野獣死すべし(1980年)
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1 @kira 2013-02-08 22:00:00 [携帯]

の画像を貼りましょう。
102 @kira 2013-02-24 22:12:34 [携帯]

劇場版の台詞
奥津『あ・・・お客さん、まだいらしたんですか?店はもう終わりましたんで、お帰りいただけますか』
黒岩『う、うわぁぁぁ・・・・ああぁぁぁぁ・・・・』
黒岩『うわぁー』
黒岩『う、う、撃つなー、撃つなー、足が・・・撃つなー』
 
カジノ襲撃シーンではドアが開いて拳銃を握った伊達の手のアップから始まる。まだ、伊達の正体を見せずに引っ張る。
この映画では、意外にも伊達を真正面から捉えたカットが少ない。同じ村川監督の『遊戯シリーズ』では、優作が出突っ張りだったのだから、尚更異様だ。
スクリーンに伊達が映っていても、横向きや後ろ姿だったりする。これが、死神のような伊達の不気味さを増幅させている。松田優作自身がカメラに写る事を避けているかのようだ。
伊達は文字どおり、死人のような男だ。そんな男がスクリーンにバッチリ写って存在をアピールしていたら、おかしいだろう。
邦画は、こういう描写がまったくなっていない。主役だから、常にフレームに収めるとか、悲しいシーンには悲しい音楽を入れるとか、映画の生理とは関係のないところで演出されている。『エイリアン』はクリーチャーを見せない事で恐怖感を出した。『ゴッドファーザー』は上から照明を当てる事で俳優の顔に陰影をつけて、人物の心の闇を演出した。『野獣死すべし』が、邦画らしくないと言われるのは、洋画的な演出が為されている為である。
現在の日本映画はこうした過去の作品から学ぶべき事が沢山あるはずだ。
昔の映画は、現在の映画と違い、映像言語のバリエーションに富んでいる。一見逆のような感じがするだろうが、昔は、機材や素材に乏しく、技術も発達していなかった。勿論、CGなんてなかった。だから、先達たちは知恵を絞って数々の映像表現を開発した。
自分たちが目指す映画の創造に貪欲であったのだ。

103 @kira 2013-02-24 22:18:00 [携帯]

シナリオでは、伊達が黒岩、峰原を射殺し、奥津と銃撃戦とあるが映画で一発で仕留めるのは奥津のみである。
撃たれて呻く黒岩に伊達が近付き止めを刺そうとする時の表情が怖い。人を殺す瞬間を味わっているかのようだ。
そこを峰原に邪魔されて、拳銃を手放して投げ飛ばされる伊達。死んでいる奥津の拳銃を奪って峰原に数発撃ち込んで射殺。
ここらあたりは『タクシードライバー』のクライマックスのように、顔や手が吹っ飛んだりするカットがあれば、もっと面白くなるシーンなのに実に勿体ないと思う。
村川監督は低予算、早撮りでやってきた人だから、そんな構想は端からなかったろう。予算数千万で2週間で撮り上げた、『遊戯シリーズ』は、俳優の動きで見せる肉体派アクションが売りだった。
伊達の前に錯乱した黒岩が現れる。格好の獲物だ。黒岩の命乞いも虚しく、今度は一発で仕留める伊達。このシーンは『探偵物語』のファンなら工藤俊作が松本刑事を射殺するというありえない感が楽しめて、実に面白い。
ここも、疑問なんだけど伊達は黒岩を射殺する間際に顔を伏せるのだ。伊達は殺人に快感を感じているのだから、その瞬間を見たいと思うのが普通だろう。それとも、殺人そのものにしか興味がなくて雑魚の死に様なんか見たくないという事か。
カジノの用心棒達を殺して、恍惚としている伊達が冷静になり、売上金を積み上げたテーブルに向かう。札束を目の前にして頬摺りする伊達。これは、伊達が金目的で強盗しているという事か。松田優作も最終段階まで金か殺人かは、決めかねていたのか。
札束を掴もうとするが拳銃を握った手が硬直しており外せない。必死で指を伸ばして拳銃を放す伊達。こういう芝居は俳優、松田優作の天性の勘がさせているのだろうか。

