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表現の自由 (コメント数:9)

1 manolo 2013-01-17 19:30:19 [PC]

出典『よくわかる憲法』(2006)工藤達郎編、ミネルヴァ書房

1-1. 憲法21条1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定する。表現の自由は19条で保障された思想や信仰などの内心における精神活動を外部に表明させることを可能にするため、とりわけ重要な権利と解されている。(p.62)

1-2. 表現の自由の保障は、思想や信条の表明に限られず、およそすべての表現行為に及び、伝達手段のいかんを問わない。従って、演説・出版の他、音楽・彫刻・写真・演劇・映画や、テレビ・ラジオ・インターネットなどにも保障が及ぶ。また国旗を燃やす行為などのいわゆる「*象徴的表現」も、一種の思想表明行為として保障される。(p.62)

1-3. *表象的表現(symbolic speech)
一定の行動を通じて思想・信条ないし意見・主張を外部に表現する行為。例えば戦争反対の意を主張するための徴兵カードの焼却行為など。(p.62)

1-4. (トマス・エマソンによれば)表現の自由には、四つの価値があるとされる。①自己実現の価値(表現の自由は個人の自己実現〔self-fulfillment〕にとって不可欠)、②真実発見の価値(真実発見のためのプロセス)、③意思形成への参加の価値(社会の構成員が政策形成に参加するために不可欠)、④安定と変化都の均衡への価値(社会の変化に順応し安定した社会を維持するための「安全弁」)。これらの価値は、互いに補完しあい表現の自由を支えているとされる。(p.63)

1-5. しかし、これらの価値のうち、②の価値と④の価値は、①・③の価値に集約される。そのため、表現の自由は、自己実現の価値を基本に置いた自己統治の価値によって支えられている、と理解されている。(p.63)

1-6. なお、①の価値は、表現の自由の個人的価値とされ、③の価値は、「自己統治の価値(self-gvernment)」と呼ばれ、表現の自由の社会的価値とされている。この二つの価値は、表現の自由の「優越的地位」の根拠となる。(p.63)

1-7. なお、②真実発見の価値は、「思想の自由市場」と呼ばれることがある。これは、各人が自己の意見を自由に表明し、競争することによって、真理に到達することができるというものである。アメリカ合衆国最高裁判所のホームズ裁判官の「真理の最良の判定基準は、市場における競争の中で、自らを容認させる思想の力である」という言葉に代表される。(p.63)

2 manolo 2013-01-17 19:42:29 [PC]

1-8.(「思想の自由市場」に対して)真理は究極において勝利する保障はあるかといった原理的疑念とともに、そもそも自由市場というものは事実上存在しているか、むしろマス・メディアの少数者への集中が一層強まり、論説や報道の画一化傾向が強まっているのが術条ではないかという現実的機能面についての疑念がつきまとっていると批判されている。しかし、自由市場の存在なくして、過誤の修正ないし社会的合意の形成の機会や意見の多様性を確保することは不可能であり、自己実現も自己統治も思想の自由市場を前提条件としていることを看過してはならない。(p.63)

3 manolo 2013-01-17 20:00:28 [PC]

【表現の自由と知る自由、知る権利】
1-9. このように表現の自由は、思想・情報等の発表の自由、すなわち発話者の自由として構成されてきたが、表現は、それを受け止める側があって初めて意味をなす。20世紀には、情報技術が急速に発達し、テレビなどの新たな伝達手段の登場により、大量の情報が多くの人に対して発することが可能になったが、いつどのような内容を流すかについては送り手(マス・メディア)により一方的に決定され、マス・メディアにアクセスできない一般市民は、もっぱら情報の「受けて」としての地位が与えられることになった。そこで、表現の自由を実質化するため、情報の受け手側から再構成する必要が生じた。こうした事情の下、表現の自由は、表現の送り手の自由だけではなく、受け手の自由も含むものとして、「知る自由」に加えて「知る権利」が論じられることになった。このうち、「知る権利」は、政府に対し情報の公開を求める権利(表現の自由の社会権的側面)を意味するが、この権利に裁判規範性を持たせるためには、具体的立法が必要であり、21条は抽象的権利を保障するにとどまると解されている。(p.62)

