Wikipedia: 新渡戸稲造 (抜粋・編集)
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1 (最終更新 2015年10月4日(日) 2015-10-23 03:09:10 [画像]  [編集/削除]

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人物情報
 生誕 新渡戸稲之助 1862年9月1日 陸奥国岩手郡盛岡
 死没 1933年10月15日(満71歳没)
 国籍 日本
 出身校 札幌農学校 帝国大学退学
 配偶者 メアリー・エルキントン(新渡戸万里子)
 両親 父:新渡戸十次郎
 子供 遠益、こと
学問
 研究分野 農学
 主な業績 『武士道』の執筆
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■ 新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の教育者・思想家。 農業経済学・農学の研究も行っていた。

 国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。 日本銀行券の D五千円券の肖像としても知られる。 東京女子大学初代学長。 東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

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■ 生涯
 陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれる。 幼名は稲之助。 新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。 やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。 祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り新渡戸家の家計を大いに助けた。


■ 盛岡から上京
 作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいる叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。 この時、名を稲造と改めた。

 東京に着くと、稲造は叔父の洋服店を訪ね、養子となって太田稲造と名のるようになった。 まず英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主 南部利恭が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。 この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。 それは、ある日の冬に自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われるほどであったという。 それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。

 13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。 ここで稲造は佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。 この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて農学の勉強に勤しむことを決意する。

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■ 札幌農学校へ

  (画像: 内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0#/media/File:Kanzo_Uchimura_Kingo_Miyabe_Inazo_Nitobe.jpg )

 札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する。 農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。 在学中、札幌丘珠事件が発生し、解剖担当者にあたったという。 稲造は祖父 達同様、かなり熱い硬骨漢であった。 ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。 その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。 他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられた。

 クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。 二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。 農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していた メソジスト系の宣教師 メリマン・ハリスから洗礼を受けた。 クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。 この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。 学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。 聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。 その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。

この頃から稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。 やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。 数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。 それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。 その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。 その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。 この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となったという。

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■ 学の道へ

  (画像: 谷崎潤一郎と新渡戸稲造 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0#/media/File:Jun%27ichir%C5%8D_Tanizaki_%26_Inaz%C5%8D_Nitobe_1908.jpg )

 農学校卒業後、級友達とともに道庁に奉職し、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するためにあちらこちらの農村を駆け巡るが、学問を志して帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。 しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。 1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。 この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。 クェーカーたちとの親交を通して後に妻となる メアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。

 その後 札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。 ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学 ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。 この間、『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。 帰途、アメリカで メアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た 。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。

この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。 日本語訳の出版は日露戦争後の 1908年のことであった。 新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている

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 台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より 1899年(明治32年)から 2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。 赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした 。 民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した

 その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。 1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。 同年、牧野伸顕 文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。 1911〜1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。 帰国後、健康を害したこともあって、1913年に 一高校長を辞職。 東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。 その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。

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■「郷土会」の発足
 1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。 自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。 メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。


■ 国際連盟事務次長
 1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた 。 新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。 新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。

 エスペランティスト(母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とした国際補助語(人工言語)を使用する者をいう。)としても知られ、1921年(大正10年)には 国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。 しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。 同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。 1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。

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■ 晩年
 1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。 1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。

  (画像: 札幌農学校時代の仲間と共にメリマン・ハリスの参り。1928年 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0#/media/File:50th_Anniversary_of_Baptism_by_Harris.jpg )

 1932年(昭和7年)、軍国主義思想が高まる中「わが国を滅ぼすものは共産党と軍閥である。 そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼、特に在郷軍人会や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。 同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。

 翌1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。 その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。 会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、永眠する。

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■ 人物

  (画像: 新渡戸稲造と妻メアリー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0#/media/File:InazoMaryNitobe1890.jpg )

 キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生 内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。 その時のメンバーから矢内原忠雄、高木八尺、南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二、河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。 非常に交流の幅が広い人物であり、著作のひとつである『偉人群像』には、伊藤博文や桂太郎、乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。

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■ 家族

  (画像: 妻 メアリー・エルキントン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0#/media/File:Mary_Elkinton_%28Nitobe%27s_wife%29.jpg )

 1891年(明治24年)に アメリカ人女性メアリー・エルキントン(Mary P. Elkinton 日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。 二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが 生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。

 祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で 灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。 傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。 この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。 このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。 稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は 藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も 藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。 また、従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが、31歳で早世している 。


■ 後世
 生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている
 1984年(昭和59年)11月1日に発行された五千円紙幣D号券の肖像に採用された。

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■ 年譜

  (画像: Bushido: The Soul of Japan (1900) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0#/media/File:Houghton_Hearn_92.40.10_-_Bushido_cover.jpg )

・ 1862年(文久2年) 盛岡藩(のち岩手県盛岡市)の、当時奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。 幼名稲之助。
・ 1871年(明治4年) 兄道郎とともに上京。 叔父太田時敏の養子となる。
・ 1873年(明治6年) 東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。
・ 1877年(明治10年) 札幌農学校に第二期生として入学。 卒業後、東京大学選科入学。 同時に成立学舎にも通う。
・ 1882年(明治15年) 農商務省御用掛となる。 11月、札幌農学校予科教授。
・ 1884年(明治17年) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
・ 1886年(明治19年) クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。
・ 1887年(明治20年) 独ボン大学で農政、農業経済学を研究。
・ 1889年(明治22年) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。 長兄七郎没、新渡戸姓に復帰。
・ 1891年(明治24年) 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。 帰国し、札幌農学校教授となる。
・ 1894年(明治27年) 札幌に遠友夜学校を設立。
・ 1897年(明治30年) 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。
・ 1900年(明治33年) 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。 ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。

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・ 1901年(明治34年) 台湾総督府民政部殖産局長心得就任。
・ 1903年(明治36年) 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
・ 1906年(明治39年) 第一高等学校長に就任。 東京帝国大学農科大学教授兼任。
・ 1909年(明治42年) 実業之日本編集顧問となる。
・ 1916年(大正5年) 東京植民貿易語学校校長に就任。
・ 1917年(大正6年) 拓殖大学学監に就任
・ 1918年(大正7年) 東京女子大学初代学長に就任。
・ 1920年(大正9年) 国際連盟事務次長に就任。
・ 1921年(大正10年) チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。
・ 1925年(大正14年) 帝国学士院会員に任命される。
・ 1926年(大正15年) 国際連盟事務次長を退任。 貴族院議員に。
・ 1928年(昭和3年) 東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。
・ 1929年(昭和4年) 太平洋調査会理事長に就任。 拓殖大学名誉教授に就任。
・ 1931年(昭和6年) 第4回 太平洋会議に出席(上海)。
・ 1933年(昭和8年) カナダ・バンフにて開催の第5回 太平洋会議に出席。 ビクトリア市にて客死。


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