104 @kira 2013-02-24 22:34:39 [画像] [携帯]

シーン9
早朝の濡れた舗道を、伊達が歩いてくる。
差し込んだ朝日が伊達に当たる。
静止した画面にタイトルが重なる。
松田優作の映画の中で最も好きなタイトルバックだ。
こんなに静かで、恐ろしくて、詩的なタイトルバックが他にあるだろうか。
 
朝日―。
 
ビルの谷間から陽が登ってくる。
 
伊達の犯行を、まだ知らない警視庁にも朝が訪れる。
 
ビルの窓に反射する朝日。
 
上空からの俯瞰撮影による教会。
 
ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』レプリカ。
 
ズームアウトすると伊達が住むマンションの一室。
 
ズラリと並んだ本棚に本を並べている伊達。
 
松田優作は、『野獣死すべし』撮影終了後すぐに丸山昇一脚本、小池要之助監督で同じスタッフによる『新宿24時』がスタンバイしていた。
犯人逮捕の為、麻薬を打ちながら新宿の街を二人組の刑事が走り回る話。
しかし、1980年といえば、例年になく雨の日が多かった年だった。
『野獣死すべし』の伊達邦彦が朝日が上る街を歩くタイトルバックを撮影する為に待機していたが、連日の雨で撮影が延びてしまった。『新宿24時』の監督、小池要之助は『野獣死すべし』の助監督だった。それに松田優作も『野獣死すべし』に全精力を賭けて疲れ切っていた。
この撮影が終わらなければ、次の作品の撮影には入れない。
そういう理由で結局『新宿24時』は流れてしまったのだ。優作とコンビを組む刑事役には片桐竜次が決定していた。
撮影されていれば、面白い作品になっていただろう。
そんな、曰く付きのスタッフの熱意が伝わって来る傑作タイトルバックである。

105 @kira 2013-02-24 22:39:29 [画像] [携帯]

『野獣死すべし』の男優たち@ヤ
 
青木 義朗
 
1929年9月20日 - 2000年9月3日
東京府荏原郡世田ヶ谷町(現・東京都世田谷区)出身。
本名は『青木義郎』(読みは同じ)。
 
目黒工業高等学校(現・目黒学院高等学校)卒業。
映画演劇研究所の一期生を経て1959年にデビュー。
その渋いキャラクターで幾多のドラマや映画で脇ながらも存在感を示した。
特に『特別機動捜査隊』では、波島進に代わる番組の顔として8年間活躍した。
杉良太郎からの信頼が厚く、彼の舞台やテレビドラマにはコンスタントに出演し続けた。
2000年9月3日、食道静脈瘤破裂のため死去。

106 @kira 2013-02-24 22:41:15 [画像] [携帯]

『野獣死すべし』の男優たち@
 
青木 義朗
 
1929年9月20日 - 2000年9月3日
東京府荏原郡世田ヶ谷町(現・東京都世田谷区)出身。
本名は『青木義郎』(読みは同じ)。
 
目黒工業高等学校(現・目黒学院高等学校)卒業。
映画演劇研究所の一期生を経て1959年にデビュー。
その渋いキャラクターで幾多のドラマや映画で脇ながらも存在感を示した。
特に『特別機動捜査隊』では、波島進に代わる番組の顔として8年間活躍した。
杉良太郎からの信頼が厚く、彼の舞台やテレビドラマにはコンスタントに出演し続けた。
2000年9月3日、食道静脈瘤破裂のため死去。

107 @kira 2013-02-24 22:49:27 [画像] [携帯]

『野獣死すべし』の男優たちA
 
安岡 力也
 
本名同じ。
1947年7月19日生まれ。
俳優、タレント、ロックヴォーカリスト。
身長187cm。
東京都港区生まれの埼玉県行田市育ち。
2001年以前は安岡力也名義で活動していたが、離婚を機に姓のない芸名『力也』に改名した。
2010年の芸能界復帰後は再び安岡力也名義で活動している。
 