1-10. 知る自由、知る権利
知る自由とは、自由に様々な意見・知識・情報に接し、これを習得する自由を意味する。他方、知る権利は、自由権的な性格にとどまらず、国家に対し情報の公開を求めるという社会権的な性格も有する。そうすることによって、政治的な意思を形成し、民主的な政治過程への参加を確保するという参政権的な特徴も持つところに特徴がある。知る権利は、国家機能の増大により情報が国家に集中する傾向が顕著になったのに対し、受け手の側から再構成した権利であるが、この知る権利の一内容として、アクセス権がある。これは、情報独占傾向にあるマス・メディアに向けられたものであり、「自己の意見の発表の場を提供することを要求する権利(意見広告や反論記事の掲載、紙面・番組への参加」を意味する。(pp.62-63)

4 manolo 2013-01-19 22:17:02 [PC]

1-11 【営利的表現(営利広告)】
営利的表現(営利広告)とは、利益目的または事業目的で製品またはサービスを広告する表現を指す。この種の表現は、はたして憲法21条の表現の自由による保障を受けるのか、それとも、経済活動の自由として22条や29条による保障を受けるのか。最高裁は、営利広告の禁止の合憲性が問題になったあん摩師等法違反事件において、この問題に正面から触れることなく、公共の福祉により憲法21条に違反しないとした(最大判昭和36年2月15日刑集15巻2号347頁)(p.74)

1-12. *あん摩師等法違反事件
あん摩師、はり師、きゅう師及び柔道整復師法7条は、あんま師等がそのまま業務または施術に関して行う広告のまたは施術に関して行う広告の範囲を、同条1号に定める事項(施術者の氏名・住所・業務の種類など)に限定し、施術者の技能・施術方法または経歴に関する事項にわたる広告を禁止する。きゅうの適応症として、神経痛、リューマチ等の病名を記載した広告ビラを配布した行為が同法違反に問われた事件。(p.74)

1-13. (学説)③説は、営利的表現を同様に表現の自由に含めた上で、政治的表現と同様の保障を与える。これに拠れば、営業広告も表現の自由に含まれる以上、その制約に対しては、一般の言論と同じ厳格審査が必要とされる。(p.74)

1-14. *厳格な基準
自由を制限する法律の立法目的が、極めて重大な(已〔や〕むに已まれぬ)利益をもち、かつ規制手段がその目的達成のために必要不可欠である場合に限って、当該法律を合憲とする判断基準。(p.130)

1-15. ③を採る論者であっても、営利的表現が国民の日常生活や生命・健康・財産に直接影響を与えること、広告内容の真実性を客観的に判断しうること、虚偽広告による国民の権利への侵害を容易に認定しうることなどを理由に、虚偽・誇大広告の制限を許容する。この点、非営利的表現について虚偽・誇大広告を理由とした制限が許されないことに鑑みれば、この限りにおいてこの説も、営業的言論と非営業的言論との間の保障の程度差を認めるものと見る見解がある。(p.75)

5 manolo 2013-01-19 22:41:22 [PC]

1-16. 営利広告規制が合憲か否かにつき、前述のあん摩師等違反事件最高裁判決では、患者を吸引しようとするあまり虚偽誇大に流れ一般大衆を惑わす虞〔おそれ〕や、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来する虞を防止するため「国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するためにやむを得ない措置として」合憲だとした。これに対しておくな半官反対意見は、「単に広告が虚偽誇大に流れる恐れがあるからと言って、真実、正当な広告までも一切禁止することは行き過ぎであ」り、「取締り当局の安易な措置によって、正当な表現の自由を制限するものである」とする。つまり、商業活動の生活を有する広告も表現の自由の保障を受けるのであるから、虚偽・誇大広告ばかりでなく、真実・正当な広告まで禁止することは許されず、当該規定は違憲無効だと説く。また、斎藤裁判官反対意見は、広告禁止の趣旨が「一般大衆を惑わす虞」の防止にあるとしても、「広告したというだけれは足りず、さらに、現実に前記のごとき結果を招来する虞のある程度の虚偽・誇大であることを要する」と指摘する。

