提唱してる論者もいる。さらに行為功利主義と規則功利主義の区別も重要である。個々の行為が幸福を最大化しているか否かを検討すべきだとする行為功利主義と、規則を幸福計算の対象とし、個々の行為は、幸福を最大化する規則にのっとってなされるべきとする規則功利主義の二つの形態が存在するのである。(pp.104-105)

*快楽を最大化すればよいのなら、例えば、本人が望んでいなくても、部屋に監禁して、快楽を増加させる薬を与え続ければよいということになってしまう。(p.104)

3-4. 【3. 功利主義に対する批判】
 冒頭に述べたように、功利主義は、正義論においては、批判の対象、あるいは、乗り越えられるべき理論として位置づけられている。上でみた快楽説から選好充足説への流れのように、功利主義の多様性は、数多くの批判に反駁するために生じてきたといえる。ただ、功利主義に対する数多くの*批判の中で、最も説得力をもち、現代の功利主義者を悩ましてきたのが、功利主義が人権の侵害など、我々の道徳的直観に反する結論を容易に正当化するところにあるだろう。よく知られているように、功利主義においては、例えば、10人の人間を救うためなら、1人の無実の人間を処刑することも許容されてしまうのである。(p.105)

*本文で扱った直観に反する帰結を生み出すことの他に、例えば、複数個人の間での幸福の比較は可能なのか、社会全体の幸福の最大化のみに配慮するならば個人の多様性を無視する結果になってしまうのではないかといった批判が功利主義には投げかけられている。(p.105)

10 manolo 2014-02-09 02:04:21 [PC]

3-5.
 こうした問題に対処しようとしているのが、現代を代表する功利主義者であった、ヘアの二層理論であるが、それは上述の行為功利主義と規則功利主義を組み合わせたものである。ヘアによれば、我々は、通常は道徳的直観などの直感的規則に従って行動すればいい。それ故、我々は、例えば、人命も、人権も尊重する。しかしながら、10人の命の尊重と1人の無実の命の尊重といったように、直観的規則同士が対立するとき、我々は、(行為)功利主義的な思考を取らざるをえない。例外的状況において、明確な結論を導くことこそ、功利主義の強みであろう。(p.105)

(Column)「最善の結果となる選択」
 ヘアは、道徳的直観では、社会的な問題は解決できないと以下のように論じる。言及されている「切札」としての権利とは、反功利主義のドゥオーキンの主張を指している。

 「広く議論を呼んだものだが、女性が自分の身体の扱い方を決める権利と、胎児の生存権との葛藤がある。このような葛藤において、どちらの権利も一般的には重要なのかもしれない。問題は、特定の事例ではどちらを優先するべきかである。(中略)このような状況に直面したとき、直観主義者は、どちらの権利が『切札』かをどのようにして決めるのだろうか?異なる人びとは互いに衝突する直観を持つものである。必要とされるのは、それらの権利の基礎にある原則のうちどちらが優先すべきかを決定する批判的思考の方法なのである。直観主義者は、さらに別の直感に訴えるという以上の批判的思考の方法は提供せず、その直感も最初の権威も持ちはしない。このような方法によって達成できるのは、せいぜい、たまたま同じような教育を受けた人々の間で意見の一致をもたらすくらいのものである。

 これとは対照的にわたしが擁護する方法は、論理的な考察にその基礎を持つ。(中略)この方法は、権利に関する原則も含め、直観レベルで用いるための一組の道徳的原則を、その受容効用を根拠として選ぶ。――つまり、問題にされている社会でそれらの原則を一般に受容したときに、公平に考慮された社会の人びとにとって統計で最善となる結果をもたらすように選ぶのである。」(ヘア『道徳的に考えること』勁草書房、231-232頁)(p.105)

11 manolo 2014-02-09 20:06:55 [PC]

『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、4-ミネルヴァ書房、5/20/2007(「第2部 III-7 「功利主義の現代的形態(2):シンガー」)、戒能通弘、pp.104-105

