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材大なれば用を為し難し

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スレッド名コメント作成者最終投稿
Tシャツ販売で資金不足を補う金メダリストの凱旋パレード1 Ryou 2014-05-16 11:04:18 Ryou
それでも大晦日の晩は1 Ryou 2014-05-06 18:55:24 Ryou
旅の眼に映じた外国の正月を1 Ryou 2014-05-06 18:54:56 Ryou
私が巴里で観たイプセン劇1 Ryou 2014-05-06 18:54:37 Ryou
ピトエフ一座の「幽霊」1 Ryou 2014-05-06 18:54:21 Ryou
一体にイプセンの戯曲は1 Ryou 2014-05-06 18:54:02 Ryou
デプレ夫人は1 Ryou 2014-05-06 18:53:44 Ryou
私は夙に近代劇の研究は1 Ryou 2014-05-06 18:53:30 Ryou
音楽であるが1 Ryou 2014-05-06 18:53:14 Ryou
久保田さんは1 Ryou 2014-05-06 18:52:57 Ryou
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1 Ryou 2014-05-16 11:04:18 [URL]

ソチオリンピックで日本人で唯一の金メダルを獲ったフィギュアスケートの羽生結弦の凱旋パレードを4月26日に羽生の地元仙台で行う予定です。しかし凱旋パレードに必要な資金が不足しているというのです。
 なぜ資金不足なのかというと、オリンピックのメダリストの凱旋パレードを行うには制約があって、協賛金を提供できるのがオリンピックの正式スポンサーに限定されるので、地元やその他の企業がスポンサーになり資金提供ができないのです。
 そこで資金不足を補おうと考えたのが、羽生の演技時のシルエットを印刷したTシャツを販売して、その売上金を資金に充てようというのです。Tシャツは1枚2千円で2万枚販売され、完売すると2400万円の資金が増額され、不足分が補えます。
 地元の金メダリストを盛大に祝いたいというのに、こんな制約があるために資金集めに苦労しているようです。Tシャツの売れ行きも好調で、凱旋パレードが行われた際には、沿道でこのTシャツを着て声援を送る人も多く見かけることでしょう。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:55:24 [URL]

 それでも大晦日の晩は、レヴエイヨンといつて、みんな大概レストランか何かに出かけ、知人等と食事を供にし、踊つたり、唄つたりで、夜を更かす、つまりそれが外国では、新年を迎へる気持の唯一の現はれと云へよう。その騒ぎも、夜が明ける頃には、何処もすつかり静まつて、街上にも屋内にも、平常と何の変りもない一日が来る。起きて、食堂にでも出て来ると、流石、下宿の女主人が、「お早う」の代りに「お目出度う」と云つてくれる。しかし、それもほんの軽い挨拶で、別に、その言葉から正月を感じさせてくれるやうなものではない。
 カトリック教の国に、「王様の日」といふのがある。これは偶然、日本の「松の内」にあるお祭り日であつて、向ふの人達には、新年とは関りのないものであるが、日本人である私などには、時が時なので、ちよつとその日はお正月らしい気分を味はへるものだつた。それは、聖書にある通り、基督が生れた時、東方の国の博士達が星の占ひで、ベツレヘムに偉い人が生れたと云つたのにより、東方の国の王が、その誕生を祝ひに来た、といふその日を祝ふのである。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:54:56 [URL]

 旅の眼に映じた外国の正月をといふお需めで、一昔前の記憶から探してみたが、其処にはほとんど、「お正月」といふものがない。我々の頭に幼少の頃から浸み込んでゐるお正月、新年、といふものとは、およそかけ離れたものであつた。古い一年が逝き、新しい年が来るといふ事を、我々の祖先が何故こんなに重大事とし華やかな儀式を以つて迎へる様になつたか、その穿鑿は別として、欧米人は、実にあつさりとこれを扱つてゐる。私は丁度四回の新年を巴里で迎へたわけであるが、仏蘭西人の下宿に住み、故国からの留学生とか、大使館関係の人達との交際なども少なかつたので、猶更、その正月はひつそりしたものであつた。最初の年はそれでも、「あ、今時分は弟妹達、雑煮でも祝つてゐるかな」とか、母の得意の煎田作で飯を食べてみたいとか思つたりしたものであるが、次の年からは、そんな感傷も薄らぎ、結句、煩雑な儀礼に縛られないで済む身軽さの気持に、のびのびと己れを浸してゐた。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:54:37 [URL]

 私が巴里で観たイプセン劇はたしかそれだけだつたと思ふが、よく考へてみると、デプレ夫人や、フェロオディイのやうな、或はまたルュニュ・ボオのやうな、特別の役者でさへも、仏蘭西人は結局、諾威人に扮することが出来ないのではないかと思つた。それはジェミエが日本人に扮するよりも難事ではないかと思はれる。或はまたそれ以上にスカンヂナヴィヤの劇を、仏蘭西語で演じることが無理なのではあるまいかとさへ思はれた。
 さう云へば思ひ出すが、ポオレット・パックスといふサラ・ベルナアル座の女優を、一度ピトエフが「海の夫人」に見立てたことがあつた。その時に私はつくづく民族の距りといふものを感じた。同じ白人種間に於てでさへ、翻訳劇演出の困難は想像以上である。イプセンの戯曲を読んだ後、これを巴里の舞台の上で観て、実際私の得たところは、此の感想以外の多くのものではなかつた。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:54:21 [URL]

