材大なれば用を為し難し

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僧侶及び学者の理想 (コメント数:1)

1 Ryou 2013-12-01 12:19:08 [URL]

 一体僧侶及び学者の理想として、自分がかくなりたいということを希望して居るのは何であるかといえば、大抵はかの閉ざされた国において名声を高く広く挙げたいというのと、財産を沢山に得たいというのが目的であって、衆生済度のために仏教を修行するのではない。自分が苦しくないように、金を沢山得られるように、この世も安楽に未来も安楽に行けるようにというのはまだまだ余程よい方なので、未来はどうでもその学問を利用して名を社会に挙げ、そして沢山の財を得て安楽に暮らせばよいというのが、千人の内九百九十九人までその傾きがあるです。
 こういう風になって来たのはどういうものかというに、つまりかの国では僧侶及び学者の価値を判断するには、その学識とか徳行とかあるいは世人をいかに利益して居るかという点から判断するのでなく、その財産の多い寡いによってその人の値打が極ります。それゆえ千両の財産ある学者は千両だけの値打しかない。たといその人が十万両持って居る〔無〕学者よりも尊い智識であっても、その十万両持って居る無学者の方が、かえって社会より称讃を受けて居る。だから金なしではなんの所詮もない。ただ金これ万事を処するといったようなところに眼を着けて、金を貯える事に非常に奔走尽力して居る。
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