4-1. 【1. シンガーの功利主義】
 本項目では現在最も精力的に活躍している功利主義者、*P. シンガーの功利主義を検討する。シンガーは、彼独特の功利主義の立場から、本書第3部で扱うような現代の諸問題について積極的に発言している。シンガーは、前項目で検討した、直観的レベルと批判的レベルからなるR. ヘアの二層理論を自らの功利主義の基礎理論としている。日常生活では、直観的な規則に従って行為すべきであるが、それらの対立が生じた時は、関係する当事者の選好の充足を最大にするものを選択すべしという戦略である。(p.106)

*P. シンガー(Peter Singer, 1946-)
オーストラリア出身の哲学者。オックスフォード大学を卒業後、モナッシュ大学教授を経て、現在はプリンストン大学教授。シンガーは、オックスフォード大学でヘアに師事したのであるが、理論肌のヘアとは違う実践性に、彼の理論の特徴がある。主著は『実践の倫理[第2版]』(1993年)。

4-2.
 シンガーの特徴は、前項目でも触れたが、功利計算の対象を非常に幅広く設定している点にある。シンガーは自らの功利主義を「利益の平等主義」と規定し、功利計算においては、利益を有する当事者すべてに配慮せねばならず、より大きな利益にはより大きな配慮が必要であると論じており、国境の壁も取り除かれている。なた、利益を有するか否かの基準は、快楽・苦痛を感じる能力(感覚能力)に求めてられているため、人間のみではなく、動物の利益も考慮されることになる。以下においては、人工妊娠中絶、環境問題、南北問題についてのシンガーの見解を見ることで、現代的諸問題に対する功利主義からの独特のアプローチを検討したい。(p.106)

4-3. 【2. 人工妊娠中絶】
 人工妊娠中絶における主要な争点は、女性の権利と胎児の権利をどのように調停するかという点にある。シンガーの功利主義においても、胎児の利益と妊娠中絶を試みる女性の利益とが、批判的レベルにおいて比較されることになる。その際、*快楽、苦痛といった感覚能力を持つ以前の胎児は、配慮されるべき利益を有していないとされ、妊娠中絶を望む女性の利益が、胎児の未発達な利益にまさるとされている。(p.106)

12 manolo 2014-02-09 20:08:11 [PC]

*シンガーは、重度の障害を持つ新生児の積極的安楽死を肯定していたため、ドイツなどにおいては、激しく非難され、『実践の倫理』をテキストにした講義が中止に追い込まれたこともあった。(p.106)

4-4. 【3. 環境問題】
 シンガーにおいて、環境問題は、動物の権利の観点から論じられている。既述の通り、シンガーは、感覚能力をもつ存在の利益も配慮しなくてはならないと論じていた。それ故、動物を殺すことは、人間を殺すことと同じだけ不正なこととなり、さらに、環境を破壊することは、感覚能力を持つ存在である動物の利益を尊重していない行為であるため、不正な行為となる。先進国の人々が無意味に贅沢な生活を送ることによる利益と、それによって自らが生息する自然を破壊されてしまう動物の利益が天秤にかけられ、後者を尊重すべきであると論じられているのである。(pp.106-107)

4-5. 【4. 南北問題】
 シンガーの功利計算においては、国境を越えた貧しい人々の利益も考慮される。一般的には、海外援助は、慈善、チャリティーの問題としてとらえられているが、シンガーの功利主義においては、それは道徳的義務とされている。発展途上国の人々が、死につながるような絶対的な貧困からの逃れることから生じる利益と、先進国の人々の贅沢な暮らしから得る利益が比較され、前者を優先すべきだとシンガーは論じているのである。(p.107)

4-6. 【5. 包括的功利主義】
 全項目で述べたように、功利主義には、様々な形態のものが存在するが、シンガーの功利主義の特徴として、それが対象とする範囲の広さと同様、包括的功利主義の立場に立っていることが挙げられる。すななち、J. ベンサムなどとは違い、諸個人の道徳原理の役割もシンガーの功利の原理は果たしているのである。贅沢な生活を捨て、貧困国を援助するなど、自己の利益を捨てることが要求されるが、利益の普遍化は、シンガーによれば、倫理の最小限の要求なのであった。(p.107)

13 manolo 2014-02-09 20:09:54 [PC]

