材大なれば用を為し難し

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五月七日 (コメント数:1)

1 Ryou 2013-12-16 21:56:56 [URL]

 五月七日、幸村は最後の戦場を天王寺附近と定め、城中諸将全部出でて東軍を誘致して決戦し、一隊をして正面の戦酣なる時迂回して背後を衝かしめんとした。
 幸村茶臼山に陣し、毛利勝永は天王寺南門に備え、大野治長の先鋒銃隊東に在り、左方岡山口は大野治房を配し、迂回すべき遊軍は明石全登が精兵三百を率いた。又秀頼自ら桜門に出馬した。
 東軍は昨日奮戦した藤堂井伊を労わり退かしめ、岡山口の先陣を前田利常、天王寺口のそれを本多忠朝に定む。然るに悍勇なる松平忠直は、自ら先登を企てた。前日、家康に叱られて、カッとなっているのである。「公(忠直)は湯漬飯を命じ近侍真子平馬に膳を持たせ、立ながら数椀喫せられ、食終て公舒々と諸軍に向い、最早皆々満腹すれば討死しても餓鬼道へは堕ちず、死出の山を越して直ちに閻魔の庁に入るべし」と。この辺のいきさつは僕の『忠直卿行状記』の発端である。
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