1964年に、東宝映画『自動車泥棒』に混血児の少年役で主演し、芸能界デビュー。
その後、グループ・サウンズ『シャープホークス』にボーカルとして参加し、1966年にはシングル『ついておいで』でキングレコードよりレコードデビューを果たす。
シャープ・ホークスと並行して一時期は、ヘビー級とミドル級でキックボクサーをしており、4試合で3勝1敗の成績を残した。
ただし相手は素人が多かったと自ら述べている。
1969年にグループ解散後は主に俳優として活動。映画会社の東映の撮影所では若山富三郎の派閥に属して、山城新伍の下についていた。
仕事を干されていた時期に梅宮辰夫に救ってもらい、梅宮主演の『不良番長』シリーズにレギュラー出演し、以降、梅宮を兄貴分として信奉している。
1982年11月に、バラエティ番組『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)の1コーナーである『タケちゃんマン』に出演中、せりふの『ホラ貝』を『ホタテ貝』と言い間違えたことをきっかけに『ホタテマン』として出演、共演していたビートたけしと仕事終わりには毎晩のように遊楽に行っていたという。
以降、1980年代からは、バラエティ番組にも進出。
2005年に肝臓病で入院、一時復帰したが2006年6月下旬にギラン・バレー症候群罹患である疑いのため東京都内の病院に入院、同年7月から出演予定だった舞台を降板して、2008年時点では山梨県の病院でリハビリをしていた。
盟友・松田優作の葬儀にて、『どっちが喧嘩強いんだろう、なんて話してた』と気丈にエピソードを語っていた安岡だったが、『もうどちらが強いか試す機会も無くなったのですね…』というインタビュアーの言葉に絶句、悔しそうにボロボロと涙を落とすシーンが放映され、視聴者の心を打った。

108 @kira 2013-02-24 23:00:01 [画像] [携帯]

『野獣死すべし』の男優たちB
 
山西 道広
 
1948年3月7日生まれ。
兵庫県出身。
血液型O型。
本名は同じ。
 
日本大学卒。
文学座研究所12期生。
同期に松田優作、阿川泰子らがいる。
1973年、『太陽にほえろ』第65話に学生役で出演しデビュー。
以降は、松田優作の盟友として、松田主演の映画、テレビ作品のほとんどに助演している。
なお、松田のアルバム『Uターン』『まつりうた』などで作曲も手がけた。
演じたキャラクターでは『探偵物語』の『松本刑事』、『あぶない刑事』シリーズの『吉井刑事』(通称「パパさん」)などが知られる。
現在もテレビ、舞台を中心に活躍中。
2006年まで阿佐ケ谷駅近くで飲食店『クヨクヨハウス』の店主をしていた。
現在では息子が引き継いでいる。
漫画家の福谷たかしは生前、同店の常連客であり、代表作『独身アパートどくだみ荘』の背景に店の看板が描かれることもあった。
また、宮崎克(宮崎まさる)・高岩ヨシヒロ『松田優作物語』、羊崎文移『暗闇の用心棒』などでも店のエピソードが描かれている。
近年は神奈川県・葉山町に在住し、飲食店『山ふく』を経営している。

109 @kira 2013-02-24 23:05:13 [画像] [携帯]

