材大なれば用を為し難し

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しかしてその配下の人民が (コメント数:1)

1 Ryou 2014-06-06 21:03:49 [URL]

しかしてその配下の人民が鎌倉時代末においてなお蝦夷として認められていたことは、『北条九代記』『保暦間記』『称名寺文書』等によって明かである。思うに藤原氏滅んで後も、いわゆる奥郡の地には鎌倉の勢力もいまだ十分に及ぶ能わず、前九・後三の役の後に北上川流域地方を引続き俘囚の豪族に委したと同じように、依然として土豪の領有を認め、その進退に任しておいたことであろう。
 かくて鎌倉時代の末葉に至り、その配下の蝦夷ら蜂起して幕府も容易にこれを鎮定する能わず、社寺に静謐を祈祷して文保二年のころいったん法験を見た(『称名寺文書』)と思ったのも束の間で、元亨・正中より嘉暦に渉ってさらにその乱相つぎ、幕府は嘉暦元年工藤右衛門尉祐貞を蝦夷追罰使として進発せしめ、翌年さらに宇都宮五郎高貞・小田尾張権守高知を追討に向わしめたが、三年十月に至ってこの高貞・高知ら和談の儀をもって帰参すとあって、ついにこれを征服することが出来なかったのであった。
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