1-17. ここでの問題点は、広告規制によって、虚偽・誇大な広告だけではなく、正当な広告までもが規制されてもよいかどうかにある。広告規制が、虚偽・誇大広告を超えて、正当な広告も禁止するものであれば、当該規制に合理的根拠を見出すことは困難である。この点、学説では、広告規制が当該業種への参入規制として機能する虞があることから、薬事法距離制限と同様、厳格な合理性の基準を用いるべきだとする見解がある。この見解によれば、虚偽や誇大広告のみを規制するだけでは目的を達し得ないのかどうかが問われることになろう。(p.75)

1-18. *合理性の基準
法律の立法目的が正当であり、規制手段が当該目的と合理的関連性を有するならば、法律を合憲とする判断基準。(p.131)

6 manolo 2014-01-26 11:21:48 [PC]

出典:『よくわかるメディア法』、鈴木秀美&山田健太編著、ミネルヴァ書房、11/30/2012(「II-1 表現の自由の内容」)、毛利透、pp.8-9

2-1. 【1. 憲法21条の条文構造】
 憲法21条は、「①集会、結社及び原論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」と定める。本節では、この3つの文の内容について簡単に検討した上で、表現の自由の射程についても触れることにする。(p.8)

2-2.
 まず、第1文において「集会、結社」の自由は表現の自由の一内容として規定されているのかどうかが問題となる。これは、文面上は*「及び」という語の解釈問題であるが、実質的にはむろん、集会・結社の自由を表現の一環として理解すべきかどうかという人権体系論上の問題である。比較憲法論的には集会の自由や結社の自由は表現の自由とは別のカテゴリーとして規定する方が通常であり、また表現は古典的類型としては個人が行うことが規定されるのに対し、集会や結社は多数人の行為であるという点で、かなり異なる現象形態であるともいえる。これらのことを重視すると、「集会、結社」の自由は、当然表現の自由と関連するから21条に規定されたのだとはいえ、一応これとは別の行為類型に対する保障だと考えることになる。(p.8)

*「及び」が「集会、結社」と「言論、出版その他一切の表現の自由」とを結んでいるのだとすると、「集会、結社」の自由は表現の自由とは独立に保障されていることになる。「及び」が「集会、結社」と「言論、出版」を結んでおり、「その他一切」とはそれら双方以外という意味だとすると、「集会、結社」の自由は表現の自由の一環として保障されていることになる。(p.8)

**ドイツ基本法、イタリア憲法、スペイン憲法など。アメリカ合衆国は修正1条で言論・出版の自由を並べて平穏に集会する権利を保障している。フランスで現行憲法の一部とみなされている1789年人権宣言には集会・結社の自由規定がないが、これは旧秩序の諸団体に対する敵視によるものであった。ただし同国でも、1971年の憲法院判決によって、結社の自由が憲法上保障されるとの解釈が定着している。(p.8)

7 manolo 2014-01-26 11:23:28 [PC]

2-3.
 これに対し、集会や結社と表現活動との共通性を重視するなら、「集会、結社」の自由も表現の自由の一環として保障されているという理解も可能である。集会や結社においては多数人の間での表現活動が不可欠であり、また多くの集会や結社は表現活動をより効率的かつ大規模に行うために組織される。逆に、個人の行う表現活動も、他者への精神的働きかけを内容としており、それにより他者とのつながりを得ようとする行為であるといえる、実際にも、ある内容の表現活動に説得力を見出す人々が集えば、それは集会や結社となる。だとすると、それらは人々の連帯を求め発現する行為としてひとくくりにすることが、でき、憲法はまさにこの点に着目してそれらの活動を広義の「表現」と性格づけたのではないかと考えることができる。(p.8)

