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材大なれば用を為し難し

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SEO対策無双なら安心1 Ryou 2014-01-18 19:07:35 Ryou
明治維新の革新と並んで1 Ryou 2014-01-07 20:41:34 Ryou
それと同時に1 Ryou 2014-01-07 20:41:09 Ryou
皇極天皇は1 Ryou 2014-01-07 20:40:45 Ryou
是より先1 Ryou 2014-01-07 20:40:17 Ryou
太子は、内治に御心を1 Ryou 2014-01-07 20:40:00 Ryou
和を貴び、相争ふな1 Ryou 2014-01-07 20:39:37 Ryou
太子は、仏教の興隆を図られると共に1 Ryou 2014-01-07 20:39:06 Ryou
聖徳太子と中大兄皇子1 Ryou 2014-01-07 20:38:47 Ryou
氏族制度と祭政一致1 Ryou 2014-01-07 20:38:29 Ryou
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1 Ryou 2014-01-18 19:07:35

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1 Ryou 2014-01-07 20:41:34 [URL]

 明治維新の革新と並んで、日本の二大革新である大化の改新は、中大兄皇子に依つて成し遂げられたのである。
 当時としては、思ひ切つた改新であるから、大氏族や守旧派の反対は、さぞかし猛烈であつたらうと想像されるが、それを押し切つての御断行は、一に、天皇の御英明に依るものだと思はれるのである。

* 欽明天皇の十三年(皇紀一二一二西暦 五五二)百済の聖明王が、特使を我国に遣はして、仏像や経論を献じて来た。
 天皇は、百済王の上表を聴召して、諸臣に勅して、仏教信仰の可否を諮り給うた。
 朝臣の内、物部氏・中臣氏は排仏を主張し、蘇我氏は崇仏を主張した。
 その理由とする所は、「一は我が国には古来神道があり天神地祇を祭つてあるから、蕃神を祭れば、神の怒りに触れる」と云ふのであり、一は、「他国が既に仏像を礼拝してゐるのに、我が国独り反対する要はない」と云ふのであつた。一は、守旧的な保守的思想であり、一は、開放的な進歩思想であつた。
 それは、中臣氏は、代々神祇祭祀を掌る家柄であり、物部氏は、代々武将であり、これに反して、蘇我氏は、先祖武内宿禰以来韓土と交渉を持ち、代々外交を司る家柄であつたから、この対立が出て来たのであらう。
 
1 Ryou 2014-01-07 20:41:09 [URL]

 それと同時に、新たに戸籍を作つて、公民の数を調べ、男女老幼に応じ、田地を分配し、六年毎に調べ直して、死んだ者の土地は朝廷に収め、生れて六歳になつた者には、之を与へる法が設けられた。これが、班田収授の法である。
 また八省百官の制を設け、地方に於ける国造、県主の世襲を禁じ、新たに国司郡司を命じ、期限的に交替させることにした。
 又、聖徳太子の制定になつた十二階の冠に、改正を加へて、最高の大織冠から最低の立身冠まで、十九階として、血統や家柄に依ることなく、官位を授けられた。
 中大兄皇子は、後に第三十八代天智天皇とならせ給うたが、新政のために、新らしき都を選ばれる意味で、近江の志賀に都し給うた。これが大津ノ宮である。
 鎌足は、天智天皇の仰せに依つて法令を制定した。近江令であり、文武天皇の御代に出来た大宝律令の根本を成すものである。
 その中に定められてゐる官制や諸制度は、爾来千二百年間、明治十八年迄、用ゐられてゐたのである。
 
