材大なれば用を為し難し

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奥州平定の当時 (コメント数:1)

1 Ryou 2014-06-06 21:02:54 [URL]

 奥州平定の当時、諸将の賞賜せられた地方は明かなものが少い。『吾妻鏡』には畠山重忠が狭少の葛岡郡(後玉造郡の一部)を与えられ、葛西清重が伊沢・磐井・牡鹿郡以下、数ヵ所を拝領したとあるほかには、千葉介最もこれを拝領すといい、重忠の傍輩皆数ヵ所広博の恩に預るとあるのみで、その地名を明記したものがない。奥羽諸旧家の家伝には、それぞれ先祖がこの戦役に随って軍功あり、某々の地を給せらるなどと書いてはあるが、中にはその人名すら『吾妻鏡』の出征諸将の中に見えぬものがあるくらいで、他になんら参照すべき史料もなく、どこまで果して信じてよいか、明かでないものがはなはだ多い。
 南部家の祖と称する南部次郎光行の名は、現に鎌倉出立御供に候する輩という中にもあって、この役に従事したことは明白であるが、この時彼が糠部五郡を賜わったといい、あるいは九戸・閉伊・鹿角・津軽・糠部の五郡を給せられたというに至っては、ただに事実に合わぬものあるのみならず、一も他に傍証すべきもののないのを憾みとする。
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