(Column)「胎児の利益」
 シンガーの立場の独自性は、彼の人工中絶に関する議論において、最も明白に現われている。

 「今や我々の胎児がどのような存在であるか――胎児が現実にどのような特性をもっているか――を明らかにすることができるとともに、胎児の生命と、我々の種の成員ではないが胎児と同じ特性を持っている存在の生命とを同じ尺度で評価することができる。『生命擁護』運動とか『生きる権利[生命への権利]』運動という名称がまちがって与えられた名称であることは今や明らかである。中絶には抗議はするものの、習慣的に鶏や豚や仔牛を食べている人たちは、すべての生命に対して配慮を払っているとはほど遠く、また、当の生命の性質だけに基づいた公平な配慮の尺度を持っているわけでもない。彼らはただ我々自身の種の成員の生命に偏った配慮を示しているにすぎない。理性、自己意識、感知、自律性、快苦など、道徳的に意味のある特性の公平に比較検討してみれば、仔牛や豚やそれらにははるかに劣るとされる鶏が、どの妊娠時期にある胎児よりも進んでいることが分かるだろう。また、妊娠三ヶ月未満の胎児と比較検討してみれば、魚の方が意識の兆候を多く示すだろう。

 (中略)感覚能力が存在するようになるまでは、中絶は内在的価値[手段的価値に対するそれ自体としての価値]をまったく持たない生存を終わらせることで。」ある(シンガー『実践の倫理[新版]』昭和堂、182-183頁)

 シンガーによれば、胎児が自己意識を有するまでは、中絶は可能である。それまでは功利計算における胎児の利益は非常に小さいものなのであった。(p.107)

14 manolo 2014-02-09 20:13:34 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、5/20/2007(「第2部 III-8 「平等主義的リベラリズム:ロールズの正義論」)、濱真一郎、pp.108-109

5-1. 【1. 「公正としての正義」論と正義原理の正当化】
 実質的正義をめぐる規範的議論は、20世紀に入って以降の価値相対主義的禁欲や*イデオロギー批判によって、沈黙を強いられていた。さらに、英米の規範的倫理学においては、功利主義が支配的地位を占めていた。そうした中、J. ロールズが1971年に著した『正義論』は、規範的議論への関心を再燃させると同時に、功利主義にとって代わる実質的正義の可能性を提示した。彼の正義論は、J.=J. ルソー、J. ロック、I. カントらの社会契約説を現代に再構成した内容を持つ。それは自由かつ平等な契約当事者たちが、社会協働するための公正な基盤を確立するために、公正な手続き条件のもとで正義原理を導出、正当化しようと試みる意味で、**「公正としての正義」論として特徴づけられる。(p.108)

*イデオロギー批判
マルクス主義は、正義の観念を、現代の資本主義的経済関係、階級的支配体制の合理化イデオロギーに過ぎないとみる。(p.108)

**彼が提示する正義原則が規制するのは、「社会の基本構造」に、つまり基本的な政治構造や重要な経済的社会制度に限定される。なお正(=正義)と善とが区別され、前者は社会の基本構造に、後者は個人の生き方に対応する。(p.108)

5-2. 
 ロールズは、正義原理を導出・正当化するために、仮説的な原初状態を想定する。この原初状態は、無知のヴェールという目隠しに覆われており、人々は自分の年齢、性、地位、財産、能力などを知らされていないため、自分の地位だけに有利な合意を求めない。または、人々は妬みなどにとらわれず、自己の状況の合理的な改善だけを合理的に求めるように設定されている。そうした状況下で、最も賢明なのは、自分が最も不利な層の人間である場合を想定し、そういった層に救いの手がさしのべられる正義原理に合意することである。すなわち、人々は最悪の場合を回避しようとする合理的な保守的戦略であるマキシンミン・ルールに従って、正義原理を選択することになる。(p.108)

15 manolo 2014-02-09 20:15:21 [PC]

5-3.
 なお、原初状態において合意が得られた正義原理と、人々の直感的な道徳批判との間には、不一致が存在するであろう。この場合、試行錯誤的な自己反省によって、正義原理と道徳判断との相互調整を繰り返しながら、両者が一致する反省的平衡状態が探求されることになる。

*ロールズは後に、「カント的構成主義」を擁護する頃から、カント的な「自由平等な道徳的人格」概念を前提として、原初状態や反省的平衡状態といった観念を用いてなされる正義論の正当化手続きに、修正を加えることになる。(p.108)

