蘇える金狼(1980年)A
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1 @kira 2013-02-26 21:41:36 [携帯]

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32 @kira 2013-02-26 23:26:30 [画像] [携帯]

『蘇える金狼』のスタッフ
 
ケーシー・ランキン(音楽)
 
Casey David Rankin
1946年7月10日 -2009年1月2日
アメリカ合衆国カンザス州生まれのミュージシャン。
1971年以降日本において活動しており、ロックバンド『SHOGUN』やソロでの活動が知られる。
息子は同じくミュージシャンのエリック・ゼイ。
経歴
1946年、アメリカ、カンザス州に生まれ、青春期までをニューヨークで過ごす。
1963年に海兵隊に入隊し、1965年からはベトナムでの任務に就いた。
ヘリコプター乗務員として戦闘地域に赴き、過酷な戦場を体験する。
除隊後はミュージシャンとして活動、バンドマンとして訪れた日本に魅力を感じ、1971年から日本に定住する。
商事会社に勤務した後、音楽活動を再開。
1974年、同じ在日外国人ミュージシャンであるマイク・ダン、ロブ・ブリルらと共にロックバンド『SHORT HOPE』を結成、米軍キャンプを回り、1976年にアルバム『SHORT HOPE』を発表。
1979年、芳野藤丸、大谷和夫、長岡道夫らスタジオミュージシャンが集まって活動していた『ワン・ライン・バンド』がテレビドラマ『俺たちは天使だ!』の音楽を担当する事になり、新たなメンバーにケーシーを迎え、バンド名も『SHOGUN』と改め活動を開始する。
ケーシーが作曲を担当した『俺たちは天使だ!』の主題歌『男達のメロディー』は50万枚を超えるヒットとなる。
先述のようにSHOGUNはスタジオミュージシャンの集まりが母体である事からメンバーの演奏力が非常に高く、当時のドラマ主題歌としてはまだ少なかった本格的なロックサウンドはマニアにも高く評価された。
更に同年、人気俳優松田優作主演の『探偵物語』テーマ曲『BAD CITY』(ケーシーが作詞、作曲)を発表。
SHOGUNは一躍人気バンドとなり、その中でもヒット曲の作曲を担当、フロントマンとしても活躍したケーシーの評価を高めた。
SHOGUN自体は2年に満たず活動停止となるが、既にミュージシャンとして評価を得ていたケーシーは映画やアニメの音楽、CM曲の制作、プロデュースなど活動の幅を広げる。

33 @kira 2013-02-26 23:28:02 [画像] [携帯]

この頃広島エフエム放送に週1回1時間のレギュラー番組『ミュージックマン・ショウ』を持ち、持ち前のユニークなDJで人気を得る。
(番組は1985年終了)1985年にSHORT HOPE時代の仲間マイク・ダンと新たなメンバーを加え、オリジナルとはまったく異なる構成でSHOGUNを再結成、アルバム『JUS-TUS』を発表するがすぐに解散。
その後も引き続き音楽活動を続けるが、表立って名前が出る事は少なくなっていった。
1997年、オリジナルメンバーを一部入れ替える形でSHOGUNが再結成(この時はエリックも参加)。
かつてのヒット曲『BAD CITY』の新バージョンがサッポロ飲料のCMソングとして使われた事もあり、SHOGUNが再評価され始めるもケーシーは脱退、程なくしてSHOGUNも再度の活動停止を余儀なくされる。
また同時期に発売された缶コーヒー『WONDA』のCM曲を手がけた。
1999年、自身のレーベルとしてPure Recordsを設立。
その後もCM曲の制作やオリジナルアルバムの発表、ライブ活動を精力的に行っていた。
2004年6月、食道がんと診断されたが放射線治療などを受けて11月にはライブ活動を再開。
しかし2006年3月に食道がんが再発し、その後は治療を続けながらライブ活動を行ってきた。
2009年1月2日、死去。
 
ケーシーがベトナムに派遣された1965年は、米軍のベトナム派遣が大規模に行われ、北爆も開始されるなど、ベトナム戦争が一気に激化を始めた年でもある。
ケーシー自身も戦地で死線をくぐっており、この体験から現地で仏教徒となったという。
自身の戦争体験を元に、1995年から寺院でコンサートを行い、平和を願う活動『平和への道』を全国で行なっていた。
大の麺類、ラーメン好きであり、全国各地のラーメンに詳しかった。

