材大なれば用を為し難し

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此の一戦は (コメント数:1)

1 Ryou 2013-12-16 21:57:53 [URL]

 此の一戦は「此方よりひたもの無理に戦を掛候処、及一戦戦数刻相支候て、半分は味方、半分は大阪方勝にて候ひつれ共、此方の御人数、数多有之に付き御勝に成る」と『細川家記』にあるから、大阪方も必死の戦いをしたことが分る。
「大阪衆手柄之儀中々不及申候。今度之御勝に罷成候へども大御所様御運つよきにて、御勝に罷成候」と『薩藩奮記』に出ている。
 斯くて、大阪方は明石全登、御宿正友、仙石宗也の諸部将相次いで戦死し、城内では内通者本丸に火をかけ、城内狼狽を極め、遂に松平忠直第一に城に入り斬獲二万余に上る。
「路には御馬印捨候を伊藤武蔵と云ふ広島浪人跡より来り捨たる御馬印を取揚て、唐迄聞えたる御馬印を捨置、落行段大阪数万の軍勢に勇士一人も無し、伊藤武蔵、御馬印を揚帰るとて御馬印を指上げ城に入る」と『大阪御陣覚書』にあるが、落城の悲惨さが分る。
 大野治長は千姫を脱出せしめて、秀頼母子の助命を請うたが、その効なく、東軍は秀頼の籠る山里曲輪を目がけて砲撃したから、翌五月八日、遂に秀頼淀君と共に自刃し、治長、速水守久、毛利勝永、大蔵卿等之に殉じた。因に、『土御門泰重卿記』に依れば京の御所では公卿衆が清凉殿の屋根から大阪城の火の手を見物して居たと云う。
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