民主主義
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1 manolo 2016-03-14 00:24:33 [画像] [PC]

出典:『現代政治理論』、川崎修・杉田敦[編]、「第6章 デモクラシー 歴史と現実」、杉田敦、有斐閣アルマ、pp.137〜165

1-1. 【1. デモクラシー論の展開 ―古代から現代へ―】
〈デモクラシーとは何か〉
 デモクラシー(democracy:民主政治)は、政治について論じる際に多く用いられる概念の一つであり、現代社会ではおおむね肯定的にとらえられている。しかし、実際には、政治思想史上、デモクラシーほど警戒されたものも少ない。警戒する人々と、それを渇望する人々との間で、デモクラシーは常に論争の的であり続けたのである。そしてデモクラシーをめぐる今日のさまざまな論争・対立は、そうした従来の議論とつながっている。そこで、古代ギリシャにおける発祥以来、20世紀半ばに至るまで、デモクラシーについての人々の考え方、とらえ方がどう変化してきたかを振り返りながら、まずはデモクラシー概念の複雑さを明らかにしたい。(p.138)

22 manolo 2016-03-14 01:15:56 [PC]

1-51.
 このような考え方のもとに、アメリカの政治学者のW. コノリーは、デモクラシーを「アゴーンのデモクラシー」として再定義しようとした。すなわち、デモクラシーとは集合的な意思決定の場というよりも、むしろ、様々な異なる考え方に出会う場とみなされるべきである。人々は、自分の利害関係を通すためにデモクラシーに参加するのでない。むしろ、自分とは異なる立場の人々や、異なる考えを持つ人びと(他者)と接することで、自分の考えを相対化し、自分の考えを変えることこそが、目的である、というのである。(p.160)

1-52.
 デモクラシーにおける一元性の側面、すなわち集合的決定を重視する論者にとっては、これはデモクラシー概念の誤用に近いものとして映るであろう。彼らからすれば、コノリーがいっていることは、ゴネ得の奨励、決定の先延ばしにすぎない。シュミット主義者にとっても、アゴーンのデモクラシーとは、デモクラシーを、議会主義の堕落形態としての「永遠の対話」に近づけるものであって、論外ということになろう。(p.160)

1-53.
 しかしながら、デモクラシーがデモクラシーであるために必須の条件とは何であろうか。集合的な決定をすることであろうか。それなら、他の決定法であってもかまわないはずである。むしろ、(まさにシュミットが強調したように)独裁のほうがはるかに効率的なやり方であろう。デモクラシーにとって最も重要なのは、一人ひとりの意見を聞くことであると考えることもできる。しかも、これは文字どおりの意味で解されるべきである。わざわざ意見を聞かなくてもわかっているとか、一部の人間にだけ尋ねれば、それ以上は必要ないといった考え方は、私たちをデモクラシーとは無縁なところに連れていくであろう。いろいろな意見に接すること、とりわけ思いもよらない意見に対して好奇心をもつことを大切にするというアゴーンのデモクラシー論は、その意味で、思いのほかデモクラシーの基本を押さえたものなのである。以上のように、アゴーンのデモクラシー論に至って、多元性の志向が代表制批判と結びついたことは注目に値する。(pp.160-161)

23 manolo 2016-03-14 01:20:00 [PC]

1-54.〈ネーションとモデクラシー〉
 デモクラシーの単位は、元来は古代ギリシャのポリス(都市国家)であり、その規模は数万人程度であった。その後の長い空白を経て、デモクラシーが復活したときには政治の基本単位はネーション(民族)になっており、その規模は少なくとも数百万人となった。(p.161)

1-55.
 同質的なネーションという集団だけが実効性のある政治機構(ステート)をもちうるというネーション・ステート(国民国家)の観念には、第7章でもふれるが、ネーションを単位とするナショナル・デモクラシーは、近代のデモクラシー論において、常に前提とされてきた。すなわち、デモクラシーを論じた理論家のほとんどは、彼らがネーションという単位の政治について論じていることを、何ら疑わなかったのである。(p.161)

