材大なれば用を為し難し

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是より先 (コメント数:1)

1 Ryou 2014-01-07 20:40:17 [URL]

 是より先、氏族制度の頽廃の結果として、大氏族の長が、広大なる土地人民を私有し、権勢を専らにせんとするものが生じてゐた。が、その内、大伴氏、物部氏は失脚して、蘇我氏のみが、強大なる勢力を擁してゐた。蘇我馬子は、太子と共に仏教の樹立に当つたのであるが、太子もその強大を憎み給うたが、これを退くるに至らずして、世を終り給うた。
 馬子は、太子の御英明の前に、雌伏してゐる外なかつたが、太子薨去後、その野心を現はし、不臣の振舞多く、その子蝦夷、孫入鹿に至つては、馬子以上に専横を極め、当然皇位に即き給ふべき御方である聖徳太子の御子たる山背大兄王を斥け奉り、入鹿は遂に大兄王の御即位は、蘇我氏の滅亡を意味するものと考へ、皇極天皇の二年大兄王を襲ひ奉つた。
 王は、一度は生駒山に逃れ給うたが、「自分は今、兵を起して入鹿を討つならば勝てるだらうが、一身のため、人民を傷つけたくない。わが身は入鹿にやらう」と仰せられ、一族の方々と御一緒に、御自殺になつた。が、蘇我氏のかゝる不臣が許されるわけはなく、御英邁なる中大兄皇子を中心とする中臣鎌子(後の藤原鎌足)、蘇我倉山田石川麻呂、佐伯子麻呂等の活躍に依つて、皇極天皇の四年六月、入鹿は大極殿に於て、誅戮を受けたのである。
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