2-4.
 この条文解釈の相違は、通常の株式会社などの表現活動を目的としない結社を21条の保障の範囲に含めるべきかどうかといった問題において異なる帰結を導きうる。ただし、仮に結社一般が保障されるとしても、本条が与える保障の程度は、表現活動目的の結社とそうでない結社で大きく変わってくると考えるべきであろう。(p.8)

2-5.
 第2文は検閲の禁止を定める。第3文は通信の秘密を保障する。表現はある事柄を公に表明する行為であるから、その保障と通信が公にされないことの保障とがどのような関係にあるのか、が問題となる。通信の秘密はむしろ一種のプライバシー保障であると理解する立場もあるところである。しかし、表現の自由は何を人々の前で公表し、何を公表しないかについての決定権も含むものだと解すべきであろう。公表されないかたちで特定人とコミュニケーションをとることの保障は、個々の人の人格形成にとって非常に重要である。公表を望まないならば沈黙せよと要求することは、個人に対して過度な負担を課すことになる。したがって、公表されないコミュニケーション形態を保障することは、表現しない自由の保障とそれを通じた表現の自由の実質的確保のために不可欠といえる。(p.9)

8 manolo 2014-01-26 11:24:46 [PC]

2-6. 【2. 表現の自由の射程】
 表現とは、事実認識や意見を外部に表明する活動である。典型的にはこの伝達は言語をもって行われるが、それだけでなく絵画や写真、映像、音楽など様々な手段が使用され、それらも保障の対象となる。表現といえるかどうか問題となる限界事例として、これらの媒介手段を用いない行為によって何らかのメッセージを伝えようとする。象徴的言論といわれるものがある。アメリカで問題となった有名な事例では、*徴兵カードや国旗を公衆の面前で焼却する行為が表現の自由によって保護されるかが争われた。表現の媒介手段を限定すべきではないから、この場合も、行為者が何らかの主張を伝えるためにその行為を行っており、周囲の多くの人々にそのことが伝わっている限り、表現の自由で保護される行為の範疇に入ると考えるべきであろう。(p.9)

*アメリカ連邦最高裁は、ベトナム反戦運動の一環としての徴兵カード焼却を表現行為と認めたが、徴兵制度のための付随的制約は許されるとし、行為者の処罰を認めた(U.S. v O’Brien, 391 U.S. 367, 1968)。他方、政権批判の一環として行われた国旗焼却への有罪判決は、それが伝えようとするメッセージをまさに抑圧する内容規制だとされ、違憲と判断された(Texas v. Johnson, 491 U.S. 397、1989)。

2-7.
 表現は行為としては情報のアウトプットであるが、それは当然インプットする受け手の存在を前提にしている。情報が公開されていれば、通常特にそれを受領するための自由を主張する必要はない。しかし、刑事施設に収容されている人のように情報へのアクセスが、国家権力によって限定されている場合には、情報摂取の自由を独立に主張する必要が生ずる。最高裁は、よど号ハイジャック記事抹消事件において、21条などから、情報摂取の自由の一環としての「新聞紙、図書等の閲読の自由」への憲法上の保障を導いている。(p.9)

9 manolo 2014-01-27 06:31:33 [PC]

2-8.
 また、情報をアウトプットするためには、アウトプットされるべき情報を収集することが必要になる。特に民主政治にとっての表現の自由の必要性から考えると、国家権力などにとって一方的に発表される情報だけが情報源となるのでは、その機能を果たせない。そこで、取材の自由を表現の一環として保障すべきだとの考えが強くなっている。こうして、今日では憲法21条は情報収集→伝達→受領という情報流通のすべての段階での自由を保障するものだという理解が広まっている。(p.9)
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