1 Ryou 2014-01-07 20:40:45 [URL]

 皇極天皇は、蘇我氏が滅んだ翌日、皇位を中大兄皇子に譲り給はうとしたが、皇子は叔父君たる軽皇子を皇位に即け奉られた。これが、三十六代孝徳天皇である。初めて、年号を立て、大化元年とされた。
 そして、皇子は皇太子として、中臣鎌足と共に、政治の改新に当り給うた。
 それまでの日本の政治は、臣、連、国造、県主など、勢力のある氏の長が、土地人民を私有してゐたので、天皇は、氏の長を率ゐて居られるだけで、直接の御領地以外は、人民全体から、税なども、お取り立てになることはなかつたのである。
 だから、臣、連など云はれる勢力のある氏の長は、土地人民を私有し、勢力を養ひ、遂に蘇我氏の如く国政を紊すものが生ずるに至つたのである。
 されば、大化の改新の一大眼目は、これらの氏の長の私有してゐた土地人民を悉く皇室に返上させ、凡てを公地公民とし、天皇たゞ御一人が、君主として、支配されるやうにすることだつた。
 
1 Ryou 2014-01-07 20:40:17 [URL]

 是より先、氏族制度の頽廃の結果として、大氏族の長が、広大なる土地人民を私有し、権勢を専らにせんとするものが生じてゐた。が、その内、大伴氏、物部氏は失脚して、蘇我氏のみが、強大なる勢力を擁してゐた。蘇我馬子は、太子と共に仏教の樹立に当つたのであるが、太子もその強大を憎み給うたが、これを退くるに至らずして、世を終り給うた。
 馬子は、太子の御英明の前に、雌伏してゐる外なかつたが、太子薨去後、その野心を現はし、不臣の振舞多く、その子蝦夷、孫入鹿に至つては、馬子以上に専横を極め、当然皇位に即き給ふべき御方である聖徳太子の御子たる山背大兄王を斥け奉り、入鹿は遂に大兄王の御即位は、蘇我氏の滅亡を意味するものと考へ、皇極天皇の二年大兄王を襲ひ奉つた。
 王は、一度は生駒山に逃れ給うたが、「自分は今、兵を起して入鹿を討つならば勝てるだらうが、一身のため、人民を傷つけたくない。わが身は入鹿にやらう」と仰せられ、一族の方々と御一緒に、御自殺になつた。が、蘇我氏のかゝる不臣が許されるわけはなく、御英邁なる中大兄皇子を中心とする中臣鎌子(後の藤原鎌足)、蘇我倉山田石川麻呂、佐伯子麻呂等の活躍に依つて、皇極天皇の四年六月、入鹿は大極殿に於て、誅戮を受けたのである。
 
1 Ryou 2014-01-07 20:40:00 [URL]

 太子は、内治に御心を用ゐられたばかりでなく、欽明天皇の御世に亡んだ任那日本府を復興せんとし、屡々新羅を御征討になつたし、又推古天皇の十五年小野妹子を隋に遣はされて対等の国際的関係を結ばれ、尋いで高向玄理、南淵請安などの留学生を送られたことも亦、著名な事件である。
 又、太子は始めて国史編纂の業を起され、天皇記、国記を編まれ、その間に、卓抜なる御見識を以て仏典の註釈を完成された。それが三経義疏と呼ばれてゐるものである。
 十七条の憲法も、太子の御自作であるが、詩経、書経、易など支那の古書を引用して書かれた漢文で、わが国の漢文では最古のものであり、かつ御名文である。
 太子は、推古天皇の三十年に薨去されたが、天皇をはじめ奉り、全国民に至るまで「日月輝を失ひ、天地既に崩れぬべし」と、嘆いたと云はれる。太子は、日本が生んだ偉大なる宗教家であり、政治家であり、同時に日本文化の偉大なる建設者だと申上げてもよいであらう。
 この聖徳太子の御精神と御事業を継承して、大化の改新を断行されたのが、中大兄皇子である。
 
1 Ryou 2014-01-07 20:39:37 [URL]

 一、和を貴び、相争ふな。二、篤く仏法を敬へ。三、詔は謹しんで承けよ。四、群臣は礼を重んぜよ。五、私慾を棄て、訴訟を裁け。六、悪を匡し、善を勧めよ。七、官職は人を得なければならぬ。八、群臣百官は早く朝廷に上り、遅く退け。九、信は、義の本である。万事に信であれ。十、寛大であれ。十一、賞罰を明らかにせよ。十二、国に二君なく民に両主なし。国中の万民は、皆天皇を主とする。役人が勝手に人民から税を取り立てるのは不法である。十三、役人は、自分の任務をよくわきまへて遂行せよ。十四、役人は、互に嫉視反目するな。十五、私事を忘れて、公事につくのが臣たるの道である。十六、民を使役するには時を考へよ。十七、大事を決するには、衆と議せよ。
 第十二条の「国中の万民は、天皇を主とする」の一条は、当時の大氏族の長が、人民を私有することを戒められたのである。
 