 ピトエフ一座の「幽霊」を観たのはそれから後である。ルメエトルが以て不可解なりとした「北方の女」は、私には存外うなづけるのであるが、此の芝居は役者が下手で少々観づらかつた。ピトエフのオスワルドはただ陰惨な顔をしてゐるだけだつた。尤も此の戯曲などは、所謂喜劇の部類にははひらないやうである。
 その次に、コラ・ラパルスリー夫人の経営に移つたモガドオル座で、製作劇場の俳優を中心とするペエア・ギュントを観た。
 衣裳などはわざわざ諾威から取り寄せるといふほどの凝り方だつたが、その割にデュボアの舞台装置は平凡で、期待を裏切られた。ただ、オーセに扮したのは、かのデプレ夫人であり、ソルヴエイヂが、クリスチヤアヌ・ロオレエといふ無類の美少女であつたことは忘れ難く、ペエア役のアンリ・ロオジェも一と通りあの大役をこなしてゐたやうに思ふ。私は、イプセンの戯曲を読み、此のペエア・ギュントの第三幕目、オーセの死に至つて、彼が最も親しむべき戯曲家であることを知つたのである。私は此の場面が好きだ。古今東西を通じ、私の知つてゐる戯曲といふ戯曲の中で一番どの場面に感心したかと問はれれば、私は躊躇することなく、「此の場面」だと答へるだらう。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:54:02 [URL]

 一体にイプセンの戯曲は、多く悲劇的外貌を備へた喜劇であり、その喜劇的要素は、主要人物を特種な性格なるが故に英雄化する常識的解釈によつて完全に葬り去られる場合が多い。
 私がコメディイ・フランセエズで観た「人民の敵」も、その意味で、最も此の戯曲の喜劇的特質を活かしてゐたと記憶する。主人公たるストックマンには、私の好きなフェロオディイが扮した。これはまたお誂へ向きな温泉場医者である。頭が大きくて、唇が厚くて、肩が怒つて、膝が曲つてゐて、お喋べりで、感情家で、無鉄砲で、一国者で……そして、それはイプセン自身なのである。自分を主人公にして悲劇を書くほどおめでたい作者は、西洋にはそんなにゐないやうである。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:53:44 [URL]

 デプレ夫人は、これこそ女優には珍しい質朴な顔立で、その上、これはまた女とも思へぬほどガッシリしたからだつきの……やはり、女である。名優が常にもつてゐるあの深い眼ざしが、彼女の特殊な才能を物語つてはゐるがどう見ても「小鳥」の柄ではない。
 それがどうです、夫ヘルメルの傍に心持首をかしげて立つた彼女は、正しく「彼の人形」であり、子供と戯れながら机の下から首をつき出した彼女は、たとへその睫に一滴の涙が光つてゐなくつても、それはたしかに「悩みが美しくした女」を描き出してゐたのです。
 私は此の芝居を観て、多くの批評家が云ふところの「目覚めたる婦人」について、何等問題とすべきものを発見しなかつたかはりに、却つて、此処にこそ「永遠の女性」そのものの姿を見た。これは皮肉でもなんでもなく此の劇を佛蘭西流に演出すれば、さうするのが自然のやうに思はれた。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:53:30 [URL]

 私は夙に近代劇の研究はイプセンから始めなければならぬと教えられてゐた。然るに私は、日本を離れるまで、二篇の邦訳を手にしただけである。巴里に来て、近所の貸本屋から、プロゾオルといふ人の仏訳を借りて来て、毎日読み耽つた。あれでたしかイプセンの作品は全部読んだ筈である。
 これから実際の舞台を観なければならぬ。それには幸ひルュニェ・ボオのメエゾン・ド・ルウヴル(創作の家)がある。スカンヂナヴイヤの戯曲を殆ど専門にと云つてもいいぐらゐ演つてゐる劇場である、私は先づそこで「人形の家」を観た。
 スュザンヌ・デプレ夫人のノラは私の空想とは似てもつかないものだつた。私の空想とはどんなものかといふと、それは、ただ戯曲を読んだ時の印象からのみ得た空想ではなくて、たしか松井須磨子の扮したノラの記憶がその土台になつてゐたのである。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:53:14 [URL]

 音楽であるが、作中の「校歌」の作曲は、早坂文雄さんにといふことにきまつた。紹介するまでもない人であるが、特に、この校歌は「喜劇の中で使はれる」架空の学校の校歌で、諷刺の味を利かせてほしいといふのが作者のひそかな註文である。そんな勝手な芸当が作曲としてできるかどうか、私はたゞ、早坂さんの意味深長な微笑に期待をかけるばかりである。
 配役は俳優陣の移動も手つだひ、最初の作者の考へと多少変つたのは当然である。
 田村秋子さんがせつかく名誉座員になつてゐるのに、今度は役がなくて出られないのは残念である。機会があつたら、私は秋子さんのためにも、面白い人物を書いてみたいと思つてゐる。
 
1 Ryou 2014-05-06 18:52:57 [URL]

 久保田さんは、作家としては、ある特殊な好みを強く出す作家であるが、批評家乃至演出家としては、それが芝居といふものに対する厳しく、確かな勘になつてこそをれ、決して狭い見解や趣味に閉じこもつてはゐないのである。久保田さんの劇芸術の根柢には、東西演劇の本質と伝統とが、誰よりも消化吸収されてゐるやうに思はれる。
 私の「速水女塾」は、幸ひ、久保田さんの演出といふことになつたが、実をいふと、私は、最善の結果が得られるだらうといふ安心が一方にあると同時に、相当痛いところを突かれ、場合によつて、荒療治を受けるだらうといふ覚悟をしている。「こいつはどうにもならん代物だ」と言はれたら、私はまた、勇気を出して、次の作を見てもらふつもりである。
 装置は長いおなじみの伊藤熹朔さんである。いつでも文句を言ひやうのない装置をしてくれる人、こんなに芝居に於ける装置の役割をちやんと心得、こんなにつゝましく輝いている存在はほかに例がない。
 
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