2 manolo 2014-02-07 23:21:18 [PC]
1-3. このような絶対王政を正当化するための「主権」という言葉は、次第に頭角を現してきた市民たちが君主に対抗し、自分たちの権利を正当化する上で用いられるようになった。特に*第三の意味での主権が、最高独立という性質をもつ最終的な決定権力を国民が持ち、それを正当化する根拠であるという意味の「国家主権」として結実したのである・この「主権」こそ、日本国憲法の前文の1段、1条に現われているものである。(p.18)
*第三の意味での主権 現在では第一の意味の主権は、「国家の主権」を説明する場合に限られ、例えば日本国憲法前文第3段の「自国の主権を維持し」という場合の「主権」はその用例である。また第二の国家権力そのもの、という意味の主権の用例としては、ポツダム宣言8項「日本国憲法ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル小島ニ局限セラレルヘシ」という場合がある。(p.18)
1-4. 【2. 正当性の根拠か、権力的契機か?:「国民」との範囲との関係】 「国民主権」の権力としての側面に比重をおくのか、それとも正当化根拠としての側面を重視するかで「国民主権」という原理をどのように理解するかについても、見解が分かれる。(p.18)
1-5. 「国民主権」を国家意思の決定権が国民にあるという点を重視する立場(権力的契機説)では、実際の国の政治の最終的な決定を下す「力」が問題となる。この権力を生まれたばかりの子どもも含むすべての人間が行使することは現実的には不可能である。従って、この立場は、「国民」=現実に権力を行使することのできる有権者ととられる見解(有権者主体説)と結びつきやすい。しかしながら、この見解に対しては、全国民を主権を有する国民と有しない国民とに分けられることは民主主義の核心部分に反する、と批判される。また、日本国憲法44条に基づき有権者の資格を法律で定める国会が、主権を有する国民の範囲を決定することになるのは、論理的矛盾であるという批判も妥当する。(pp.18-19)
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