1-56.
 そこで大きな役割を果たしたのが、いうまでもなく主権という観念である。主権とは、最高の権力という意味であり、物事を決定する最終的な点の所在をさす。主権は対内的にも、対外的にも絶対のものとされる。ナショナル・デモクラシーを前提とする議論では、最終的な決定権力はネーションを構成する人々全体にある(人民主権論)。これは、国王に主権があるという君主主権論からの大きな飛躍によってもたらされたが、同時に、そこでは、主権論自体は継承されていることに注意しなければならない。すなわち、デモクラシーを論じる時にも、ネーション以外のさまざまな単位は、あまり重視されることがない。そうした単位のデモクラシーも理論上不可能ではないが、いずれにしても、ナショナル・デモクラシーにおける決定に従属するものとされるからである。(pp.161-162)

1-57.
 こうしてネーションより小さな単位である自治体などのデモクラシーは、ナショナル・デモクラシーによる決定の範囲内で存在を許されるものとされた。ネーションより大きなデモクラシーの単位、すなわち複数の国を含む地域的(リージョナル)な単位は、長く疑いをもってみられることになった。まして、企業やさまざまな集団内のデモクラシーなどは、本来的に不可能であるか、仮に可能であっても非本質的なものとされた。(p.162)

24 manolo 2016-03-14 01:21:49 [PC]

1-58.
 しかし、この20年ほどの間に、事態は大きく変わることになる。ネーションが同質性を有するという考え方は、単なる擬制であることが明るみに出された。より正確に言えば、それが擬制であることは以前から明らかなのであるが、それでもかつては、そうした擬制をあえて選択することに解放的な意義が見出されていたのである。ところが、ネーション内の平準化が進む中で、そうした同質性の前提が、むしろ抑圧的な作用をもつことが強く意識される。つまり、実際にはどんなネーションの中にも差異を見出すことができるし、そうした差異を尊重していくことが、とりわけ少数派集団(マイノリティ)にとって重要であると考えられるようになったのである。(pp.162〜164)

1-59.
 さらに、ネーションをより大きな単位のデモクラシーも、現実にヨーロッパ連合などで実現されつつある。この延長上に、世界大のデモクラシーの可能性を考えることも、まったくの絵空事といえなくなってきた。(p.164)

1-60.
 それに加えて、例えば1980年代以降のダールが述べたように企業や利益集団の中でも一定の民主化を進めることが、グローバル化した経済の中で多国籍企業が暴走しないようにするために必要であるという考え方でもある。(p.164)

1-61.
 こうして、今ではデモクラシーは重層的なものとなりつつある。さまざまな単位のデモクラシーがあり、誰もが複数のデモクラシーの構成員であるということが珍しくなくなってきた。このような事態は、現代的な問題を解決する上で、一つの可能性を開くものである。なぜなら、例えば環境汚染のような問題は、一国の国境線の内部にとどまるものではないので、地域的な話し合いによって解決するほうがよいからである。(p.161)

25 manolo 2016-03-14 01:22:51 [PC]

1-62.
 そこで問題になるのは、さまざまなデモクラシーの間で、意見の対立が生じた場合に、どのように調整するかである。この問題については、「補完性」(サブシディアリティ)という考え方がある。すなわち、ある単位がまずは責任を持ち、その単位がどうしても不可能な事柄についてだけ、他の単位が行うというものである。しかし、それでは第一義的に責任を有するのはネーションなのか、それとも他の単位なのか、という肝心の点で、補完性論者の意見も大きく分かれているというのが実情である。(p.164)

1-63.
 ナショナル・デモクラシーの呪縛から自由になって、いろいろかデモクラシーの可能性について考えるようになってみると、あらためて次の事実を意識せざるをえない。それは、デモクラシーの単位が常に恣意的であるということである。デモクラシーが全員による決定を意味するとしても、その全員とはどの範囲のことか、デモクラシーのもとでは、誰も排除さえないというのが建前であるが、それではなぜ、ある範囲内の人々からは意見を聞くが、その外部の人々から聞かないのか。これは答えようがない問題である。どんなデモクラシーであっても、その単位そのものをデモクラシーによって決めるということは不可能である。なぜなら、誰と誰が市民権を持つかが明らかでないかぎりデモクラシーを始めることはできないので、市民権をデモクラシーによって決定することはできない。結局のところ、デモクラシーの単位は、単に事実上決まるのである。(pp.164-165)

1-64.
 このことを踏まえると、重層的なデモクラシー間の関係が、一義的に決定できないことは驚くにあたらないだろう。それは、理論的というよりは実践的に処理されるほかない側面を持つのである。(p.165)


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