材大なれば用を為し難し

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身振りはどうかといふに (コメント数:1)

1 Ryou 2014-02-01 17:53:13 [URL]

「身振りはどうかといふに、これは自ら言葉に従ふものである。」
「身振りや態度に変化を与へようとする幼稚な苦心ほど、まことに演劇の言葉から遠いものはない。」
「演劇の所作は時の法則に従ひ、その真実が表現されるのは継起のうちにおいてであつて、個々の部分においてではない。」
「拙劣な演劇に於いては、窮極に於ける道徳の勝利によつて、文体の欠如が救はれてゐるといふことさへできよう。」
 大分長くなつたから、これくらゐで引用は止めるが、要するに、当代の二大頭脳、ヴァレリイとアランの断言を信じるとしたならば、われわれは演劇の本質を、「舞台の制約によつて高められた生命ある幻象の発展的な律動」と解して差支なからう。
 さう考へて来ると、これまで舞台で観、活字として読んだいろいろな戯曲が顔に浮んで来る。それらの魅力――文学的にしろ、舞台的にしろ――の悉く、「劇的」と名づくべき魅力の一切は、時間と空間の「約束」に支配されるところから生れてゐることがわかる。作者の努力は、ある障壁にぶつかつて、想像の範囲を拡大し、そこに捉へられた幻象は異常な閃きと高さを示す。また、その感覚は、ある限られた境界の中で、鋭く顫へ、ぴんと張り切つてゐることを感じさせる。殊に、突発的に盛り上る「生彩に富んだ場面」は、殆んど常に、作者の思考から自然に生れたものではなく、実に、作者自身が、舞台にある「変化」を与へる必要に迫られ、即ち、「制約」の命ずるところに従つて、なんとかその瞬間の「調子」を決定しなければならぬ羽目に陥つた場合に、堆積の奥深く眠つてゐた「経験」の一つが、救ひの如く現はれた、その結果なのである。この幻象を捉へ得るか得ないか、しかも、かくの如き「経験」が蓄へられてゐるかどうかは、一に、その作者の稟質と才能によるのであらう。が、「束縛なき文体」に於ては、決して浮び出ない幻象が、「制約」の中に進展する律動に促されて、「奇蹟的に」発見されるといふ事実は、韻文の「言葉」に於ける如く、戯曲に於ても、亦常に真理である。
 俳優の演技、演出者の工夫も亦、この法則を破ることはできない。(一九三五・三)
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