34 @kira 2013-02-26 23:35:17 [画像] [携帯]

『蘇える金狼』のスタッフ
 
■編曲 木森 敏之
 
1947年7月24日 - 1988年4月11日
作曲家・編曲家
北海道出身(札幌市生まれ)。
1970年、日本大学芸術学部卒業。
ロサンゼルス DICK GROVE ミュージックワークショップ卒業。
 
代表作として『聖母たちのララバイ』(岩崎宏美。
John Scottと共作)『サンセット・メモリー』(杉村尚美)『心の色』(中村雅俊中村雅俊)があり、1980年代前半のヒットメーカーの作曲家として知られている。
しかしながら、病気により40歳という若さで逝去した。
数々のテレビ主題歌・ポップスを国内外のアーティストに提供する他、映画音楽『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(1982年)『わが青春のアルカディア』(1982年)『ゴルゴ13』(1983年)『時代屋の女房』(1983年)『海に降る雪』(1984年)『きみが輝くとき』(1985年)、アニメ映画『スーパーマリオブラザーズ ビーチ姫救出大作戦!』(1986年)、TVアニメ『キャプテン』(1980年 - )『伊賀野カバ丸』(1983年)『ダーティペア』(1985年)(いずれも日本テレビ系列)、TVドラマ『あさひが丘の大統領』『結婚の四季』『われら動物家族』『女かじき特急便』、『黄金の犬』『炎の犬』『パパになりたかった犬』などのテーマ曲ないしは挿入曲の作・編曲およびBGM、『球形の荒野』をはじめとする初期(1981年 - 1987年)の『火曜サスペンス劇場』の主題曲および主題歌・CM曲とBGMの作・編曲(「可愛い悪魔(大林宣彦監督、1982年)」なども含む)に携わり、民放系列(主にNTV、CX系)での音楽活動が目立った。
また、ペンネーム"『キース・モリソン』(Keith Morrison、 Kirth Morrison、前者はJASRAC登録名、後者は主にサントラLPのクレジット表記)"名義でドキュメンタリー映画『世界の空軍AIR_FORCE'82ドッグ・ファイト』をはじめ、『クレージーモンキー 笑拳』(テーマ曲、1980年)、『死亡の塔』(1981年)『少林寺』(1982年)『スパルタンX』(1984年)などカンフー映画の日本版LP制作も担当していた。
なお、同種の系列に『少林寺2』(1984年)の日本版アルバムもあるが、この作品でのクレジットは実名の木森敏之名義になっている。

35 @kira 2013-02-26 23:36:36 [画像] [携帯]

『蘇える金狼』のスタッフ
 
■音楽監督 鈴木清司
 
1942年5月1日生まれ。
選曲家・音楽プロデューサー
 
'66年日活に入社し、録音部に所属。
その後映広音響、日本テレビ音楽を経て鈴木音楽事務所を設立しフリーとなる。
それまでの日本の映像作品において、作曲家や録音技師などがサイドワークとして行っていた音楽演出=選曲作業を、独立した専門作業として新たに定着させた人物である。
'70年代初頭よりテレビドラマや時代劇の選曲を手掛けた後、映画『人間の証明』を皮切りに、“音楽監督”“音楽コーディネーター”などの肩書で作曲家の選定、楽曲の発注といった作品全体の音楽設計を担う音楽プロデューサーとして活動。
羽田健太郎、大野雄二、大谷和夫らプレイヤー出身のミュージシャンを作曲家として頻繁に起用し、数多くの傑作サントラを世に送り出した。
ことに羽田健太郎は『新人時代に鈴木から映像音楽のノウハウを学び、多大な影響を受けた』と後に語っている。
その他、手塚治虫やアニメーターの出崎統らの信頼も厚く、それは一時期を境に彼らが関わった作品のほとんどを手掛けていることからも伺える。
シチュエーション毎に楽曲を発注し、更にそれを1コマ単位で映像に合わせるという、ディズニーアニメなどのカートゥーン作品を思わせる独特の音楽演出手法で知られ、現在も現役としてアニメ、実写問わず多数の作品に参加。
『ルパン三世』では、第2シリーズからほぼ全作品の選曲・プロデュースに携わっている。

