蘇える金狼(1980年)A
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1 @kira 2013-02-26 21:41:36 [携帯]
の画像を貼りましょう。
62 @kira 2013-02-27 00:59:53 [画像] [携帯]
ランボルギーニ・カウンタック LP500
朝倉が早朝の国道を駆る車は脚本ではフィアットであった。
それをカウンタックに変更した事で朝倉というキャラクターに血が通ったと言える。
成金の象徴とされたカウンタックこそ、朝倉が愛する車に相応しい。
ランボルギーニは、イタリアの自動車メーカーである。
本部はボローニャ県サンターガタ・ボロニェーゼであり、ライバル関係にあるフェラーリの拠点モデナ県・マラネオとは、直線距離にして僅か20km程度しか離れていない。
歴史
1962年4月 農業機械(トラクター)製造で成功を収めていたフェルッチオ・ランボルギーニが設立。
1963年10月26日 トリノ・オートショーで1号車になる350GTVを発表。
カウンタックとはランボルギーニが製造していたスーパーカーである。
概要
いわゆるスーパーカーを代表する自動車であり、同時にスーパーカーといえば同車を連想する人も多い。
1971年に発表されたマルチェロ・ガンディー二による近未来的なウェッジシェイプを体現したデザインは、文字通り世界中に驚きを与えた。
デザインテーマはプロペラの“捩じれ”。
販売車種では珍しく特殊なエアインテーク機構やターボなしで400馬力を超えるV型12気筒5000cc前後のモンスターエンジンを搭載するなどコンセプト、デザイン、システムすべての点において異彩を放ち、を凌駕する次世代のミッドシップ・スーパースポーツカーとしてパオロ・スタンツァーニを中心に開発された。
63 @kira 2013-02-27 01:04:16 [画像] [携帯]
LP500は、ミウラを凌駕する次世代のミッドシップ・スーパースポーツカーとしてパオロ・スタンツァーニを中心に開発された。
ミウラは横置きミッドシップのV型12気筒エンジンを導入して大成功を収めたが、極端に後寄りの重量配分に起因する高速走行時の不安定性、複雑なトランスミッション系に起因するシフトフィールの悪さなど、横置きエンジン固有の欠点が課題として残された。
とはいえ巨大なV12エンジンを縦置きにすると、理想的な重量配分は得られるものの、ホイールベースが長くなるために旋回性能が低下してしまう。
スタンツァーニはこの問題を解決すべく、通常とは前後を反転しエンジンの前方にギアボックスを置くという配置を採用し縦置きエンジンであるにもかかわらずミウラよりさらに短い2450mmというホイールベースを確保するとともに、コクピット下にギアボックスがあるためワイヤーを介さずギアボックスに直接シフトレバーを取り付けることが可能となり良好なシフトフィールも実現した。
エンジンから前方のギアボックスに駆動力が伝達され、更にそこから折り返されたシャフトはオイルサンプを貫通し、後輪のディファレンシャルギアに伝達される。
車体はセミモノコック、サスペンションは前後ともダブル・ウィッシュボーン式とした。
これにマルチェロ・ガンディー二のデザインによるボディを組み合わせ、カウンタック「LP500」は誕生した。
LPはミッドシップ縦置き(「Longitudinale Posteriore」 )、「500」は10倍にして排気量(cc)を示す。
初登場は1971年のジュネーブショーで、革新的なデザインは大反響を呼んだ。
しかしながらエンジンの冷却効率が悪くオーバーヒートが頻発し、量産には至らなかった。
ランボルギーニが経営危機に陥ったこともあって改良は難航した。
LP500には市販車につながる形状の仮設エアインテークやダクトが設けられ、走行テストが繰り返された。
最終的にクラッシュテストに使用された後に廃棄され、この車両は現存しない。
LP500と市販のLP400の間には別のプロトタイプが存在し、緑色に塗られた1台はランボルギーニ博物に展示されている。
64 @kira 2013-02-27 01:10:55 [画像] [携帯]
ロケ地探偵団
カウンタックが疾走する道路
新宿副都心