5-4.  【2. 正義の二原理】
 ロールズは、以上の正義原理の正当化を手続を経て、正義の二原理を提示する。第一原理:各人は、他の人々の自由と両立する範囲の、できるだけ広範な基本的自由を平等に持つべきである(平等な自由原理)。第二原理:社会的・経済的不平等が認められるのは、次の条件を満たす場合に限られる。①その不平等が、最も不利な状況にある人々の利益の最大化になること(格差原理)。②その不平等が、公正な機会均等という条件のもとで、全員に開かれた地位や職務と結びついたものであること(機会均等原理)。正義の二原理においては、第一原理が第二原理に優先する。さらに、基本的諸事由が、社会・経済的利益の増進のために犠牲にされてはならない(自由の優先ルール)。平等な自由原理(第一原理)は、自由の優先原理を伴って、社会的・経済的利益の増大のために、良心・思想の自由、人身の自由、参政権などの基本的諸な価値や自由を犠牲にする可能性を秘めた*功利主義の欠点が、克服されることになる。(p.109)

*以上のロールズの反功利主義的な立場は、権利基底的(right-based)正義論が台頭するきっかけを作った。この立場は、権利を「政治的切札」とみなすR. ドゥオーキンと、権利を「横からの制約」とみなすR. ノージックに引き継がれる。しかし基本的権利の具体的な内容については、ドゥオーキンはロールズ以上平等主義的な方向に、ノージックはリバタリアニズム的方向に向かう。(p.109)

16 manolo 2014-02-09 20:18:04 [PC]

5-5.
 ロールズの提唱した正義原理のうちで、最も注目を集めたのが格差原理であう。格差原理は、人々の生まれながらの才能は「偶然」の物であるという理由で、個々人の才能などを社会的共同資産と見なす。この理解によって、最も不利な状況にある人々への、国家による基本財の平等な分配に道が開かれる。基本財とは、権利と自由、機会と権力、富や所得、さらに自尊心などである。なお、格差原理は、アメリカで行われた積極的格差是正措置といった、平等主義な社会変革の正当化にも用いることができる。ロールズ自身は、そういった措置について何も語ってない。しかし、かれの格差原理が、彼の正義論以降の平等主義的リベラリズムの先駆をなしたことは間違いない。(p.109)

5-6.
 正義原理の社会的諸制度への適用については、四段階順序の枠組みで説明がなされる。「原初状態」で選択された正義の二原理は、無知のヴェールが少し開かれた「憲法制定会議」において、人々の代表によって、立憲民主制、人権保障制度、法の支配、違憲立法審査制、代表民主主義などの憲法制度へと具体化される(第一原理の適用)。「立法段階」では、機会の公正な均等という条件のもとで、最も不利な立場にいる人々の期待を最大化するための、個別のルールが立法化される(第二原理の適用)。「ルールの適用・遵守段階」では、個別のルールが、裁判官や行政官によって適用され、市民によって遵守される。(p.109)

5-7. 【3. 政治的リベラリズム】
 1980年代以降のロールズは、正義原理を哲学的に基礎づけるのではなく、正義原理を政治的なコンセンサスによって表面的に支えるという、政治リベラリズムの構想を前面に打ち出している。立憲民主主義な政治文化には、互いに対立する宗教的・哲学的・道徳的な包括的諸説が、多元的に存在する。この多元性の事実を重く受け取るならば、正義原理を、特定の包括的教説によって哲学的に基礎づけることはできない。そこで、ロールズは正義原理を、対立する包括的諸教説を擁護する人々の間の、部分的に重なり合うコンセンサスによって支えられる、政治的構想(これは包括的教説と区別される)として教示するのである。(p.109)

17 manolo 2014-02-10 20:49:27 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、4-ミネルヴァ書房、5/20/2007(「第2部 III-7 「功利主義の現代的形態(2):シンガー」)、戒能通弘、pp.104-105(修正版)

4-1. 【1. シンガーの功利主義】
 本項目では、現在最も精力的に活躍している功利主義者、*P. シンガーの功利主義を検討する。シンガーは、彼独特の功利主義の立場から、本書第3部で扱うような現代の諸問題について積極的に発言している。シンガーは、前項目で検討した、直観的レベルと批判的レベルからなるR. ヘアの二層理論を自らの功利主義の基礎理論としている。日常生活では、直観的な規則に従って行為すべきであるが、それらの間に対立が生じた時は、関係する当事者の選好の充足を最大にするものを選択すべしという戦略である。(p.106)