『野獣死すべし』の男優たちC
 
トビー門口
1941年 - 1999年
台湾出身の俳優。
本名は木村隆司。
台湾名は『門東飛(モントンフィ)』。
芸名の由来は台湾名である。
 
カントリーバンドのジミー時田とマウンテンプレイボーイズでデビュー。
その後、悪役俳優として活動する。
CMでは1974年のナショナルハイトップ乾電池が有名で人造人間に扮し胴体に仕込んだ電池を自ら抜き直立不動のまま後へひっくり返る演技で第14回ACC CMフェスティバル TVフィルム部門ACC賞を受賞、脚光を浴びた。
また、テレビ、映画にて銃器を使った特殊効果(ガンエフェクト)の専門職である銃器テクニカルアドバイザーとして活躍する。
アメリカにて、45AUTOピストルの神様ジェフ・クーパーにコンバットシューティングを習いその経験を生かし日本にて本格的な実践射撃を想定したI・P・S・A(インターナショナルプラクティカルシューティングアカデミー)を設立。
生徒を指導しながら本業も行なっていた。
その経験からグアム島にて松田優作に実銃による実弾射撃を徹底指導し、松田優作のアクション俳優としてのレベルを向上させた立役者でもある。後年はコンバットシューティング、銃に関するテクニック、マナーの指導を中心に活動。
また、月刊Gunなどにステージガンに関する記事を寄稿していた。
銃器テクニカルアドバイザーの先駆けであり、弾着やリアルなステージガン等々、様々な特殊効果(ガンエフェクト)を考案、改良し、以降のガンエフェクトプロフェッショナルに多大なる影響を与えた。
1984年にプラスチック製モデルガンを不正改造したとして懲役3年執行猶予4年の判決を受け、業界から去り以降の活動は基本的に無くなった。
その後、最後の出演作となる長渕剛のPV『ハングリー』に監督の希望にて出演。
これが遺作となった。
1999年病気により急逝。
享年58歳。

110 @kira 2013-02-25 00:18:38 [画像] [携帯]

ロケ地探偵団@
 
タイトルバックに登場する建築物@
 
皇居を前景にした建造物は『警視庁本部』である。
場所は東京都千代田区霞が関2丁目1番1号。
 
警視庁本部
関東大震災による火災で炎上する警視庁本舎(1923年(大正12年)9月1日)『警視庁』は、1947年(昭和22年)まで存在した東京府(後に東京都)の警察を管轄する内務省の地方官庁である。
現在の自治体警察になる前の『東京警視庁』とも呼ばれた組織である。
概要
1874年(明治7年1月15日)に、鍛冶橋内旧津山藩邸に設置された。
旧薩摩藩士の川路利良が初代『大警視』(後の『警視総監』)に任じられた。
警視長 - 三等、以下、大警視 - 五等、権大警視 - 七等、少警視 - 八等、権少警視 - 九等、権大警部 - 十等、中警部 - 十一等、権中警部 - 十二等、少警部 - 十三等、権少警部 - 十四等、などの官等と職制、事務年程が制定された。
府内を6大区に、各大区を16小区に分け、大区に警視出張所を、小区に邏卒屯所を配置した。2月2日に邏卒を『巡査』と改称した。
東京以外の府県警察部は知事が管轄していたが、東京に関しては内務省が直接『警視庁』を置き統制下においた。
当時の東京府は予算以外に警察に関する権限がなかっ

111 @kira 2013-02-25 00:30:36 [画像] [携帯]

27日 『東京警視本署』を設置(警視局布達甲3号)。
1881年(明治14年)1月14日 『警視庁』を再設置(太政官達1号)、内務省警視局は警保局に改称(太政官達2号)。
1882年(明治15年)12月4日 洋風ペンキ塗庁舎が竣工(のち東京駅建設のために有楽町一丁目(帝国劇場横壕端。
現在のDNタワー21所在地)に移転)。
1921年(大正10年)6月 刑事部を設置。
関東大震災のために庁舎を焼失。
1931年(昭和6年)8月 霞ヶ関に新庁舎(6階建近世式、建坪9761)竣工。
1932年(昭和7年)6月 特別高等警察部を設置。
1933年(昭和8年)10月 警務部に特別警備隊を設置。
1941年(昭和16年)2月 経済警察部を設置。
1944年(昭和19年)4月 特別警備隊を廃止し、警備隊を設置。
1945年(昭和20年)10月 特別高等警察部を廃止。
1945年(昭和20年)12月 経済警察部を廃止。
1946年(昭和21年)1月 警備隊を廃止。
1947年(昭和22年)1月 皇宮警察部を設置。
組織
1938年



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