65 @kira 2013-02-27 04:29:17 [画像] [携帯]
ロケ地探偵団
カウンタックが疾走する道路
中央区銀座4丁目交差点、銀座通りの国道15号
中央通り・銀座4丁目交差点東京都中央区から神奈川県横浜市神奈川区へ至る一般国道である。
明治時代の『明治1號國道』についても併記する。
概要
国道15号は、旧東海道の日本橋 - 神奈川間とほぼ同じ位置にある国道であり、明治1號國道の日本橋- 神奈川間にも相当する。
総距離:29.2km
起点 東京都中央区日本橋(日本国道路元標)
終点 神奈川県横浜市神奈川区栄町(青木通り交差点)
主な経由地 神奈川県川崎市
指定区間 全線
歴史
旧東海道)で右方が改築後の京浜国道で現在の第一京浜参考文献『改良された京濱國道』に同じ場所の写真が掲載。
京急本線鈴ヶ森高架橋
京浜国道改築と同時に建設。
1885年(明治18年)の国道指定により、国道15号の前身である明治時代の『1號國道』が指定される。
明治の1号国道は、日本橋から横浜港に至る国道であった。
日本橋から神奈川までの区間は現在でも残っている旧東海道と同じであり、神奈川から先は万里橋当初の橋とは異なり現在の万里橋は、横浜市道横浜駅根岸線を継ぐ方向に架けられている。
を渡り官設鉄道官設鉄道の一部であった現在の横浜駅 - 桜木町駅間は、現在、根岸線となっている。
に平行し初代横浜駅前から、現在の国道133号を経て横浜港道路関係法令での横浜港とは、現在の大さん橋の入口である開港広場前付近を指す。
までの道路と同じである。
この1号国道は、通称『京濱國道』と呼ばれる。
66 @kira 2013-02-27 04:36:36 [画像] [携帯]
ロケ地探偵団
カウンタックが疾走する道路
明治神宮外苑銀杏並木
カウンタックの後方には明治神宮外苑聖徳記念絵画館が見える。
明治神宮外苑は、東京都新宿区・港区(一部)にある洋風庭園。
特徴
『明治天皇の業績を後世までに残そう』という趣旨で建設された洋風庭園で、代々木にある明治神宮(内苑)に対して、外苑と呼ぶ。
明治神宮による管轄の関係から、神社の敷地の一画と見なされている。
内苑である明治神宮は神社建築を基調としているのに対して、外苑は『洋風』を基調としているのが特徴である。
通常は、略して『神宮外苑』と呼ばれることが多い。
異称として『神宮の杜』とも呼ばれる。
広大な敷地の中に、よく知られている銀杏並木などの多くの樹木の他、国立霞ヶ丘競技場や明治神宮野球場(神宮球場)がある。
67 @kira 2013-02-27 04:38:46 [画像] [携帯]
『蘇える金狼』のスタッフ
■美術 佐谷晃能
佐谷さんについて、調べていたが詳細な記述はなかった。しかし、気にかかる発見があったので以下に記しておきたい。
『佐谷晃能映画美術監督労災事件』
1991(平成3)年8月26日の夜、8時30分頃、当時、佐谷さんは映画『一杯のかけそば』西河克己監督作品の美術監督を担当していた。事故発生時は監督の指示により大道具建物倉庫に行き、翌日の撮影準備のためセットかざり替えの襖、障子を中二階の建具棚で選んでいた。通常のスタッフ体制では美術監督の下には2〜3名の助手が付き作業進行にあたっているが、この作品では予算の関係もあり、経験の少ない助手が1名ついていただけと言う状態で、ステージではセット撮影が行われており、現場を助手に任せ美術監督が自分一人で夜倉庫におもむいた事も、事故発生後、発見を遅らせた大きな要因であったと言える。帰宅する建具係の人が入り口で『誰かいる?』と声をかけ、佐谷さんは『居るよ』と答えたと言うのだが、聞こえなかったらしく、係の人は消灯し、鍵をかけて帰ってしまい、真っ暗のなかで、梯子の場所を足探りしていた彼は3〜4メートル上から墜落。翌朝発見されるまで床に倒れたまま、身動きもならずマリア様への祈りを繰り返して居たと言う。(彼はカトリック信者)
病院に運ばれ手当てを受けたが、頸髄損傷、第3・5頸椎骨折、四肢麻痺という診断で、数箇所の病院を転院したが、結果は治癒の見込み無しとして症状固定、その後自宅療養を亡くなるまで8年間続けられて2000(平成11)年8月4日に逝去。この間四肢麻痺という不自由な体で、先輩の励ましもあって、口に筆をくわえて絵を描き、数回の個展を開催するなど前向きの闘病生活を送ったことも記憶に新しい。