*P. シンガー(Peter Singer, 1946-)
オーストラリア出身の哲学者。オックスフォード大学を卒業後、モナッシュ大学教授を経て、現在は、プリンストン大学教授。シンガーは、オックスフォード大学でヘアに師事したのであるが、理論肌のヘアとは違う実践性に、彼の理論の特徴がある。主著は『実践の倫理[第2版]』(1993年)。

4-2.
 シンガーの特徴は、前項目でも触れたが、功利計算の対象を非常に幅広く設定している点にある。シンガーは、自らの功利主義を「利益の平等主義」と規定し、功利計算においては、利益を有する当事者すべてに配慮せねばならず、より大きな利益にはより大きな配慮が必要であると論じており、国境の壁も取り除かれている。また、利益を有するか否かの基準は、快楽・苦痛を感じる能力(感覚能力)に求められているため、人間のみではなく、動物の利益も考慮されることになる。以下においては、人工妊娠中絶、環境問題、南北問題についてのシンガーの見解を見ることで、現代的諸問題に対する功利主義からの独特のアプローチを検討したい。(p.106)

4-3. 【2. 人工妊娠中絶】
 人工妊娠中絶における主要な争点は、女性の権利と胎児の権利をどのように調停するかという点にある。シンガーの功利主義においても、胎児の利益と妊娠中絶を試みる女性の利益とが、批判的レベルにおいて比較されることになる。その際、*快楽、苦痛といった感覚能力を持つ以前の胎児は、配慮されるべき利益を有していないとされ、妊娠中絶を望む女性の利益が、胎児の未発達な利益にまさるとされている。(p.106)

18 manolo 2014-02-10 20:52:47 [PC]

*シンガーは、重度の障害を持つ新生児の積極的安楽死を肯定していたため、ドイツなどにおいては、激しく非難され、『実践の倫理』をテキストにした講義が中止に追い込まれたこともあった。(p.106)

4-4. 【3. 環境問題】
 シンガーにおいて、環境問題は、動物の権利の観点から論じられている。既述の通り、シンガーは、感覚能力をもつ存在の利益も配慮しなくてはならないと論じていた。それ故、動物を殺すことは、人間を殺すことと同じだけ不正なこととなり、さらに、環境を破壊することは、感覚能力を持つ存在である動物の利益を尊重していない行為であるため、不正な行為となる。先進国の人々が無意味に贅沢な生活を送ることによる利益と、それによって自らが生息する自然を破壊されてしまう動物の利益が天秤にかけられ、後者を尊重すべきであると論じられているのである。(pp.106-107)

4-5. 【4. 南北問題】
 シンガーの功利計算においては、国境を越えた貧しい人々の利益も考慮される。一般的には、海外援助は、慈善、チャリティーの問題として捉えられているが、シンガーの功利主義においては、それは道徳的義務とされている。発展途上国の人々が、死につながるような絶対的な貧困から逃れることから生じる利益と、先進国の人々の贅沢な暮らしから得る利益が比較され、前者を優先すべきだとシンガーは論じているのである。(p.107)

4-6. 【5. 包括的功利主義】
 前項目で述べたように、功利主義には、様々な形態のものが存在するが、シンガーの功利主義の特徴として、それが対象とする範囲の広さと同様、包括的功利主義の立場に立っていることが挙げられる。すななち、J. ベンサムなどとは違い、諸個人の道徳原理の役割もシンガーの功利の原理は果たしているのである。贅沢な生活を捨て、貧困国を援助するなど、自己の利益を捨てることが要求されるが、利益の普遍化は、シンガーによれば、倫理の最小限の要求なのであった。(p.107)

19 manolo 2014-02-10 20:56:18 [PC]