1 Ryou 2014-01-07 20:39:06 [URL]

 太子は、仏教の興隆を図られると共に、仏寺の建立に附随する建築、絵画、彫刻、鋳金などの美術工芸などを奨励された。されば、大工左官などの間に、太子が今もなほ守護神として崇敬されてゐるのを見ても、太子の御遺徳の一端が、うかゞはれるわけである。
 又、太子は、推古天皇の十一年に十二階より成る冠位を定め給うた。それまで、勢力のある氏族に属してゐないと、高い位置に上れなかつたが、冠位の制定に依つて、人々は、才能に依つて、立身する道が開かれた。十二年には、支那の暦を用ゐ、同年に十七条の憲法を制定された。
 これは、文章となつたわが国最初の法典であり、仏教と儒教に基づいた道徳律でもあり、官民心得でもあるが、その大意は、次の通りである。
 
1 Ryou 2014-01-07 20:38:47 [URL]

 上代に於けるわが日本国家の基礎を堅め、国民をして文化生活の恵沢に浴せしめた偉大なお二方がある。それは、聖徳太子と中大兄皇子である。
 聖徳太子は、天成の御英才を以て、第三十三代推古天皇の摂政となり給うたが、仏教思想と共に、鋭意隋唐の文物諸制度を輸入することに努力し給うた。
 是より先、欽明天皇の御代に伝へられた仏教に就いて、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏、中臣氏との間に凄じい争闘が展開した*。これは、仏教についての争ひといふよりは、氏族制度の弊害として、段々強大になつた各氏族の巨頭が、各自権勢を専らにしようとして、仏教の採否を廻つて、争つたと云うてもよいのである。
 が、聖徳太子の仏教御信仰は、崇仏派の勝利を決定的にし、以後仏教は、広くわが国土に流布し、わが国民文化の発達に、精神的にも、物質的にも、多大の寄与をしたのである。
 推古天皇の二年に仏教興隆の詔が発せられ、聖徳太子は、四天王寺、法隆寺、中宮寺、蜂岡寺などを建立された。当時の仏寺は、信仰の道場だけではなく、四天王寺の如きは、外交上の儀式にも用ゐられたし、学校でもあり、又寺内に、悲田院、療病院、施薬院があつて、社会事業的施設でもあつたのである。
 
1 Ryou 2014-01-07 20:38:29 [URL]

 そして、この氏族制度が今日の家族制度の基をなすのであつて、皇室より皇族の御分出があり、更に皇室を総御本家として諸氏族が分れてきたところに、我が国が一大家族国家を形成してゐるといふ所以がある。従つて国家の繁栄は、国民の繁栄であり、国民の繁栄は、国家の繁栄である。国民は、各氏の氏神を祭ると共に、天照大神をはじめ、天つ神を崇敬し、同時に天皇を現人神と仰ぎ奉つた。
 しかも、天皇は天つ神の神意を受けて、大八洲国に降臨せられた皇孫の御後裔であらせられるから、常に天つ神を祭り、その神意を奉体せられるのである。
 それは、神武天皇が、御東征の途次、困難に際会される毎に、天照大神の神意に従はせられた事を見ても分ることである。
 天皇が天つ神を祭り、神意の奉体に努めさせられることは、直ちに国民の日常生活の端々にまで及び、「氏神」の信仰が深くなつてゐるのである。
 天皇は天つ神を祭られ、その神意を奉体して民を治められる。即ち「政事」は、「祭事」で、この祭政一致の思想は、わが国固有の政治の特色として、現代にも及んで居るのである。
 
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