36 @kira 2013-02-26 23:37:53 [画像] [携帯]

『蘇える金狼』のスタッフ
 
■音楽プロデューサー 高桑忠男

37 @kira 2013-02-26 23:44:27 [画像] [携帯]

『蘇える金狼』のスタッフ
 
■主題歌 前野曜子
 
1948年1月25日 - 1988年7月31日
本名 前野耀子
ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカル。
東京都中央区銀座生まれ(江戸川区生まれとの説もある)。
略歴
1965年、川村高等学校を2年で中退し宝塚音楽学校に進む。
1967年、宝塚歌劇団へ入団。
同期は54名で当時の芸名は『弓千晶』。
1968年宝塚歌劇団退団。
伝説のディスコ赤坂『MUGEN』でゴーゴーガールを務める。
宝塚時代に知り合った亀渕友香と『MUGEN』で再会し、リッキー&960ポンドに参加。
翌1969年、『ワッハッハ』がヒット。
この頃は『西丘有里』と名乗る。
1971年、リッキー&960ポンドと同じ事務所に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加。
1972年に『別れの朝』が大ヒットし一躍人気・仕事の絶頂のさなかだった翌1973年、突然の脱退を発表して単身渡米もその後数ヶ月で帰国した。
当時のあるテレビ芸能ニュース番組では『米国留学の為』と放送された記録が残っているが、脱退については1972年11月頃発売分の『週刊女性』では前野が深酒に因る仕事上の失敗を繰り返していた上、恋仲となった米国人男性への出奔、早期の帰国については1973年10月頃発売分の『週刊朝日』で恋人との破局や米国生活の限界が重なったのが原因との記事が掲載されるなど、具体的な面に触れた報道はなかったがいずれもすっきりしない脱退劇と前野にとって残念な結末を辿った事が垣間見られた出来事であった。

38 @kira 2013-02-26 23:45:50 [画像] [携帯]

帰国後は、事務所に所属せずマネージャーもつけずにソロとしてライブハウスなどで歌手活動を再開した。
1976年に古巣のリッキー&960ポンドに復帰(のち3年間所属後再び脱退)。
1979年に映画『蘇える金狼』の主題歌(タイトル同じ)をリリース。
同年末には『平凡パンチ』でセミヌードを公開する。
1980年、映画『野獣死すべし』に、セリフのない役でカメオ出演。
1982年から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌っていた。
しかし上記のとおり芸能活動に復帰・継続はしたものの、前出のペドロ脱退の経緯や、前野自身アルコール依存等健康上の問題が愈々深刻化するなど、結局往時のような成功・活躍をおさめることはついにできないままに終わった。
1988年7月31日に肝臓病で死去していたことが、逝去から2年半以上後となった1991年4月頃発売分の『女性自身』で報道され、前野が寂しい晩年・最期であった事を窺わせた。
墓所も不明である。

39 @kira 2013-02-26 23:47:05 [画像] [携帯]

リッキー&960ポンド時代の前野曜子
 
当時は西丘有里という芸名だった。
脱退の理由はコミックバンドというスタンスに対する不満からだったようだ。
しかし、後に再加入している。

40 @kira 2013-02-26 23:48:06 [画像] [携帯]

リッキー&960ポンド時代のヒット曲『ワッハッハ』
41 @kira 2013-02-26 23:51:17 [画像] [携帯]

ペドロ&カプリシャス時代の前野曜子
 
この時代が彼女の人生での絶頂期だった。
『別れの朝』がヒットするも、脱退する。
理由はアメリカへ音楽修行に行く為と報じられたが、実際はクビだったらしい。
酒癖が悪い彼女は、深酒で仕事に遅れる事が茶飯事だった。
それを機に当時の恋人であったフルート奏者のレナード・ノーリスがいるアメリカに旅立ったというのが真相のようだ。
このあたりから、彼女の人生は狂い始めたと言える。



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