(Column)「胎児の利益」
 シンガーの立場の独自性は、彼の人工中絶に関する議論において、最も明白にあらわれている。

 「今や我々の胎児がどのような存在であるか――胎児が現実にどのような特性を持っているか――を明らかにすることができるとともに、胎児の生命と、我々の種の成員ではないが胎児と同じ特性を持っている存在の生命とを同じ尺度で評価することができる。『生命擁護』運動とか『生きる権利[生命への権利]』運動という名称がまちがって与えられた名称であることは今や明らかである。中絶には抗議はするものの、習慣的に鶏や豚や仔牛を食べている人たちは、すべての生命に対して配慮を払っていると言うにはほど遠く、また、当の生命の性質だけに基づいた公平な配慮の尺度を持っているわけでもない。彼らはただ我々自身の種の成員の生命に偏った配慮を示しているにすぎない。理性、自己意識、感知、自律性、快苦など、道徳的に意味のある特性の公平に比較検討してみれば、仔牛や豚やそれらにははるかに劣るとされる鶏が、どの妊娠時期にある胎児よりも進んでいることが分かるだろう。また、妊娠三ヶ月未満の胎児と比較検討してみれば、魚の方が意識の兆候を多く示すだろう。

 (中略)感覚能力が存在するようになるまでは、中絶は内在的価値[手段的価値に対するそれ自体としての価値]をまったく持たない生存を終わらせることである。」(シンガー『実践の倫理[新版]』昭和堂、182-183頁)

 シンガーによれば、胎児が自己意識を有するまでは、中絶は可能である。それまでは功利計算における胎児の利益は非常に小さいものなのであった。(p.107)

20 manolo 2014-02-10 21:10:50 [PC]

出典:『よくわかる法哲学・法思想』、深田三徳・濱真一郎編著、ミネルヴァ書房、5/20/2007(「第2部 III-8 平等主義的リベラリズム:ロールズの正義論」)、濱真一郎、pp.108-109(修正版)

5-1. 【1. 「公正としての正義」論と正義原理の正当化】
 実質的正義をめぐる規範的議論は、20世紀に入って以降の価値相対主義的禁欲や*イデオロギー批判によって、沈黙を強いられていた。さらに、英米の規範的倫理学においては、功利主義が支配的地位を占めていた。そうした中、J. ロールズが1971年に著した『正義論』は、規範的議論への関心を再燃させると同時に、功利主義にとって代わる実質的正義の可能性を提示した。彼の正義論は、J.=J. ルソー、J. ロック、I. カントらの社会契約説を現代的に再構成した内容を持つ。それは、自由かつ平等な契約当事者たちが社会協働するための公正な基盤を確立するために、公正な手続き条件のもとで正義原理を導出・正当化しようと試みる意味で、**「公正としての正義」論として特徴づけられる。(p.108)

*イデオロギー批判
マルクス主義は、正義の観念を、現存の資本主義的経済関係・階級的支配体制の合理化イデオロギーに過ぎないとみる。(p.108)

**彼が提示する正義原則が規制するのは、「社会の基本構造」に、つまり基本的な政治構造や重要な経済的社会制度に限定される。なお、正(=正義)と善とが区別され、前者は社会の基本構造に、後者は個人の生き方に対応する。(p.108)

5-2. 
 ロールズは、正義原理を導出・正当化するために、仮説的な原初状態を想定する。この原初状態は、無知のヴェールという目隠しに覆われており、人々は自分の年齢、性、地位、財産、能力などを知らされていないため、自分の地位だけに有利な合意を求めない。または、人々は妬みなどにとらわれず、自己の状況の合理的な改善だけを合理的に求めるように設定されている。そうした状況下で、最も賢明なのは、自分が最も不利な層の人間である場合を想定し、そういった層に救いの手がさしのべられる正義原理に合意することである。すなわち、人々は最悪の場合を回避しようとする合理的な保守的戦略であるマキシミン・ルールに従って、正義原理を選択することになる。(p.108)

21 manolo 2014-02-10 21:25:23 [PC]

5-3.
 なお、原初状態において合意が得られた正義原理と、人々の直感的な道徳判断との間には、不一致が存在するであろう。この場合、試行錯誤的な自己反省によって、正義原理と道徳判断との相互調整を繰り返しながら、両者が一致する反省的平衡状態が探求されることになる。(p.108)