日活の倒産などにより、労災の契約があやふやな中での不幸な事故である。
労災をめぐって、裁判となるも裁決を待たずして、佐谷さんは亡くなっている。
自分が観ていた映画やドラマに携わっていた方がこのような不幸に遭われていた事はとても悲しい。
こういう状況が日本映画の出口なき暗闇を深くしている一端である事は間違いない。
佐谷さんは、苦しみから死ぬ事も考えたが後進の映画人に同様の不幸をさせない為に裁判を闘ったという。
口に筆をくわえて描いた墨絵の画集の売上金を裁判の費用に充てていたそうである。
佐谷さんの御冥福を心より祈ってやみません。
68 @kira 2013-02-27 04:44:14 [携帯]
『蘇える金狼』のスタッフ
■録音 高橋三郎
詳細な経歴は分かりませんでした。
69 @kira 2013-02-27 04:45:53 [携帯]
『蘇える金狼』のスタッフ
■録音 渡辺三雄
1947年 - 2010年10月
日本の映画照明技師。
福島県出身。
石原プロモーションに照明助手として入社し、藤林甲、椎葉昇に師事した後、1977年テレビドラマ『大都会PARTII』で照明技師に昇進。
1978年フリーとなり、同年の映画『最も危険な遊戯』で劇場作品デビュー。
受賞歴
第23回日本アカデミー賞 照明賞ノミネート(『鉄道員』)
第25回日本アカデミー賞 照明賞ノミネート(『ホタル』)
70 @kira 2013-02-27 04:47:33 [携帯]
『蘇える金狼』のスタッフ
■編集 鈴木晄
詳細な経歴は分かりませんでした。
71 @kira 2013-02-27 04:49:08 [画像] [携帯]
『蘇える金狼』のスタッフ
■衣裳デザイン 芦田淳
1930年8月21日生まれ。
日本のファッションデザイナー。
株式会社ジュンアシダ代表取締役社長。
東京高等学校卒。
京都府出身の両親のもと、日本統治時代の韓国、全羅北道の全州に生まれる。
皇后美智子殿下が、皇太子妃時代の専任デザイナーを務めたことで知られている。
アトランタオリンピック日本選手団、公式ユニフォームのデザインを担当。
また全日空など有名企業のユニフォームを多数手かげている。
師匠はイラストレーターの中原淳一。
妻は株式会社ジュンアシダ代表取締役副社長の芦田友子、1933年1月22日 - )。
次女は同じくファッションデザイナーの芦田多恵。
略歴
1930年 開業医の家に、8人兄弟の末っ子として生まれる。
1951年 東京高等学校卒業後、中原淳一に師事。
2年間秘書を務める。
1960年 高島屋の顧問デザイナーに就任(1975年まで)
1960年 帝人の顧問デザイナーに就任。
1963年 有限会社テル工房をオープン。
プレタポルテの製作販売を始める。
1966年 当時の皇太子妃美智子殿下の専任デザイナーとなる。
以降、1976年まで10年間務める。
1976年 銀座みゆき通りに、自社ビル店鋪『ブティック・アシダ銀座』をオープン。
1977年 パリ事務所を開設。
パリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。
1978年 テル工房を株式会社ジュンアシダに変更。
1993年 皇太子妃雅子殿下の御成婚衣装を拝命。
1989年 パリのフォーブル・サントノーレ街にブティック『アシダパリ』をオープン。
1993年 代官山フォーラムに『ブティック・アシダ本店』オープン。
1994年 広島アジア大会、日本選手団の公式ユニフォームをデザイン。
1994年 社団法人科学技術国際交流センターに芦田基金を設立。
1996年 アトランタオリンピック、日本選手団の公式ユニフォームをデザイン。
受賞・受章歴
1971年 FEC(ファッション・エディターズ・クラブ)賞
・1987年 イタリア、功労勲章カバリエーレ章
・1991年 紫綬褒章
・2000年 フランス、国家功労章オフィシエ章
・2003年 イタリア、功労勲章カヴァリエーレ・ウフィチャーレ章
・2006年 旭日中綬章
・2006年 ルクセンブルク、国家功労章オフィシエ章

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