*ロールズは後に、「カント的構成主義」を擁護する頃から、カント的な「自由平等な道徳的人格」概念を前提として、原初状態や反省的平衡状態といった観念を用いてなされる正義論の正当化手続きに、修正を加えることになる。(p.108)

5-4.  【2. 正義の二原理】
 ロールズは、以上の正義原理の正当化手続を経て、正義の二原理を提示する。第一原理:各人は、他の人々の自由と両立する範囲の、できるだけ広範な基本的自由を平等にもつべきである(平等な自由原理)。第二原理:社会的・経済的不平等が認められるのは、次の条件を満たす場合に限られる。①その不平等が、最も不利な状況にある人々の利益の最大化になること(格差原理)。②その不平等が、公正な機会均等という条件のもとで、全員に開かれた地位や職務と結びついたものであること(機会均等原理)。正義の二原理においては、第一原理が第二原理に優先する。さらに、基本的諸事由が、社会・経済的利益の増進のために犠牲にされてはならない(自由の優先ルール)。平等な自由原理(第一原理)は、自由の優先原理を伴って、社会的・経済的利益の増大のために、良心・思想の自由、人身の自由、参政権などの基本的な価値や自由を犠牲にする可能性を秘めた*功利主義の欠点が、克服されることになる。(p.109)

*以上のロールズの反功利主義的な立場は、権利基底的(right-based)正義論が台頭するきっかけを作った。この立場は、権利を「政治的切札」とみなす R. ドゥオーキンと、権利を「横からの制約」とみなす R. ノージックに引き継がれる。しかし基本的権利の具体的内容については、ドゥオーキンはロールズ以上平等主義的な方向に、ノージックはリバタリアニズム的方向に向かう。(p.109)

22 manolo 2014-02-10 21:37:14 [PC]

5-5.
 ロールズの提唱した正義原理のうちで、最も注目を集めたのが格差原理である。格差原理は、人々の生まれながらの才能は「偶然」のものであるという理由で、個々人の才能などを社会的共同資産と見なす。この理解によって、最も不利な状況にある人々への、国家による基本財の平等な分配に道が開かれる。基本財とは、権利と自由、機会と権力、富や所得、さらに自尊心などである。なお、格差原理は、アメリカで行われた積極的格差是正措置といった、平等主義な社会変革の正当化にも用いることができる。ロールズ自身は、そういった措置について何も語ってない。しかし、彼の格差原理が、彼の正義論以降の平等主義的リベラリズムの先駆をなしたことは間違いない。(p.109)

5-6.
 正義原理の社会的諸制度への適用については、四段階順序の枠組みで説明がなされる。「原初状態」で選択された正義の二原理は、無知のヴェールが少し開かれた「憲法制定会議」において、人々の代表によって、立憲民主制、人権保障制度、法の支配、違憲立法審査制、代表民主制などの憲法制度へと具体化される(第一原理の適用)。「立法段階」では、機会の公正な均等という条件のもとで、最も不利な立場にいる人々の期待を最大化するための、個別のルールが立法化される(第二原理の適用)。「ルールの適用・遵守段階」では、個別のルールが、裁判官や行政官によって適用され、市民によって遵守される。(p.109)

5-7. 【3. 政治的リベラリズム】
 1980年代以降のロールズは、正義原理を哲学的に基礎づけるのではなく、正義原理を政治的なコンセンサスによって表面的に支えるという、政治リベラリズムの構想を前面に打ち出している。立憲民主主義な政治文化には、互いに対立する宗教的・哲学的・道徳的な包括的諸説が、多元的に存在する。この多元性の事実を重く受け取るならば、正義原理を、特定の包括的教説によって哲学的に基礎づけることはできない。そこで、ロールズは正義原理を、対立する包括的諸教説を擁護する人々の間の、部分的に重なり合うコンセンサスによって支えられる、政治的構想(これは包括的教説と区別される)として提示するのである。(p.109)
Ads by Google
返信投稿フォーム
ニックネーム:
30文字以内
メールアドレス:
* メールアドレスは非表示ですが、迷惑メール等受信する可能性があります。
URL:
* メッセージ: [絵文字入力]

1000文字以内
文字色:
画像: 600 kバイト以内
* 編集・削除パスワード: 英数字で4文字以上8文字以内
* 確認キー:   左の数字を入力してください
* 印の付いた項目は必須です。